第2話 倫子というおんな

 深夜一時少し前。目覚まし時計のアラームを鳴る前に切った。寝転んだものの、結局ぐじゃぐじゃと考え事ばかりして眠れなかった。隣でハチはもちろん寝ている。俺は電気もつけずに支度をする。

 凍るように冷たい水道水で顔を洗い、泥水のようなコーヒーをすすり安いあんパンをかじる。毛玉が付いたセーターの上から厚手のジャンパー着こみ、財布と鍵とほとんど何の着信もない携帯端末をポケットに詰め込む。そしてギターケースを背負えば完了だ。

 十二月だというのに東京には雪も降らない。ただ息が白くなるだけだ。背中のギターケース込みでの重心管理はばっちりで、俺の自転車は滑らかに市場への道を転がる。


 魚のにおいが微かにかおるロッカーにギターケースを押し込んだら、ひたすら労働だ。右へ左へ魚が運ばれ、俺が運ぶ。このグルーヴ間の中で歌詞やメロディーが泡のように浮かぶ。俺の頭の中に満ちる泡。この泡が消えないうちに歌いたい。だから俺は仕事を終えるとロッカーから相棒を取り出し、市場の食堂で魚のあら汁と親子丼をかっこみ、若干の磯臭さをまとったまま自転車をアパートとは別方向に走らせる。


 都心にありながら敷地が広く木々が深いこの公園は都民の憩いの場だ。踊るもの、寝ているもの、いちゃつくもの、遊ぶものとそれぞれが自由にやっている。ありがたくも居心地がいい無関心だ。

 遊歩道から外れたなるべく公園奥の木陰のベンチが一番良い。アコースティックギターを抱えて湿り気のあるベンチに腰を落ち着け、携帯端末を取り出す。ぼんやり光る待機画面は購入時のまま変えていない。そして何の着信もメッセージも届いないのもいつも通りだ。俺はほぼこれをギターのチューナーとして使っている。アプリを立ち上げ、弦をはじく。

 今日の労働で生まれた泡のような歌詞とメロディーを壊さないように、薄く目をとじ弦を弾く。緩やかにつながった音と音、言葉と言葉は簡単にバラバラになってしまうので慎重に。この泡の海を渡るようなスリルと高揚感が俺をこの生活に縛り付ける。


「世彰」

「ひっ!」


 酒やけた女の声で繋がりかけた泡がぷつぷつと弾けて消えた。反射的に目を開けると目の前に女の顔があった。


「倫子さん」

「釟郎、またあんたのところにいるんでしょ」


 俺と目を合わせるために無理な姿勢で腰を曲げていた倫子が片手に飲みかけのワンカップを持ったまま伸びをする。倫子は波打つ長い栗色の髪を風になびかせ、いつもの口角を下げた顔で俺を見下ろしている。赤とえんじ色のむら染めワンピースの華やかさをぶかぶかな黒い皮素材の上着の威圧感が完全に塗りつぶしている。


「はい、ハチなら昨日転がり込んできました。まだ俺んちで寝てると思います」

「ふーん。そう」


 倫子は俺より多分一つか二つ下だ。だがなんとなく敬語を使わずにはいられない雰囲気がある。何をしてくるか、考えていることが全くわからないからだ。ハチを連れている倫子と何度か顔を合わせたことがあるが、酔っていない時がないのもおそろしい。今、こうやって俺と話している間も真っ赤な唇に薄黄金色の日本酒を運んでいる。


「これ?かわいいでしょ。もったいないからずっと開けられなかったんだけど、いい機会だから開けちゃった」

「はあ」


 赤い鹿がぴょんぴょんと跳ねまわる柄が付いたかわいいワンカップは確かに倫子イメージではない。そう思ってみれば、いつも上着のポケットに突っ込んでいる酎ハイのロング缶が見当たらない。


「もう酒止めるの。だからこれが最後の一杯ってわけ」

「え!」

「なんかおかしい?」

「いえおかしくないです。よかったです」

「よかった?酒は悪いことってこと?」

「いえ、そういうことは言ってません」


 冬だというのにジワリと首筋に嫌な汗が浮かぶ。倫子はまた段々と距離を詰めてくる。長い髪が風で生き物のようにうごめいている。


「ねえ、なんか明るい曲歌ってよ。恋の歌がいい」


 すいません、と意味も分からず謝りかけた俺に倫子はにこりともせずに命じた。リクエストなんか受け付けたくないが、倫子が早くと急かすので俺は脳内のレパートリーを必死に探す。あいにく明るい歌も恋の歌も得意ではない。おれは誰かの事を歌えない。


「早く」


 一か八かだ。俺は六弦をかき鳴らす。ジャンジャカジャカジャカなるべくアッパーに。喜びで飛び跳ねているのか、追われて飛び跳ねているのか、草食う生き物の仕草なんて肉を食う方にしてみればどうでもいいだろう。浮かぶ泡がないのなら無理やり絞り出すしかない、恋を歌えというのなら今、歌い上げるしかない。


「君はヌートリア 僕は桜並木の土手

 君というヌートリアが住み着いた

 君が僕に巣くい 僕という土手は穴だらけ


 君は六月の雨 僕は穴だらけの土手

 君という雨が土にしみこむ

 君が僕にしみこんで 僕という土手は崩壊寸前


 君は夏の台風 僕はくずおれた土手

 君という暴風雨が僕の草木を根こそぎ奪う

 君という台風が 僕のすべてを巻き上げる


 春に巣くい 梅雨にしみこみ 夏に壊れる

 恵みの秋には川があふれ きっと何もない冬が来る」


 きわめて短い恋の歌だ。倫子は目を丸くしている。俺は思わずギターのネックを強く握った。


「アハハハハ!ひどい歌詞!全然明るくないし!」


 倫子が笑った。ひどいと言いながらも笑い続けている。天を仰ぎ、すぐに腹をかかえる。大うけだ。


「恋なんて酷いもんですよ」

「まあそうかもね」


 倫子は鹿のカップ酒の最後の一口をすすると、カップをひっくり返して地面に向かって振って残滓を飛ばした。そして俺の手から手早くピックを奪うと空のカップを無理やり握らせる。


「なんですこれ?」

「おひねりあげる」


 高そうな財布から倫子はむしるように札を取り出し俺の手の中にあるワンカップにねじ込んだ。十枚程度ありそうな札はすべて一万円札だ。喉の奥からしゃっくりのような変な声が出た。


「もう要らないの、それ」

「ええ?ちょっとどういうことです?」

「あんたには関係ない!」

「あ!すいません」


 もう口角を下げた倫子が声を荒げたので俺は思わず誤った。倫子はフン、と息をつくとピックを投げてよこした。振り返りもせずに去っていく倫子の背中を俺はただ見つめるしかなかった。


 俺の財布には今、十万と三千と十六円入っている。十万は倫子がよこしたカネだ。めったに手にしない大金に心臓の鼓動がおかしくなったので、あれから結局何もせずにギターをケースにしまった。大金を抱えびくびくとおびえ俺は自転車をひいてアパートに向かって歩いている。自転車で飛ばす気にもならない。

 あんなひどい歌を披露しただけで、こんな大金をもらうわけにはいかない。だがハチ経由で返そうとすれば、必ずハチのポケットに入るであろう。しかしあの倫子に俺がカネを突っ返せるわけがない。

 突然ポケットの中の携帯端末が震えだした。着信だ。仕事でなんかやらかしたのだろうか?慌てて液晶を見ると知らない番号だった。出るかどうか迷ったがあまりにも長く端末が震えるので着信のアイコンを押す。


「あの……北原釟郎さんのご家族ですか?」


 知らない女の声だ。落ち着いたやわらかい声。その女の声の向こうはざわついていて何人かの人の気配がする。


「いえ違います。俺はただの」


 ただのなんだろう?当たり障りのない言葉を探す。


「俺はただの友達です」

「え、そうでしたか……。では釟郎さんのご家族の連絡先はご存じでしょうか」

「いえ、ちょっとわからないです」


 ハチが家族の話なんかしたことがない。あいつも誰かから生まれた子、そんな当然のことを今まで考えたことがなかった。


「あの俺でよければ事情をうかがいますが。ハチが何かしたんですか」

「それが当院に釟郎さんが救急搬送されまして、ご家族の連絡先を尋ねたところ、こちらの番号を……」

「ハチが!あの大丈夫なんですか!いや、大丈夫じゃねえんだな……すいません、病院の名前教えてください」


 看護師の女が何を話していたかはあまり覚えていない。ただ、ここら辺で一番大きい病院の名前が耳に入った瞬間、俺は礼もそこそこに通話を切り、自転車にまたがりペダルを踏んでいた。

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