二、はじめてをあげる



 銀花ぎんかに手を引かれながら、ゆずりはは慣れない足取りでついて行く。

 こんなにたくさん歩いたのは初めてで、視界に飛び込んでくるものすべてに興味があった。


 歩く度に、リン、と透き通るような鈴の音が響く。そんな中、ゆずりはの目に飛び込んで来たもの。長い耳をした真白い生き物が大小二匹、少し離れた場所で戯れているのが見えた。


銀花ぎんか様、あれはなんですか?」


「あれ?ああ、野うさぎの親子だな」


 足を止め、銀花ぎんかは答える。ゆずりはが目を輝かせて野うさぎの動きを見つめていた。本来は褐色の毛に覆われ、腹の部分だけ白いものがほとんどだが、不思議なことに冬の頃は体毛が抜けて白くなるのだ。


 目の前にいる親子も白く、ぴょんぴょんと跳ねて移動している。じっとしていたら雪に紛れて見失いそうだ。


「野うさぎ、可愛いですね」


 そう言って微笑むゆずりはは、どこまでも純粋で可愛らしかった。銀花ぎんかは少しだけ表情を崩して、そんな花嫁に見惚れてしまう。


「物心ついた頃から部屋から出ることを許されていませんでしたし、一度も屋敷の外に出た事もありませんでした。だから、今、この目に映るもの、そのすべてが初めてて、私、すごく嬉しいんです」


 雪ばかりの山には、枯れた木と青々しい竹林があるだけで、生き物も少なく寂しい印象さえある。しかし、外のセカイを知らなかったゆずりはには、視界に映るすべてが美しく見えた。


「俺のせいだな。すまない。代替わりをした山神のつがいに選ばれたせいで、辛い思いをさせた」


「そんなこと、ないです。たとえこの身を食べられてしまっても、私はこの景色が見られただけで幸せです。銀花ぎんか様と最期にお話ができて、幸せです」


「食べられる?最期?」


 怪訝そうに眉を顰めて、その秀麗な顔に浮かんだ表情。ゆずりははそれに対して首を傾げる。なにか間違っていただろうか?


「違うんですか?花嫁というのは名目で、贄として食べられるんじゃ····」


「花嫁の役割は、俺と一生共にいることだ。なぜ俺がお前を食べるんだ?」


 盛大に勘違いをしている花嫁に、銀花ぎんかは思わず笑ってしまう。そして本来の花嫁の役割を、ゆずりはに簡単に説明する。


 山神はある一定の周期で代替わりをする。前の山神はすでにこの山を去っており、代わりに選ばれた銀花ぎんかがその役割を担っていた。山神の役割は、どこからか生まれる"穢れ"をその身に宿すこと。


 花嫁の役割はそんな山神に喰われることではなく、その身に宿した"穢れ"を浄化すること。穢れのない清らかな身はそのためのもので、山神と"真のつがい"となることでその能力が発揮される。


「ええっと、真のつがいってなんですか?」


 銀花ぎんかは本当になにもわかっていない純粋な少年に対して、握っていた手を離し、そっと抱き寄せた。そして耳元で囁くようにその答えを告げる。


「身も心も俺のものになること」


「で、でも、私は、男ですよ?身も心もって······どうしたら、」


 抱きしめられたまま、動揺しつつも疑問ばかりが頭を巡る。そう、ゆずりはは見た目こそ少女のように可憐だが、身も心も男なのだ。


 銀花ぎんかがどんなに秀麗で素敵な旦那様でも、そもそも他人と話したことも触れたこともないゆずりはは、その手のことに関してもまったく経験がなかった。


 それなのに、心臓はばくばくと大きく音を立てている。ここに来る前、母親から同じように抱きしめられたが、こんな風にはならなかった。


「何事もやってみなければわからない。まあ、今の頃はそこまで"穢れ"も多くないから、気長にいこう。俺も無理強いはしたくない。けれども、お前は俺の花嫁であり唯一無二のつがいだ。お前もそのつもりでいて欲しい」


 離れた身体に安堵しつつも、薄れていくぬくもりに心臓の音も少しずつ元に戻って行き、今度は物足りなさを感じた。


 あの心地好いぬくもりに、ずっと包まれていたいと思ってしまったことに恥ずかしくなり、色白な頬も耳も真っ赤になっていた。


「頬が赤い。ひとの子は弱いから、病にでもなったら心配だ。もっと色々と見たいだろうが、まずは俺のやしろに急ぐことにしよう」


 赤く染まっている理由を勘違いした銀花ぎんかは、再びゆずりはを引き寄せてその軽い身体を抱き上げると、地面から空へと舞い上がった。


 地面から遠く離れ、空に浮いている事を驚いている間もなく、目下に広がる白を纏った木々、冷たい空気、近くなった青い空に感動してしまう。


銀花ぎんか様、すごいです!私たち、空を飛んでますよ!地面があんなに遠くに見えます!」


 実際は銀花ぎんかが飛んでいて、ゆずりははただ抱き上げられている状態なのだが、本人が楽しそうなのであえてなにも言わなかった。


「寒くないか?少し我慢してくれ。社に着けば俺の領域だから、寒さも暑さも感じなくなる」


「大丈夫です。寒いのも暑いのも生きている証拠ですから」


 そうか、と銀花ぎんかゆずりはを見つめて優しく頷く。本当は、少しだけ不安もあった。自分のつがいが、自分を拒絶したらと。


 皆が皆、ゆずりはのように真白い心の持ち主ではない。そもそも、幽閉されて生きて来た者が、こんな風に純真無垢であることなど稀だろう。


 そうなれば、その心を無視して役割だけを受け入れてもらうしかなくなる。そうしなければ、山神が穢れ、荒神となってしまうからだ。荒神となれば、山どころか村まで吞み込み、穢れを広めてしまうだろう。


 穢れはひとを死に追いやる。

 そこからまた穢れが生まれる。


 そうなっていないのは、今までの花嫁が良くも悪くも役割を果たしたからだろう。できることならば、ゆずりはには望んだ上でその役割を受け入れて欲しいと思っている。


 籠から出て来たゆずりはの姿を初めて目にした時、銀花ぎんかは不覚にも心を奪われた。


 つがいとして生まれて来た目の前の者と、一生添い遂げようと思った。その想いは、言葉を交わし、触れ、ゆずりはを知る度に強くなる。


銀花ぎんか様は代替わりで山神様になったと聞きましたが、その前はどんな神様だったんですか?」


「ああ。俺は元々この山で生まれた神狐の類で、前任の山神は神格化した狼だったそうだ。この山はそういう者たちに昔から守られていて、代替わりは前任者からの指名で選ばれるんだ」


 ゆずりはは自分で訊いておいて、色々と出て来た言葉をすべては理解はできなかった。でもなんとなく銀花ぎんかの事が知れたので満足する。


「私、春も夏も秋も、ちゃんとこの目で見たことがありません。銀花ぎんか様は見たことがありますか?」


「この山の春は野桜が綺麗だな。夏は蝉が煩い。秋は木々が黄色や赤に色付いて、圧倒される。お前もきっと気に入るだろう」


「蝉は知ってます!」


 得意げにゆずりははそう言ったが、実際には鳴き声を聞いたことがあるだけで、どんな姿かは見たことはなかった。


「あんまりあれは、見て楽しいものではないよ」


 夏は蝉が煩い、と言った銀花ぎんか。蝉はあんまり好きではないようだ。


 そんな他愛のない会話をしている内に、着いたよと銀花ぎんかが言う。だがそこに社などなく、ゆずりはは首を傾げたが、不思議なことにある一定の距離に地面が近付いた時、景色が一変する。


 目の前に現われたのは、立派な社。先程まで広がっていた雪景色は消え、代わりに青々とした竹林が広がっていた。社の周りをぐるりと囲むように伸びるその竹林は、まるで空に届きそうなほど背が高かった。


「ここが今日からお前の住まいでもある。俺と一緒じゃないと出られないから、外に行きたい時は遠慮なく言ってくれ」


 ゆずりはを抱き上げたまま、地面に降り立った銀花ぎんかがゆっくりと歩き出す。


「自分の足で歩いてもいいですか?」


「俺はこのままでもいいけど、お前がそうしたいのなら」


 残念そうにゆずりはを下ろすと、代わりにその手を取って一緒に歩き出す。ゆずりははひとりでも大丈夫なのに、と思ったが、すぐに違うものに興味を惹かれた。社の左右にある小さな池。そこに浮かぶ花があまりにも美しくて、「あれはなんですか?」と銀花ぎんかに訊ねた。


「あれは蓮の花だよ。綺麗だろう?」


「はい!近くで見てもいいですか?」


 もちろん、と銀花ぎんかは蓮の花が咲く池の前まで導く。初めて見る蓮の花を色んな角度から観察し始めるゆずりはを、飽きることなく見つめていた。


 こんな風にどんなものにでも驚いてくれるので、それを教える銀花ぎんかも気分が良かった。


「これからはたくさんの"はじめて"を、お前にあげるよ」


「はじめて、ばかりですけど、どうぞよろしくお願いします」


 満面の笑みを浮かべて見上げてくるゆずりはの頬にそっと触れ、銀花ぎんかは「こちらこそ」と同じように笑みを浮かべるのだった。



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