冬の章

一、山神様の花嫁



 ゆずりはは、屋敷の外へ出ることを禁じられている。


 村の掟で、生まれたその瞬間から山神様の花嫁になることを決められていたからだ。それは男でも女でも関係なく、極月ごくづきに生まれ、ある"印"が身体に現れた子が選ばれる。


 その印は痣のようなもので、形は特殊。小さな三日月に似たその印こそ、山神様の花嫁となる証となるのだ。


 親以外はその顔を見てはならない。

 触れてはならない。

 声を聞いてはならない。


 故に、厳重に屋敷の中に匿われる。もちろん、村の者たちもその掟に従い、好奇心で覗く者は誰ひとりとしていなかった。それは、山神様の怒りに触れることを恐れているからだ。山神様の怒りは村ひとつ潰すことなど容易く、それが迷信などではないことはすでに証明されていた。


 十五歳の誕生日を迎えたその日。良く晴れた空の下、頭から顔を隠すための白い面紗を被され、白無垢を纏ったゆずりはは、村の若い衆が担ぐ籠に乗り、山神様の待つ山の頂へと連れられて行く。


 半日かけて辿り着くと、担ぎ手たちは籠を置いて無言で去って行った。

 雪を踏む独特な足音が遠のいていくのを聞きながら、俯き、自分がこれからどうなるかもわからないまま、ゆずりはは静かにその時を待つ。


 少しして、リン、と涼やかで清い鈴の音が辺りに響いた。


 籠の外に気配を感じたが、口を開いて良いのかもわからず、じっと前を見据える。面紗で薄っすらとしか見えない視界の先、籠の扉が開かれ光が射し込むのが見えた。

 

 手を差し伸べるようにこちらに向けられた生白い指先に、ゆずりはは戸惑いながらも右手を伸ばす。被されていた白い面紗が、同時にそっと外される。


 光。


 眩しいほどの光が瞼を焼くようだった。白銀の世界に立つ、ひとりの青年の美しさに、思わず見惚れてしまう。


「俺の名は銀花ぎんか。お前の名は?」


 山神様は自ら名乗り、ゆずりはの手を優しく握ったまま訊ねてくる。

 

 その瞳は赤く、後ろで結われた長い髪の毛は白髪だった。青い単衣の上に白い上衣を纏う神は、確かに神秘的であり、不思議な雰囲気があった。


「わ、私は······ゆずりはと申します」


 頭を下げ、ゆずりはは遠慮がちに答える。その声は細く、中性的だった。屋敷の外に出たことがないので、細身で色白。両親とさえほとんど話す機会がなく、他の者となど一度も話したこともないので、緊張したのか声も小さい。


 そんなまだ幼さの残る少年に対して、銀花ぎんかは少しも咎めることはなく、その秀麗な顔に笑みを浮かべるのだった。



******



 生まれてから今まで、この家から出たことがない。両親以外の村人に会ったこともない。

 そして五歳になった頃から、ずっとこの部屋に幽閉されている。


 食べる物も決められた物だけ。肉や魚は一切与えられなかったため、芋や大根などの野菜を調理したもの、漬物、木の実や果物が、朝と夜に一度ずつ出される。


 閉じられた扉の向こう側。その下の方に付いている小窓から、母親によって与えられる。お盆に乗せられた三つほどの小皿と、お茶碗に半分ほどの御飯、少しだけ具の入った汁物、いつもの食事だ。


 幼い頃からこのように少ない食事だったが、動くこともほどんどないため十分で、「いただきます」と「ごちろそうさま」を心の中で呟いて、食事は終わる。


 空になった皿を乗せたお盆を小窓の前に置き、時間が来るとその小窓から手が伸びてくる。それはいつもの細く白い指で、冬の頃はあかぎれが痛ましい。


「お母さん、いつもありがとう」


 声をかける。

 両親とだけは言葉を交わしても良い、触れても良い、とされていたが、いつの日からか、それさえも普通にできなくなっていた。


「······寒くなってきましたから、あとで火鉢を用意しますね、」


 久々に聞いた母の声は、どこかよそよそしく、ゆずりははなんだか寂しいと思ったが、仕方がないと諦める。もうすぐ、十五歳の誕生日を迎える。それは、この住み慣れた場所からの"お別れ"を意味していた。


 極月ごくづき。十二月は生まれた月。


 十五歳になる数日後には、とうとう山神様に捧げられる。花嫁という名の贄として、生まれた時から決められていた運命。


 四畳半の部屋に唯一ある、天井に近い小窓から見える空。この部屋がゆずりはのセカイのすべてだった。


 鳥の声。ひとの声。風の音。雨の音。音だけはいつも鮮明に耳に届く。


 必要最低限の物以外なにもない部屋に、ひとり。誰かに助けを求めることもない。なぜなら、ずっと言い聞かされてきたからだ。自分は山神様のモノで、それ以外に触れられれば穢れ、役目を果たせなくなる。それは誰も幸せにはしない。むしろ皆が不幸になってしまうのだ、と。


 だからこれが自分の運命で、当たり前のことで、それ以外はすべて、諦めるしかないのだと。


(山神様は、どんなお方だろう。怖い方だろうか····花嫁として捧げられるというけれど、所詮は贄。私は、食べられてしまうのかな?)


 不安な想いもあったが、一生をここで終えるくらいなら、ひと思いに食べられてしまうのも悪くないのかもしれない。


(外のセカイはどんな感じなんだろう?)


 食べられてしまう前に、この目に焼き付けられたら、いい。


 昔は聞こえてくる音や小窓から見えるものを、両親に問う事が多かった。


 ゆずりはが知っているもの。

 空と鳥の声と雲と風の音と雨と雪。

 春、夏、秋、冬、四つの季節。


 いつものように小窓を見上げ、想像する。


(もし、山神様が優しいお方で、贄として私を食べないで、本当にお嫁さんとして迎えてくれたら····一緒に、色んな景色を見てみたいな、)


 そんなことは、夢のまた夢だろうけれど。

 未来のない自分。ささやかな夢を見るくらい、許されるだろう。


 そして数日後、初めて扉が開かれる。まだ夜も明けない頃、その先に立っていた女性は、どこか悲し気に微笑んでいた。


 この女性が"お母さん"だろう。幼い頃の記憶を辿ってもまったく思い出せなかったその顔は、懐かしいという感情さえ置き去りにして、ゆずりはを困惑させた。


 無言で淡々と着飾られ、時折そっと触れられた肩や頬に優しさを覚えながら、白無垢姿の花嫁が完成する。


 火鉢の橙色の火の粉に照らされ、色白な頬が少しだけ染まっていた。長く伸びた髪の毛を綺麗に括って結び、唇に小指で紅を塗られる。


ゆずりは、大きくなりましたね。せっかくこうして会えたのに、お別れだなんて······今まで寂しい思いをした分、つがいの花嫁として、山神様にたくさん愛されますように、」


 ぎゅっと遠慮がちに抱きしめられ、ゆずりははなんだかあたたかいと思った。そのあたたかさに、しばらく身を委ねた。


 それから少しして、そのぬくもりがゆっくりと離れていき、最後に顔を隠すための白い面紗を頭から被せられる。


 薄い布に隔たれて、こちらを見つめているだろうお母さんの顔が、良く見えない。


 小窓から見える空は、明るくなっていた。


「花嫁の顔は父親でも見せられない決まりなの」


 行きましょう、と手を引かれ、ゆずりはは自分の意思とは関係なく扉の外へと連れ出させる。


 あの四畳半の部屋は屋敷の一番奥にあったようだ。長い廊下を進むと、背の高い男が立っていた。


 おそらく、"お父さん"だろう。お母さんと同じで、どこか悲しそうな笑みを浮かべ、こちらを見つめていた。


ゆずりは、準備は整ったね。村の掟とはいえ、これまでたくさん我慢をさせてしまったこと、すまないと思っている。これから先、お前は山神様のものとなる身。どうか、末永く幸せになって欲しい」


 その言葉は、本当なのか偽りなのかわからなかった。幸せに、なんて。そんなこと、あり得るのだろうか?


 ゆずりははただ小さく頷いた。そうだったなら、いい。けれども、幸せとはなんだろう?わからない。誰も教えてはくれなかったから。


 ふたりに連れられ、外へと一歩踏み出す。昨日から降り続いた雪が、地面を真っ白に染めていた。屋敷の前には村人たちが顔を揃えており、その真ん中に人ひとり乗れそうな四角い籠が置かれ、担ぎ手の男たちがそれぞれ四隅に立っていた。


 雪。

 冷たい。

 草履に染み込むそれは、初めての経験だった。


 光。

 眩しくて目を細める。朝陽。あれが太陽?


 空。

 透き通るような青。

 どこまでも続くそれに、思わず見惚れる。


「花嫁は山の頂に着き、男たちがそこから離れるまで、けして言葉を発してはならぬ。お前たちも、なにがあっても触れてはならぬ。けして、だ」


 はい、と担ぎ手たちは大きく頷く。頂までは半日はかかるだろう。

 なにがあっても、という年老いた男の言葉は重く、ゆずりははなんだか緊張してしまった。


 籠に導かれ、ゆっくりと慣れない乗り物に腰を下ろす。お世辞にも居心地が良い場所ではなく、あの四畳半の部屋の方がずっとマシだった。


 両親や村の者たちが見守る中、持ち上げられた籠が動き出す。そこにいる者たちは、儀礼的な祈りを捧げ始めた。


 山神様の花嫁として生まれた、存在。



 村の贄として選ばれた少年に、皆、心からの感謝をしながら――――。



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