欠け月

      ≪1≫


 欠け月の最後の夜、 <神聖王国ホーランド>の城内は松明と民人の熱気に包まれていた。

 カスケードは今日、この日が人生のうちで最も憎かった。

 <神聖王国ホーランド>第二王子カスケードにとっては、自分以外のすべてが憎悪の対象だった。世界そのものが、消えて失くなってしまえばいいと思ったことが幾度となくあった。

 彼は孤独だった。

 誰も、彼を見てはくれなかった。

 彼に接する時、誰もが、淡い靄のかかった紗のカーテンの向こう側から接してきているかのように感じられた。彼らは決してカスケードの本心に耳を傾けようとはしなかったし、また、本心などどうでもいいとさえ思っていた。

 父王は元より、カスケードを産んだ母親ですら、カスケードのことなど眼中にはなかったのだから。

 楼閣から見下した中庭では、腹違いの弟であるディルディアード第三王子の十五才の誕生日を祝って園遊会が開かれている。カスケードの時とは比べ物にならないぐらいに賑やかで、豪奢で、絢爛たる様子だ。

 きらびやかに着飾った人の波が中庭で溢れ返っている。

「──カスケード様。下に……その、お顔をお見せに行かれないのですか」

 不意に後方から声がかかった。

「ああ……アデリーか」

 振り返らずに、カスケードは答えた。側仕えの娘ごときと向き合って喋る気はなかった。

「ディルディアード様にご挨拶をなさらないのですか?」

 娘が尋ねかけた途端、カスケードは振り返った。大股に歩み寄ると、娘の頬に容赦なく平手を飛ばす。

 ディルディアード……弟などに挨拶をする必要がどこにあるというのだ。カスケードは苛々と娘を睨み付けた。カスケードのほうがディルディアードよりも年上なのは明らかなことだ。それに、カスケードには母親がついている。カスケードの母である第二王妃は実の息子には見向きもしなかったが、幼かった彼に彼女は王から与えられた権力のお零れを与えた。第二王妃に権力が集まっているうちは、カスケードの城での立場も安泰だった。

 母である王妃に力があるということが、王位継承の第一の条件だとカスケードは常々思っていた。

 母親の持つ権力からいうと、カスケードは、第一王妃の息子で彼にとっては腹違いの兄にあたるトラガードよりも優位に立っていた。だから、第三王妃の息子ディルディアードなど、恐るるに足りない存在だったはずなのだ。

 今は亡き第三王妃が、王の寵愛を一身に受けていたという事実を除けば……

「下がれ」

 無慈悲な声が側仕えの娘を怯えさせる。

 カスケードが最も憎んでいる第三王子と同じ、栗色の髪と瞳の少女。その笑みは、まるで春先に薔薇の蕾がほころんだようだった。純粋で、可憐で……時折カスケードは、彼女の笑みに言い様のない苛立ちを感じた。

「は……はい、カスケード様」

 低くうなだれ、娘はそそくさと第二王子の側を去った。



      ≪2≫


 自分には何かが足りないのだとカスケードが気付いたのはいつ頃のことだろうか。

 何が足りないのか、何を欲しているのか、カスケード自身にも解らない。だが、確かに何かが欠けているのだ、彼には。

 ──何が欠けているのだ。

 何度も心の中で繰り返された問い。

 答えてくれる者は、誰もいない。

 とても大切なものが欠けているのだということは解る。だが、それが何なのか、カスケードには知り得ることはできないだろう。

 彼が今のままでいる限りは、永遠に。

 そして心の空虚を埋めるために彼は、探し続ける。

 彼の心を満たしてくれる、何かを。

 中庭を見下ろすと、そこではまだ、園遊会が続けられていた。華やかな人影。カスケードにはよそよそしい人々も、彼が憎むべき腹違いの弟が相手となると心からの笑みを送る。

 それらのものすべてに執着があるわけではない。重要なことは、何故、ディルディアードに与えられるものが自分にも与えられないのかということ。何故、自分だけが他の二人の兄弟とは違う扱いを受けるのかということ。

 欠けているものを手に入れたならば、何かが変わるかもしれない。

 今、自分に欠けているものが…──

 カスケードはついと顔を上げると、闇夜に浮かぶ欠け月に目を馳せた。

 あの月のように、欠けているものが満ちれば自らの心も満たされる日がくるのだろうか。それまで、どれほど待てばいい?

 月ならば、日毎夜毎に満ちてゆく。

 だが、カスケードの心の欠けた部分は──

 もしもディルディアードを殺したならば、この空虚、満たされるだろうか。



      ≪3≫


 気分がささくれているのは、朝の目覚めの時点からだ。

 これもいつものことだった。

 カスケードは重い頭を何度か横に振ると、嫌々ながらもベッドから抜け出した。嫌だろうと何だろうと、朝はやってくる。起きなければ。

 と、ドアの向こう側でノックの音が響いた。

「カスケード様、朝食の用意が整っております」

 アデリーだ。

 栗色の髪の、娘。

「すぐ行く」

 応えて、カスケードは鏡に映る自分の姿に目をやった。オレンジ色の髪と瞳。やせた頬骨。精神的に落ち込んでいる時には何もかもすべてが嫌になる。今日の自分は、自らの容姿にさえ嫌悪感を抱いてしまうほど感情的になっている。

 出来ることならば、アデリーとは顔を合わさずにすましたいものだ。彼女の姿を見れば、それだけで気分が悪くなりそうだった。ディルディアードを思わせる栗色の髪と瞳が悪いのだ。あの、色、あの、穏やかで、優しい色。カスケードが最も憎むべき……最も忌むべき、色。栗色の──……

 ──コロシテシマエ

 耳元で起こる、密やかな囁き。

 カスケードは囁きを振り払うかのように頭を一振りし、部屋を後にする。

 父王は元より、第一、第三王子とも顔を合わせたくなかった。

 扉のすぐ向こう側に畏まって立ち尽くす側仕えの少女を一瞥すると、カスケードは言った。

「気分が変わった。上の部屋で食事をする。そのように用意しろ」

 冷たい声だった。

 一瞬間、少女は躊躇いを隠し切れなかった。驚いたようにカスケードを見上げ、それからふと気付いたように目を伏せる。

「聞こえたのか」

 カスケードが刺のある声で言うと、娘は怯えたように肩をびくつかせた。

「は……はい」

 か細い声を背に受けて、カスケードは階段へと向かう。階段を上り切ると塔の最上階に出た。カスケードの私室として使われているこの部屋には、分厚い書物の山々が築かれている。これらの書物をカスケードは、すべて読破していた。時折、城下へ出向いて新しい書物を手に入れてくることもあったが、たいていはこの部屋でわけのわからない実験を繰り返していた。

 カスケードを守ってくれるものは、何もない。どこにも。

 この部屋だけが、自分を守り得ることのできる心の城。

 唯一の場所だ。

 ここでは、嫌なことは何も目に入らないし、この耳にも何も聞こえてこない。憎しみの対象でしかないディルディアード第三王子の姿も、耳元に囁きかける声も、彼を邪魔するものはどこにもないのだ。安らぎを得ることのできる、心の避難場所。ともかく、ここではカスケードの心を悩ますものは何もなかった。

 砦。

 そう、砦だ。

 ここにいれば、誰にも悩まされることはない。

 カスケードは神経質そうに机を指でトントンと叩きながら、自分の胸の内に渦巻く苛立ちの原因に思いを馳せる。

 初めてディルディアードを憎いと思ったのはいつの頃だろう。

 あれは、まだ、カスケードが七つにもならない頃のこと。

 幼い第二王子は、彼の気に入りの乳母を失った。

 最初は、ちょっとした悪意のないおふざけでしかなかった。

 カスケードは、乳母が、第二王妃の飼っている山猫に恐れを抱いていることを知っていた。そうと知っていながら、彼女とその山猫とを、彼の勉強部屋に閉じ込めたのだ。半日も経たないうちに城の兵士によって助け出された乳母は、半狂乱の体で王にすがりつき、泣いて頼んだ。

「どうか、カスケード第二王子の乳母から外してくださいませ」

 と。

 その日のうちに彼女の願いは聞き入れられ、カスケードは気に入りの乳母を失い、同時にディルディアード第三王子は新しい、初めての乳母を手に入れた。

 乳母は二度と、カスケードに話しかけようとはしなかった。それどころか、カスケードがどれほど頼んでみても彼女は、顔をちらとも見せようとしなかった。

 カスケードにとっては単なる悪戯でしかなかったものを、乳母は、本気にした。

 それならば、と諦めた素振りをしては見たが、心の底でカスケードは、乳母のことを諦めきれないでいた。

 何故ならば彼女は、ほんの一時ではあったが、真剣にカスケードのことを心配し、愛してくれたのだ。実の母親たる第二王妃からはほんの僅かしか与えられなかった愛情を与えてくれた女性。その彼女を奪っていったのは、他ならぬディルディアードだ。第三王子にして腹違いの弟、ディルディアード。

 乳母に対する諦めきれない思いはいつしか、ディルディアードに対する憎しみへと変わっていく。

 その過程を感じながら、カスケードは第三王子に更なる憎しみを募らせた。



      ≪4≫


 誰からも好かれるディルディアード。

 彼は、カスケードのものをことごとく奪ってゆく。

 乳母の愛情も、父王の興味も、すべて幼い頃に失った。

 失わなかったものといえば、時折、思い出したかのように彼の部屋を訪ねてくる母親──第二王妃──ぐらいのもの。しかしそれは、最近ではどうでもよくなってきた。第一王子にも第三王子にも、母親はいない。両王妃とも、とうの昔に死んでいる。誰が殺したのか、カスケードは薄々ながら勘付いていた。おそらく、彼女…第二王妃が……

 そうだ。

 失ったものをこの手に取り戻すためには、憎しみの対象を排除すること。

 第二王妃はそうやって、すべてを奪い返したではないか。

 同じようにすれば、自分にも、失ったものを取り返すことができるのではないだろうか──考えながらカスケードは、何とはなしに窓の外へと視線を馳せる。

 塔のすぐ下は中庭だ。

 青々しい芝生と、人影。

 アデリーが中庭を横切ってゆく姿が見える。

 片手には洗濯物、もう片方の腕には大きなバスケットを抱えており、持ちにくいのかしきりと荷物を気にしているようだ。

 風が吹いて、アデリーの栗色の髪がはらはらと揺らぐ。

 そしてアデリーとは反対の方向から、ディルディアード。彼のことは、嫌でも目に付いてしまう。腹の立つことに、彼の平凡な姿は何故か人目を引いた。

 荷物を持ったアデリーに、ディルディアードが声をかける。あまりに遠すぎてカスケードには、二人の会話の内容を聞き取ることが出来ない。が、カスケードは、自分が激怒しているということだけははっきりと理解できた。側仕えの娘がディルディアードと何を喋っているのかが気になった。主人であるカスケードですら、彼女と親しく言葉を交わしたことはないというのに。もっとも、カスケードが自分に仕える者たちのことを一人の人間として扱ったことはなかったから、当然のことかもしれなかったが。

 楽しそうにアデリーが微笑み、無邪気な笑い声が微かに聞こえてくる。

 カスケードには、あのような笑みを見せたことはない。一度たりとも。

 ──何故だ?

 痩せて骨張った拳を握り締め、カスケードは窓の下に見える二人を睨み付けた。凄まじい憎悪の色が、オレンジ色の瞳に浮かび上がる。それから彼は、ついと視線を逸らし、部屋の中を苛々と行ったり来たりしだした。

 落ち着かなくては。

 何も見なかったように、平静を装わなければならない。

 カスケードは、何事も見なかったかのような表情で再び窓の外へと目をやった。

 しばらくすると、階段を上がってくる足音が耳に届いてきた。続いて、軽いノックの音。彼はゆっくりと首を巡らせ、そうして言った。

「入れ」

「失礼します」

 小さな、か細い声。

 静かに扉が開き、あの栗色の髪の少女が恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。

「遅い」

 鋭く言い放ち、彼は少女を見遣った。

「……申し訳ありません」

 怯えた肩先が微かに震えている。

 つい今しがた、ディルディアードと言葉を交わしていた時にはこんな素振りは見せなかったではないか。それなのに何故、こんな態度を取るのか。何故、カスケードの前でだけ、萎縮したような怯えた様子を見せるのか。

「言い訳は聞かぬ」

 第二王子は神経質そうなオレンジの瞳で娘を睨み付けた。

「──それよりも、ディルディアードと何を話していたのだ?」

 低く言って、カスケードは娘の顎に細い指をかける。

 酷く冷たい、恐ろしい指先だった。

 アデリーは口唇を震わせた。小さく口を開けるのだが、肝心の言葉は一つとして出てこない。喉がからからに渇いてしまっており、舌には重たい枷が嵌められたかのようだ。

「何を話していた?  言ってみろ」

 くい、と顎を持ち上げるカスケードの指に力がこもる。

 娘の顔が上を向くと、ちょうどカスケードの視線を真正面から捕らえる形となった。恐ろしいオレンジ色の瞳に射竦められて、彼女は身動きを取ることも適わなくなってしまった。

「何を話していたのだ、アデリー。……それとも、ディルには話せても、このカスケードには話せないとでも言うのか」

 肉食動物が獲物を捕らえる時のように、ゆっくりと、カスケードは娘を追いつめる。あと少しだ。あと少しで、アデリーは尻尾を出す

 ──何の?

 何でもいい。

 彼女が、ディルディアードと話していた時のように、屈託のない柔らかな笑みで自分を見てくれるのならば。

「さあ、言ってみろ」

 厳しい声が飛んだ。

 アデリーは目尻を潤ませてカスケードの指から、視線から逃れようと必死だった。

「なに…も……何も、話してはおりません」

 彼女がそう言った刹那、カスケードは力いっぱい娘を突き飛ばしていた。



      ≪5≫


 アデリーは、自分の肩が、背中が、堅い壁にぶつかるのを感じた。

「お前は嘘吐きだ」

 冷たく言い放ち、カスケードは娘を見下ろす。

 栗色の髪の、娘。憎いディルディアードに似た……

 壁に背をつけたまま、恐ろしさのあまり床に座り込んでしまった娘は自らの主人をちらりと見上げた。

「本当に、何も……本当です。他愛のないことをディルディアード様がおっしゃっただけで、わたしは、何も言ってはおりません」

「お前は、嘘吐きだ」

 カスケードは繰り返すと、傍らの剣を取り上げた。

 娘の言葉など、今のカスケードの耳には入っていなかった。

 ──コロシテシマエ

 誰かの声が、耳元へと優しく囁きかけてくる。

 救いの声だ。

 オレンジ色の眼をすっと細め、彼は娘を見つめる。カスケードが刀身を鞘から抜き放つ瞬間、耳障りな摩擦音が部屋を満たした。

「誤解です、カスケード様。わたしは何も…──」

 娘は壁伝いに切っ先から逃れようと身を捩った。どうしてこのような目に遭わなければならないのか、彼女には理解できなかった。

 ゆっくりと剣が振り下ろされる。

 ──どうせ失ってしまうものならば、自らの手で打ち壊してしまえばいい。

 カスケードは、力を込めて剣を振るった。

 ざっ、とあたりに血飛沫が飛び散る。真っ赤な、新しい血液。鮮やかな色をしたそれは、一時的なこととはいえ、彼をあたたかな気分にさせた。

 ──これで、失わずにすんだ。

 失ってしまうものならば、失わないように自らの側に引き止めればいいのだ。

 この手で。

 虚ろな眼差しはしばらくのあいだ、血に塗れた娘の上を彷徨っていた。

 いつか失ってしまうものならば……そう、それならば、失ってしまう前に、自らの手で打ち壊してしまえばいい。

 そうすれば、いつまでもそれは、自分のもの。

 決して失うことはない。

 自分だけの、もの。

 だが、言いようのない喪失感が胸に残るのは、いったい、何故だろう。

 まるで、悪夢を見た後のようなささくれた気分が残る。

 カスケードは塔の窓から見える月に、目を馳せた。今夜の月も、欠け月。オレンジの鮮やかな色を湛えた欠け月。

 まだ、彼の心は満たされない。

 失わずにすんだというのに。

 欠け月がひっそりと嘲笑う。

 カスケードの行いを何もかも知っているとでも言うかのように、妖しく嘲笑う。

 この心の空虚を埋めることの出来る日がくるのは、いったいいつのことなのだろう。月ならば…──そう、月ならば、いい。

 いつしか満ちて、空に輝くことが出来るから。

 しかし、いつなのだろうか。

 本当にカスケードの心の空虚が満たされる日がくるのは。

 失ったものに言いようのないほどの苛立ちを覚えたカスケードは、肩を落とし、のろのろとした足取りで塔を出ていく。

 胸の内の空虚が満たされるのは、いつだろう。

 心の中の欠けた部分はいつか、満たされるのだろうか?

 あの欠け月が満ちるように、自らの心が満たされるには、いったいどれほどの犠牲が必要とされるのだろう。

 ──ディルディアードから全てを奪ってやる。もちろん、トラガード兄上からも。

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