快楽の都・前編

      ≪1≫


 ここは、アルカド海に面した<海の都ネプト>──別名<快楽の都>。

 港町の喧騒に紛れるようにして、少年は人込みを掻き分け進んでいく。

 汗と人、そして潮のきつい臭い。露天商と立ち話をしている男や女。市場に買い物に来る者たちは大概、まとまった金を持っていた。それがたとえ大した金額でなくとも、五人、六人と次から次へと懐を失敬していくと、かなりの額になる。

 はしこそうなラヴェンダーの瞳をきょろきょろとさせて、少年は辺りを注意深く伺った。

 少年の名はフラグ。

 この界隈では、少しは名の通ったスリの少年だ。

「よお、フラグ。景気はどうだい」

 顔見知りの露天商の親父に声をかけられ、フラグはにんまりと笑い返す。

「まあまあってとこだよ。でも、今日はもう終わりだけどな」

「そうか。じゃあ、少し持って帰れ」

 陳列された色とりどりの果物をざっと見渡すと、親父は、傷みかけ始めた果物をいくつか掴み上げた。洋梨のような形をした緑色の果物には、棘がついている。ヤマモモをひと掴み、それからオレンジ。果物をそっと袋の中へ入れた親父は、それをフラグに手渡す。

「姉さんと食べな」

 フラグは軽く頷くと礼を述べ、家へと足を向けた。

 少年は、海から少し離れた丘の上の小さな掘っ建て小屋で、二つ違いの姉と二人で暮らしていた。

 フラグの姉は毎朝、彼ら二人の財産でもあるたった一頭の子牛を連れて、地主の屋敷へ行く。彼女は、地主の屋敷で下働きをしていた。姉が働いている間、子牛は地主が雇っている牧童に面倒を見てもらっている。地主の屋敷で働く者の多くが、同じように牛や羊、山羊を預けていた。

 姉が地主の屋敷で働いている間、弟のフラグは港の市場に行く。そこで露天商の手伝いをしたり、日によっては日雇いの簡単な肉体労働をしたりする。もっとも、フラグが得る賃金のほとんどは他人の懐から失敬したものだったが。

 そうまでして少年が金を手に入れようとするのは、彼らが決して裕福ではないからだという、そういった単純な理由からではなかった。もちろん裕福ではないという理由もあったが、それ以上にフラグは、姉が地主のところへ働きに行かなくてもいいようにするため、常に大金を手に入れようと悪知恵を働かせていた。

 地主のアルガサァナは悪い人物ではなかった。村人からは好かれていたし、無茶なことを言って人々を困らせたこともない。税金だって、ここでは他の村に比べれば、ほんの少しばかり安い。これほどまでに住みやすい場所は、どこを探してもないだろう──それが、村人たちの口癖だった。確かにその通りだと、フラグは心のなかで思う。

 ただ一つ、アルガサァナのあの悪い癖がなくなってくれれば……。

 ──どうしてあの男は、うちの姉さんなんかに目を付けたんだろう?

 フラグは思った。

 アルガサァナは、二十三才。ティオとは八つほど違うだけだから別に年齢的にはおかしくはない。だが、ティオを妻に迎えようとするこの若い地主は、どこかおかしいのではないか。彼の地位に見合っただけの普通の娘ならば、どこもおかしいとは思わない。それが、何故、こんな貧しい孤児を妻に迎えるなどと言い出したのだろうか。姉が、地主をたぶらかすはずがない。ティオはまだ十五才だったし、好きな男もいないほど初な人なのだ。そんな大それたことなど、できるはずがない。

 細い山道を駆け上がると、少年の住んでいる小屋が見えてくる。

「ティオ、ただいま!」

 フラグは勢いよく扉を開けた。

 戸口から差し込んでくる夕陽が、逆光となって、フラグの視界を遮る。

「ティオ?」

 小屋のなかは静まり返っており、明りも灯されていない。

 この時間になればティオは地主の屋敷から戻ってきているはずだ。いつも、フラグのほうが帰りが遅いぐらいなのだから。

 フラグの中で、嫌な予感がゆっくりと頭をもたげた。

「──姉さん!」

 反射的にフラグは、アルガサァナの屋敷へと駆け出していた。



      ≪2≫


 言い様のないほどの大きな不安が心の中に集まりだす。

 フラグは地主の屋敷へと続く畔道を走り続けた。

 地平線の彼方に沈みかけた夕陽が最後の名残を投げかけている。

 アルガサァナは、夕食時に突然訪れた幼い客人を邪険にはしなかった。主人自らがフラグの前に姿を現し、優しくこう応えたのだ。「ティオならばとうのむかしに仕事を終えて帰ったのだが」と。

 少年は夕食時に邪魔をしたことを丁寧に詫びて、家へと引き返した。

 ──嘘だ。

 帰途についた少年は実のところ、アルガサァナを疑っていた。あの場はおとなしく引き下がったものの、本当のところ、アルガサァナの言葉などこれっぽっちも信じてはいなかったのだ。姉は、何も言わずに出かけるような人ではない。姉弟ともまったくの読み書きが出来ないというわけでもなかったから、急な用事で出て行くときには必ず書き置きを残していた。書き置きも何もなしにティオが出かけるはずがない。

 ──アルガサァナは、嘘をついている。姉さんが、僕になにも言わずに家を出るわけがない。いつだってそうだ。

 そう。

 いつだって、そうだった。

 たった二人きりの姉弟。心から頼れる人がいないから、二人で寄り添って生きてきた。ティオにはフラグが、フラグにはティオが、必要なのだ。他の誰にも代わりはできない。何故なら、二人には、互いが自分の持てる唯一の財産でもあったから。馬や牛や羊は、たとえいなくなったとしても仕方がないと諦めることができる。が、姉弟は、どちらが欠けても諦めることなどできない大切なものだった。ティオのほうも、フラグと同じように考えているだろう。弟がいなくなったら、今の自分は生きてはいけないだろう、と。もしそんなことになってしまったなら、心だけが、言い様の知れない喪失感に襲われて……そして、日々をただぼんやりと、幻を見ているかのように過ごすだけになってしまう。そんな日々は、生きているとは言えない。

 フラグは小屋へ戻ると、内へは入らずに裏手の家畜小屋へと回った。牛だけはきちんと戻ってきている。しかし、姉の姿はなく、また、気配さえもなかった。

 一晩、少年は姉の帰りを待って起きていた。

 食事は取らなかった。

 夜のしじまが空に広がり、それがしだいに東の果てから白んできても、姉は帰ってはこなかった。昼過ぎになると空に灰色の雲が迫り出してき、小雨が降り始めた。じっとりと湿った空気が少年の肌にまといつく。少年はなおも、姉の帰りを待ち続けている。

 丸二日間、フラグは姉を待っていた。

 三日目の朝、少年は子牛を連れて地主の屋敷へ行った。そこで牧童に子牛を預けると、港のほうへと駆けて行った。港には少年の顔見知りが大勢いる。声をかければ助けてくれる者もいた。直接的な手助けをしてくれなくとも、何らかの情報を流してくれるはずだ。それに、港にはスリ仲間もいる。彼らならばもっと大きな情報を手にすることもあるだろう。ティオに関する情報はすぐにも手に入るのではないだろうか。

 港に降りると、そこは潮の臭いと男たちの怒鳴り声に支配されていた。

「どこ行くんだ、チビ」

 がっしりと盛り上がった筋肉を誇張しながら人夫たちは、木材を担いで少年の傍らを通り過ぎて行く。

 入港した船ではいくつもの木箱が荷解きされていた。そして、出港待ちの船に積み込まれる荷物の山々。

 フラグは顔見知りの人夫たちに声をかけながら、男たちの溜り場へと急ぐ。出港までに時間のある者、或いは入港して仕事を終えたばかりの者たちが集まる場所といえば、ここしかない──つまり、酒場。フラグが酒場へ行くことは滅多になかった。仕事の後に何人かの人夫たちに連れてきてもらったことはあるが、いつもあの不健全な空気に馴染めないでいた。ティオを捜すために手助けをしてもらうという理由がなければ、酒場へは足を運ぶこともなかっただろう。

 半開きになった酒場の扉を潜ると、物珍しげに少年を眺める親父の視線とぶつかる。店のなかでは、奥のテーブルに四、五人の人夫が集まって酒を飲んでいた。フラグも知っている顔だ。あまりいい連中ではない。昼間から悪酔いをしては周囲の人に迷惑をかけることで有名な連中だった。あまりお近付きになりたいとは思わない。それに、こんな奴等にティオのことを頼むつもりもない。そこらへんにいるごろつき連中と同じぐらい役に立たないのだから。

「親父さん、ダイを見かけなかった?」

 奥の連中には目もくれずに、フラグは尋ねかけた。

「ダイ? いいや、最近はさっぱり来んがなあ」

「そう……」

 親父の言葉に頷いて、フラグは考え込む。

「ありがとう、また来るよ」

 そう言って扉を潜ろうとした瞬間、誰かが店の中へ入ってきた。勢いよくフラグは、身体ごとぶつかっていってしまう。

「うわっ……ごめんよ。急いでんだ」

 フラグは慌てて謝った。

「ああ、別に何ともないから気にしなくてもいいよ」

 人夫にしては優しげな声が耳に入ってくる。

 見上げると、フラグの目の前には鮮やかな海の色にも似た藍色の髪の青年が立っていた。

「……落ち着きのない奴だな、まったく」

 呆れ返った女の声。赤毛の、戦士風の格好をした女性が扉の向こう側で青年を非難する。二人とも港の人間ではない。旅人だ。

「親父、葡萄酒をもらえるか」

 人好きのする笑みを浮かべ、青年は声をかけた。



      ≪3≫


「二人分かい?」

 親父が尋ねかける。

「いや、一人分でいい」

 すかさず赤毛の女が横から口を挾んだ。

 ──昼真っから……

 フラグは思った。

 あの、奥のテーブルにいる連中の格好の餌食にされるだけだ。あの連中ときたら、誰かから金を巻き上げることと、自分たちよりも弱そうな奴に喧嘩を吹っかけることしか頭にない、本当にどうしようもない奴等なのだから。

 が、少年の思惑など知りもしない藍色の髪の青年は、カウンターのほうにさっさと着いてしまう。

 女のほうは、仕方がないというかのように青年の後をついていく。嫌々ながらも付き合ってやっているのだと言わんばかりの素振りだ。

「姉ちゃん、こっちに来いよ」

 奥のほうから酔った男たちの声がかけた。

 野卑な笑い声と酒の臭いがフラグの胸をもたれさせた。アルコールのきつい臭いが胃をむかむかとさせる。こんな場でなければ、吐いてしまいそうだ。

「行っちゃ駄目だ」

 掠れたフラグの声はしかし、女には届かなかった。

「あ、おい、ヴァイ?」

 青年が呼び止めるのも聞かずに、連れの女は男たちのほうへと足を向ける。

 男たちの間でにやにや笑いと目配せが飛び交う。

「私のことか?」

 女は、静かな声で尋ねた。

 ──駄目だよ。あいつら、この辺りでも結構強いんだよ。

 おろおろと、フラグは親父のほうを盗み見る。親父のほうは慣れたもので、知らん顔をしている。こういう場合は、下手に口を出すと自分のほうにとばっちりが回ってこないとも限らない。そこのところを親父はよく心得ていた。

 赤ら顔の男たちは、ジョッキを片手に女を見上げている。

「そーだよ、お姉ちゃん。一緒に飲まねえかって誘ってんだよ、オレたちは」

 男たちのうちの一人がにやにやと笑って言った。

「──結構だ」

 一瞬間、静まり返った空気が辺りに漂う。

 男たちの顔が強張っている。

「なにぃ?」

「何て言いやがった、今」

 ──ああ、可哀相に、あの女の人。ただじゃすまないぞ、きっと。

 扉の影に隠れるようにして、フラグは成り行きを見ていた。と、誰かの手が肩にかかる。勢いよく身動ぎ、後ろを振り返る。

「中に入らないのか」

 金髪の男がそこには立っていた。

「──ダイ!」

 男たちの仲間でなかったことに安堵したフラグは、嬉しそうに声を上げた。

「よかった。捜してたんだ、朝から」

「そうか」

 頷き、ダイと呼ばれた男は店の中へ足を踏み入れる。緊張した空気が充満している。呼吸をすることすらはばかられるような、そんな空気だ。

「結構だと言ったのだ、私は」

 腕を組んで、彼女は説教をし始める。

「……呑気なものだな、真っ昼間から。そこかしこで妖魔が横行しているというのに、こんなところで飲んだくれているとは」

 確かに、あの聖地<神聖王国ホーランド>の結界が破られて以来、妖魔たちの数は目に見えて増えている。この町の人間も、若い男や女が何人も行方不明になっている。だが、この男たちが昼間から飲んだくれているのと妖魔が横行していることとは何の関係もないではないか──不思議そうに、フラグは女の顔に目を馳せた。

「うるっひゃいっっ」

 呂律の回らない口で男が怒鳴る。

「──…ったく、あの世間知らずは……」

 藍色の髪の青年がのろのろとした動作で席を立とうとする。が、それよりも早く、ダイが女と酔っ払いとの間に身体を滑り込ませていた。

「お前ら、仕事はどうした。商船はとっくに入港してるんだぞ」

 低い声で凄んだ途端、男たちは決まり悪そうに顔を見合わせた。ダイという男は、港では腕っ節の強いことで有名だった。この辺りのごろつき連中ならば、彼の顔を見ただけで逃げ出すという話だ。噂では、どこかの国の傭兵だったとか。

「あ、あわわ……」

「今から……へへ、今から、行くんでさぁ」

 へこへことしながら男たちは席を立つ。無骨な手が微かに震えていた。ダイの顔色を窺いつつ、我先にと戸口へと向かって走り出す。

 男たちのみっともない様をしっかり目にしたフラグは、込み上げてくる笑いを堪えながらダイの側へと寄って行った。



      ≪4≫


「一応、礼だけは言っておこう。貴方のお陰でごたごたに巻き込まれずにすんだのだからな」

 赤毛の女が言った。

 言葉遣いは男のようだったが、ちらりと見せたはにかんだような笑みは酷く可愛らしく見える。

「どうも」

 軽く応えるとダイは、フラグを連れて店を出た。

 しばらくの間、二人とも黙って歩いていた。

「──何かあったのか?」

 人気の少ない通りを歩きながら、ダイは少年に目を馳せる。

「あ、うん…ティオ……姉さんが、いなくなったんだ。それで、ダイに相談したかったんだけど…──」

 言葉少なに、フラグは事の次第を話した。

 ティオが帰ってこなかったこと。以前から地主のアルガサァナが姉に求婚していたこと。しかし姉は、アルガサァナと直接言葉を交わしたことはなかった。それに、姉があの年若い地主を好いているどころかむしろ嫌っているということもフラグは知っている。

「姉さんの行きそうな場所は捜したのか?」

「うん」

 姉を捜し出すのをダイに手伝ってもらえるというのは、かなり心強いことだった。彼ならば港のほとんどの人夫に顔が利く。何よりも、腕っ節が強い。

「手がかりは何もないのか」

 ダイが低く呟く。

「……アルガサァナは嘘をついている」

 一言、フラグは鋭く言い放った。

 証拠はない。だが、フラグには何となく、アルガサァナが嘘をついていることが感じられた。それとも、あの感じはただの気のせいで、もしかしたらティオは、妖魔に連れ去られたのかもしれない。この辺りにも、妖魔は現れる。フラグの知っている女の子が妖魔に連れ去られたのは、二十日ほど前のことだ。その前は、娼館で下働きをしていた少年だとか。

「アルガサァナか……」

 厄介だな──さらに低くくぐもった声で、ダイ。

 何が厄介なのか、フラグにはよく分からなかった。

 分かっているのは、アルガサァナが港一帯を治める地主だということ。彼が姉のティオに求婚していたということ。そして、地主であるアルガサァナは嘘をついている……と思う、ということ。

「だけど、ティオを捜すのは手伝ってくれるんだろ?」

 少し不安げな表情で、フラグは訊いた。ダイが手伝ってくれないのならば、一人でティオの行方を捜さなければならない。全体的に見てもそれは、無理なことだった。まだ幼い──と言ってももうじき十四だが──フラグには、大人と渡り合えるだけの腕力がなかった。

 ダイが手伝ってくれるのなら、心強いのだが。

「手伝っても構わないが、三日間だけだぞ」

 ダイは応えた。

「うん。三日だね」

 大きく頷くと、フラグは思った。何としてでも三日以内に姉を捜し出さなければならない、と。無茶なことかもしれないが、そうしなければ姉を見付け出すことは永久にできないだろう。そんな感じがした。



      ≪5≫


 夕刻になってようやく、二人の旅人は酒場を後にした。

「妖魔の臭いだ……」

 店を出たところで藍色の髪の青年がぽつりと呟く。

「追っ手か?」

 とは、赤毛の戦士風の娘。

「いや、まだ、判らない」

 青年が応えると、娘はふん、と鼻を鳴らして先を急ぐ。

 二人が<海の都ネプト>の大門を潜ったのはほんの数日前のことだった。そこから、野宿に野宿を重ねて最南端のこの港町にまでやってきたのだ。馬を連れていなければもっと日数がかかっただろうと思うと、赤毛の娘はぞっとせずにはいられなかった。急ぎの旅だというのに、時間をかけて旅をするなど。

「とにかく、急ぐぞ。今夜も野宿だからな」

 冷たく言い捨てると、娘は愛馬トラストを急かした。今のうちに野宿が出来るような場所を見付けておいて、夜に備えたかった。妖魔の臭いがしているのなら、なおさら急がなければならない。万が一、夜襲をかけられでもしたら……その時は、藍色の髪の連れのせいにして見捨てて行ってやろうかとさえ考えてしまう。

 娘は、名を勇気ある娘ヴァレンシアと言う。<神聖王国ホーランド>の騎士にして、目下のところ、<神聖王国ホーランド>国王代理に追われる身でもある。

 もう一人の藍色の髪の青年は、名をホーランドと言った。ヴァレンシアと同じく追われる身にして、強い妖術を操る妖魔だ。だが、誰も青年が妖魔だとは思わないようだ。それだけこの妖魔は人間染みていたし、連れのヴァレンシアですら、時折、ホーランドが人間なのではないかと勘繰るほど人間臭かった。

 白馬のハンザの手綱を引きながら、青年はヴァレンシアの後をついて行く。港町から遠目に見たとき、入江沿いの崖の上に野宿の出来そうな場所があった。おそらく、ヴァレンシアはそこへ向かっているのだろう。

「──別に、追っ手でも変わりはないと思うぞ」

 しばらく行ったところで、ヴァレンシアが小さく呟いた。

「え? 何が?」

「だから、妖魔が、だ」

 怒ったように、娘は後ろを振り返る。

「町の人が言ってただろう。妖魔が出る、と。追っ手だろうとそうでなくとも、どちらにしたってこちらのことには気付くだろう」

 喋りながらも、足は先へと動いている。

「まあ、そうだろうな。俺は妖魔で……妖魔王の命を狙う不届き者らしいからな」

 それには応えずに、ヴァレンシアは目の前に見える小高い丘へと目を向けた。場所としては、まあまあだろうか。すぐ近くに小屋が見えている。うまくいけば、そこに泊めてもらえるかもしれない。

「急ぐぞ」

 ヴァレンシアが声をかけた時だった。

 不意に、馬たちが大きく嘶いた。暴れることはなかったものの、かなり怯えているようだ。

「どうした、トラスト?」

 首に手をやり、どうにか落ち着かせる。

 ホーランドのほうも白馬ハンザを必死に宥めている。

「ホーランド?」

 剣呑な眼差しで、ヴァレンシア。黒い瞳は尋ねかけてた。これは、この付近に妖魔がいるのではないか、と。

「ああ──だが、俺たちのことには気付いていないようだ」

 ──どこに?

 ヴァレンシアは辺りをさっと見回した。

 鋭い眼に、いくつかの人影が映る。

「大丈夫、ヴァイ」

 連れの娘がさっと全身を強張らせたことに気付いたホーランドが、軽く片目をつぶってみせた。彼女を安心させるかのように。

「こっちのほうが力は上だ。おれが気配をうまく隠している限りは、向こうも軽率な行動は取らないだろう」

 確かにホーランドの言葉は当たっている。畑仕事をする農夫たちに混じって、その妖魔はいた。こんなところで正体を明かすような真似はしないだろう。

 ──だが、これで今夜の野宿は危険なものになったというわけだ。

 大きな溜め息をついたヴァレンシアは、再び丘のほうへと歩み始める。

 妖魔がいようがどうしようが、今夜の寝床を確保するのが何よりも先だ。あの妖魔が自分たちに危害を加えるかどうかは、その時になってみなければ分からないのだから。

 ともあれ、当分は妖魔のことは忘れていてもいいだろう。

「あの妖魔のことはお前に任せた」

 しっかり見張っていろと言外に含ませ、ヴァレンシアは口許に笑みを浮かべる。

 夏の夕風がさらさらと木の葉を揺らして吹き抜けていった。

 わずかばかり上気した頬が気持ちよかった。

 ── 一騒動起きそうだな……

 ふと心に暗い影が差したが、ヴァレンシアはそれを無言のうちに胸の奥にしまい込んだ。

 沈みかけた夕陽が最後の輝きを丘の上に投げかけている。収穫前の若い麦の穂たちを黄金色に染め上げて、太陽は西の果てへと消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る