快楽の都・中編
≪1≫
夜になって、窓の向こうにちらちらと明りが見え隠れしていることに気付いたフラグは、おそるおそる小屋を後にした。
向かいの小高い丘の中腹に、その明りはあった。
近付いて行くと、焚き火のはぜる音と人の話し声が耳に届いてくる。が、離れすぎていて会話の内容までは聞き取れなかった。もう少し近寄ろうとした刹那、足元の小石を蹴飛ばしていた。草が揺れ、小さくざわめく。
「誰だ!」
鋭い女の声が飛ぶ。
諦めて、フラグはすごすごと暗闇から出て行った。
燃え盛る焚き火の炎が少年の横顔を照らし出す。
「君、昼間の……」
青年が驚いたように声をかけた。
「ああ、そう言えば──」
女のほうもすぐに気付いたらしく、警戒を緩めたようだ。
「あなたたちだったんだ」
言って、フラグは焚き火の側で寛ぐ二人の旅人を順に見た。間違いなく昼間、酒場で会った藍色の髪の青年と赤毛の女だった。
「こんなところで野宿?」
宿は、取れなかったのだろうか。そんな考えが頭を掠める。いや、そんなはずはないだろう。この町になら、かなりの数の宿屋がある。選り好みさえしなければ、いくらでも泊まるところを探すことができるはずだ。もっとも、宿は港の辺りに集中しており、商売女たちが群がるようないかがわしい場所が大半だったが。
「先立つものがなければね、屋根の下で眠りたくとも眠れないんだよ」
青年がおどけて言った。
「ああ、そうか。お金がないんだ」
港に住む人夫たちにはよくあることだ。フラグだって、市場へ買い物にくる物持ちのよさそうな人の懐から少しばかり失敬していなければ、あんな小屋でもとうの昔に追い出されていたことだろう。
悪びれた風もなく、少年は二人に笑いかけた。
「家へ、来るかい?」
何となく、一人でいるのが嫌だった。
ティオを待って夜を過ごすのが怖かった。今夜も帰っては来ないだろう、姉は。
姉の姿を目にした者は一人としておらず、港のあちこちで、ティオは妖魔に連れ去られたのだという噂が囁かれている。ティオが生きているのか死んでいるのかも分からない今、フラグは一人になりたくはなかった。
「夜風を凌げるだけでも、ここよりはマシだと思うよ」
丘の上に吹いてくる風は、海からの風だった。風はじっとりと湿り気を帯びており、しばらくすると肌が潮のせいでべたべたになってしまう。フラグのように潮風に慣れている者ならばともかく、この二人の旅人には、潮風が気に触るようだ。
顔を見合わせた二人の旅人は、しばらくのあいだ黙りこむ。
「お言葉に甘えさせていただこう。正直言って、大助かりだ」
女のほうが先に口を開いた。
フラグは先に立って小屋までの短い道程を歩き始める。
荒れ地にひっそりと佇む古びれた小屋だったが、二人の客人を招き入れた途端に活気に満ちてきたようだった。
「家の人がいるんじゃないのか、ボーズ」
藍色の髪の青年が心配そうに訊いた。
「え、ああ……うん、いる…──けど、今は、いない」
「見ず知らずの他人を家の中に入れても大丈夫なのか?」
とは赤毛の娘。
「うん」
頷き、フラグは寂しそうに二人を見遺る。
「だいぶん前からなんだけど、この町に妖魔が出るようになったんだ」
二人の旅人に椅子を勧め、フラグは話し出した。
「初めは、神隠しだとかって、町の人たちも噂してたんだ。でも、あまりにも頻繁に何人もの子どもが一度に行方不明になるもんだから、おかしい、って、大人たちが調べたら……その原因が、妖魔だったんだ。妖魔が、町の子どもを連れて行ってたってわけ。うちの姉さんも、妖魔に連れて行かれたんだ。もう、帰ってこないかもしれない」
話しながらも少年はかいがいしく立ち居振る舞っていた。木製のジョッキに隣家から分けてもらってきた牛の乳を注ぐと、二人の客人に手渡した。
「このぐらいのもんしかないけど、どうぞ」
これだけでも、少年にしてみればかなりの贅沢だ。
「ありがとう。いただくよ」
言って、青年はジョッキに口を付ける。
「──ねえ、それよりも、名前、何て言うのさ?」
客人が寛いだところを見計らって、フラグは再び口を開いた。テーブルの上には皿に盛った果物が置かれていた。ところどころ傷みかけており、あまり状態はいいとは言えない。ヤマモモに手を出そうとしかけた青年がふと顔を上げ、手を止める。
「俺は、ホーランド。しがない旅人さ。で、連れがヴァレンシア。<
青年はそう言うと悪戯っぽく笑みを浮かべた。
≪2≫
簡単な自己紹介のあと、改めてヴァレンシアと名乗る赤毛の女はしつこいぐらいにフラグに尋ねかけてきた。あの、例の神隠しまがいの事件のことについてだ。
「妖魔が町の子どもたちをさらっているのか」
ヴァレンシアの黒い目は真剣だった。
「うん。皆、そう言ってる」
フラグが応えると、赤毛の娘は考え深げに細い指を自身の顎に持っていった。目は、じっと虚空の一点を凝視している。まるで、考えごとの答えがそこに存在するかのように。
「ヴァイ、妙な考えは起こすなよ。南へ行くんだろう、俺たちは」
ホーランドが横から釘を刺したが、何の効果もなかったようだ。ヴァレンシアは鋭い眼差しで彼を一瞥し、それから、ぽつりと呟いた。
「その妖魔は、人間の姿をしているのだろうか」
一瞬、フラグは不思議そうな表情でヴァレンシアを見遺る。
どういうことか、この少年には分からなかった。妖魔がどんな姿をしているのかなど、今まで、一度だって考えたことはなかったのだから。
「ヴァレンシア」
咎めるようにホーランド。
「ホーランド。お前、さっきのあれの仕業だと思うか?」
だが、ヴァレンシアはホーランドの思惑など何一つ知らぬかのように聞き返した。陽の沈む少し前、丘の上へと登ってくる途中に見かけた、あの妖魔のことを。
「知るか」
憮然としてホーランドはそっぽをむく。
「ヴァレンシア、何か知ってるの?」
フラグは思い余って尋ねた。
もしもこの二人の旅人が妖魔のことを知っているのなら……もし万が一、姉の居所を知っているのなら、今すぐにでも教えてほしかった。姉はおそらく、待っているだろう。どこだか分からない、閉じ込められた狭い部屋のなかで。少年が、すぐにでも彼女を助けにきてくれるのを。
「ああ。夕方、ホーランドが妖魔を見かけたらしい。彼はこう見えても、魔術に長けている。妖魔を見分ける力を持つ魔術師でもあることだし…──」
「ヴァレンシア!」
止めようとしたが、遅かった。
ヴァレンシアは、ホーランドに魔術師という肩書きをおっ付けてしまった。それも、彼に一言の断りもなく無理やりに。何て強引なのだと心のなかで悪態をつきながら、ホーランドは成り行きを見守って息を潜めた。何となくだが、先が見えそうな気がした。どうせ、少年の話につき合わされるに決まっている。彼が嫌だと言おうがどうしようが、ヴァレンシアの言葉には逆らえるはずがない。そんなことは一緒に旅を始めてからずっと、分かっていたことなのだから。
「私たちにできることなら、幾らでも手を貸そう。遠慮なく言ってくれ。一夜の宿のお礼もしなければならないことだしな」
ヴァレンシアが微笑む。
艶やかだと、フラグは子供心にも思った。この人は、なんて綺麗な笑みを浮かべるのだろうか。子どものように。優しげで、無邪気な笑みだ。
「……じゃあ、姉さんを捜すの、手伝って」
少年の言葉に、ヴァレンシアは二つ返事で頷いた。
「南に行く船の乗船券が手に入るまでで構わないのなら、幾らでも」
ホーランドが渋い表情をする。
「どういうつもりなんだ、ヴァイ」
眉を寄せたホーランドは、ヴァレンシアの言葉をあまり快く思っていないようだった。
「こういうつもりだ」
応えて、ヴァレンシアは青年をじっと凝視した。
「妖魔に連れて行かれたフラグの姉さんを助けてあげたいだけだ。このままではフラグが可哀相だろう」
ホーランドは大きく肩を竦めると、諦めたような眼差しで彼女を見た。だが、それだけだった。そのまま彼は何も言わずに、席を立つ。
「どうやって捜すかが決まったら、声をかけてくれよ。俺は、それまでは一切関わらない」
二人に背を向けると、青年はさっさと小屋を出て行った。
「いいの、ヴァレンシア? 怒っちゃったみたいだよ」
フラグが言うと、彼女は軽く頷いた。
「放っておけばいい。そのうち戻ってくるだろう」
ヴァレンシアの言った通り、明け方ごろに青年は戻ってきた。
足音も立てず、気配を殺して小屋の戸を開ける。小屋のなかは静かだった。フラグもヴァレンシアもぐっすりと眠っているかのように見える。
と、
「遅かったな」
寝返りも打たず、寝台に横になったそのままの姿勢でヴァレンシアがぽつりと言った。
「妖術はお遊びで使うものじゃないんだぞ」
むっとしたような表情でホーランドが返す。別段、怒っているわけではなかった。ホーランドは物音も立てずにヴァレンシアが横になった寝台へと歩み寄る。
そして……
「──あの妖魔の居場所を捜し出したぜ」
小さな、しかし意気揚々とした声で彼は告げたのだった。
≪3≫
明け方前の冷たい空気が小屋のなかに流れ込む。
ヴァレンシアはもちろんのこと、言葉を交わす二人の気配に気付きベッドから起き出してきたフラグを交えて、ホーランドはことの次第を話した。
「……やっぱり姉さんはアルガサァナのところにいたんだ」
口唇をぎゅっと噛み締め、フラグは呟いた。
少年の思った通りだった。彼の姉は、地主でもあるアルガサァナの屋敷に監禁されていた。それも、屋敷の奥深くに。
「それで、どうやって助け出すんだ」
ヴァレンシアが感情を交えない声で尋ねかける。
「さあ」
ホーランドは首を傾げ、しばし考えた。
「ここは一つ、アルガサァナの屋敷に忍び込んで……ってのは?」
そう言った途端にヴァレンシアの鋭い眼差しが飛んだ。
「誰が、忍び込む」
冷たい、否定とも取れそうなほどに厳しい瞳。
怒っているのか。
「──いや、それが一番手っ取り早いか」
軽く頭を振ると、彼女は溜め息を付いた。
「その、アルガサァナとか言う地主の屋敷へ行くか」
「それって、行ってくれる……って、こと?」
フラグは恐る恐る言葉を口にした。少年はゆっくりと、目の前に立つヴァレンシアとホーランドの顔とを見比べる。
「姉さんに会いたいんだろ」
にやりと、ホーランドが笑った。
ヴァレンシアの溜め息だけが、部屋のなかでやけに大きく響いた。ホーランドはと言えば、彼のほうは、意味深な笑みを口許に浮かべ、少年に目を向けている。優しい、黄金の瞳だ。
「子供は心配しないで、俺たちの話に合せてればいいんだよ」
ホーランドの言葉にヴァレンシアが頷いた。
「行動を起こすなら早いほうがいいだろうな」
地主邸までの道程を、三人は急いだ。早くしなければ夜が明けてしまう。
忍び込むのならば、太陽が登る前に地主邸に入り込まなければならなかった。
屋敷を取り囲む白壁を前に、フラグは大きく息を吸った。
「──行こう……」
≪4≫
早朝の地主邸は静まり返っていた。
使用人たちが起きだす前のことだ。
高い壁の向こう側に降りた三人は、鋭い目で辺りを見回している。
「本当にこの奥なのか」
不意にヴァレンシアが口を開いた。
「任せなさい、って。場所のほうもちゃんと突き止めてあるんだよ」
とは、ホーランド。
彼は、赤毛の娘の頭を軽く小突くと、ふっと微笑んだ。何も心配することはないのだというかのような、自信に満ちた眼差し。
ホーランドに案内されるままに、フラグとヴァレンシアの二人は屋敷内を進んで行く。
中庭を通り抜け、白く長い大理石の回廊を何度も折れる。まもなくして、仰々しいがっちりとした扉が見えてくる。三人とも、言葉は交わさなかった。おそらく鍵がかかっているだろうその扉の前に立ち、ホーランドは手をかざした。白い光が指先に集まり、扉へと吸い込まれてゆく。
「心の準備はいいか?」
振り返り、ホーランドは尋ねた。
無言で二人は頷く。
扉は難なく開いた。
向こう側は薄闇の広がる階段だった。地下へ降りきったところから、長く果てのない通路が延々と続いているだけ。
足音を忍ばせ、三人は前へと歩いた。
突然、通路の突き当たりが見えてきた。重厚感のある鉄の扉が三人を阻んでいる。フラグは、拳を握り締めると扉をぎっ、と睨み付けた。
──この向こう側に、姉さんはいるんだ……
先のときと同じように、ホーランドが扉に手をかざした。
鍵の外れる微かな音が薄闇に響く。
ホーランドがゆっくりと扉を開け…──その奥に、フラグは姉の姿を見つけた。
「……姉さん!」
駆け寄り、少年はたった一人の肉親に飛び付いた。
「フラグ!」
逃げ出せないように手足を縛られた幼い娘が、部屋のなかにいた。
「フラグ、きてくれたのね?」
弟に抱きしめられたまま、お下げ髪の少女は安堵したように呟く。
ヴァレンシアは黙々と少女の手と足に回された縄を切り落とす。
ティオは、しばらく痛む手足を擦っていたが、ふと顔を上げると、フラグと一緒にいる二人の見知らぬ人に目を馳せた。
「あの、あなたたちは……」
「ティオ、この人たち、ティオを助けるのを手伝ってくれたんだ」
フラグが言った。
「私はヴァレンシア。あの男は、ホーランドだ」
微笑んでヴァレンシアが後を継ぐ。
「わたしは、ティオ。助けていただいてありがとうございます」
立ち上がり、ティオは言った。愛らしい顔立ちの少女だ。これでは、妖魔に目を付けられてもおかしくはないだろう──心の内で、ホーランドは思った。
「まだ助かったわけではない。安心するのは後に取っておくことだ」
ぶっきらぼうに言って、ヴァレンシアが扉の向こう側に黒い目を馳せた。鋭くすがめられた双眼が一点だけをじっと睨み付けている。
「気付かれたようだぞ、ホーランド」
チッ──。
舌打ちをすると、ヴァレンシアは正面を見据えた。
「地上へ続いているのはこの通路だけだぞ。どうする?」
だが、ホーランドは何も応えなかった。ぽりぽりと頭を掻くと、仕方がないというかのように頭を振り、ヴァレンシアのほうへと手を差し延べた。
「とりあえず地上に出よう」
腰の中剣を外し、ホーランドに手渡す。彼女のほうは太腿に下げた短剣を手に、油断なくフラグとティオの二人を庇いつつ前進する。
人影は見当たらないが、アルガサァナはもちろんのこと、彼の部下たちまでもが侵入者に気付いていることは確かだった。地上では、アルガサァナやその部下たちが、侵入者が外へと出てくるのを今か今かと待ち構えていることだろう。
四人は一団となって暗い通路を進んだ。
じりじりと進むうちに、いいようのないほどの緊張感が全員のあいだに広がりだす。地下と地上とを繋ぐ扉が見えてきたのだ。
姉の手を引くフラグの手が、じっとり汗に濡れる。
「気を付けろよ」
しんがりを務めるホーランドが声をかけた。
「そっちこそ」
そう答えたヴァレンシアは息を殺して扉を開け、外の様子を伺う。手の動きだけで合図を送り、少しはなれたところで待機している後ろの三人を促した。
扉の向こうにも人の姿は見えない。いや、屋敷の入り口の辺りが妙に騒がしいようだ。
「急ごう」
ヴァレンシアが後ろを振り返った瞬間、何かが目の端で動いた。
「──逃がさないよ」
優しい笑みを浮かべた、美しい青年が立っていた。
フラグが掠れた声で呟く。
「アルガサァナ……」
「そこの娘は渡さない。わたしの獲物だ」
では、この目の前の青年が
≪5≫
地主邸の正面門を鋭く睨み付け、金髪の男が立ち尽くす。
彼は名をダイと言った。今は漁港で働く身だが、かつては傭兵をしていたこともある。
腰に下げた剣は、ゆるやかな弧を描き出す曲刀。
屋敷の入り口をしばらくのあいだじっと見つめ、それからこの男は剣を手に、荒々しく門をこじあけた。大きな音が辺りに響き渡り、使用人たちが何ごとかと慌てて駆けつけてくる。
「そこで何をしている!」
屋敷を警護する男が厳しい声でダイを諫めた。
が、ダイは何も言わずに男を殴り付けた。剣の柄が男の頬に食い込む。肉が殺げ落ち、血の臭いが辺りに流れる。
「どけ」
一言、低い声で彼はそう言った。
警護の者たちは尻込みをして、小さく後退る。
「ティオという娘がここにいるはずだ」
剣を構え、ダイは言葉を続けた。
「……返してもらおうか、その娘を」
細められた鋭いトパーズの眼差しは、残忍なまでの冷酷さを宿している。まるで、眼差しだけで射殺すのではと思われるような、そんな恐ろしげな眼差しだ。
警護の男たちはじりじりと後退をしながらも、ダイを門より奥へは通さなかった。これより奥には、何人たりとも入れるなとのアルガサァナのきつい命令が出ている。皆、アルガサァナの言葉には忠実だった。それは彼──アルガサァナ──が、横柄なだけのありきたりの地主ではなかったからだ。アルガサァナは、地主としての充分な働きを見せた。それに何よりも、百姓や漁師たちから好かれている。いったい、この辺りに住む者のなかに彼の命令を聞かない者がいるのだろうか。
表情は変えずに、ダイは曲刀を振り上げた。
刃の先に引っかけられ、警護人の一人が目をやられた。もう一人は、喉笛だ。ひゅっ、という微かな高い音がして、そのまま男は地面へと沈んでいった。
「死にたい奴は前へ出ろ。さもなければ、さっさと散れ!」
ダイが一喝すると共に、男たちは蜘蛛の子を散らすように方々へと逃げて行った。
警護人の姿が完全にその場から消え去った。ダイは大きく溜め息をつくと、奥の中庭を目指して歩き出していた。
奥には、囚われの身のティオがいる。
歩きながらダイは、自分が馬鹿なことをしているとぼんやりと思った。生活を保証してくれる地主に刃向かう人間なぞ、自分ぐらいのものではないか。それとも、皆、こうなのだろうか。
足を進めながらダイは考え続けた。
中庭の木々のあいだから、白い陽の光が洩れ落ちる。何も知らないで。小さな森を通り抜けると、そこに小さな開けた空間があった。
そして、その向こうには──
「ダイ!」
フラグの声がする。
名も知らぬ赤毛の娘がこちらへちらりと視線を馳せ、真摯な眼差しで訴えた。手を貸してくれ、と。
「サルトよ」
アルガサァナが、冷たい口調で藍色の髪の青年に言い放った。
「幾ら人間の手が増えたとて、わたしに適うはずもない。お前の力がいかほどのものなのか、今、ここで証明してみせたらどうなのだ? それとも、大勢の観客の前ではきまりが悪いとでも?」
──サルト?
眉を寄せ、ダイは青年を見た。
サルトという名を、耳にしたことがある。しかしそれは、人間の名ではなかった。サルトとは、人間ではないもの──妖魔──の、名前だった。それでは、この、ダイの目の前に立つ青年は妖魔なのか。
……もしかしたらそうかもしれない。
だが、彼に悪意のないこともまた確かだった。彼は、わざわざダイに知らせてくれたのだ。彼がフラグの小屋に身を寄せているということ。フラグの姉を捜すことを約束したということを。さらにこの青年はティオの居場所を突き止め、屋敷に忍び込むという計画をも知らせてくれた。自分たち──青年と、彼の連れの女、そしてもちろんフラグのことだ──三人では、とてもではないがティオを助け出すことはできない。アルガサァナの屋敷まできてくれと、ダイは頼まれていたのだ。
ティオとフラグを庇いながら、赤毛の娘がじりじりとダイのほうへと退いてゆく。
「妖魔王はお前を捜しておられる。この手でお前を捕まえて、直々に妖魔王の御前に突き出してやってもいいのだが……それでは、わたしの気が済まない。この場でお前を、二度と妖魔王に刃向かうことのできないようにしてやろう」
うっすらとアルガサァナは口許を歪めた。
「ホーランド、こっちは気にするな」
言った刹那、ヴァレンシアの身体が見えない力に弾き飛ばされた。
「ヴァレンシア!」
フラグが心配そうに駆け寄る。
「逃げろ、ヴァイ」
ホーランドが叫んだ。それからホーランドは、ちらりとダイのほうに視線を巡らせる。
「頼んだぞ」
ホーランドのその言葉を耳にするや、ダイは三人を連れてもと来た道を戻り始めていた。
「しっかりついてこい」
言葉をかけつつ、警護人と鉢合わせをしないように、極力気を付けて中庭を行く。ダイの後にフラグ、次いでティオ、しんがりにヴァレンシアが立っていた。
「ねえ、ホーランド一人で大丈夫なの」
少し行ったところでフラグが、ぽつりと尋ねかける。
「心配するほどのことでもないだろう」
ヴァレンシアが低い声で応えた。
「妖魔の扱いなら大抵の者より慣れているからな」
しかし、そう言っているヴァレンシアのほうも、かなりの剣の使い手のように思われる。さすが騎士だ。
あと少しのところに正面門が見えてくる。
いっそう警戒心を強めながらダイは進んだ。人影も気配もなく、入ってきたときよりも鋭い緊張感が漂っている。
一瞬、フラグにも張り詰めた空気のようなものが感じられたが、気のせいではなかった。
警護人たちが不意を突いて繁から飛び出してきた。
「このまま逃がしてなるものか」
一人の男が豪胆に叫んだ。四人の侵入者たちはあっというまに武装した警護人たちに取り囲まれていた。一分の隙もないほどだ。
「できるものならやってみせてほしいものだな」
立ち止まり、ヴァレンシアが笑った。
黒い瞳を心持ち細めて、艶やかに。
一瞬たじろいだものの、警護人たちは気を取り直して四人を睨み付ける。ダイとヴァレンシアの二人からは特に視線を外さないようにして、彼らはじりじりと距離を詰めてきた。
ダイは、手にした曲刀を構え直す。
久し振りの感触に、自然と腕の筋肉が強張ってくる。
「今度は手加減なしだぜ」
トパーズの瞳が、かっ、と見開かれた。
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