迷い──救いの森

      ≪1≫


 <商の都レスティア>を後にした二人の旅人は、さらに南へと向けて馬を走らせた。

 一人は、ヴァレンシア。赤褐色の髪と黒耀石の瞳を持つ<神聖王国ホーランド>の美しい女騎士。

 今一人は、ホーランド。藍色の髪と金色の瞳の、妖魔。

 二人は、<神聖王国ホーランド>のはるか南、<商の都レスティア>のその向こうに広がる大樹海を目指して旅を続けていた。南の果てには旅の終わりが待っているはずだった。樹海の森で運良く妖魔を捜し出すことが出来たならば、ヴァレンシアは、行方知れずになった<神聖王国ホーランド>のディルディアード第三王子に会うことが叶うかもしれないと、そんな風に思っていた。

 第三王子の手がかりを掴むことが、彼女の旅の終わり。

 同時にそれは、ホーランドの旅の終わりでもあった。

 樹海へ向かうことを反対していたホーランドは結局、ヴァレンシアと道行きを共にすることにしたようだった。だからといって、彼がヴァレンシアの樹海行きに賛成したわけではない。ホーランドはいまだに反対をしていたが、とりあえずは、彼女と共に行くことを選んだのだ。

 <商の都レスティア>を抜け、二人は樹海へと続く田園地帯を何日もかけて進んだ。

 のどかな午後の風に、木々の葉が揺れている。

 畑を耕す百姓たちの物珍しげな好奇の目を一身に受けて、旅人たちは馬を進める。

 樹海へと向かう物好きな旅人は、ごく希にしかいない。人々は目配せを交わし、こそこそと囁き合いながら二人を無言で見送った。樹海へ踏み込む勇気のある者たちのほとんどは、木々の墓場と呼ばれる秘境のどこかに隠されている財宝が目当てだった。そういう者たちは概して、人々が何を言おうとも耳を貸さなかった。今回もおそらくそうなのだろうと、百姓たちは何も言わずに二人の後ろ姿をただ、見送っただけだった。

 民家が次第にまばらになっていき、あたりに木々が生い茂るあぜ道を道なりに進んだ先、地元の人々が樹海の入り口と呼ぶ森の手前に辿り着いた二人は、すぐ手前に見える小屋に一夜の宿を求めた。

 小屋の主は年老いた農夫だった。腰は酷く曲がっており、長い年月の間に足を傷めたのか、片足を引き摺りながら二人を出迎えてくれた。

 人のよさそうな笑みを笑みを浮かべ、老人は二人の旅人を小屋の中へと招き入れた。

「お前さん方も樹海へ行きなさるのかね、もし」

 久しぶりに人と言葉を交わせると喜んだ老人が二人に出した夕食は、お世辞にも豪華なものだとは言えないものだった。ぱさぱさとして固いだけのパンに、どう見てもただのお湯にしか見えないさらさらのスープ。臭いのする筋だらけの干し肉。あまりあからさまに嫌な顔も出来ず、ヴァレンシアは心持ち口を付けただけでさっさと食事を切り上げる。老人が心から二人を持て成そうとしていることはよく分かったが、この肉の癖のある臭いだけはどうしても耐えられそうになかった。

「……お止めなされ」

 恐ろしそうに老人は呟いた。

「お止めなされ、樹海などへ行くのは」

 酸味のきつい葡萄酒にちびちびと口を付けていたホーランドが、ちらりと老人を見遣る。

「何か、あるのですか」

 とは、ヴァレンシア。柔らかな口調ではあったが、確かにその声色は詰問調だった。

 老人はうわ言のようにぶつぶつと何事かを呟いている。

 それから不意に顔を上げ、はっきりと言ったのだ。

「妖魔じゃよ」

 老人の声は掠れていた。恐ろしさのためか、それとも、この重苦しい雰囲気のせいなのか、ヴァレンシアには分からなかった。

「……樹海に妖魔が逃げ込んだのですか?」

 赤毛の娘が尋ねると、老人は無言で頷いて肯定した。

「それもある。じゃが、何よりもあそこには……樹海には、昔っから妖魔が巣食っとるんじゃ。悪いことは言わん。お止めなされ、樹海へ行くのは」

 うっかり森の奥へ迷い込んだだけで、妖魔に襲われた者もいる。命からがら逃げ出すことが出来れば、それだけでも幸運というものじゃ。そう、老人は言い足した。

「それに、樹海の向こうには妖魔の城がある。いいかの、命が惜しけりゃ樹海へ行こうなどとは思わんこった」

 老人は、それ以上は何も語ろうとしなかった。先に食事を終えたホーランドが気を利かせ、今日はもう遅いからと言ってまだ話を聞きたそうにしているヴァレンシアをなだめすかして寝室へと追い立てたのだ。

「──いったい、どういうつもりだ」

 扉を背に、ヴァレンシアは目の前の青年に食ってかかった。

 青年は穏やかな金の瞳で赤毛の娘を見つめ返した。

「何が」

 ホーランドの静かな低い声で、彼女が手にした燭台の炎がちらちらと揺れた。

「何が、じゃないだろう。何故、そんなに樹海行きを嫌がる。何故、樹海の話となると避けようとする。今もそうなのだろう、ホーランド? 樹海の話から逃れるようにして……いや、まるで、私に樹海の話を聞かせまいとしているようにしか思えないぞ、お前の行動は」

 黒く艶やかな眼差しが青年を鋭く睨み付ける。

「そうか?」

 どこか楽し気に目を細め、ホーランド。

「笑うな!  私は真剣にっ……」

 ヴァレンシアが怒鳴りかけた途端、ホーランドの大きな手が伸びてきた。強い力でぎゅっと腕を掴まれ、ヴァレンシアは身体をびくりと震わせた。

 睨み付けることでヴァレンシアは、無言のまま彼を拒否した。

 しばらくの間、沈黙が続き……やがて、ホーランドが小さな溜め息と共に口を開く。

「──樹海には、行かせたくない」

 そう言うと彼は、くるりと踵を返した。

 ──何故?

 樹海の向こうに、妖魔の城があるからだろうか。

 そこに行けば、ディルディアード第三王子に会うことが出来るのだろうか。

 ヴァレンシアは部屋の中から静かに扉を閉めると、ホーランドに捕まれた腕に手をやった。その部分だけが熱を持っているかのようにじわりと熱い。

 ベッドのほうへと一、二歩足を踏み出したが、ヴァレンシアはそのままよろよろと壁にもたれかかってしまった。

 頭の中では、ホーランドの言葉がぐるぐると回っていた。



      ≪2≫


 <神聖王国ホーランド>の城の一室でその青年は眠り続けていた。

 うっすらと汗ばんだ額に、焦茶の短い髪が張り付いている。

 部屋の中はしんと静まり返っており、青年が時折、苦しそうに呻き声を上げる他は物音一つしない。

 ケットから覗いている裸の肌に巻きつけられた白い包帯。日焼けした肌に巻かれた清潔な包帯は、見る者の目には痛々しく映った。

 一人の娘が青年の眠る部屋へと足早にやってきた。

 黒髪のその娘は、城のどこででも見かけられる格好をした侍女の一人だった。

 彼女は人目を避けるようにして部屋の中へと密やかに滑り込むと、音を立てないようにと細心の注意を払って扉を閉めた。

 そこかしこにあどけなさを残した面持ちの少女は、祈るような眼差しで青年の顔を覗き込む。

「トラガード第一王子様、早く……一日も早く、お目覚めになってください」

 少女の澄んだ声は、静かな部屋にこだました。

「トラガード様がお目覚めになられたら、きっと、カスケード様も改心なさるはずです。第二王子様は、あまりいい王様とは言えません。トラガード様がお目覚めになられて王様になってくださったら、そうしたら皆も安心できます……」

 寝台に横たわる青年は、<神聖王国ホーランド>第一王子トラガードだった。彼は、弟であるカスケード第二王子から受けた傷のせいで未だ昏睡状態にある。

 カスケード第二王子は、さすがに兄を殺してしまうつもりはなかったらしく、城に連れ帰り、こうして手当てまでさせていた。だが、その後、兄を見舞ったことは一度たりとてない。城内では、カスケードがシラという名の金髪の女に入れ込んでおり、兄のことを思い出す暇もないようだと、もっぱらの噂になっている。

「また、来ます。早く良くなって下さい、トラガード様」

 少女はトラガード第一王子の額に浮かびあがった汗粒をそっと拭き取ると、張り付いた焦茶の髪を優しく払い取ってやった。それから、一歩下がって改めて第一王子の顔を見つめ、くるりと背を向けた。ゆっくりと扉のほうへと歩み寄り、手をかける。扉を開けようとする──その瞬間、扉は外から開けられた。びくりと身体を震わせ、彼女は後退る。扉の向こう側に立っていた女の視線から逃れるようにして、少女は身を引いた。

「またお前なの」

 むっ、とした様子の女の声はしかし、思っていたほどに冷たくはなかった。

「……カスケード第二王子様の寵姫様が、トラガード第一王子様に何の御用なのでしょうか」

 震える声で、少女は尋ねかけた。

「お前には関係のないことよ。それよりも、お前こそ侍女ならば、他でもっとやることがあるんじゃなくて? それとも、床に這いつくばって御主人様からの命令を待つことしかできないのかしら?」

 女は、シラだった。

 鮮やかな金髪を波打たせた、カスケード第二王子の愛人──そして、ディルディアード第三王子を拉致した妖魔サルトの部下でもある、妖魔女。

 もっとも、誰も彼女のことを妖魔だとは知らずにいたが。

「──さっさとお行き」

 鼻白んでシラは冷たく言い放った。

 少女は僅かに彼女を睨み上げ、さっと扉の向こう側へ姿を消した。扉が閉まり、廊下を駆けて行く足音が次第にシラの耳から遠ざかってゆく。完全に足音が聞こえなくなるまで待って、シラは、トラガードの傍らへと歩み寄った。

「トラガード王子……」

 白く細い手を差し伸べ、肉の落ちた青年の頬に触れる。

 この男を幾度、殺したいと思ったことか。

 カスケード第二王子の強すぎる想いに促されるまま、トラガード第一王子を殺すために何度もこの部屋に忍び込んだ。だが、そのたびに彼女はトラガードを殺すことが出来ないでいた。初めは、意識のない者を殺しても面白味に欠けるだろうという妖魔らしい考えから。そして今は…──今は、違う。

 軽く目を閉じ、シラは意識を指先に集中させる。

「……どうか、この者に生命の源を与え給え」

 祈りの言葉を口の中で唱えると、妖魔女の指先は白い光に包まれた。

 シラは、自分の力をトラガード第一王子に分け与えることで、彼の生命を救おうとしていた。初めの頃ならば、そのようなことは微塵も思わなかったはずだ。しかし、考えが変わったわけではない。この青年さえいなければ、カスケード第二王子の王としての地位は確固たるものになる。器だけの王ならば、それでも構わない。だがカスケードは、器だけの飾りの冠を頭に載せて、それで満足するような男ではなかった。他の兄弟に比べれば少し短気かもしれなかったが、それは精神的に安らいだ時間をあまり持たなかったからそうなってしまっただけで、彼が悪いというわけではない。

 悪いのは、彼を育てた環境。母親。何も気付かなかった人々。

 ──カスケード様は何も悪くはないわ。

 それならば何故、シラはトラガードの命を救おうとするのだろう。このままトラガードが目覚めなければ、カスケードが王になる。器だけの王ではなく、本物の王となることが出来るように、カスケードを導いてやればいいのだ。

 しかしシラはそうするつもりはなかった。

 もしかしたらこれは、彼女の心の奥底に眠る良心だったのかもしれない。それとも、本能的な保護能力だろうか。どちらにしても、彼女は今、トラガードの意識が回復することを強く願っていた。第一王子の死を願っていた時間は、遠く過ぎ去ってしまったのだ。

 ──一日も早く目覚めなさい、トラガード第一王子。カスケード様では無理なの。あの人には……カスケード様には、人の心を掴む術が分からないの。このままあの人が王になったとしても、辛い思いをするだけ。だけど私には、あの人を止めるだけの力がありません。早く目覚めなさい、トラガード王子。私のために。そして……あの人の、ために。

 緩やかに頬に降りかかる黄金の髪を振り払い、シラは寝台に眠る青年を凝視した。

 少しは良くなっているのだろうか。

 トラガードに自分の力を与えた後には必ず、虚脱感に包まれた。だが、トラガードが確実に彼女の力を受け止めているのかどうかまでは、判らなかった。傷はほとんど塞がっておらず、第一王子の意識は未だ夢うつつのままの状態にある。

 本当に第一王子は、生きる気があるのだろうか。

 重々しく息を吐き出すとシラは部屋を後にした。

 諦めたわけではない。

 ──諦めたわけでは……



      ≪3≫


 ふと気が付くと、シラが彼をじっと見つめていた。

「どうかしたのか、シラ」

 尋ねかけたカスケード第二王子は、口許に傲慢な笑みを浮かべる。

「いいえ。何でもございません」

 伏し目がちに応えて、シラは青年の傍らに寄り添う。青みがかった濃い緑色のドレスを身に纏った娘は、鮮やかな金色の髪を波打たせていた。

 近頃のカスケードは、どこか様子がおかしい。

 シラの姿が少しでも見えないと、彼女のことが気になって気になって仕方がないようだ。彼女がカスケードの目の届く範囲にいる間はいいのだが、少しでもその姿が見えなくなると、所構わず周囲の人間に当たり散らす。まるで、母親の気を引こうとしてわざと悪さをする幼い子供のようだ。母親の愛情をすべて自分に向けさせようとする幼子のそれと、カスケードの行動はどことなく似ていないでもない。

「──私のいない間に、大臣たちに無理をおっしゃったそうですね、カスケード様」

 カスケードがどうしようが、大臣たちが困ろうが、そんなことはシラにとってどうでもいいことだった。それが、いったいどうしてしまったのだろう。シラは、自分が何故、こんなにもカスケードのことが心配なのか分からなくなっていた。カスケードを気遣うことなど、彼女の『役割』にはない。妖魔サルトの命令は、カスケード第二王子に王位を与えること。万が一、王子を邪魔する者が現れたならば、その者たちを抹殺してでもカスケード王子の地位を守る──それが、シラに与えられた『役割』だった。その中に、彼の王位の安泰を守らなければならないなどという事柄はなかった。とりあえず、カスケードに王位を与えておく。それが彼女──妖魔女であるシラ──に与えられた『役割』だった。

 それなのに何故、命令とは別のことに目を向けてしまうのだろう。

「シラ、お前が心配することではないだろう。大臣たちがどうしようが、お前は黙ってそれを見ていればいいのだ。この<神聖王国ホーランド>国王代理の未来の妻が、何をそんなに心配することがあるのだ」

 まるで子供のようにそう言うと、カスケードは軽薄そうな笑みをふっと浮かべた。

 ──可哀想なカスケード様。

「はい」

 静かに答えるとシラは目を伏せる。

 ──貴方を必要としてくれる人は、どこにもいなかったのでしょうか。本当に、どこにも? いいえ、今、ここにいるわ。カスケード様、シラが御側に居ります。カスケード様を必要として、一生、御側に居る覚悟です。ですから……ああ、こんなことを思ってはいけないというのに。どうしてしまったのかしら、私は。サルト様の御命令が私には一番なのに。私には、しなければならないことがあるというのに。カスケード様に御仕えすることは私の『役割』だけれども、それ以上は、違う。それなのに私は、カスケード様をお助けしたいと思っている。……これは、いったいどういうことなの?

 カスケードの王位継承者としての地位を守ることは彼のためにはならないということを、シラは知ってしまった。

 最初の予定では、カスケードを王位に就けたままにしておくことが彼女に与えられた使命だった。だが今は、どうやらシラの気持ちが変化しつつあった。

 今は、カスケードに王でいてほしくないと、そんな風にシラは思っていた。

 王位は兄のトラガード第一王子に返上し、王弟として家臣の一人になってほしいと、シラは願っていた。

 カスケードは王の器ではない──先にそう言ったのは、サルトだった。カスケードと出会い、彼の側で仕えるようになって、そこでシラも気付いた。カスケード第二王子に王としての器量はないということを。第二王子には、王としての本質的なものが──それが精神的なものか、それとも天性のものかは、彼女にも判らなかったが……とにかく、そういった基本的なエッセンスが──欠如しているのだ。それはおそらく、彼の幼少の頃の成長に関わることなのだろうが。

 それにしても、シラがこれほどまでにカスケード第二王子の肩を持とうとするのはやはり、彼の優しさを知っているからだろう。

 知らなければ、こんなにも彼のことを気にかけることもなかったはずだ。

 シラは視線を落とし、自らの指先にしばし見入った。

 妖魔女の中でも年若いほうの部類に入るシラには、過去を共有する仲間がほとんどいなかった。そこに目をつけたサルトは、何かにつけて彼女を自らの側に置きたがった。外の世界に対する知識の少ない者は、知識をより多く持つ者に対して幾何かの憧憬を抱く。シラも、サルトの知識に憧れた。サルト自身が、そうなるように仕向けた部分もある。それに気付かずシラは、サルトの部下として<神聖王国ホーランド>に潜入した。第二王子カスケードをたぶらかすように、と。

 だが、サルトですら考えていなかったことが起こってしまった。シラが……サルトの部下である金髪の妖魔女が、カスケード第二王子に関心を抱いたのだ。

 決して有り得ないというわけではなかった。

 古の時代より、妖魔が人に、或いは人が妖魔に、同胞に対して抱くのと同じ感情を持つことも少なからずあった。何よりも、妖魔王自身がかつて、この<神聖王国ホーランド>の美姫に想いを寄せたことがある。その時に妖魔王から人の子に贈られたのが、この国を護る四つの結界石だと、妖魔たちの間では言われている。だが、それならば何故、妖魔王はサルトを罰しない。結界が破られたことで、<神聖王国ホーランド>には幾百幾千もの妖魔たちが押し寄せてきている。何故、妖魔たちを罰しない。何故、<神聖王国ホーランド>を守ろうとしない。妖魔王は、忘れてしまったのだろうか。

 一方でサルトの命令通り<神聖王国ホーランド>に潜入したシラは、命令を忘れたわけではなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、カスケード第二王子が気にかかるのだ。

「──お慕い申しております、カスケード様」

 <神聖王国ホーランド>に首尾よく潜り込んだシラは、その夜臆面もなくカスケードにそう告げた。

「お慕いしております」

 初めは、ただの言葉遊びだった。

 サルトに命じられたようにカスケード王子を篭絡するため、心のない言葉を連ね続ける。カスケードが彼女を無視しても、返事をしなくても、構わなかった。そのうちに、妖魔の力で彼の心はシラに向かうはずだった。

 妖魔には生まれつき、人を魅了する力が備わっている。ある意味でそれは、彼らが妖魔であることを示すものの一つにもなった。表情に感情が出難い妖魔たちだったが、感情の起伏は人間以上に激しかった。ひとたび思い込むや、自分がこうと思った道をひた進みに駆け抜ける。シラの場合は、思い込みが高じて虚実の別がつかなくなり、いつしか心からその言葉を口にするようになったというわけだ。

 幾度も繰り返された言葉。

「心より、貴方様をお慕いしております」

 くすんだ紫色のドレスを身に纏った妖魔女は、第二王子の私室に入るなり、そう言った。

「何故?」

 ふん、と鼻を鳴らし、カスケード第二王子は金髪の娘を見遣る。

「何故、お前は俺の側にいる?」

 冷たい声音は、明らかに気分を害している様子だった。

「俺を……この俺を、慕っている、だと? 何故、俺なのだ。俺の何が欲しいのだ。欲しいものがあるのなら何なりと言うがいい。お前は、俺に国王代理という地位を与えてくれた。宝石なり土地なり、言うがいい。お前の望むままに褒美をとらすぞ」

「──…何も欲しくはありません」

 カスケードの言葉に、シラは目を伏せて答える。

「私は、貴方様の御側に仕えさせていただきとうございます。それだけです」

「何故だ」

 すかさずカスケードは言葉を投げかけた。カスケードにしてみれば、彼女が何故、こうまでして自分の側にいたがるのかが理解出来ないのだ。幼い頃より独りで過ごす時間のほうが多かった彼には、特定の人間に長時間付き纏われることはほとんどなかった。かといって、彼女が側にいることが煩わしいというわけでもないのだ。ただ、戸惑っているだけだ。そして少しばかりの、懐疑──もしかしたらシラが欲しいのは、俺の持つ<神聖王国ホーランド>の財宝ではないのか?

「……心配なだけです」

 小さな声でシラが告げた瞬間、カスケードは嘲りの色も露に笑い飛ばした。

「はんっ、心配? おかしな女だ。お前だけだ、俺の心配などをするのは。だが、騙されるものか。正直に言ってみろ。何が欲しいのだ。ん?」

 白く柔らかなシラの顎に手をやり、カスケードは彼女の緑色のつぶらな瞳を覗き込んだ。と、その刹那、頬に鋭い痛みが飛んだ。

「失礼な!」

 小気味良い音が部屋に響く。

「保身のために他人の心配をするなど……」

 言葉尻を濁して、シラは部屋を飛び出して行った。エメラルドの双眼には、うっすらと透明な液体が滲んでいた。

「確かに……保身のために主人をひっぱたく馬鹿はいないな…──」

 カスケード第二王子は呟いて、娘が飛び出して行った扉の向こうをいつになく柔らかな眼差しで見つめていた。



      ≪4≫


 ──カスケード様はちっとも分かっていらっしゃらない。

 両の拳を握り締め、シラは涙を堪える。

 彼女は、第二王子を愛していた。いや、愛し始めていた。

 まるで子供のようなカスケード。誰かに構ってもらいたくて、しかし、他人に甘えるにはあまりにも彼のプライドは高すぎた。

 行き場のない自分を持て余して、それでいて、帰り着くための安全で確かな避難場所を探している迷子の子供のようだった。それは、シラにも共通していた。彼女も、仲間の間を彷徨い、自分に近い者を求めてやまなかったのだから。与えられなかったものを求めて、互いが寄り添って与え合う。決してそのことを悲観するわけではなく、むしろいいほうに捕らえることで、何かが変わってくるのではないだろうか。

 例えば、シラ。

 彼女は、自分にとって大切なものは、カスケード第二王子だと悟った。サルトではなく。自らが選び、側にいたいと思った初めての人。カスケードがいなければ、自分はどうなってしまうだろうか──考えたくもないことだ。彼女は、許される限りずっとカスケード第二王子の側にいるつもりだった。

 そう、出来ることならばいつまでも。

 何故なら、カスケード王子もまた、シラに側にいて欲しいと願っていたから。

 サルトはしかし、それをよしとしなかった。

『馬鹿なことを考えるな、シラ』

 不意に、シラの頭の中に優しいテノールの声が響いた。

 サルトの声はいつになく優しい声色をしている。

『用のない人間をいつまでも生かしておくわけにはいかん』

 ──そんな……。

「そんなことは伺っておりません!」

『聞き分けのないことを。当然だろう。人間など、将棋の駒の一つにも劣るわ。そんなものをいつまでも生かしておいてどうするのだ』

 言葉の中に秘めた、隠された意味。

 サルトは、暗にカスケードを殺せと言っていた。言葉の意味の一つ一つに、それが込められている。

「そ、んな……」

 ──私には……私にはできません、サルト様。

 カスケードを殺すことなど、彼女には考えられないことだった。

 と同時に、サルトを裏切ることも、また……

 いつかはこの二つのうちのどちらかを選ばなければならない時が来るだろうとは思っていたが、こんなにも早く訪れることになろうとは。

 どちらを選ぶか、早急に選ばなくてはならない。

 いつまでたってもカスケードを殺さないシラに業を煮やしたサルトが、刺客を送り込んでくるのも時間の問題。カスケードを殺したくはなかったが、自分以外の者にカスケードが殺されるのはもっと許せなかった。

 ──確か……そう、サルト様に仇なす者が、南へ向けて旅立ったはずだわ。

 小さく呟いて、シラは思った。サルトの注意をそちらへ向ければいいではないか、と。

 南へ旅立った者──確か、第三王子の恋人ヴァレンシアと、藍色の髪の妖魔だったはずだ──のほうに注意が向いている間は、サルトもカスケードを殺せなどとは言わないだろう。

 それとも、全面的に彼ら二人に信頼を寄せ、助けてやるべきか。

 どちらにしても、二人の居場所を突き止めるのが先だった。

 だいたいの方向は分かっている。

 そろそろ<商の都レスティア>の南に広がる大樹海に足を踏み入れた頃だろうか。あの辺りには、サルトの配下の妖魔たちが潜んでいるはずだ。それに、妖魔王の配下の者たちもいる。この辺りでは最も妖魔の数が多い、危険な場所と言っても過言ではない。

 ──行かなければ。カスケード様のために。

 行かなければ。

 その想いだけで、シラは夜空を駆った。人間の足ならば何日もかかる道程を、シラはほとんど一瞬にして駆け抜けたのだ。

 目を開けるとそこは、樹海の只中。闇の中に、黒く鮮やかな木の葉が揺れる。

 樹海のそこかしこに妖魔の臭いが満ち満ちており、二人の旅人たちはその時、妖魔の襲撃に遭っていた。

「くそっ……きりがないな」

 苛々とした男の声が、シラの潜んだ闇の中へと流れてくる。

 旅人──ヴァレンシアと妖魔の青年……ホーランドの二人だ。二人は、襲いかかる妖魔からの襲撃を何とか退けようと必死になっていた。

 シラは二人の背後にそびえたつ大木の枝に移動した。

「──お退きなさい」

 突然、シラは妖魔たちに警告を発した。妖魔たちは下級妖魔。サルトの気に入りだったシラには、下級妖魔など恐るるに足りない。下級妖魔たちはわらわらと闇の奥へと逃げ出し、後には、二人の旅人が残されたのみだった。

「お前…──」

 剣を手にした赤毛の娘が、鋭い眼差しでシラを睨み付ける。

 シラは、妖魔本来の姿に戻っていた。白い額に埋め込まれた石は、ガラスのように透き通る翡翠──これは、彼女の生命を司る心臓部ともいえるものでもあった。大樹の枝に佇む妖魔女は、夜目にひどく美しく映った。

 生臭い、湿った風が狂ったように三人の間を吹き抜けていく。

「森はサルトの王国も同然。……海からお行き、ホーランド」

 妖魔女の声が、暗い闇の中に響き渡った。



      ≪5≫


「どうして妖魔の一味が……」

 ヴァレンシアには解らなかった。

 何故、自分の目の前に妖魔がいるのか。

 この妖魔は、今までに彼女たちが戦ってきたものとは別種のものだ。ヴァレンシアたちに危害を加えるつもりはないようだが、信用するには危険すぎた。

 それに……どこかで見たことがあるような気がするのは、単なる気のせいだろうか。

「何故……ホーランドの名を知っている。何故、お前は私たちの行き先を知っているのだ」

 剣の柄を握り締め、ヴァレンシアは尋ねた。

 これまで二人の前に現れた妖魔たちは皆、ホーランドのことを『サルト』と呼んだ。この、藍色の髪の連れのことを『ホーランド』と呼ぶのは、ヴァレンシアただ一人だけだったのだ。

 闇を背に、妖魔女は二人の旅人を見下ろす。黒く艶やかなドレスが、彼女の白い肌をくっきりと浮かび上がらせる。黄金の髪が波打ち、闇の中でふわふわと揺らめく。

 ──そう、だ。思い出したぞ。カスケード様のところにいたあの女、妖魔だったのか……!

「ディルディアード様を窮地に陥れた者が、今さら何を言っているのだ」

 ──次は、私たちの番か?

 ぼんやりと考えながら、赤毛の娘は相手に隙が出来る瞬間を伺っている。

 が、剣を鞘から引き抜こうとしたところをホーランドに押し止められ、ヴァレンシアは不満そうな表情を露にした。

「──君は、何と言う名だ」

 ヴァレンシアが感情に押し流されて飛び出して行かないように肩にしっかりと手を置いたホーランドが、静かに尋ねた。

「……シラ」

 妖魔女は答えた。

「そしてこれよりは、お前たちの味方」

「馬鹿を言うな! 妖魔の言うことなど信じられるものか」

 ヴァレンシアが言葉を荒げた。ホーランドの手の下で、彼女の身体は怒りに打ち震えていた。

「私はお前を見たことがあるぞ。城の、謁見室で…──大方、第二王子の差し金で私たちを捕らえにでも来たのだろう。それとも、殺しに来たのか、私たちを」

 ヴァレンシアの黒い双眼はいつになく剣呑で、鋭い。

「違う!  私は……いえ、第二王子は、そのようなことは私には一言も……」

 ヴァレンシアの厳しい言葉に、シラはおろおろとした。そして可哀想なほどに怯えてもいた。

「それじゃあ、どうして俺たちの前に?」

 ホーランドは、優しく尋ねかけた。

「サルトは……あなたたちを始末するよりも先に、第二王子を殺すつもりなのです」

 シラの言葉に、ヴァレンシアはすん、と鼻を鳴らした。先程のホーランドの口調が気に入らなかったのか、ヴァレンシアは眉を寄せ、不機嫌そうにしている。

「私は、第二王子を助けたい。あの方に生きていて欲しいのです」

 しかし、それこそヴァレンシアにとってはどうでもいいことだった。カスケード第二王子が死のうがどうしようが、彼女には大して関係のないことだった。それに、第二王子には散々苦しめられている。別に彼が死んだところで、どうということもない。むしろせいせいするのではないだろうか。

「私たちには関係のないことだ」

 きっぱりと言い放つと、ヴァレンシアは顔を背ける。

「それほどまでに助けたいと思うのならば、直接、カスケード様にそのことを話せばいい。私にとって第二王子は、敵だ。カスケード様のために我々がどれほど…──」

 ──そうだ……。

 ヴァレンシアは、最後まで言葉を続けられなかった。第二王子のせいで第三王子はどうなったか。思い出しただけでも目頭が熱くなり、口唇が震えた。

 王位継承権を剥奪され、国を追われ、さらには命までも狙われているディルディアード第三王子。彼は……彼こそ、何も悪くはないのに。王位などには興味のない人だった。優しくて、穏やかで、まるで王子らしくなく、それでいて民人の心を易々とその手に入れることのできる、生まれながらの王たるべき人。そのディルディアードの命を奪おうとする男のことなど、ヴァレンシアにしてみればどうでもよかった。

「……出来ません。第二王子は……カスケード様は、妖魔の言うことになど耳を貸そうとはしないでしょう」

 シラは哀しそうに首を横に振った。

「第二王子が、ディルディアード様に何をしたと思っている?」

 尚もヴァレンシアは辛辣な言葉を投げつけ、黒い瞳をかっと見開く。

「カスケード様はっ…──」

 言いかけた妖魔女の瞳は、涙に潤んでいた。今にも泣き出してしまいそうな、か弱くて幼い表情。唇をぎゅっと噛み締め、彼女はヴァレンシアを睨み返す。

 しかし、言葉が出てこない。

 口を開けば泣き出すのではないかと思われた。事実、次の瞬間にはシラの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちてくる。

「もういいだろう、ヴァレンシア」

 ホーランドはそう言って、更に何か言いたそうにしているヴァレンシアを制す。

「シラ、分かった。海だね」

「ホーランド、お前……!」

 ヴァレンシアが何か言いかけたのを慌てて遮ると、ホーランドは言った。

「<海の都ネプト>へ向かおう」

「何故だ!」

 憤慨したヴァレンシアは、勢いよく肩に置かれたままになっていたホーランドの手を振り払った。

「やっとここまで来たのだぞ、ホーランド? この森を抜ければ妖魔の城だ。今さらどうして…──?」

「いいから、ヴァレンシア」

 ホーランドがなだめすかそうとしたが、逆効果だった。気に障ったのか、ヴァレンシアはぷい、と横を向き、黙り込んでしまった。

「──俺たちは、君の言葉を信じる。カスケードを助けてやってくれ、シラ」

 藍色の髪の妖魔は静かにそう告げた。

 ホーランドの言葉に小さく頷いたシラは、嬉しそうに微笑んで──消えた。

 おそらく、<神聖王国ホーランド>へ……カスケードの元へと、戻ったのだろう。

 それからホーランドはヴァレンシアのほうへと向き直ると、手を差し伸べた。

「行こう、ヴァイ」

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