<商の都(レスティア)>

      ≪1≫


 <商の都レスティア>の門を潜ったところで、ヴァレンシアは立ち止まった。

 フードの下の赤い髪が微かに揺れる。

 伏し目がちの黒い眼が、無言で振り返った藍色の髪の青年を見つめていた。

「これから、どうする……?」

「どうする、って…──今夜の寝床を確保することが先決だろうな、やっぱり」

 尋ねかけたヴァレンシアに、ホーランドは深刻そうな表情を向ける。

 それから、ふと気付いたように明るい声で、こう言い足した。

「とりあえず……今のところはまだ、旅の仲間だし?」

 ホーランドが黄金色の眼をすっと細めると、夕日が反射して炎のように見えた。

「馬鹿者! 誰が、いつ、仲間などと言った」

 すかさず罵声を張り上げるヴァレンシア。

 この妙な男とは、ここでお別れだ──ふっと浮かんだ感傷的な思いも、今しがた彼が余計なことを口にした刹那、どこかへ吹き飛んでしまった。こんな男とは、一日も早く別れてしまうに限る。それが一番。いつまでもこんなお荷物と一緒だと、こちらの調子が狂ってしまう。

 このままでは、ホーランドのペースにはまってしまいそうだ……

「まあまあ」

 と、何故か嬉しそうな顔つきでホーランドが宥める。

「変な奴っ」

 苛々と呟いたヴァレンシアは、すたすたと歩き出した。

 ここでホーランドと別れようがどうしようが、宿屋の手配だけはしておかなければ。せっかく<商の都レスティア>に到着したのだから、今夜ぐらいはゆっくりと休みたいものだ。何しろ、ここにくるまでの間、ほぼ毎晩といっていいほど、妖魔の襲撃から逃れるために神経をすり減らし続けてきたのだから。

 追われることの辛さがどれほどのものかを知ってしまったヴァレンシアには、ホーランドに心から冷たくすることが出来なかった。ヴァレンシアは<神聖王国ホーランド>のカスケード第二王子の私軍に追われる身。ホーランドは、妖魔王に。二人ともそれぞれ別のものに追われていたが、同じ状況下に置かれていることに違いはなかった。すなわち、逃げる者であるということだ。彼を哀れんでいるわけではない。ましてや自分を哀れなどと思ったことも、これまでに一度だって、ない。

「ヴァイ、急がないと部屋が取れなくなるぞ」

 一人黙していると、ホーランドが怪訝そうに顔を覗き込んできた。

「わかっている」

 彼を睨み付けた赤毛の娘は馬を引き、再び歩き始める。

 とりあえず今日のところはゆっくりと身体を休めることにしよう。そうして明日になったら、ディルディアード第三王子に関する手がかりを一つ一つ調べていけばいい。いや、妖魔のことでもいい。<商の都レスティア>へ向かったという噂の、妖魔。この妖魔はいったい、どこへ消えたのだろう。町に入ってから妖魔の噂を耳にしないということは、妖魔は既にどこかへ姿をくらましてしまったということなのだろうか。それとも、<商の都レスティア>は通らなかったのか。だが、街道を歩いている間、確かに行き交う旅人たちは話していた。妖魔が、南の方へと下っていった、と。

 噂の後をついて行けばいつか、ディルディアード王子に会うことが出来るだろうか。

 トラストの手綱を取り、ヴァレンシアはぼんやりとホーランドの後をついて歩いた。



      ≪2≫


 夜も更けてからのことだが、二人は何とか宿屋の一室を借りることが出来た。

 ヴァレンシアはベッドの天蓋に野営用の毛布をつけることで補強を施し、部屋を二分した。

 というのも、宿屋の主人が、ホーランドとヴァレンシアが別々に部屋を取ろうとするのを頑として拒んだ結果、渋々ながらもヴァレンシアが妥協してしまったからだ。いや、言いくるめられてしまったと言うべきだろうか。とにかくこの町の人々は、さすが<商の都>と言われているだけあって、口が上手かった。あれこれと難癖をつけ、煽て上げ、とうとう最後にはヴァレンシアに、ホーランドと同じ部屋でいいと言わせたのだから。

 ──あんな奴と一緒の部屋で、どうしてゆっくり寛げる、って言う。

 暗がりに灯りもつけず、窓際の椅子に腰をかけてヴァレンシアは外を見遣る。

 ホーランドは階下の酒場で食事をしているはずだった。食事といっても、彼の場合は少々変わっていた。気分次第で人間と同じものを食べることもあったし、そうでないこともあった。大抵の場合は葡萄酒をちびりちびりと飲みながら、人の気を吸い取っているのだと、いつだったか話してくれたことがある。酒場や大勢の人が集まる場所には、血気にはやった連中がとりわけ多い。そういう場に集まる人間の気は、味は今一つながらも確実に妖魔の腹を満たしてくれるそうだ。質より量だと、あの男は笑いながら言っていた。

 大きな……今夜、何度目かも分からなくなってしまった溜め息を吐きながら、ヴァレンシアは旅に出て以来滅多に手放すことのなくなった手袋をするりと外す。

 左手の薬指には、銀色の指輪が光っていた。

 ディルディアード王子が、彼女の十七の誕生日に贈ってくれた品。生まれて初めて、王子が自分で働いて手に入れた金銭で買ったものだ。

 ヴァレンシアはぼんやりと、指輪を眺めた。

 何も考えずにいたかった。

 こうしていると、<神聖王国ホーランド>を出るよりも以前のことしか頭には浮かんでこない。幸せだったあの頃。ヴァレンシアがこの指輪を嵌めることはなかったが、確かにそこには、ディルディアード王子は存在した。何と皮肉なことか。彼を失ってそこでようやく、このリングを指にする決意がついたというのだから。

 もしもあのまま故国で安穏とした日々が続いていたならば、この指輪を嵌める日は、おそらく訪れはしなかっただろう。

 指輪に見入っていると、扉の向こうで足音がした。

 もう夜も遅いというのに人の足音がなかなか絶えない。中には大声で話をする者もおり、あまりいい雰囲気だとは言えなかった。落ち着きのない宿屋というか、泊まっている人間にも問題があるのだろうが、こんなに賑やかな場所に泊まるのはヴァレンシアは初めてだった。他にもっとマシな宿屋もあったのだろうが、出来ることなら目立ちたくなかった。自分たちの存在を隠したいのなら安宿のほうがいいと、ホーランドが言ったのだ。彼の言葉に従った自分が、今は恨めしかった。もう少しマシな部屋でゆっくりとしたかった。こんなに騒がしいところで、しかもあの男と同じ部屋で眠ることになるぐらいなら……。

 だが、今さら別の宿を探すことも出来ない。

 陽はとうの昔に西の彼方に沈んでいたし、夕刻と言うにはかなり遅い時間になっている。たとえ宿が見付かったとしても、この時間では足元を見られて上乗せ料金を踏んだくられるのは確実だろう。それならば、ここでおとなしく一晩を過ごしたほうがずっといい。

 金銭的余裕は、ホーランドと一緒に旅をするようになってからはないものと考えることにしていた。あの男、人間ではないくせに妙に人間染みている。何だかんだと言いながら、夜になるとは酒場で葡萄酒を毎晩のように飲んでいる。これ以上の無駄な出費は押さえなければならなかった。何故ならホーランドの飲み代はすべて、ヴァレンシアの懐でまかなっているのだから。

 尚もぼんやりとしていると、静かに扉が開いた。

 のろのろと顔を上げ、戸口を見ると、そこには藍色の髪の青年が立っていた。

「ホーランド……」

「なに、まだ起きてたの」

 淡い笑みを浮かべ、ホーランドは部屋へと入ってくる。

 微かに酒の臭いがした。

「起きていたら悪いのか」

 ぎろりと青年を睨み付け、ヴァレンシア。

「いや、別にそうは言っていないけど……」

 言葉尻をごまかした青年は、そこでふと眼を細めた。黄金色の瞳が、どこか険しい。何か、見てはならないものを見てしまったかのような、そんな感じがした。

「なんだ?」

 ホーランドの視線に気付いてか、ヴァレンシアが視線の先──自らの手元、左手の薬指で淡く輝いている銀の指輪──に改めて目を落とす。

「結婚指輪?」

「違う」

「じゃあ、婚約指輪?」

 ホーランドは悪戯っぽく、尋ねかけた。

「うるさい!」

「どうして?」

「わっ……私みたいな女には、不似合いだと思ったのだろう」

 ホーランドの目から指輪を庇うように右手で隠して、ヴァレンシアは言った。知らず知らずのうちに頬が火照りだす。

 指輪をつけたところを他人に見られるのは初めてだったが、よもや結婚指輪かなどと問われるだろうとは思ってもいなかった。旅に出て以来、彼女は指輪を嵌めた上から手袋をつけていたし、手袋を外す時には指輪も一緒に外していた。まさか、こんなところでばれてしまうとは。

 それに、他人に見られるのは好きではなかった。馬鹿にされているような気分になってしまうから。自分が、酷くつまらない女の子に思えたから。

「……別に、そんなこと言ってないさ」

 おどけたように肩を竦めると、彼は窓際に座るヴァレンシアに寄り添う。

 足音はしなかった。

「それよりも…──」

 と、ホーランドは窓の外を覗き込んで、言葉を続けた。

「俺たちが来る十日ほど前に、妖魔がここを通って行ったらしい」

 それまで怒り気味だったヴァレンシアの瞳が、はっと見開いた。

「妖魔が?」

「ああ」

 ホーランドは頷いた。

「……南へ、下っていったのか?」

 強張ったヴァレンシアの表情は、何かに縋るような、切ない眼差しをしている。

 ホーランドはガラスに映し出されたヴァレンシアを盗み見ていた。

「そうだ。南へ向かっているらしい」

 彼が硬い声で応えると、ヴァレンシアは呟いた。

「南…か──」

 まだ、遠いのだろうか。

 本当にディルディアードのことを知っているのだろうか、その妖魔は。

 ──いいや、ここで悩んでいても仕方がない。

 行くしかない。

 噂の後をついていけば必ず、ディルディアード第三王子の行方がわかるはずだ。

 左手をきつく握り締め、ヴァレンシアは繰り返した。

「南か……」



      ≪3≫


 宿屋での二日目が無駄に過ぎていった。

 本当なら今ごろは、<商の都レスティア>を南に下った別の宿場町へと向かって旅立っているはずだった。

 それが、だ。

 蹄鉄の釘が緩んでいたのか、愛馬トラストの蹄に傷が出来ていた。これでは走ることはおろか、旅を続けることもままならない。

 そういうわけで、ヴァレンシアは次の日も同じ宿屋に泊まることを余儀なく強制された。当然のことながら、今回はホーランドとは別々の部屋ということで、宿の主人と話をつけた。

 蹄鉄の打ち直しは、すぐ近所の鍛冶屋でしてもらうことができるのだが、あいにくと急ぎの仕事が入っているらしく、明後日の夕刻にならないと手が空かないらしい。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、ヴァレンシアは新しく割り当てられた部屋で大きな溜め息を吐いた。

 周囲の賑やかさに相反し、ヴァレンシアの気持ちは一貫して暗く沈みがちだった。

 理由は分かっている。

 ディルディアード第三王子のことを考えるたびに、不安が大きく広がってゆく。王子の行方は依然として掴めていない。それなのに自分は南へと向かっている。もしも王子が別のところにいたならば、こうして確信を持って南へと旅を続ける自分は、いったい、何なのだろう。

 今、無性に、誰かに言ってほしかった。お前は間違ってはいないのだと。このまま真っ直ぐに、自分の信じる道を歩くようにと、勇気づけてくれる誰かに側にいてほしかった。

 幾つもの溜め息が零れ落ちた。

「南、か」

 南には樹海がある。

 この辺りでは最大規模の、木々たちの深い墓場。

 そこに、ディルディアード第三王子に関わる何かがあるのだろうか。それとも第三王子は、樹海のどこかにいるのだろうか。

 南へ下っていったという妖魔。

 ヴァレンシアを呼ぶ、何か。

 ヴァレンシアは、自分が南へ向かうだろうことをすでに確信していた。あの、妖魔の噂を耳にした時にも、すでに自分は南へ向かうだろうと思っていた。だが、何故。第三王子の行方の手がかりも掴めていないというのに、南へ向かうと頭ごなしに決めてかかっているのは何故なのだ。

 南へ──

 何かがヴァレンシアの頭の中で叫んでいた。

 南へ向かえ、と。妖魔の噂を追っていくようにと。いつか、噂は彼女をディルディアード第三王子の元へと導くだろう。

「南へ下るか……」

 ぽつりと呟いてみる。

 たった一人で、妖魔が横行すると言われている樹海へ向かう。怖くはなかった。ディルディアードのためにならば、怖いところなど、この地上のどこにも存在しなかった。彼のためにならば、どこへでも行ける。涙を止めて、一人で歩くことも出来る。

 彼のためならば、どんなことにでも耐えられる。

 樹海がどのような場所であろうとも、今のヴァレンシアには怖くはなかった。

 しかし、ホーランドは何と言うだろうか。

 彼──あの、藍色の髪の妖魔は、ヴァレンシアと共に南へ下る旅を予定していた。もともとが気紛れな質らしい。ヴァレンシアが南への旅を告げると、彼は一緒に行くと言い出した。いや、どちらかと言うと彼はこの旅に反対している。ヴァレンシアの気持ちをどうにか変えようと、必死になって足留めを試みている。

 引き止められたから行くのを止めるような娘ではないことは、ホーランドにもよく分かっているはずだ。それなのに何故、あれこれと難癖をつけてはヴァレンシアを引き止めようとするのだろうか。

 何故?

 あまりにも疑問が多すぎる。

 解らないことだらけだった。

 いいや、こんな時だからこそ、自分だけが信じることの出来る何かを、持っていなければならないのかもしれない。

 ──大丈夫。きっと、ディルディアード様にお会いできる。

 疑ってかかっては、何も出来やしない。

 ヴァレンシアは勢いよくベッドに寝転がると、仰向けになって天井を見詰めた。



      ≪4≫


 扉の開く微かな音に、ヴァレンシアは目を覚ました。

 息をひそめ、眠っているふりをする。

 足音はしなかったが、確かに誰かが部屋の中に侵入していた。足音も、気配さえも、並みの人間以上に隠すのが上手い。藍色の髪と金色の瞳の青年──ホーランド──以外に、誰がいようか。それに、この、空気。和やかであたたかな、この空気。何と似ているのだろう。ディルディアード第三王子の持っていた空気に。

 妖魔とは、こんなにも人間に近い空気を持っているのだろうか。

 それともホーランドは特別なのだろうか。

 彼は、妖魔王に追われていると言った。ヴァレンシアもそのことは承知している。しかしこうして一緒に旅をしていると、ホーランドが悪者に思えたことはついぞなかった。いや、人間に親近感を抱かせることが、妖魔にしては罪なのかもしれない。妖魔とは、人間とは別の生き物──しかも人間よりもはるかに優れた、上つ代の種族なのだから。

 戸口とベッドとのちょうど中間辺りで、ホーランドの立ち止まる気配を感じた。

 どうやら、ヴァレンシアの様子を見ているらしい。

「何の用だ」

 身動ぎもせずに、ヴァレンシアは問いかけた。

「ぁあら、起きてたんだ」

「私の勝手だろう」

 そう言って身を起こしたヴァレンシアは、不機嫌な表情で夜更けの侵入者を睨み付ける。黒く鋭い双つの瞳が闇の中で光っていた。

「いや、ま…あ、そう、だけど──…そ、そうだ、それよりもヴァイ、樹海へ向かうのか、どうしても」

 突然、思い出したように話を別方向へと持っていくホーランド。

 ヴァレンシアは少し間を置いてから、静かに答えた。

「南へ下っていった妖魔が、とある御方の行方を知っているかもしれないのだ」

 ヴァレンシアの言葉に、ホーランドは解っているとでも言うかのように頷く。

「<神聖王国ホーランド>の第三王子だな」

「……そうだ。ディルディアード様をお捜しすることこそが私の務め。誰が何と言おうと、私は樹海へ行くぞ」

 ヴァレンシアの言葉は、二人の間に気まずい沈黙をもたらした。

 だが、いつまでも放っておいていい問題ではない。ここで洗いざらいぶちまけてしまって、それからでも遅くはないだろう。ホーランドが、ヴァレンシアと共に行くかどうかを決めるのは。

 別に、どうしても一緒に来てほしいというわけでもないのだし。

「──あんな危険なところへ君をやりたくない」

 静けさを破って、妖魔の青年は言った。

「王子もきっと、そう考えているはずだ」

 ──何が言いたい?

 怪訝そうにヴァレンシアは、青年を見上げる。

 不思議なことを言う男だと、ぼんやりと彼女は思っていた。

「もし……もしも王子が、王位欲しさに今回のことを企んだ張本人だとしたら?」

 とは、ホーランド。

 辛辣な言葉は、ヴァレンシアを引き止めるものだった。彼は心から、彼女を樹海へは行かせたくないと思っていた。

 あそこは、危険な場所だ。

 妖魔王の部下たちが横行する、この近辺では最も危険な場所。木々の深さもさることながら、妖魔たちの集う場所として、人々を畏れさせてもいた。

「どうする、ヴァイ?」

 冷たい、黄金の眼差しがヴァレンシアを捕らえている。

 ヴァレンシアは深く息を吸うと、口許に笑みを浮かべた。

「どうもしない。あの方にお仕えすることが、私の望みだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 ──ディルディアード様が王位を欲することなどない。たとえ欲したとしても、そのために人を傷付けるはずがない。トラガード様が相手なら、尚のことだ。ディルディアード様は、平気で兄君に刃を向けるような方ではない。

「お前には関係のないことだろう」

 冷たく言い放ったヴァレンシアはベッドからするりと抜け出すと、戸口へと向かう。

「ヴァイ?」

 僅かに隙間の空いているドアを大きく開け放つと、彼女は無機質な声で告げた。

「自分の部屋へ戻れ」

 左手の薬指に嵌めた銀のリングが、酷く熱く感じられた。



      ≪5≫


「戻れ」

 鋭い声に、ホーランドははっ、と我に返る。

 今、自分は何をぼんやりとしていたのだろうか。まるで上の空の状態で、ヴァレンシアの言葉を耳にしていたような気がする。

 やれやれとでも言うかのように軽く肩を竦め、ホーランドは戸口へと足を向けた。が、視線は一点をじっと凝視したままだ。

 ヴァレンシアの指に光る銀色の指輪を見つめながら、この妖魔は彼女のすぐ側を通り過ぎ…──部屋を出たところでさっと振り返った。

「──そんなもの大事に持ち歩いて、そんなにそいつの嫁さんになりたいのか」

 低い、意地の悪い声が部屋の中に流れ込んだ。

「馬鹿を言うな」

 腕組みをし、彼女はホーランドを見つめる。

 黒耀石の真摯な瞳は、怒っているわけではなかった。

「第三王子とはいえ、ディルディアード様は間違うことなき王家の血筋を引いておられる。実権はなくとも、諸侯や商人の三男坊とは訳が違うのだぞ。それに……」

「それに?」

「それに、これ以上カスケード様の好きにさせておくわけにはいかん」

 カスケード第二王子は言った。「ディルディアードを殺せ」と。そんな風に簡単に人を殺そうとするカスケードのことを、ヴァレンシアは信用することが出来なかった。仮にも国王代理となる者が、そういう大切なことを軽々しく口にしていいものなのだろうか。

「第一王子のトラガード様が床に臥せっておられる今、ディルディアード様こそが故国<神聖王国ホーランド>を束ねられる唯一の御方。我々など、あの御方の足元にも及ばぬ」

 言ってからヴァレンシアは、思った。

 もしもディルディアード王子が王の血を引いていなかったなら、と。彼が王子でなかったなら、こんなことは起こらなかったはずだ。

 ──ディルディアード様が王子でなかったなら、どんなによかっただろう。

 権力も地位も、何もかもすべてからディルディアードは、解放されたがっていた。

「そこまで信頼するに値するような奴なのか、ディルディアード第三王子は」

 ホーランドがゆっくりと、冷たい声で言った。静けさが二人を鋭く包み込む。

「あの御方にお仕えすることが私の望みだと言ったはずだ」

 ヴァレンシアは自分の感情を見事なまでに押え込んだ。口許の笑みは何故か、酷く艶めかしい。

「……なら、王子が死んだと言ったら?」

「死んでいない」

 ホーランドの問いにも、瞬時にヴァレンシアは返す。

「どうしてそんなことが分かる。妖魔に心を売り渡して、死んでしまったかもしれないんだぞ」

 ホーランドの言葉をヴァレンシアは、無視した。

「王子は生きておられる。あの方に何かあったなら、私が生きているはずがない。ディルディアード様は生きて、助けを待っておられるだけだ。死ぬなど絶対にあり得ない」

 と、そう言うとヴァレンシアは邪気のない笑みを浮かべた。

「たとえ王子がお前の言うようにすでに亡くなっておられたとしても、私は南へ……樹海の森に向かうぞ」

 ──それでも王子は、生きておられる。

 ヴァレンシアは心の中で、確信していた。

 たとえ彼女を阻む者があったとしても、ヴァレンシアはそれを乗り越えて行くだろう。王子のために。さらには、自らのために。



 そして……夜が、明けた。

 短い休息の時が終わる。

 ヴァレンシアは、ホーランドは再び、樹海へと向かって歩き始める。

 南へと向かって…──

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