ディルディアード

      ≪1≫


 <神聖王国ホーランド>第三王子は、国王に最も愛された、今は亡き第三王妃の忘れ形見だった。

 母親譲りの淡い栗色の髪と瞳のディルディアード第三王子。

 美しい少年は十三の年に少女と出会った。

 その日──その日は、ディルディアード第三王子の十三回目の誕生日だった──の朝に父王から譲り渡された騎士団を束ねる騎士団長との対面の後、彼はその娘と出会った。

 赤毛の髪、黒くつぶらな双つの眼。

 娘は、名をヴァレンシアと言った。

「ディルディアード様。これは私の娘にして見習い修行中のヴァレンシアにございます。どうぞ、お見知りおきを」

 騎士団長タリミアスはそう言って、娘を紹介した。

 タリミアスの影に隠れるようにして、しかしそのタリミアスをも恐れている様子のこの娘は、がりがりに痩せた小娘でしかなかった。

 まるで世界中のありとあらゆるものに怯えているかのような、おどおどとした瞳の少女。

「タリミアス、彼女と二人だけで話をしてもいいかい」

 ディルディアードが尋ねると、タリミアスは少し困ったような表情で、しかし、心の内の本心に反して快く答えた。

「娘が構わないと言うのなら、私は何も」

「それなら話は早い。おいで、ヴァレンシア」

 ディルディアードの晴れやかな声が響く。

 どきりと顔を上げて──その時になって初めて、ディルディアード王子は彼女の目を真正面から見ることが出来た──、ヴァレンシアは戸惑いの表情を露にした。父の横顔にさっと視線を走らせ、言葉を待つ。自分の意志で返事をするのが怖かった。父親の意に沿う答えを返すことが出来るかどうかが心配でたまらなかった。

 実際には、何一つとして不安がることはないというのに。

 それに、何故この娘は、こんなにも怯えた眼差しで他人を見るのだろうか──ディルディアードは不思議に思った。

「ヴァレンシア、お前の好きにおし」

 タリミアスが優しく声をかける。

 どこか、ぎこちなさが抜けない。

 ──ああ、そうか。

 ディルディアードは思った。

 この二人は、互いにどうやって接したらいいのかが分からないのだ、と。

 城の噂好きの連中が話していたのを聞いたことがある。騎士団長タリミアスの娘は、養女なのだ、と。本来ならばとても城になど上がることの出来ない、低く卑しい身分の生まれだと、女たちが噂しているのを耳にしたことがある。

「おいで、ヴァレンシア」

 命令口調ではなく、むしろもっと柔らかな感じ……そう、たとえば、友人に呼びかける時の親しみを込めた口調で、彼は言った。

 しばらく迷った後に、ヴァレンシアは微かに唇を動かし、頷いた。

「おいで」

 それだけ言うと、ディルディアードはさっさと歩き出す。

 ヴァレンシアはその後を、遅れないように足早について行った。

 人気のない厩舎には堆肥の臭いが充満していた。

 ディルディアードはこの独特の臭いが何となく好きだった。

 確かに、慣れない人間にはただくさいだけかもしれないこの臭いも、馬の体から発する臭いと藁の臭いとが混ざり合ってきつくなったものだと思えばどうということはなかった。

 仕切り棒の向こうに並ぶ馬たちを順繰りに見ながら、彼はぽつりと言った。

「──馬もね、遠いところから貰われてきた奴なんかは初めのうち、びくびくしていることがあるんだよ」

 口許に笑みを浮かべ、ディルディアードは少女を見遣る。

 馬と同じ、つぶらな、優しげな瞳の少女。その怯えかたはまるで、知らない土地に連れてこられたばかりの馬のようですらある。

「あの馬も……タリミアスが連れてきたんだけど、あの馬、やっと周りに馴染んできたところなんだ」

 王子の指差した先では、ちょうど栗毛色の馬が藁を噛んでいるところだった。たてがみだけが雪のように白い、賢そうな目をした馬だが、どこか神経質そうな感がある。

 ディルディアードはこの馬が、どこから貰われてきたのかを知っていた。

 いつだったか、タリミアスが話してくれたのだ。その時には彼の話はよくわからなかったが、今ならわかる。あの馬が、ヴァレンシアが以前に身を置いていた旅篭から買い上げた馬だということが。そしてヴァレンシアが、この馬をいたく気に入っているということも。なかなか心を開こうとしない娘のために、タリミアスはわざわざこの馬を破格の値段で買い取ったとか。市に行けば、もっと安い値でいくらでもいい馬を買うことが出来るというのに、この馬でなければならないと言って買い取り、厩舎へ連れてきたのだ。

「ああ……」

 馬を見た途端に少女の目が輝きだした。

 懐かしそうに、また嬉しそうにヴァレンシアは馬のほうへと近寄っていった。

「名前は?」

 ディルディアードの言葉には大きく首を振ることで答えたヴァレンシアは、なおも馬に夢中だった。

 鼻面を撫で、さらに耳の後ろを大きく掻いてやる。

 厩番の話では、なかなか人に懐こうとしない気性の激しい馬ということだったが、ヴァレンシアが側にいる今、厩番の話が嘘でないかと思えてくるほど、この馬はおとなしく人懐こい一面を見せていた。実際にその目で見ていなかったなら彼は、厩番の話をでっちあげだと思っていたかもしれない。

「触ってもいいかい」

「え?」

 言うが早いかディルディアードは、馬に手を伸ばしていた。

 馬は僅かばかり身を引いたが、それよりも早く王子の手は馬の首の辺りを捕らえていた。その部分を軽く叩いてやると、馬は嘶いて喜んでみせた。ヴァレンシアが側にいたからだ。彼女が側にいなかったなら、いかな王子といえどもこの馬に触れることは適わなかっただろう。厩番の男がブラシをかけてやるためにこの馬に触ろうとしたところ、こっ酷い目に遭ったという話はかなりの者が知っている。ディルディアードはたまたまその場に居合わせたのだ。

「君をよく信頼している」

 そう言って、ディルディアードは微笑んだ。

「この馬は、君を本当に信頼している」

 再び、ディルディアードは穏やかに言った。

 そう。これを信頼していると言わずして何と言おう。この馬は、ヴァレンシアが側についていたからこそ、慣れない人間が体に触れることを許したのだ。本当は、嫌で嫌でたまらなかっただろうに。

「いい子だ」

 王子の言葉をヴァレンシアは、まるで自分が誉められたかのように嬉しげな表情で聞いていた。



      ≪2≫


 ディルディアード第三王子がヴァレンシアと出会ってから、何年かが過ぎた。

 ヴァレンシアはいつしかタリミアス率いる騎士団の騎士として正式に認められるようになっていた。

 が、一方のディルディアードはと言えば、王族ならば誰もが避けて通ることの出来ないことから完全に顔を背けていた。上の二人の兄が家老や家庭教師たちに囲まれて様々な知識を詰め込んでいる間、彼は城を抜け出すことに専念した。唯一、彼が真面目に受けた講義は、父王が選んだ家庭教師ではなく、偶然、城下で出会った老人から学んだ簡単な魔術のみ。

 <神聖王国ホーランド>の末王子ディルディアードは、二人の兄のように王族という重荷に縛られることもなく、比較的自由に、ゆったりとした環境でのびのびと成長した。

 誰からも、優しさと愛情とを惜しみなく与えられて育ったディルディアード。

 ──すべて、俺には無縁のものだ。

 薄暗がりに目を馳せて、カスケード第二王子はぼんやりと考えた。

 父王から特に目をかけられたこともなく、また優しくされた思いでもない。幼い頃はいつもつまらないことで癇癪を起こしては乳母たちを困らせていた。愛してくれたのはたった一人、母親だけ。だが、優しさまでは母親ですら与えてはくれなかった。

 彼が母親から得たのは、嫉妬心。そして、人を憎む憎悪の心。

 自分を、自分だけを、大切に思うこと。

 だからこそ彼は、父王の言葉に大きな反発を覚えた。

 苛立ちと不安。王の寵愛をとうの昔に失った第二王妃のように、自分もまた、父親には愛されていないのではないか。それとも、自分が与えられるべきはずの愛情をすべて、あの忌々しい末っ子──ディルディアード──が、奪い取っていってしまったのだろうか。

 父王はこう言ったのだ。王位は、できることならディルディアードに譲りたい、と。

「よりによって、あいつ!」

 小さく呟くと、<神聖王国ホーランド>第二王子は、ぎっ、と唇を噛み締めた。

「父王ときたら。ディルに家督を譲るなどと言い出しやがって……あのような痴れ者に、王が務まるものか」

 兄のトラガードが王位を継ぐというのであったなら、まだ理解はできた。しかし父王は、そうは言わなかった。むろん、カスケードに王位を譲るなどということは一言も口にしなかった。鼻にすらかけてもらえなかったのだ。

 ──何故だ。

 王が最も愛した女の血を引くというだけで、何故、ディルディアードなんぞに王位を譲り渡してしまうのだ。馬鹿げている。そもそも第三王子は、人を傷付けたくないと言っては剣を持つことを拒み、末子だからという事実をたてに、トラガードやカスケードのように真面目にものごとを学んだこともない。そのような人間にいったい、王になる資格があるのだろうか。

「下らない理由のために俺が貶められることなど、あってはならないことだ」

 ──何もかもすべて、あいつが悪いのだ。

 かつて、母親である第二王妃に与えられるはずだった王の寵愛を奪い去った第三王妃。今、その息子が、母親がしたのと同じようにカスケードから、与えられるべきものを奪い取ろうとしている。阻止しなければならない。決して、ディルディアードを許してはならない。母子揃ってカスケードを苦しめようとする第三王子など、いなければいいのだ。いなければ…──そう、一番手っ取り早いのは、殺してしまうこと。そうすれば父王の目も、自然とカスケードと第二王妃に向くのではないか?

 誰か──この心の内を満たしてくれる者は、いないのか。

 ディルディアードを、亡き者に。

 弟さえ……ディルディアードさえいなければ、父王の目はカスケードに向くはずだ。

 そうなれば王も遅かれ早かれ気付くことだろう。兄のトラガードには国政に関する能力が著しく欠如しているということに。戦馬鹿としか言いようのない、トラガード。文武両道に秀でていると噂されているトラガードは、実のところどちらかというと剣術に秀でているようだった。いくら兄が剣術に長けているといっても、国政のすべてが戦で片の付くものではない。むしろ、国の政に長けていてこそ王の器と言わないだろうか。

 文武共にその才を適度に持ち合わせている自分にこそ、王位は相応しくないか。

 父王もそろそろそのことに気付いてもいいはずだ。

 いや、その日は間近……一日ごとに、カスケードが王になる日が近付いてきている。確実に、そして大きく、鼓動を鳴らしながら。

 夜毎ベッドに入ると聞こえてくる声が、それを実現させてくれるだろう。

 あれは救いの声。

「お前の望みを叶えてやろう」

 眠りの波に捕らえられると、どこからともなく頭の中に声が響きだす。

 テノールの優しい誘い。

 さらに耳を傾けていると、声は夢の中にまで及んでくる。今度は静かな、心地好いアルトの美声がカスケードの耳をくすぐる。

「助けて……私を、助けて」

 第二王妃の嘆きにも似た、密やかな甘い声。

 声の主は、シラと名乗った。

 かつて古の時代に、<神聖王国ホーランド>の魔術師の手によって結界石の一つに閉じ込められたのだと、彼女はそう告げた。石を壊す者が現れない限り、彼女が自由になることは出来ないのだとも。そしてその結界石を壊すことが出来る者はたった一人、<神聖王国ホーランド>の正統なる血を引く若者のみ。

「あなたなら出来るはず。あなたは<神聖王国ホーランド>の正統なる王位継承者。結界石を破壊し、私をこの石の檻から救い出してくれることの出来る唯一の人なのですから」

 毎夜、シラはカスケードに助けを求めた。

 結界石の中から救い出してくれ、と。

 彼女を助け出したあかつきには、カスケードの願いを一つだけ訊こう、とも。

 カスケードのたった一つの願い──第三王子ディルディアードを亡き者にし、更には兄のトラガードをも押し退けて、カスケード自らが王座に就くこと。

「お願いです。結界石を壊し、私にかけられた封印を解いてください。<神聖王国ホーランド>の正統なる王よ、どうか……」

 夜毎の声に耳を傾けたのは、カスケードの過ちだったのか。

 夜明けと共に彼は山の一つ、東の結界石が眠る山へと足を運んだ。

 その次の夜、彼の前には一人の女が現れた。

 鮮やかな黄金の髪を靡かせた、白い肌の女。

 女は、自分こそが閉じ込められていた結界石から助け出されたシラだと名乗った。そして更に、封印を解いてくれたお礼にカスケードが王になるのを手伝おうとさえ、彼女は言ったのだ。

 カスケードが頷くや否や、<神聖王国ホーランド>の国境に妖魔たちが姿を現した。

 それはあの、忌まわしい夜の到来をも告げていた。



      ≪3≫


「よろしいのですか、サルト様」

 しわがれた声が背後からかけられた。

 振り向き、サルトは、何もない空間に向かってうっすらと笑みを洩らした。

「構わん」

「ですが…あれにはまだ、荷が重すぎるかと──」

 藍色の髪を鬱陶しそうに振り払うと、サルトは声のしたほうにその不思議な黄金の瞳を向ける。

「だからこそ、好結果になりもしよう。妙に物事を知ってしまうと、時としてそれが命取りとなることもあろう」

 朱色に光る唇の端を僅かに引き上げ、この妖魔は再び笑う。

 ──人間とは面白いものよ。底無しの欲を抱えている。少し煽ってやれば、それだけでもう、世界を手に入れたと思い込む。

 優雅な仕種で薄絹のフードを被り直したサルトは、物憂げに片手を軽く振った。

「往ね。お前には近々、別の命を与えよう。それまでは好きにしておるがよい」

「はっ」

 何もない空間に返事が響いた瞬間、この世のものではない何ものかの気配がふっと消えた。

 部屋の中には沈黙が広がる。

 部下の気配が完全に消え去るのを待って、サルトは懐から血の色をした丸い球体を取り出す。ちょうど、子供の頭ぐらいの大きさのそれにサルトが意識を集中させると、次第に中央のほうから紅い色が引いていく。続いて、不鮮明ながらも人影が現れた。

 紅玉には、カスケードの姿が映っている。

「馬鹿な人間よ。王位欲しさに結界石を破壊するとは」

 呟いたサルトは、カスケードの傍らに佇む女をじっと見つめた。

 金の髪と白い肌の、美しい女。シラという名の、まだ年若い妖魔女。カスケードに結界石を破らせるため、サルトはシラを用意した。彼女が結界石に囚われているという暗示をカスケードにかけ、結界石を壊させたのだ。いくら妖魔が<神聖王国ホーランド>に立ち入ることができないとはいえ、サルトほどの力ある妖魔にもなると、媒体となるものを使って遠視の法を使ったり、特定の人物に軽い暗示を与えたりすることは可能だ。ただ、その場合には、妖魔に共鳴する強い思いを抱いている者でなければならないのだが。カスケードはそして、偶然にも王位を欲していた。彼の、第三王子への強い憎しみは妖魔の思いにも共通するものがあった。彼があっさりとサルトの暗示にかかり、結界石の一つを破壊したのもそのせいだ。

 カスケードの思いはあまりにも強すぎたため、周囲はおろか、自分のことにすら、目を配ることが出来なくなっていた。

 そして、心にすきが生じた。

 サルトはそこにつけこんだだけだ。ちょっと手を貸しただけで、カスケードはサルトの意のままに動いた。<神聖王国ホーランド>を守っていた結界を破り、妖魔の侵入をいともたやすく許してしまったのだから。

「ふっ…ふふ……」

 朱い口唇を軽く舐め、サルトは低く笑った。

 こんなにも簡単に事が運ぶとは、さすがに思ってもいなかった。百年あまり昔、手痛い失態を犯した上、人間如き風情に傷を負わされたサルトは今回、随分と慎重になっていたのだから。

 あのような情けない失態は、二度と晒したくはなかった。

 ──それに、あの王子。

 <神聖王国ホーランド>の、末王子。彼は、何と似ているのだろう。かつてサルトに傷を負わした、あの時の王に。あの時、サルトは初めて人間に傷を付けられた。後にも先にも一度としてないあの時のことが、今でもまだ、忘れられない。

 確か、第三王子はディルディアードといったか。

「……<神聖王国ホーランド>を攻め滅ぼしてやろう」

 彼は、妖魔王の側近として人々に畏れられたサルトを傷付けたかつての王に、何と似ているのだろう。

「今に見ておれ。古の代においてこのサルトに傷を付けたことを、後悔させてくれるわ」

 石をゆるりと撫で擦ると、場面が切り替わり、紅玉にはディルディアードの姿が映し出された。

 栗色の髪と瞳の、人当たりのよさそうな横顔の青年。戦場にいるのか、白馬に跨り、その身には鎧甲を着けている。

「兄上!」

 ディルディアードは大きく叫ぶと同時に、馬の背から飛び降りた。彼の栗色の瞳に映るのは、背を大きく切り裂かれた第一王子トラガードの姿だった。

 ──ほぅ、やったか……

 ディルディアードは見ていた。

 第二王子カスケードが、トラガードの背に剣を振り下ろしたその瞬間を。泥人形のように地面へと崩れ落ちるトラガードには見向きもせずに、カスケードは口許を歪め、呟いた。

「ディルディアード……」

「何故……カスケード兄上、何故──」

 ディルディアードの言葉が、最後まで発せられることはなかった。

 カスケードが剣を一振りすると同時に、第三王子の身体に鋭い痛みが走った。ゆっくりと、鮮血が衣服を染め抜いてゆく。

「な、ぜ…──」

 薄れてゆく意識の中で、ディルディアードは、自分の身体がカスケードの腕に抱え上げるのを感じていた。

 それから……それから、ディルディアードの身体は一瞬、宙に浮き、そう思った刹那、彼はごつごつとした岩場の底に頭から叩き付けられていた。



      ≪4≫


 ディルディアードは真っ暗な闇の中を彷徨っていた。

 身体は焼けつくように熱く、全身が鋭い痛みに包まれていた。

 いったい自分は、どうなってしまったのだろう。この身体の痛みは、いったい何なのだ?

 妖魔どもとの戦いも気になったが、それ以上にディルディアードは、トラガード第一王子のことが気にかかった。

 ──兄上は御無事なのだろうか……

 ぼんやりと、ディルディアードは考える。

 あの時、ディルディアードには駆け寄る暇すらなかった。

 血に濡れた剣を手にだらりと提げたカスケードは、虚ろな眼差しでディルディアードを見つめていた。あれは、まともな人間の目つきではない。カスケードはいったい、どうなってしまったのだろうか。結界が何者かの手によって破られたことと何か関係があるのだろうか。

 ──それにしても。ああ。なんて熱いのだろう。身体が、燃えてしまいそうだ。

「この身体には利用価値がある」

 不意に、まだ意識がうっすらとした状態のディルディアードの頭の上で、声が響いた。

 ──誰の声だ?

 聞き慣れた、どこか懐かしい声だった。

 いったい、誰なのだろう。

「彼奴にはしばらくの間、夢を見させてやろうではないか」

 ──夢 ? 夢、なのか。あれは……<神聖王国ホーランド>が妖魔の侵入を許したというのは、あれは、夢だったのか? 父上が亡くなられたのも、トラガード兄上が倒れられたのも、すべて、夢だったと?

 妖魔の侵入を防ぐべくして出陣した父王が見るも無惨な遺体となって城に戻ってきたことを、ディルディアードは覚えている。あの時の驚愕も、そして悲しみも、すべて夢だったというのだろうか。

 すべて、夢──?

 次第に意識がはっきりと蘇ってくる。

 ゆっくりと、恐る恐るディルディアードは目を開いた。

 白い天井だけが目に飛び込んでくる。豪奢なシャンデリア。色とりどりの宝石をちりばめた家具。ここが、自分の部屋でないことだけは確かだった。

「…ここ、は──」

 声に出して呟いてみる。

 今のところ、人の気配はなかった。

 城の中にこのような部屋があったかどうかを考えてみるが、どうにも思い出すことが出来ない。いったいここは、どこなのだろうか。

「どうやらお目覚めのようだな」

 不意に声がかかった。

 この声には聞き覚えがある。先刻の声だ。

 しかしいったい、誰なのだ、この声の主は。首を巡らせ、ディルディアードは声のしたほうへと視線を馳せる。そこで彼は、見た。自分と瓜二つの姿をした、青年を。いや、この場に鏡でもあるのか、そこに立ち尽くす青年はディルディアードとまったく同じ姿をしている。黒子の位置も、掌の内側から親指の付け根にかけての傷痕も。すべてがディルディアードと生き写しだった。

 いや、違う。

 ディルディアードは自らの手を見て、はっ、と息を飲んだ。

 ちがうのだ。

 何もかも、自分のものではなかった。肌の色も髪の色も、何もかも、ディルディアードのものではなかった。知らない誰かのもの。ある程度の日焼けをしていたとはいえ、これほどまでに濃い褐色の肌ではなかった。この藍色の髪も、自分のものではない。

 では、目の前に立ち尽くしているのは……

「賭けをしようではないか」

 ディルディアードの声で、ディルディアードの顔をしたものは言った。

「お前は何者だ」

 痛む頭を抱えながら、ディルディアードは起き上がり、尋ねかけた。

「奴と同じ事を聞くのだな」

 言って、男はほくそ笑んだ。

「まあ、よい。教えてやろう。我が名はサルト。妖魔王の側近にして、<神聖王国ホーランド>の王を操る者よ」

 ディルディアードの声で、彼はさらりと言ってのけた。

「な…に?」

「安心しろ。国王の座は第二王子が継いだ。第一王子も、今のところはまだ生きているようだ」

 ディルディアードはほっと胸をなで下ろした。

 とりあえず、二人の兄は無事なのだろう。

 しかし──と、ディルディアードの姿をした男は勿体ぶって言葉を繋いだ。

「お前だけは、生かしておくつもりはない。だが、このまま殺してしまうにはあまりにも惜しい。わかるか、私の言いたいことが」

 くっくっ、と喉を鳴らすと、彼はディルディアードを流し見た。

「お前が眠っている間に、頭の中を少し覗かせてもらった。あの娘──ヴァレンシア、とか言ったな、確か。お前、あれを好きなのか?」

「貴様には関係のないことだ」

 すかさずディルディアードは答えた。

「賭けをしようではないか。賭けの期日は……あの娘が、我が城に辿り着くまで」

 サルトは、口許に笑みを浮かべ、言った。言いながらサルトの全身は、ゆらゆらと揺らめき始める。

「我が城は、樹海を越えた湖の孤島にある。あれが城に辿り着くまでに『愛している』と言わせることができたなら、お前の命を助けてやろう。お前にかけた呪いを解き、元の身体に戻してもやろう。が、一言でもこのことについてあの娘に話そうものなら、お前の身体はどろどろに溶けて消滅してしまうだろう」

 耳障りなサルトの高笑いが、ディルディアードの頭の中に響いた。

「──どのみち、時がくれば私はお前の正体をあれに明かすつもりだ。そして……この顔と声で、あの娘を我が物にするとしよう」

 消え薄れてゆく影は、嘲笑を含んだ声で言い放つ。

 まるで自分は、ディルディアードなどには手の届かない高みにいるのだと言わんばかりの優越感に浸って、サルトは言葉を続けた。

「せいぜい頑張って口説いてみることだな」

 ディルディアードには成す術もなかった。彼は、本来の姿を失っていた。妖魔──妖魔王の側近だという、サルト──の姿をしていたのだから。

 旅に出なければならない。

 ヴァレンシアを、止めるために。

 ディルディアードが姿を消したと知ったなら、彼女は彼を捜すだろう。第三王子のためにならどんな危険をも平気で冒すことのできるあの娘を、止めなければならない。

 サルトは本気で、彼女を自分のものにするつもりでいるようだ。

 いや、玩具にするつもり、か。

 止めなければ。

 軽く首を振り、ディルディアードはその場を後にした。

 表へ出ると、太陽が目に染みた。

 ──ヴァレンシア。

 サルトの身体を持ったディルディアードには、妖魔の気配を感じ取ることが出来た。と、同時に、人間だった時には苦痛にもならなかった昼の光が、目に、身体に、灼けつくようだった。

 ──ヴァイ……

 胸の内でディルディアードは、彼女の名を呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る