欺瞞

      ≪1≫


 王の謁見室には、カスケードの私軍でも特に主だった者たちが集められていた。

「──ディルディアードを捜せ。あいつは、<神聖王国ホーランド>を妖魔に売り飛ばした男だ。殺して、その首を持ち帰れ。首尾よく奴を殺った者には、褒美を与える」

 王の椅子に座したカスケード第二王子は言った。

 口許には冷ややかな笑みを浮かべているが、機嫌はいいようだ。

 腹違いとはいえ血を分けた弟を殺すことに、彼は抵抗を感じていなかった。彼にとって何よりも大切なことは、自分のこと。自分が、この<神聖王国ホーランド>でどれだけの権力を手にすることができるかということ。それだけに尽きる。

「それと……ディルディアードの私軍にいた騎士団長の娘ヴァレンシアが国外へ逃亡した。行き先は<商の都レスティア>だ。捕らえて、城に連れてこい。いいか、殺すな。俺の前に連れてこい」

 ──あの女、もしかしたらディルの居場所を知っているかもしれないな。

 カスケードはぼんやりと考える。

 もしもヴァレンシアが第三王子の居場所を知っているのならば、彼女の口から、ディルディアードがどこにいるのかを聞き出せばいい。口を割らせる方法はいくらだってあるのだから。そうして、ディルディアードの元へとカスケードの息のかかった騎士たちを送り込む。簡単なことだ。

 結界石が破壊されたために王が死に、さらにトラガード第一王子が怪我のために朦朧とした意識の中を彷徨っている今、カスケードの邪魔をする者はディルディアードただ一人だけだった。

 第一王子が倒れた時を境に、カスケードは王になりたいと強く願うようになった。

 以前からそれは考えていた。だが、トラガードがいる限り、カスケードが王になることはできない。王はトラガードを次期王として教育していたのだから。王になることは高望みでしかないのだと、カスケードは自らに言い聞かせていたのだ。

 しかし今、トラガードは妖魔との戦いで傷つき、生死の境を彷徨っている。そのおかげでカスケードは代理とは言えど、王の座に就くことを許された。

 カスケードがこの仮の王の座を守るためには、ディルディアードが邪魔な存在となったのだ。

 彼は、心の底から腹違いの弟を憎んでいた。

 幼い頃より父王に愛されたのは、ディルディアード第三王子だった。乳母たちや城で働く他の女たちも、そうだ。いつもいつも、ディルディアードを見ていた。ディルディアードを見る者はカスケードを見る者よりも多く、母親である第二王妃だけが唯一、カスケードの慰め、心の支えだった。誰も、カスケードを見てはくれない。幼少の折、王位第一継承者であるトラガード第一王子は臣下から多大なる忠誠を、第三王子ディルディアードは優しさと愛情を、王をも含めた多くの人々から得た。残された第二王子カスケードはといえば、三人兄弟の中では一番の癇癪持ち。乳母の手を焼かせること数限りなく、城のあらゆる人々が彼を避けて通った。

 ──ディルディアードさえいなければ……

 あの目障りな腹違いの弟さえいなければ、彼が人々から与えられるすべてのものを、カスケードのものにすることができるというのに。

「そう……目障りだな──ヴァレンシアには、こう伝えよ。<神聖王国ホーランド>へ戻れとな。お前たちと共に戻らなかった場合には、それなりの報復をタリミアス騎士団長に与える、と」

「それでも聞かなければどう致しましょう」

 騎士の一人が恐る恐る尋ねる。

「その時は……殺せ。見せしめにタリミアスを縛り上げ、首を落として城門にでも吊るしておけ」

 肘掛けの感触を楽しみながら、カスケードは言った。

 もう、誰にも王座を譲る気などない。

 自分のものだ。

 亡き父王のものでもなければ、トラガードのものでもない。ましてやディルディアードのものでなど、断じてない。

「行け」

 冷酷な声が、謁見室に響いた。



      ≪2≫


 穏やかな昼下がりの街道を、二人の旅人が馬に揺られて通り過ぎようとしていた。

 一人は、黄金の瞳、褐色の肌の青年。純白の馬に乗っている。癖のある藍色の髪を後ろで一つに軽く束ねた青年の顔立ちは整っており、目尻の吊り上っているところが、彼を他の男よりも美しい容姿にしていた。

 もう一人は、赤褐色の髪の娘。栗色の馬に跨り、仏頂面を晒している。フードのついた長衣の内には、ごく簡単な造りの胸当てが見え隠れしていた。フードの止め具に刻まれている模様は、太陽と月を模した、<神聖王国ホーランド>騎士団に所属する者のみが持てる印。

 彼女は名を、ヴァレンシアと言った。

 <神聖王国ホーランド>第三王子の私軍で騎士団長を務めるタリミアスの娘、ヴァレンシア。行方をくらました第三王子ディルディアードの後を追って、彼女は旅に出た。王子を捜し出し、彼にかかった汚名をそそぐために。

 <神聖王国ホーランド>を南に下る街道を進みながら、ヴァレンシアはすぐ目の前を行く青年を睨み付ける。

 いったい何者なのだろう、彼は。

 たまたま行き先が一緒だったから道中を共にしているというだけで、ヴァレンシアは彼のことを何一つとして知らなかった。<神聖王国ホーランド>ではもちろん、近隣の国でもついぞお目にかかったことのない稀有な容姿をしたこの青年は、異国風の不思議な笑みを時として浮かべる。それはヴァレンシアが愛馬トラストに労いの言葉をかけている時であったり、何気ない仕種をしてみせたりする時だったり、ともかく、他愛もないようなことをしている時にこの青年は意味もなく口許をほころばすのだ。そして、もの珍しげな眼差しで彼女を見つめる。

 ヴァレンシアには、彼のほうが余程、珍しい容姿をしているように思われるのだが。

「……夕べのあれは、いったい何だったんだ」

 あれこれと思いを馳せることに疲れたのか、ヴァレンシアは不意にきつい調子の声で詰問した。

 彼女が怒っているということは、ホーランドも理解していた。すべて自分のせいなのだということも、彼にはよくわかっている。だが、それをどうやって彼女に伝えればいいのか、どういう風に説明すればいいのかがわからない。ホーランドは溜め息を吐き、しばしの間、迷っていた。

 言ってしまってもいいものなのか、どうかを。

 言ってしまえば、彼女とは一緒に旅を続けることができなくなるかもしれない。とは言え、このまま黙っていたら、今度はそのことでヴァレンシアは怒り出して……やはり、一緒に旅をすることを拒むかもしれない。不安と、大きな憂鬱がホーランドの内にあった。

「見逃してくれ……ってのは、駄目かな」

 口許に曖昧な笑みを浮かべ、ホーランド。

 それを目にしたヴァレンシアは、さらに厳しい口調で追及してきた。

「何か不都合でもあるのか? そういえば名を名乗るのも渋っていたが、夕べのことと何か関係があるのか、ええ?」

「いや、だから、その……」

 ホーランドは、言葉を濁し、あの手この手でヴァレンシアの追及から逃れようとする。

 ──この人が、妖魔?

 まさか。

 一瞬、浮かび上がった疑問を慌てて彼女は否定する。

 いくらこの男の容姿が珍しくとも、彼が妖魔であるはずがない。それにもしも彼が妖魔であるのなら、何故、人間に混じって生活をしなければならない。何故、人の姿を借りて、人と同じようにその足で、旅をしなければならない。

 しかし夕べ二人を襲撃してきた妖魔は彼に向かってこう言った。

 サルトよ──と。

「はっきり言っておく。次に夕べのような奴が現れたら、その時こそ──」

 言いかけてヴァレンシアは、口を噤んだ。

 空気の流れが妙だった。風はそよそよと吹いており、街道に沿って生えている木々にとまった鳥たちの声だって、いつもと変わることなく響いている。

 それなのに何故、おかしいなどと思うのだろう。

 虚空を見上げると、太陽が目に眩しかった。

 いつのまにか彼女は馬から降り、辺りを隈なく見回していた。

「どうしたんだ?」

 ヴァレンシアの様子が妙なことに気付いたホーランドが尋ねかけると、

「しっ、黙って。何か、おかしい。妙な感じがする……」

 口早にヴァレンシアは返し、尚もきょろきょろと辺りに視線を馳せた。

「──妖魔だ」

 ぽつりと、ホーランドは口許を引きつらせながら言った。

「妖……魔?」

「そう、妖魔だ。俺を狙って、奴らは集まってくる」

 馬を降り、ホーランドは一点を見据えた。何もなかった空間に、ゆっくりと人の姿をしたものが現れる。人よりも美しく、精巧に造られた妖魔たち。彼らは確かに、ホーランドを狙って集まってきていた。昨夜もそうだったが、妖魔たちは、ヴァレンシアのことなど眼中にないようだった。

【さるとヨ】

 辺りに反響したのは、聞き取りにくいしわがれた声。

【ソノクビ、モラッタ!】

 二人を取り囲んだ妖魔の一人が雄叫びを上げる。

 長く伸ばした爪を武器に、妖魔はホーランドに襲いかかってきた。

「ホーランド!」

 思っていたよりも低い声で、ヴァレンシアは告げた。

「後で、じっくりと話を聞かせてもらうぞ」

 言いながらも彼女は、襲いかかる妖魔の手を二の腕から切り落とす。叫び声を上げてその妖魔は地面に崩れ落ち、大量の泡となって溶けてしまった。まさか人間如きにしてやられるとは思ってもいなかっただろう。

【コシャクナ…ワレワレニハムカウキカ、ソコナニンゲンヨ】

「うるさい!」

 剣を構え、ヴァレンシアは斜めに振り下ろす。

 がき、と音がして、刃が骨に当たる感触がした。それを引き抜き、さらにヴァレンシアは次なる犠牲者を求めて視線を彷徨わせた。

 こんな昼日中から妖魔が姿を現すことなど、以前にはなかった。

 あの日……<神聖王国ホーランド>を守る四つの結界石のうちの一つが何者かの手によって壊された日以来、妖魔の横行はますます激しくなるばかりだった。

 <神聖王国ホーランド>国王の命を奪い、トラガード第一王子に瀕死の重傷を負わせただけでは飽き足らず、奴らは、おそらく第三王子たるディルディアードにまで手を出したのだ。ディルディアード王子が姿をくらましたのには、必ず何か裏があるはずだ。

 ヴァレンシアは、そう信じていた。

 妖魔の身体から勢いよく引き抜いた剣の切っ先には、血が滴っていた。

 人の血の赤ではなく、妖魔のそれは、鮮やかな樹木の緑色をしていた。

「何っ?」

 ヴァレンシアが驚いて身を引いた刹那、妖魔が踊りかかってくる。今まではヴァレンシアのことなど眼中になかった妖魔たちだったが、仲間を殺されて黙っているはずがなかった。妖魔たちはヴァレンシアにも執拗な攻撃をしかけてきた。

「これじゃ、きりがないな」

 呟いて、ホーランドはちらりとヴァレンシアに視線を流す。

 善戦してはいるが、やはり女の体力では消耗が激しい様子だ。早めに妖魔を片付けなければ。

 幸いなことに妖魔の数は、昨夜二人を襲ってきた時よりも少なかった。これなら、ホーランドの魔術で何とか片をつけることもできるのではないだろうか。

「ヴァイ、下がって……──」

 ホーランドが言い終えるよりも早く、ヴァレンシアは彼の後方へと退く。

 妖魔たちは美しかったが、同時に醜くもあった。皆一様に似通った顔立ち。臘のように白く、滑らかな肌。生気のない表情。ヴァレンシアの剣にかかった者は、緑色の血を流していたが、それでもまだ戦う気でいるらしい。二人を取り囲んだ輪が、心なしか狭まったようだ。

「失せろ、雑魚が!」

 ホーランドの指先全体から、眩しい光がほとばしる。

 熱気を含んだ白い光。

 思わずヴァレンシアは、目を閉じていた。



      ≪3≫


 光に包まれた妖魔たちが一人、また一人と蒸発していく。

 しゅうしゅうという音と白い光が次第に弱まってきた。

 目を開けたヴァレンシアは、まず初めにホーランドを見遣った。

 ホーランドの放った閃光は、すべての妖魔を蒸発させてしまっていた。これほどの魔力を持つ者がそうそういるはずがない。いったい何者なのだ、彼は。

 目を細め、ヴァレンシアは訝しげに青年を見つめている。

 やはり妖魔なのだろうか、彼は。

「お前……」

 ヴァレンシアの口がゆっくりと開いた。

 剣呑な空気が漂う。

 ホーランドはごくりと生唾を飲み込んだ。

「お前、いったい何者…──」

 歩み寄ろうと赤毛の娘が足を踏み出した途端、北方から何頭もの馬の蹄の音が響いてくる。勢いよくリズミカルなその音は、ヴァレンシアの不安をかきたてるものだった。

「何だ?」

 二人が顔を見合わせて、今きたばかりの道を振り返ると、すぐ後ろに<神聖王国ホーランド>の騎士隊が迫ってきている。その数は大したことはないが、何よりもヴァレンシアが恐れたのは、この騎士隊の者たちがカスケード第二王子の私軍に所属しているということだった。妖魔よりも何よりも、今の彼女にはカスケードの私軍のほうが怖かった。

 常に黒く鈍い光を放つ鋼の鎧に身を包んだ、兵たち。体格は、ほとんどの男が見上げなければならないほど背が高く、筋骨隆々としている。馬に跨った彼らはかなりのスピードで馬たちを走らせてきたらしい。中には鞭をくれて、それでやっと馬を走らせた者もいるようだ。

 一隊はあっという間に二人に追いつき、彼らのすぐ側で勿体をつけて止まった。

 騎士の一人が馬から降りる。

 騎士は真っ直ぐにヴァレンシアのほうへと足を向けた。略式ではあったが敬意を表す騎士の礼を取り、それから男は、彼女を見た。

「タリミアス騎士団長が御息女、ヴァレンシア殿とお見受けする」

「いかにも」

 頷き、ヴァレンシアは冷ややかな眼差しで騎士を見遣る。

 こんなところで時間を取られていては、いつつまでたっても<商の都レスティア>に辿り着くことはできない、それでなくとも、昨日から立て続けに妖魔の襲撃を受けているというのに。

「カスケード様からの御命令だ。直ちに城へ戻り、元・第三王子の捜索隊に加わるようにとのお達しが出ている」

 ここまで言うと、騎士はにやりと口許を歪めた。

「命令に従わない時は…──」

 頭の芯がしびれるような感じがした。ヴァレンシアには、カスケードが何を考えているのかがわかるような気がした。

「断る」

 騎士の双眼をきっと凝視し、ヴァレンシアは告げた。

 狡猾な狐のようなカスケード第二王子は、故郷に残してきた父タリミアスを盾に、彼女を脅そうとしている。だが、これしきのことでタリミアスが倒れるはずがない。彼女は、父を信じていた。仲睦まじい普通の父娘のような関係になることはこの先もおそらくはないだろうが、それでも彼女は、多大なる信頼を父親に寄せている。

 カスケード第二王子にしてやられるような父ではない、と。

「残念だが、私はカスケード様の御意向に沿うことはできぬ」

 静かに口を開いたその刹那、ヴァレンシアの足元に剣が振り下ろされた。

「では、殺すまでだ」



      ≪4≫


 一個隊に属する騎士の数は、隊長一人に十四人の騎士から構成されている。

 騎士たちはヴァレンシアとホーランドの前に立ちはだかり、二人の旅人はちらと目配せを交わし合った。

 ヴァレンシアは剣を構えると、柄を持つ手に力を込めた。

 それから、傍らに立つホーランドに向かって彼女は小さく囁きかける。騎士たちの命は奪うな、と。カスケードの私軍に属しているとはいえ、彼らは<神聖王国ホーランド>の大切な兵力でもあった。長い目で見れば彼らは、<神聖王国ホーランド>国王に所属することになる。王……つまり、国王代理ではなく、真の王たる者の下に属すことになるのだ。王と、第一、第三両王子に心からの忠誠を誓っているヴァレンシアには、この騎士たちを傷付けることはできても命までも奪うことはできなかった。

「撥ねっ返りの小娘一人が街道でのたれ死んだとて、不審に思うものは誰もいまい」

 隊長格の男が言った。

「──死ね!」

 血気に逸った若者が、剣を片手に飛び出してくる。

 が、動きはヴァレンシアのほうが格段に上だった。

 あっという間に若者の剣を叩き落とすと、赤毛の娘は柄の部分で騎士の利き腕を殴り付ける。骨の折れる鈍い音がし、若者はひいひいと泣きながら地面にうずくまった。

 それを合図に、他の者たちが動き始めた。

 二人を円形に取り囲み、それぞれが剣を振りかざす。ヴァレンシアはホーランドと背中合わせに立ち、互いの背後を守る形を取った。

 まず、ホーランドに向かって騎士が切りかかってきた。咄嗟にすぐ近くに寄ってきていた別の騎士の腕を掴み、捻り上げ……彼の喉元に手刀を叩き込み、奪い取った剣でもう一人の脇腹を切り付ける。

 その間にヴァレンシアのほうも、動きの鈍い騎士の腹に剣の柄を突き出し、失神させていた。

「小癪な……」

 ついに、隊長格の男が切り込んできた。ヴァレンシアに切りかかると見せて彼は、素早く身体を捩った。あまりに流動的なその動きに、流石にヴァレンシアもついていくことができなかった。

 一瞬の判断でホーランドは前からの剣を避けたが、後方からの剣までは避けきることはできなかった。腕に、鋭い痛みが走った。

 血が、流れ出す──

 満足そうににやりと笑った隊長の足にはしかし、それまでヴァレンシアが手にしていた剣が深々と突き刺さっていた。彼女の動きがもう少し遅かったなら、確実にホーランドは致命傷を負っていたことだろう。男が身体を反転させたことに気付いたヴァレンシアは、彼の動きを封じるためにすかさず剣を放ったのだ。刃は過たず、男の足先に刺さっている。怪我が治るまではかなりの不自由を強いられるだろう。仕上げとばかりにホーランドが男の腹部に拳を繰り出した。隊長は、意識を失い地面に倒れ込んだ。

「助かったよ、ヴァイ」

 軽く片目を閉じてみせるホーランドに安堵したヴァレンシアは、再び剣を構えようとした。そこで彼女は、見てしまったのだ。

 ホーランドの左の腕に液体が滲み出しているのを。

 鮮やかなそれは、緑色をしている。

 人間の血ではない、樹木の色。

「お前……!」

 こんな時だというのに、ふつふつと怒りが沸き上がってくる。

 やはりこの青年は、妖魔だったのだ。故国<神聖王国ホーランド>に襲撃をかけ、ディルディアード第三王子を窮地に陥れた者の仲間。

 人間ではない、異種の者。

「お前には、訊くことが山ほどできたぞ」

 低く、彼女は凄んでみせた。

 言いながらも一人、また一人と騎士を叩き伏せている。

 しばらくして再び二人は背をぴたりと合わせ、騎士たちと対峙した。ホーランドが手だけでナイフを貸してくれと言ってきた。ふと横目で流し見ると、彼の手には剣はおろか、武器の一つもなかった。慌ててヴァレンシアは太腿に下げたナイフの一本を取って渡す。

「こんな雑魚どもにやられたりしたら、許さん……から、なっ」

 言い終えるよりも早く、ヴァレンシアは騎士たちの中へと飛び出していく。

 ホーランドもナイフを手に、残っていた騎士たちにかかっていった。

「そう簡単に──やられるか!」

 叫ぶと同時に、がっ、と骨を砕く音がした。騎士の一人が顎の骨を砕かれたらしい。血に濡れた歯が宙を飛んだ。

「さあ、どうする? これでもまだ、私を殺すつもりか」

 比較的怪我の軽そうな騎士に向かって、ヴァレンシアは言葉を放った。

 騎士たちは、今や完全に士気をそがれていた。すでに二人を殺そうと思う者など一人としていなかった。彼らが心に思うのは、一刻も早く馬に乗り、安全だとわかる場所まで逃げ戻ることだけ。だが、カスケードの騎士であることがそうすることを邪魔していた。城へ戻ればたちまちのうちにカスケードから処罰を受けることになるだろう。

 それでも、命を失わないだけまだましか。

 騎士たちは各々が手にしていた武器を捨て、ヴァレンシアを凝視した。

「命だけは助けよう。お前たちはその不様ななりで城に立ち戻り、カスケード様にお伝えせよ。ヴァレンシアは第三王子に仕える身ゆえ、カスケード様の御命令に従うことはできぬとな。主君たる第三王子をお捜し申し上げることこそが、臣下たる私の務め。二君に仕えたとあらば、騎士の掟を破ることにもなる。

 ……よいか、しかとお伝えせよ。私は、何があろうとディルディアード第三王子をお捜しし、必ず<神聖王国ホーランド>にお連れする、とな」

 ヴァレンシアの黒い眼はしっかと見開かれていた。美しくも印象的な、双つの黒耀石。

 騎士たちはほうほうの体で馬に乗り、<神聖王国ホーランド>目指して北へと去っていった。

 太陽はいつのまにか西へと傾いており、今しも地平線の彼方へ沈み込もうとしている。

 夕日の光を受けたヴァレンシアの髪は燃えるように赤々と輝いていた。



      ≪5≫


 さらに街道を進むこと五日の後に、二人は<商の都レスティア>の国境を越えた。

 まだ数日のあいだは単調な一本道を行かなければならなかったが、確実に二人は<商の都レスティア>に入っていた。

 二人──結局のところヴァレンシアは、今もホーランドと道行きを共にしていた。彼が妖魔だということを知っていてなお、彼女にはホーランドを心の底から憎むということができなかった。

 憎しみの対象にするには、彼はあまりにも人間じみていた。

 それに、彼は彼で何か事情があるようだった。同族から追われているのだから、よほどのことをしでかしたのだろう。

 それらのことを考えると、問いかけることが躊躇われた。尋いてもいいものなのかどうか、ヴァレンシアにはわからなかった。誰だって他人に話したくないことの一つや二つはあるだろう。それを無理に聞き出すようなことはしたくなかった。

 つまるところヴァレンシアは、ホーランドを邪魔な男だと思いながらも心のどこかでその存在を受け入れ始めていたのだ。

 ヴァレンシアはホーランドを観察してもいた。この妖魔は人間の中でもなかなかうまいことやっているようだった。

 どこから見ても完璧な人間の姿。異国めいた風変わりな雰囲気を身に付けているが、人間臭さが彼の全身から漂っている。時折見せる優しい眼差し。憂いの表情も、すべて、人間のそれと変わりはなかった。妖魔とは、こんなにも人間に近しいものなのだろうか。それとも──?

 その上、トラストとハンザの二頭の馬たちが、ホーランドのことを気に入っているようだった。幾度かの妖魔の襲撃の際には、あれほど怯えていたというのに。

 トラストの背に揺られながら、ヴァレンシアはぼんやりとこの藍色の髪の青年を盗み見る。

 <商の都レスティア>に着いたら、彼とは別れなければならない。

 それから……どうすればいいのだろうか。

 独りで旅をしなければならないということは初めから承知の上だったが、旅に出てすぐに道連れを得た今では、独りで旅することの淋しさが──いわれのない喪失感が──、一人になった途端に襲ってくるだろうことは見えていた。

 ── 一人…か……

 騎士団にいた頃ならば、一人で行動することなどなかっただろう。

 いついかなる時も、誰かが側にいてくれた。剣術に優れているとはいえ、ヴァレンシアは女だった。それを心配してタリミアスや、仲間の騎士の誰かが必ず、一人は側についていてくれたのだから。

 しかし、ここでは泣き言を言っても仕方あるまい。

 これは彼女が望んでしたことだ。

 前方にふと目をやると、砂埃の立ち煙る道が真っ直ぐに続いているだけ。

 ホーランドとの別れの日は日一日と近付いてくる。

 ゆっくりと、まるで別れを惜しむかのように。

 ホーランドはだが、そんなヴァレンシアの気持ちなど何も知らずにいる。彼にしてみれば、<商の都レスティア>へ向かう途中にたまたまヴァレンシアが通りかかり、偶然にも道行きを共にすることが適ったというだけなのだから。<商の都レスティア>に着けば着いたで、また新しい道連れを捜すことだろう。それとも、女が先か。ともかく、彼にしてみれば一時的な旅の道連れは相手のほうからやってくるのだと思い込んでいるようだった。実際、そうなのだろう。でなければ、こんなに簡単に自分と一緒に旅をするはずがない──ヴァレンシアは思った。

 旅の最初の頃には鬱陶しく思っていた存在だったのに、いつのまにか、ホーランドのことを仲間のように思い始めている。

 人の心とは、何と不思議なものなのだろう。

 優しく暖かな風がヴァレンシアの耳元をかすめ過ぎてゆき、彼女はきっ、と前を見据えた。

 <商の都レスティア>はまだか。

 いや、もう少し、このまま街道が続いてほしい。

 一人は嫌だった。一人だと、行方知れずになった第三王子のことを考えてしまうから。夜が、怖いから。一人になった途端に、泣いてしまいそうだったから──

 愛馬トラストの栗色のたてがみに指を絡ませ、彼女は小さく呟いた。

「<商の都レスティア>はもうじきだ」

 そして──不意にホーランドが、言った。

「見えてきたぞ、ヴァイ。あれが……門か?」

 国境を越えて二日目の夕闇の中、二人は<商の都レスティア>の城下町へと続く門を目にしていた。

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