出立(たびだち)
≪1≫
厩舎に近付く軽やかな足音。
栗毛の愛馬トラストが柵の向こう側で喜ばしげに嘶く。
「ヴァレンシア」
優しい声が背後からかかった。
振り返らなくてもわかる。足音だけで、とっくに彼女にはわかっていた。
「ディルディアード様」
振り向き、ともすれば嬉しそうな笑みが零れそうになるのを堪えて、真摯な眼差しで彼女はディルディアードを見つめた。
柔らかな栗色の髪と瞳の、穏やかな笑みがよく似合う青年。
<
小さく息を吸い込んで、ヴァレンシアは口を開いた。
「また、お忍びでご城下へ行かれましたね」
叱り付けるような口調で言うと、当の本人はやんわりと微笑んで返した。
が、ヴァレンシアのほうも負けてはいない。ここで引き下がれば、それをいいことに王子は再び城を抜け出すだろう。もっとも、引き下がらなくとも、いつも勝手に城を抜け出してしまうのだが。それでも、言わないよりも言ったほうが何かと王子よりも有利な立場に立つことができるだろうと、この赤毛の娘は言葉を続けた。
「まったく。いったいぜんたい、三日間もどこでどうなさっていたのですか。あと数刻お戻りになるのが遅ければ、捜索隊が出ていたところでした」
「それは大ごとだな」
わざとらしく目を大きく丸め、ディルディアードは呟く。
まるで気にしていないといった様子が、妙に親しみを感じさせる。
「他人事のようにおっしゃらないで下さい! 仮にも一国の王子たる御方が行方知れずになるなど、前代未聞のことです」
ヴァレンシアが怒ったように食ってかかるとこの穏やかな第三王子は困ったように苦笑した。
が、さらに口許をきりりと結び、艶やかな女騎士は王子に詰め寄る。
「本当に、どこでどうなさっていたのですか。皆が心配しておりました」
微風が日に焼けた彼女の赤い髪を優しく嬲っていく。
「働いていたんだよ」
しばらくの沈黙の後、ディルディアードは優しく答えた。
「──パン屋でね」
その途端、ヴァレンシアは頓狂な声を上げる。
「パン屋? いったいどうして、パン屋なんかに……」
くらくらと眩暈がしそうになるのを必死に堪え、彼女は王子の言葉を待った。
一国の王子ともあろう者が、パン屋で働いていたとは。
何故、そんな必要があるのだ。ディルディアードは第三王子とはいえ、それなりの暮らしを許されていた。金銭的に困ることのないように。それに、ヴァレンシアの知る限りでは、王子が金銭的に困っているということは一度も聞いたことがない。何よりもディルディアード王子は、腹違いのカスケード第二王子のようにわけのわからないものに無駄金を注ぎ込むような浪費家ではない。
ディルディアードは悪びれた風もなく、優しく微笑んでいた。
人懐っこい、ヴァレンシアの好きな笑みだ。
何もかもを押し隠した、不思議な表情。こういう時にはその栗色の瞳からは、感情を読み取ることはできなかった。ディルディアードの瞳はいつの時にもただ優しく見開かれているのみで。
「ヴァイ、手を出して」
テノールの声が悪戯っぽく響く。
「え?」
ヴァレンシアが戸惑っているあいだにディルディアードはポケットから黒いビロード張りの小箱を取り出し、自分のよりも一回り小さな彼女の手の中にそっとそれを押し込んだ。
「いいものをあげる」
王子の顔に笑みが広がった。少しおどけた、少年の笑みだ。
「開けてごらん、ヴァレンシア」
優しい緑の薫りを含んだ風が吹いてきて……小箱を開けた瞬間の、ディルディアードのあの嬉しそうな笑みだけが、ヴァレンシアの黒い瞳に鮮明に焼き付いた。
さらさらと流れる風がゆっくりとディルディアードを包み込んでいく。
やがてそれは、白い光へと変化し…──ヴァレンシアは、冷たく空寒い自分の部屋で目を覚ました。
≪2≫
「カスケード第二王子様にお目通り願いたい」
男の声が広間に響き渡る。
赤毛の娘を伴った<
ほどなくして扉が開き、二人はその向こう側へと招かれた。
部屋の奥、王座に腰かけた若い男の姿があった。赤い絹の上着にはきらびやかな黄金の止め具が添えられている。左手の薬指には大きな紅玉の指輪。どちらも明るいオレンジ色の髪と瞳にはよく映えていたが、亡き国王の喪が明けきらないうちから第二王子は派手な格好をして城内を歩き回り、さらには公の場で臣下の者たちに命令を下していた。
──これでは先が思いやられるな。
小さく溜め息を吐き、騎士団長は呟きを洩らす。
が、カスケードはそれには気付かなかったのか、わざとらしい笑みを浮かべて二人を歓迎した。
「よく来てくれた。騎士団長タリミアス、並びにその娘ヴァレンシアよ」
鎧を纏ったタリミアスとヴァレンシアは重々しく会釈を返し、カスケードの言葉を待った。いくら気に入らないとはいえ、カスケードは<
「さて」
と、じろりとヴァレンシアに冷ややかな眼差しを向けてから、第二王子は話し始める。
「今日、お前たち二人をここへ呼んだのは言うまでもない。第三王子……いや、元・第三王子のディルディアードのことだ」
そう言ってカスケードは口許をにやりと引き吊らせた。
何がそんなに嬉しいのかと問いたくなるような、そんな不自然な笑みだ。
事の起こりは十日ほど前に溯る。
<
騎士団の先頭に立っていた国王は戦死し、第一王子でもあるトラガード殿下も大きな怪我を負って昏睡状態のまま生死の境をさ迷っている状態だ。そして、不意に姿を消した第三王子ディルディアード。カスケード第二王子は、戦いの最中に姿を消したディルディアードに、襲われたと公言した。トラガード第一王子は、カスケードを助けようとして傷を負ったのだとも。
「どういうことでしょうか」
タリミアスは低い声で尋ねかける。
表情はなく、声の調子からしていつになく不機嫌そうだ。
「ディルディアードを捜し出せ。あいつは、この俺の命を奪おうとしたばかりか、トラガード兄上に傷を負わせた。あいつを捜せ。捜し出し、殺してこい。国王に対して謀反を起こし、我が国に妖魔の軍勢を侵入させたのもディルディアードの仕業に違いない」
カスケードは言った。
「何故にそう思われますか。私には推測で人を殺すことはできませぬ」
騎士団長の無機質な声がヴァレンシアの耳に響く。
ヴァレンシアがこの老いた騎士に目を馳せると、彼は心配ないといったふうに目配せを返した。彼女の上官であり、剣の師でもあり──そして、父である男は優しい眼差しでヴァレンシアに微かな笑みを向けた。心配は要らない、と。
「黙れ、タリミアス。兄上が意識不明の今、このカスケードが国王代理。いわば国王も同然。それなのにお前は、俺の言葉が聞けぬと申すか」
カスケードのオレンジ色の瞳がすっと細くなる。
剣呑な暗い色を秘めて、カスケードは騎士団長を見遣った。
「タリミアス騎士団長、そしてヴァレンシアよ。ディルディアードを捕らえよ。前言を撤回する。殺せとは言わぬわ。あいつを俺の目の前に連れてこい」
有無を言わさぬカスケードの、あまりにも強い調子にヴァレンシアは眉を寄せた。これではまるで、ディルディアード第三王子が罪人であるかのような扱いではないか。
ディルディアード第三王子といえば、カスケード第二王子の腹違いの弟。母親は違えど、二人は確かに血を分けた兄弟なのだ。それなのに何故、いがみ合わなければならないのだろう。片方がもう一方を殺すなど、どうしてそんなに惨たらしいことを平気で口にすることができるのだろう。
「私は…──」
言いかけたヴァレンシアを遮り、騎士団長は形ばかりのものではあったがとりあえず、カスケード第二王子の顔を立てることにした。
「ディルディアード様を保護するという意味で仰言っておられるのでしたら、私は、その御命令に喜んで従います」
タリミアス騎士団長の皮肉めいた鋭い言葉がカスケード王子に向けられる。
ヴァレンシアは父の側で黙って話を聞くことにした。彼女が、父とカスケード王子との謁見の場に立ち会うことを許されたのは、一つには彼女が行方知れずのディルディアードと親しい間柄だったからだ。それ以外の理由としては、騎士団長である父親の口添えがあったからだろう。
彼女一人ではあまりにも無力すぎて、何もできなかったのだ。
「では、連れてこい。それだけだ」
冷たく、カスケードは言い放った。
どうやらカスケードは、どのような形であれ、腹違いの弟の身柄を拿捕することができればそれで納得するようだった。しかし本当に、ただ連れてくるだけでいいのだろうか。カスケードの横顔を訝しげに盗み見て、ヴァレンシアは考える。もしもディルディアード王子を城に連れ戻すだけならば、他の者でも構わないはずだ。この二人にしかできないというわけではないのだから。それなのにカスケードは何故、ディルディアードに近しい二人をわざわざ呼び付けたのだろうか。いったい、第二王子は何を企んでいるのだろう。
「──は」
重々しくタリミアスは礼をする。
それに習ってヴァレンシアも臣下の礼を取り…──その時、謁見室の扉が大きく開け放たれた。
「カスケード様、楽士たちが庭園に揃ってございます」
鈴を転がしたような軽やかな声が部屋を満たした。
喪服を着てはいたが、その娘は目にも鮮やかな金髪を波打たせていた。ヴァレンシアと違ってきめ細かな白い肌は、日焼けもしていなければ引っ掻き傷の一つもない。華やかで繊細で美しい娘だ。
「話は終わった」
感情のこもらない声で一言そう言うと、カスケードは二人に背を向けた。
「何のお話でしたの?」
金髪の娘は優雅な足取りでカスケードのほうへと歩み寄り、尋ねかける。口許に引いた紅が生々しく、酷く美しい。
「其方には関係のないことだ。それより、楽士たちが待っているのだろう」
いそいそと謁見室を後にするカスケード第二王子に、王の風格は見受けられない。
もとよりカスケードには短気なところがあった。そのせいか、常に人々の口に昇るのは、文武両道に秀でたトラガード第一王子、次いで温厚で人懐こいディルディアード第三王子の話題ばかり。第二王子の話題が人々の口の端に昇るのは、大抵の場合が王子らしからぬ何か奇妙な行いをした時に限られていた。
「呑気なものだ。国王代理だと言いながら、このような時に園遊会とは……」
深い深い溜め息を吐き捨て、タリミアスは娘と連れ立って城を後にした。
≪3≫
小さな部屋はおよそ年頃の娘らしからぬ殺風景で簡素なものだった。
いや、ディルディアード第三王子の私軍を束ねる騎士団長タリミアスの娘の部屋だと言えば、納得のいく部屋なのかもしれない。
塵一つない部屋には、飾り気のないシーツで覆われた樫のベッドの他に数点の家具。机の上にはインク壷とペン、ペーパーナイフ、それに数枚の紙。馬をかたどった細密なペーパーウェイトの下に無造作に置かれているのは、走り書きされた置き手紙。
ディルディアード第三王子の行方を追うので、心配する必要はないといった内容の文が簡潔に書かれている。
部屋に入ったタリミアスは、まず、机の上の手紙に目を通した。冷静なもので、落ち着き払ってそれを読んでいる。それから机の上にあった紙に何か書き付けると、それを手にしたまま屋敷の裏手にある厩へと向かう。
彼には、娘がまだ屋敷を出ていないという確信があった。その証拠に、ヴァレンシアの愛馬トラストの嘶きが耳に届いてくる。
タリミアスは、娘を愛していた。
たとえ彼女が血の繋がらない娘だとしても。
彼とその妻とのあいだには、一人の娘がいた。もともと身体が丈夫な質でなかった上にある年の冬に流行り病を患い、そのまま返らぬ人となった。一冬を喪に服したまま越したタリミアスは春の初め、街道沿いの寂れた宿屋でヴァレンシアを見付けた。赤茶けた髪を後ろで一つに纏めた、青白い顔の冴えない小娘。それがヴァレンシアだった。タリミアスは宿屋の主人──ヴァレンシアはその頃すでに、孤児だった──に頼み込んで彼女の養育権を譲ってもらった。もちろん、彼らにはそれ相応の金貨を払い、それだけでなく、タリミアスの権限で彼の騎士団専属の宿屋とする契約を交わしたのだ。宿屋の夫婦はヴァレンシアを可愛がってはいたが、食い扶持が一人減るということと、タリミアス騎士団長との養子縁組がヴァレンシアには滅多にない幸福だという結論に達した上で、彼女の身柄をタリミアスに一任したのだった。
こうしてヴァレンシアは<
だが、いまだに父娘のあいだには深い溝がある。互いに不器用すぎるのか、相手の考えていることは手に取るようにわかるというのに、近付くことはできないでいた。
タリミアスは静かに屋敷の裏手を歩いた。
すぐに厩舎が見えてきて、その前で栗毛の馬にブラシをかけている娘の姿が目に入る。もう一頭の白馬の背には、すでに小さな荷物袋がつけられている。
「ヴァレンシア」
タリミアスは驚かさないように静かに声をかけた。
赤毛の娘は振り返り、父親にぎこちない笑みを送った。
「お父様……」
「ハンザも連れて行くのか?」
厩のほうにちらりと視線を向けて、タリミアス。
「──お父様、ヴァレンシアをお許し下さい」
居心地悪そうに髪をかきあげ、ヴァレンシアは呟いた。愛馬トラストが甘えるようにしてヴァレンシアの腕に鼻をすりよせてくる。
「何のことだ、ヴァレンシア。私は何も知らぬ。何も見ていない。気が付いた時には、娘は既に出ていった後だったのだからな」
悪戯っぽく目を細め、彼は言った。
それから、先刻の紙を小さく折り畳み、娘の手の中にしっかりと握らせた。
「<
父の言葉に、ヴァレンシアは力強く頷く。
「すみません、お父様」
──もしかしたら私は、お父様にとっては良い娘ではないかもしれない。
ぼんやりと思いながらも彼女はトラストのほうへと足を向ける。
行かなければならなかった。
カスケード第二王子よりも先に、行方知れずとなったディルディアード第三王子を見付け出すために。事の真相を、確かめるために。
「早く行くんだ。新たにカスケード王子から命令を受けた者たちがそろそろ動き始める頃だろう。お前は、ディルディアード王子の潔白を信じているのだろう?」
ふたたび父の言葉に頷いて、ヴァレンシアは背を向けた。
「道中、気を付けるのだぞ」
トラストの背に跨った娘に向かって、タリミアスは静かに声をかける。
見送る気はないらしい。
きっと、タリミアスは何もなかったように振る舞うのだろう。娘が出て行ったことなど何も知らないといった様子で。
──すみません、お父様……
愛馬トラストと純白の馬を従えて、少女は旅に出た。
服装はごく簡単なものだった。金糸の刺繍を施した白いチュニックに、一番軽い胸当てをつけている。白い手袋は肘の上までかかる長いものを着け、さらに、ブーツも膝の上を包む長めのものにした。人目につかないようにフード付きのマントにすっぽりと身を包んでいるが、彼女が女だという事実は隠そうにも隠すことなどできない。フードの影では、雫の形をした細い耳飾りが揺れていた。淡い紫色の水晶でできたその中には、透明な液体が入れられている。何かの時にと用意した薬だ。それに、腰に下げた中剣とブーツの中に隠した二本の短剣。
町外れまでは何気なく振る舞わなければならないために二頭の馬を駆けさせることはできなかったが、町を出た途端、ヴァレンシアは風を切るような速さで馬たちを走らせた。
少しでも速く、遠く、カスケードの差し向けた追手から離れなければならない。と同時に、少しでも速く、近く、ディルディアードのいる場所へと行きたかった。
自分がどこへ行けばいいのか、それすらわからなかったが、カスケードの手の者たちに追い付かれてはならないということだけははっきりとわかっていた。おそらく、カスケードの追手はディルディアードを殺すだろう。タリミアスと共にヴァレンシアを呼び付けた時に口にしたように、カスケードは追手の者たちにこう言ったはずだ。ディルディアードを見付け出し、殺してこい──と。
赤毛の娘は<
屋敷を出る時に父親に渡された紙は、胸当ての裏の隠しポケットの中だ。紙には、街道沿いの宿屋の名前と場所とが示してある。ヴァレンシアは丸三日間、馬たちを走らせ続けた。馬たちを止めるのは、食事を取る時と休息を取る時のみ。できるだけ睡眠時間も削って、夜も遅くまで馬たちを歩ませた。朝は、もちろん日の出と共に野営地を出発した。
<
街道沿いに建っている農家と大して変わり映えのしない、貧弱な小屋。人を泊めることは滅多にないのか、それとも、他に理由があるのか……ともかく、ヴァレンシアはその煤けた宿屋のドアを軽くノックした。
しばらくして、後ろでひとつにまとめた髪に白いものが混じる女がドアを開けた。
ふくよかな体型の中年の女だった。
「一晩、泊めて頂けるでしょうか」
少女の言葉に女は笑って答えた。
「どうぞ入っておくれよ。見たところ、その止め具の紋様は<
そう言ってヴァレンシアを中へ招き入れると、威勢のいい大声で女将は奥へと声をかけた。
「あんた、ちょいと! このお客さんの馬を裏に連れてっておくれでないかい」
すぐに奥から主人らしき男が現れ、二頭の馬たちを引いて裏へと行ってしまった。
「ああ、なに、心配することはないよ。ちゃぁんと、うちの厩に繋いでおくからね」
話しながら女将はヴァレンシアを奥へと案内する。お世辞にも綺麗とは言い難い小屋の中を順繰りに説明していってくれるつもりらしい。
「あんたの部屋は、この階段の横の部屋」
と、女将は片目を軽く閉じてみせた。
「隣に若い男が泊まっているから、何かあったらすぐに大声を出すんだよ」
腰に手を当て、まるで母親のように彼女は忠告までしてくれた。
「ありがとう、おばさん」
女将に礼を言ったヴァレンシアは、部屋に入ると大きな溜め息を吐いた。
まだ、これからどうしたらいいのかわからないでいる。とりあえず父親の言葉通りここまで来たものの、これからどこへ行けばいいのかは皆目見当もつかなかった。
──これから、どこへ行けばいい? どうすればいいのだろう。
不安な思いが胸の内に沸き上がる。ベッドに腰をかけると、彼女は頭を抱えた。少しでも身動きをしたら、涙が出てきそうな気がした。
こんな時に泣いている場合ではないというのに。
きっ、と唇を強く噛み締めると、床を睨み付ける。
ヴァレンシアは、強くなりたかった。この旅の間だけでいい。何にも動じない、鋼のような強い心が欲しかった。
どれぐらい時間が経ったのだろう、隣の部屋から物音が聞こえてきた。
隣の滞在者が何かごそごそとしているらしい。
若い男が泊まっていると女将は言っていたが、こんな寂れた宿に泊まるのは、いったいどのような男なのだろう。旅慣れた青年だろうか。それとも、ふらりと旅に出たどこかの貴族の息子だろうか。
そういえば、ディルディアード様もよく城を抜け出しておられた…──そんなことを思い出しかけた刹那、ドアが勢いよく開いた。
「食事だよ」
皺の刻まれた顔に豪胆な笑みを浮かべて、女将は食事ができたことを告げに来た。
マントと胸当てを外し、ヴァレンシアは部屋を出た。
何よりもまず、食事をして、ゆっくりと睡眠を取って。それから次に何をすればいいかを考えればいい。とりあえず、眠る時間がくるまでにはまだ充分な時間が余っている。
食卓に着いたヴァレンシアはそこで、藍色の髪の青年に目を奪われた。
滅多に見ることのない、珍しい色の髪。しかも眼は、赤味がかった金。先に食事を始めていた青年は、人懐こそうな笑みを浮かべてヴァレンシアを見遣った。
「君も、<
尋ねかける声は、優しげなテナー。
「ああ……まあ、そんなところだ」
席についたヴァレンシアが答えると、少し遅れて食堂に入ってきた女将が大袈裟なほど驚いてみせた。
「お止しよ、<
「どうして?」
と、青年。
彼は、女将のわざとらしい言い方が気になったらしい。食事を口に運ぶ手を休め、不思議そうな表情で女将を見つめた。
「あの町をね、一週間かそこら前に、妖魔が通ったんだよ。そんな恐ろしげなところへ行こうだなんて、正気の沙汰じゃないね。おお、怖……」
最後の言葉を何度も繰り返しながら、下座についた女将は豪快ともいえる勢いで食事を始めた。
──妖……魔?
ヴァレンシアは、手にしたばかりのスプーンを取り落としてしまった。
からん、と虚ろな音を立ててスプーンが啼いたが、ヴァレンシアは自分の手からスプーンが落ちたことにも気付いていないようだ。
「どうかしたのかい?」
心配そうに女将が尋ねかけたが、今のヴァレンシアにはその言葉すら耳に入ってこない。
妖魔。
確かに女将は「妖魔」と言った。もしや、その妖魔はディルディアード第三王子を連れていなかったか。それともこれは、ヴァレンシアの単なる憶測でしかないのだろうか。だが、もしもディルディアード第三王子が妖魔と道行きを共にしているのなら、追いかける方法はある。
噂の後を、ついて行きさえすればいいのだから。
≪4≫
「とりあえず、<
にやり、と口許にふてぶてしい笑みを浮かべ、青年は言った。
「不本意だが、そういうことになるな」
道連れが出来たことをヴァレンシアは喜ばしいことだとは思っていなかった。それよりもむしろ、独り旅のほうがどれだけ気が楽だったことか。人に気を遣うこともなく、自分のペースで毎日の日程をこなしていればそれでよかったのだから。
さらに腹の立つことに、連れてきた純白の馬ハンザを、この青年が難なく乗りこなしたという事実だった。
ハンザは、子馬の頃からヴァレンシアが目をかけて育ててきた馬だ。そしてついこの間まではディルディアード第三王子の愛馬でもあった。ヴァレンシアの努力の甲斐あってハンザは聞き分けのいい馬に育ったが、王子を背に乗せていた時と同じように、何のためらいもなく見ず知らずのこの青年を背に乗せたことが、酷く気に障った。これまで、ディルディアード第三王子とヴァレンシア以外の人間を背に乗せたことなどなかったというのに。
苛々と馬を進めながら、ヴァレンシアは思った。
この青年の名をまだ訊いていなかった、と。
藍色の髪と金の瞳の、異国の青年。旅慣れているようだが、いったい何故、このようなところをうろうろしていたのだろうか。
訝しげに青年の横顔を盗み見ると、青年のほうはどこ吹く風といった様子で馬を進めている。
馬に揺られた二人は、街道を真っ直ぐに南へと進み続ける。藍色の髪の青年は、とりあえずは<
「……お前、名は?」
唐突に、ヴァレンシアが口を開いた。
「名前?」
尋ねられた青年は、きょとんとした表情でヴァレンシアを見つめ返す。
「そう。名前ぐらいあるだろう? 私はヴァレンシア。<
誇らしげに、しかし最後のほうは小さな声で告げた娘は、青年が口を開くのを待った。
「ヴァレンシア──勇気ある娘……ヴァイ、ね」
頷いて、青年は微笑んだ。
「いい名だ」
青年の金の瞳は、思っていたよりも優しく見開かれていた。いつかヴァレンシアが見たことのある、どこか愛しげな眼差し。
あれは、どこで見たのだろう……
「ごまかすな!」
ふと、我に返ったヴァレンシアは声を荒げた。
彼女は、青年の名を聞いたのだ。それなのに彼は、一言でそれをはぐらかした。自分の名を告げることを恐れているかのように。それとも、名前を教えると何か都合の悪いことでもあるのだろうか。
「貴様、名は?」
今にも食らいつかんばかりの勢いで、赤毛の娘は再び尋ねる。
「そう…だな、とりあえず、ホーランド……とでも言っておこうかな」
にっこりと、彼はヴァレンシアに笑いかけた。
「ホー……」
「ホーランド」
と、青年はゆっくりとその名を告げた。
<
「馬鹿にしているのか?」
剣呑な空気を孕ませて、ヴァレンシアは青年を睨み付ける。嘘をつくにしてももっとましに嘘がつけないものなのだろうか。よりにもよって、自分の名を「ホーランド」と名乗るとは。それともこの男、馬鹿なのか──横目で整った顔立ちの青年を流し見て、ヴァレンシアは思った。
「大真面目」
とは、青年──ホーランド。
内心、ヴァレンシアは厄介な人物と道連れになってしまったものだと悔やみ始めていた。
二人が宿を発ったのは今朝方のこと。まだ半日と経っていないというのに、彼女はこの青年に対して大きな不信感を抱き始めていた。このまま一緒に旅を続けても大丈夫なのだろうか。旅といっても、<
「まあ、<
ホーランドの、この、軽々しいものの喋り方。
この男はまともな言葉遣いを知らないのだろうか。宮廷作法を学んだ上、騎士としてこれまで生活を送ってきたヴァレンシアには、この青年の言葉遣いが信じられなかった。彼女のいた階級社会では、このような喋り方をするのは無作法とされた。これでは、下層階級に属する者の喋り方そのものではないか。
「少し黙っていろ」
ヴァレンシアのむっとした表情も何のその、ホーランドは下らない世間話を一人でとうとうと喋り始める。ヴァレンシアに、聞いてくれと言わんばかりの様子でもって。
その日の夜、ヴァレンシアはうんざりとした気分で野営地に腰を下ろすことになった。宿に泊まるには、もう少し馬で進まなければならない。そうするだけの気力がなかったため、彼女は仕方なく馬から降り、野宿に踏み切った。今夜は誰とも話したくない気分だった。
そう、特にホーランドとは。
集めてきた薪に火をつけ、パンとチーズとカミツレのお茶で簡素な夕食をすませると、ヴァレンシアはさっさと毛布にくるまった。
頭上の月が、ヴァレンシアが眠ろうとするのを邪魔するかのように、白く、煌々と輝いている。
強く目を閉じ、頭から毛布を被り直した瞬間……ホーランドの声が、低く警告を発した。
「ヴァイ、気を付けろ──妖魔が集まってきている」
初め、ヴァレンシアはそれがホーランドの冗談かと思った。だが、しばらくすると人の発する殺気ではなく、かといって獣の気配でもない、冷たい何かの気配が漂ってくるのが感じ取られた。それから、彼女にもはっきりと理解することのできない、本能的な警戒心が頭をもたげ始めた。
トラストとハンザの二頭もただならぬ空気に気付いたのか、酷く興奮しているようだ。
「何故、妖魔が……」
問いただそうとしたところへ、一陣の強い風が吹き荒れる。
死臭を含んだ生臭い風だ。
毛布を跳ね除け、ヴァレンシアは素早く飛び起きた。酷く嫌な感じがした。傍らに置いていた剣を手に取り、しっかと握り締めた。
「きたぞ!」
ホーランドの緊張した声がしたと思うと同時に、凄まじい勢いの突風が二人を取り囲んでいた。
【ミツケタ……】
【ミツケタ】
うねりながら、風は低く高く声を発する。
【さるとヨ、トウトウ、オマエヲミツケタゾ】
声は、甲高い金属音を思わせた。
あからさまな敵意と悪意の集合体のようなその声は、辺りに禍々しい気を振り撒いていた。
「サルト?」
怪訝そうにヴァレンシアが呟く。
が、ホーランドはそれには答えようとしなかった。
「……散れ」
ホーランドは一言、憎悪を込めて言葉を放つ。
青年の放った言葉には、それ自体に強い魔力が宿っていた。いつの間にか二人を取り囲んでいた風の障壁を叩き潰すほどの力があった。
閃光が激しく走り、一瞬にして風は四散した。
「──サルトよ……王はお怒りぞ、サルト」
静まり返った闇の中にそして、老婆のしわがれた声が響いた。
≪5≫
「妖魔王はお前の裏切りなどお見通しじゃ」
敵意も露に、一人の老婆が闇の中から歩み出てきた。
黒いローブに身を包んだその禍々しきものは、違うことなく人間の姿をしていた。だが、その気配は獣の如し。身体中から激しい死臭を漂わせている。明らかにこれは、人間とは異なる種類のもの──妖魔。しかしいったい何故、このようなところに妖魔が現れたのだろう。
ヴァレンシアは初めて見る異種のものから目を離すことができなかった。魅入られそうなほどに深い闇を纏った、老婆が一人。あの強い死臭と獣の気配さえなければ、彼女が妖魔だということには気付かずにいたかもしれない。
「うまく隠れおおせたとでも思っておったか」
老婆の声は、先刻、風の中から響いてきたものと同じものだった。
「人の目は誤魔化せても、我ら一族に目くらましは通用せんということを忘れおったか」
からからと笑い、老婆は藍色の髪の青年を見遣った。
濁った眼。虚ろで、焦点の定まらない白い目。
しわがれた声は、ヴァレンシアの耳に不快感を与えるだけだった。
「それはどうかな」
言って、ホーランドは口許に笑みを浮かべた。
老婆は微かに手を動かし、その刹那、ホーランドの髪を束ねていた紐がはらりと風に舞う。藍色の髪が風圧になびいた。
ヴァレンシアには老婆の手の動きがはっきりと見えていた。別段、特殊な武器を使ったというわけではなかった。ただ、軽く、老婆は手を動かしただけだった。それだけで離れたところにいるホーランドの髪を束ねていた紐が、こんなにも呆気なく切れてしまうとは。それとも今のが、大抵の妖魔ならば持っていると言われる、魔力なのだろうか。
「ホー…──」
ヴァレンシアが駆け寄ろうとしたところへ、青年の堅い声が飛んだ。
「下がっていろ、ヴァイ!」
両足で大地をしっかりと踏みしめ、藍色の髪の青年は目の前の老婆を見据えた。金色の瞳が、見る見るうちに血の朱に染まっていく。
「わしに手を出せば、王に刃向かうこととなるぞ」
老婆の哄笑を冷たく一笑すると、ホーランドはかっと目を見開いた。
「夜に生まれしものは夜に、闇の生まれしものは闇に還れ」
テナーの声が告げると共に、力の光がホーランドの手のひらに収束し、解き放たれた。白く淡い、月光にも似たその光は、老妖魔の眉間を貫き、その向こうへと突き抜けて──消えた。
「呪われろ、サルトよ!」
絶叫にも近いしゃがれた声を最後に、妖魔はしゅうしゅうと音を立てて煙となって消えた。
ヴァレンシアもホーランドも、しばらくの間、妖魔が立っていた辺りの虚空をじっと凝視していた。何となく二人とも、口を開く気になれなかった。
──朝になったら聞こう訊こう……朝に、なったら……
そう、ヴァレンシアは心の中で自身に弁解をした。
今はともかく、問い質す気力すらなかった。妖魔が目の前に現れたことも、そしてその妖魔が藍色の髪の青年をサルト…──何百年かの昔、<
すべてが信じられないことだったが、すべて、現実にあったことなのだ。
夢ではない。
だから今は、心の整理をするために何も喋りたくはなかった。朝になったら問い詰めて、彼……ホーランドだかサルトだかが、人間なのか、それとも妖魔なのかをはっきりさせればいいことだ。
まさか逃げるようなことはないだろう。
──大丈夫。一つずつ、ゆっくり考えていけば何もかもうまくいくはずだ。
いつのまにか消えかかっていた焚き火に薪をくべ直し、ヴァレンシアは夜が明けるのを待った。
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