神聖王国物語

篠宮京

昔語り

  そこに四掴みの石 あり

  天は 北に在り

  地は 東に

  水は 西に在りて

  命は 南に在り

  これら古より結界石と呼ばれ、

  聖なる大地を四方より守らん


  大いなるかな 大地

  大いなるかな 民人よ


  日々を与えん聖なる地よ

  人を 守り

  国を 守らん


  大いなるかな 大地

  大いなるかな 聖なる国


  人、

  この地を<神聖王国ホーランド>と呼ばん

  はるかなる神話の代より続く

  人々のための伝説による──



      ≪1≫


 風が吹く。

 血の臭いを含んだ、生温かい赤い風が。

 人々は弱く、上つ代の一族──彼ら一族は「妖魔」と呼ばれ、常に血と争いとを好んだ──の脅威に晒されていた。

 妖魔たちは人々を欺き、互いの心に不信感を抱かせ、人間同士が争う様を眺めては悦楽に浸った。

 その妖魔の一人サルトは、海に面した西の大森林地帯に栖み処をおく、妖魔王の力ある側近だった。

 肩までの波打つ髪は、宵闇の色にも似た深く透明な藍色。琥珀色の肌の、美しい青年。鮮やかな黄金の瞳には血の色が微かに含まれている。

 執念深く、野心家であることも確かだ。

 王の側近では物足りないサルトは、いつか、妖魔王を王座から追放し……その代わりに自分が王位に就く日を夢見ていた。

 それにはまず、土地が要る。

 広大、かつ何者にも侵略されるおそれのない土地が必要だ。サルトの栖み処は、西の森にある。人々にとっては神聖なことこの上ない不可侵の地。森に生息する野獣ですら入り込もうとはしない土地に、サルトは根城を構えていた。獣たちは本能的なものからこの土地に入ることを憚り、ある一定の線を越えたところから先へは近寄ろうとはしなかった。まるで時間が止まってしまったかのように感じられ、張り詰めた静けさの中にあえて入ってくる者すらいない場所。運悪く入り込んだ者がいたとしても、サルトや、その側近たちがさんざん玩具にした挙げ句の果てに嬲り殺しにした。或いは、何日ものあいだ森の中を彷徨わせた後に、鋭い獣の歯牙にかけさせたりしたものだ。

 貧弱で、粗野な種族──サルトは人間たちのことを、そう呼んだ。

 見ていて飽きることのない人間はそして、懲りずにサルトの栖む森へとしばしば足を踏み入れた。

 禁を破ってまでして森に侵入し、探索する者たち。

 妖魔とは違い、はかない命の持ち主ども。

 もしも彼らを自由に動かすことができるのならば……

 妖魔ではなく、人間を、自らの臣下としてみたいものだ──サルトは思った。珍しい玩具の一つとして、一人、或いは幾人かの人間を自らの手の上で遊ばせるのではなく、何百という大きな単位で人間を将棋の駒の一つとして動かしてみたい。一つの国を、手中に納めてみたい。

 サルトは手始めに海岸沿の<海の都ネプト>に攻め込んだ。

 呆気ないほどの勝利。

 人間どもがいくら束になってかかってこようとも、妖魔に勝てるはずがなかった。

 サルトは妖魔王の側近で、しかも人間以上に高度な妖術を心得ているのだから。

 続いて<商の都レスティア>を攻め落としたサルトは、次に、その北に位置する山間の小国に目を向けた。四方を聖なる石に護られた、<神聖王国ホーランド>。

 かつて、妖魔の中でも最も力ある妖魔王が地上に大戦乱を招いた折に唯一、手を出すことのできなかった国。東西南北を険しい山々に囲まれた、小さな、しかし先に制した二つの国以上に豊かな国である。

 <神聖王国ホーランド>が強力な結界と、自然の造り上げた強固な天然の砦によって守られていることは周知の事実だった。

 人間ですら知っていることを、サルトが知らないはずがなかった。

 あの妖魔王が、関わろうとしなかった国。四つの結界石に守られた小国は、神聖なる国、力ある大地として、妖魔のあいだでも噂に高い国だった。完璧なまでの強力な結界の向こう側に広がる豊潤な大地。決して大きくはなく、また、大した戦力も持たないこの国がここまで潤っており、近隣諸国から一目置かれているのも、すべて結界石の力ゆえとも言えるだろう。

 結界石の力があれば、世界を意のままに動かすことも可能だとも言われている。それほどまでの力を持つこの四つの石たちは、ほとんどの力ある妖魔ならば一度は欲するものでもあった。妖魔でなくとも、幾許かの野心を持つ者ならば人間ですら、<神聖王国ホーランド>の支配を望む者があった。<神聖王国ホーランド>を手に入れることは、世界を手に入れるのも同然のことなのだ。

 陥落した先の<海の都ネプト>と<商の都レスティア>から戦士を集めたサルトは、妖魔と人間たちから成る軍隊を編成した。

 ある雨の夜、サルトの軍は<神聖王国ホーランド>へと侵攻を始めた。

 結界の手前、山の中腹までは、妖魔たちが人間を守ることになっていた。サルトの軍についた人間たちにはある使命が課せられていた。<神聖王国ホーランド>に侵入し、妖魔たちのための進軍経路の確保をする──もしもの時は、兵士たちの命を引き替えにしても。このことに関して兵士たちは口を挟むことはできなかった。自分たちの家族を盾に取られているというのに、文句など言えようか。

 <商の都レスティア>から続く一本の街道に沿って、兵士たちは雨の中を従軍した。夜が明けても雨は止まず、ますます勢いを増していた。

 丸半日以上を費やして、彼らは<神聖王国ホーランド>の正面玄関にして唯一の出入り口に辿り着いた。

 迎え撃つ<神聖王国ホーランド>の軍は、結界の外にいた。妖魔だけならばともかく、人間が、サルトの軍にはいる。もし万が一、この兵士たちが国内へ入り込んだならば、<神聖王国ホーランド>はどうすることもできなくなる。内側からの攻撃に対する結界石の効力は皆無に等しい。そのため、<神聖王国ホーランド>軍は結界の外での戦いに踏み切ったのだ。

 妖魔に守られた兵士たちは、じわじわと<神聖王国ホーランド>軍を追いつめた。



      ≪2≫


 <神聖王国ホーランド>国王は、御歳二十六歳。

 淡く柔らかな栗色の髪と瞳を持つ、温厚な青年だ。

 近々、国一番の美姫の輿入れが決まったばかりの王の当面の気がかりは一つだけ。

 このところ諸外国を脅かしている、妖魔の軍。

 その中には生き延びた人間の兵士が混じっているという噂だ。いくら敵とはいえ、同胞を殺すことには抵抗を感じた。彼らは彼らで、そうせざるを得ない事情があるはずだ。純粋に敵意を持っているわけでもないのに、なぜ殺し合わなければならないのだろうか。

 同じ人間同士で殺し合うことほど馬鹿げたことはない。

 確かに人間たちは、領土の奪い合いや、ことによるともっと下らない、どうでもいいような低次元なことで大勢の人を争わせることがある。だが、今回のように、はっきりとした敵意を持たない者と戦わなければならないというのは、命令を下す側である国王にとっては苦痛以上の何ものでもなかった。

 できることならば、敵の兵士たちとは戦わずにすませたいものだ──青年王は、そう思っていた。

 戦いが始まる前は。

 妖魔と、いくらかの人間の兵士を含んだサルトの軍はゆっくりと、そして着実に<神聖王国ホーランド>への道を進行してきた。

 いざ戦いとなると、王の考えは改められた。

 王の使命として、義務として、まず、国民を守らなければならない。

 必然的に<神聖王国ホーランド>軍は結界の外に配置された。人間ならば、結界内に入ることができる。おそらくサルトは、必要であれば他からも人間を集めてきて<神聖王国ホーランド>へ送り込もうとするだろう。どうあってもそれを食い止めなければならない。サルトを退けることができなければ、いつかは<神聖王国ホーランド>も他の国同様、遅かれ早かれ妖魔の手に落ちるだろう。結界があったとしても、それを破る方法を見付けられでもしたら一巻の終わりだということも、この年若い王は理解していた。

 サルトの軍と<神聖王国ホーランド>軍とが対峙したのは、ある霧雨の夜のことだった。

 その夜、若き青年王とその臣下たちは勇敢に戦ったが、何人かの妖魔軍の兵士たちは暗闇に紛れて<神聖王国ホーランド>へと忍び込むことに成功した。

 国内に潜入した兵士たちは、王の命を奪うか、或いは、それに準ずる者を捕虜として捕らえるかの、二つに一つの命令を受けていた。兵士たちのある者は王宮を目指し、またある者は、王の妻となる姫君がいる場所を目指して夜の街を徘徊した。

 王は、何も気付いていなかった。

 まさかこれほど近くに敵が紛れているなどとは、露とも思わずにいたのだ。

 しかしサルトは知っていた。

 自分の送り込んだ兵士たちの何人かが首尾よく<神聖王国ホーランド>に潜り込み、そのうちの一人が今しも王宮に辿り着こうとしていることを。

 サルトは、兵士たち一人一人の意識と目を通して、王国内に潜り込んでいた。兵士の一人が王宮に辿り着いたことで、彼はその兵士一人の意識に同調することにした。ここから先は、この兵士の行動に注意を傾ける必要がある。

 闇の中、時間はゆっくりと過ぎていった。



      ≪3≫


 数人の部下と共に一時的に王宮に舞い戻った青年王は、臣下たちに混じって仮眠を取っていた。

 ふと目を覚ましたのは、寝苦しさのためか、それとも──

 生臭い風が明かり取りのための窓から吹き込んでくる。

 起き上がり、王はしばらくのあいだただぼんやりと、壁を見つめていた。それから何気なく部屋を横切り、外へ出た。

 雨はすっかりやんでいたが、そのかわりにむっとするような生臭い湿気が肌に纏いついて離れようとしなかった。

 まだ空には黒い雲がかかっており、月の欠片も見えない。

 篝火の影に王は、何かを見た。

 目にしたのはただの影か、それとも何か別のものか──どちらにしても、この時間に人の目を避けるようにして王宮内をうろつき回る人間など、不審な者でしかない。王は足音を忍ばせ、影を追う。剣を握る手に必要以上の力がこもった。

 影は王の寝室を捜しているようだった。

 影は、王が仮眠を取っていた兵舎には見向きもせずに、ずんずんと宮殿を目指して歩いていく。

 忍びやかに、影は宮殿へ入り込んだ。

 片っ端から部屋を覗き、王を捜して歩くのか…──否、そうではなかった。影は、サルトの声を朧気に感じていた。そしてその声は、王ではなく、王の妻となるべき女を捜せと囁きかけていた。姫君は今、宮殿の客間の一室に招かれている。姫を攫い、その命と交換に結界石の威力を封じさせるのも一つの方法かもしれない──サルトはそう、考えていた。

 結界石に守られている人間が、たった一人の女の命のために守りを解く。

 ──なかなか面白いではないか。

 <神聖王国ホーランド>から遠く離れた地で一人、サルトは含み笑いを洩らした。

 たった一人の女のために守りを解く馬鹿な男の目の前で、助けたばかりの女の命を奪うのもまた一興。徹底的に痛めつけて……それからでも遅くはない、<神聖王国ホーランド>国王を意のままに動かすのは。

 サルトの思いを知らぬまま、兵士は、王は、密やかに駆けていく。

 妖魔の導きによって姫の眠る部屋を探し当てた兵士は、静かに扉を開けた。

 王はまだ、兵士に追いつかない。

「……誰です?」

 ドアが開くと同時に奇妙な気配に気付いた姫がベッドに身を起こした。

 流れる金の髪がさらさらと音を立てた。

「……私はサルト。妖魔王の側近だ」

 兵士の口からは思いがけず、美しい響きの声が流れ出た。

「妖魔」

 呟くと同時に、姫君の胸の内から恐れがじわじわと込み上げてくる。身体が震える。姫君はケットを握り締め、緑色の瞳で無骨そうな兵士を凝視した。少しでも動けば、捕まえられてしまう。

 そんな感じがした。

 やがて──張り詰めた緊張に耐えきれなくなった姫の身体がぐらりと傾き、音もなく崩れ落ちる。

「他愛のない」

 口の端を吊り上げて一人ほくそ笑むと、兵士──いや、今はもう完全にサルトが同化してしまっていた──は姫君の身体を抱え上げた。

 気を失った姫の顔は、恐怖のためか紙のように白くなってしまっている。

 兵士──サルト──はそのままバルコニーへと歩み寄り、そこから飛び降りようとした。もときた道を戻るのは酷く危険なように思われたのだ。

 バルコニーのドアに手をかける。

 その時になってサルトは初めて気付いた。誰かが、自分を凝視しているということに。激しい、憎悪の念のこもった眼差しで。ガラスに映った姿は、淡い栗色の髪と、一対の瞳。

「<神聖王国ホーランド>国王か」

 背を向けたままでサルトは問いかける。

 それがサルトの過ちとなった。

 若き王は妖魔の動きをも封じるほどの素早い動きで鞘から剣を抜くと、勢いよく切りかかった。鋭い切っ先が確実に兵士──サルト──の背を斜めに切り裂く。鮮血が飛び散り、同時に切られた衝撃で兵士は抱えていた姫を腕から放す。

 ふらふらとよろめきながら、兵士は腰に下げた剣を抜き放った。

「この私に刃を向けるとは……」

「お前は、何者だ」

 王は問うた。

 普通の人間ならば死んでいるはずの致命傷を負わせたのだ。それなのに、目の前の兵士はまだ生きている。それどころか、血を滴らせながらも剣を手に、動いている。

 いったいどういうことなのだ。

「──妖魔……だと、言ったら?」

 ぬらぬらと滴り落ちる血の臭いが鼻をつく。

 端整な顔を歪め、王は兵士をまじまじと見つめた。本来ならば虫の息でしかないはずの状態だ。が、しかし目の前のこの兵士は、多少のぎこちなさは感じられるものの、何もなかったように動いている。

「我が名はサルト」

 ──結界石の力がある限り、妖魔が入り込むことはできない。それなのに、何故……?

 王の心を見抜いたかのように、サルトは厭らしい笑みを浮かべた。

「人の心を乗っ取ってここまでくるのにどれだけの妖魔が犠牲になったことか。だが、それももうお終いだ。教えてもらおうか、結界石の封じ方を」

 結界石の力さえなくなれば、<神聖王国ホーランド>など下級妖魔に任せておけばよいことだった。わざわざサルトが手を出すまでもない。これまで落としてきた国とは比べ物にならないほど、<神聖王国ホーランド>の国力は劣ったものなのだから。

「結界石……」

 掠れた声で王は呟いた。

「そうだ、結界石だ」

 兵士の目が、狡猾な猫の目のように輝きだす。

「今一度、問う。王よ、結界石の封じ方は──?」

「結界石の封じ…方、は……」

 妖魔の術にかかったのか、王は、朦朧とした意識と戦っていた。目の前の男の言葉に答えようとする自分を、必死になって抑えていた。

「封じ方は?」

 優しい声が囁きかける。

 早く答えを告げろと、促している。

 だが、王は答えなかった。答える代わりにすかさず剣を繰り出し……兵士の心臓を一突き、優雅に引き裂いた。耳をつんざくほどの凄まじい悲鳴が上がり、やがて長い尾を引いて消えていった。

 目の前に立っていた兵士は力なく床に沈み込むと同時にどろどろと溶けだし、腐臭を放つ濁った液体となった。王の見ている前でそれはさらに変化を遂げ、最後にはしゅうしゅうと音を立てて蒸発し、大気中へと還っていった。



      ≪4≫


 <神聖王国ホーランド>は救われた。

 いや、世界は救われたと言ったほうがいいだろう。

 王が、サルトの意識が同調した兵士に剣を突き立てた瞬間、サルトの命に従って動いていたすべての妖魔たちがかき消すようにしていなくなったのだ。

 妖魔たちはそれぞれの持ち場へと戻ってゆき、世界は、再び平穏を取り戻す。

 しかし──

 サルトは死んだわけではなかった。

 死んだのは、あの兵士。

 サルトに意識を操られていた、人間。

 確かに王の剣は、サルトに大きなダメージを与えた。同調した人間を通り越して、その背後に潜む意識にまでダメージを与えることなど、人間などにできるはずがない──まして妖魔王の側近たるサルトに、百余年にも及ぶ大きな痛手を与えることができるなど。

 だが、実際、サルトはこの先百年ばかりは妖術を使うこともままならない。

 それだけでなく、妖魔王に断りもなく勝手な振る舞いをした代償として、今までの栖み処をも取り上げられてしまったのだ。

 すべて結界石の力ゆえか。

 そして神聖なる大地を中心に、世界は再び動き始める。

 柔らかな光の中、優しい人々が生活を営む土地が日々を紡いでいく。

 住み慣れた栖み処を追われたサルトは、忌々しげに爪を噛んだ。新しい栖み処はすぐに見付かったが、この気持ちだけはどうにも納めることができないでいた。

 ──あの、王……

 軟弱そうな顔をした、ひ弱な人間風情にしてやられるとは。

「百年の時が過ぎた後……その時こそ、目にもの見せてくれる」

 呟く声も、今は生気のないしわがれた声となっている。

 美しい容姿も今はどこへやら、半分腐りかかって溶けだそうとしている死体のようだ。鮮やかな赤い目は白濁しており、全身からも腐臭が漂っている。

 この姿が、そして魔力が完全に彼の元へ戻ったあかつきには、妖魔サルトは必ず<神聖王国ホーランド>への復讐を試みるだろう。

 結界を解き、<神聖王国ホーランド>を……いや、世界を、我がものにせんがために。

 だが、今はまだ安息の時。

 人間たちが立ち直り、繁栄するための、静かで平和な時間がしばし与えられたと思えばいい。

 風が吹く。

 優しく、人々を包み込む命の風が。

 穏やかな風はまるで母親のように、世界を静かに包み込んでいた。

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