ホーランド

      ≪1≫


 孤島には、深い霧が立ち込めていた。

 その深い乳白色の靄の向こう側に、ごつごつとした石造りの城が佇んでいる。蒼褪めた月の色をしたその城の壁面を螺旋状に、幾重にも蔦が取り巻いている。

 島は、酷く静かだった。

 二人の来訪者はゆっくりと、城門へと歩み寄った。

 一人は、癖のある赤毛の娘──名を、勇気ある娘と言う、<神聖王国ホーランド>の騎士。もっとも今は、故国からは追われる身となっていたが。

 もう一人の来訪者は、名を、ホーランドと言った。聖なる王国と同じ名の、藍色の髪と金の瞳の妖魔男。妖魔たちから追われる身のこの青年は、深い息を地面に吐き捨てると連れの横顔をちらりと盗み見る。

 赤毛の娘の美しい横顔には、この褐色の肌の青年に対する信頼が現れていた。

 信じきった表情で彼女は、一歩一歩、大門へと近付いてゆく。

 やはり石造りの大きな扉が、二人の前には立ち塞がっている。ホーランドは黙ったまま扉の前に進み出た。静かに目を閉じ、両手を大きく広げた。

「──石門よ。主の帰還だ、門を開け」

 青年の声は、ゆっくりと石の扉に吸い込まれていった。

 石の扉は二、三度、身震いをすると、ざらざらとした低い唸り声をあげながら、二人を城へと招き入れた。

 城のなかは、湿った空気でいっぱいだった。

 人の気配はどこにもなく、ただ、正面に大きな螺旋階段が吹き抜けの上の階へと続いているだけだ。

「上か……?」

 ヴァレンシアが訝しげに呟く。

 黙ったまま、ホーランドが歩き出す。その後をヴァレンシアが、やはり沈黙を守ってついてゆく。長い長い階段の上、踊り場の果てには、たった一つ、木の扉があるのみ。簡素な、何の飾りもないただの扉は、二人の前に立ち塞がっている──かのように思われた。

 不意に、音もなく扉が開く。

 ゆっくりと、静かに。

 何かに呼び寄せられるようにして、ヴァレンシアが扉のほうへと歩み寄る。半開きの扉に手をかけ、ごくりと唾を飲み込む。

 内側を見るのが、怖かった。

「あ…──」

 人影が、黒い瞳に飛び込んでくる。

 決して見間違うはずのない、懐かしい姿。

 窓際に佇んで、外の景色を見ている青年──栗色の髪と瞳。優しいテノールの声。人懐っこい、誰からも好かれるあたたかな笑みの人。

 ノブを掴んだ手に力が籠り、扉が軋む。

 人影が小さく揺らいだ。

「誰だ」

 穏やかな物言い。

 ──やはり……

 人影がこちらを振り返る。

 ヴァレンシアが願っていた、懐かしい人の姿。会いたくて会いたくて、いざ、こうしてその人に会うことができたら、涙が出るほどに懐かしい、人物。

「……ディルディアード様!」



      ≪2≫


 その瞬間、ヴァレンシアは駆け出していた。

 瞳に映る懐かしい人が消えてしまうその前に、彼女の手に捕まえようと必死に。

 ホーランドは動かなかった。いや、動けなかった。そのまま、石と化してしまったかのように、彼はその場に立ちすくんでいた。

「──よく、ここまで来てくれたね」

 滑らかな、よく通る声が労いの言葉を紡ぎ出す。

 栗色の穏やかな瞳の青年は、口許に優しい笑みを浮かべた。

「ディルディアード様……」

「待っていたよ、ヴァレンシア」

 静かに、青年が歩み寄る。

 鮮やかな焦茶の長衣の内側で微笑む人は、ヴァレンシアがずっと捜し続けていた人──今や故国<神聖王国ホーランド>に追われる身でもある、行方知れずになっていたディルディアード第三王子その人だった。

 ようやく会えたのだ。

 聞きたいことが、山のようにある。

 そして、話したいことも。

「結界石を壊し、トラガード様を亡き者にしようとしたのは……ディルディアード様、貴方では、ありませんよね?」

 怖々と、ヴァレンシアは小さな声で尋ねる。

 一番聞きたくない、かつ、もっとも重大な、疑問。ヴァレンシアは、いつも彼を信じていた。が、トラガード第一王子が目を覚まさない限り、ことはディルディアード第三王子にとって不利に働く。何故なら、その、第三王子にとっての不利な証言を、カスケード第二王子がしたからだ。それだけではない。ディルディアードが妖魔と手を組んでいるとも、第二王子は言った。

 これらすべてのことが、もしも本当のことだったなら……

 伏し目がちに俯いて、ヴァレンシアは第三王子の言葉を待った。

「──僕は……」

 戸惑いを隠せないテノール。

 いつも、優しい──

「何も、していない」

 弾かれたようにヴァレンシアは顔を上げ、ディルディアードの瞳を覗き込んだ。

「結界石に関しては、本当に何も知らないし、何も、していない。ただ……トラガード兄上のことは、僕のせいであるのかもしれないと思っている」

 辛そうな声で、彼は告げた。

「あの時──カスケード兄上がトラガード兄上に斬りかかったとき、僕は、その場にいた。あの時、カスケード兄上を止められなかったのは僕の力不足だ。こんなことになるなんて、僕にも……そうだな。あの時、カスケード兄上を止めることができていれば、こんなことにもならなかっただろう。だけどヴァイ、君は来てくれた。ここまで」

 言葉を止めて、ディルディアードは目の前に立つ娘に再び微笑みかけた。

「来てくれたんだね、僕を助けに。そうだろう、ヴァイ?」

「──はい」

 ヴァレンシアは頷いた。

「僕は、ここから出ることができない。君の力が必要なんだ。手を貸してくれるかい?」

 ──何か……おかしい?

 ふと、ヴァレンシアは思った。何がおかしいのか。どうしてなのか。今、彼女の目の前にいるのは、あれほど会いたいと願った人ではないか。何故、なのだ。何故、そんなふうに思ってしまうのだろう。

「ここが、妖魔サルトの城であることは知っているね?」

 まるで子どもをあやすかのように、優しい、穏やかな響きでディルディアードは言葉を紡ぐ。夢を見ているような感じだ。

「あいつは、<神聖王国ホーランド>を混乱に陥れようとしている。いや、それだけでなく、君をも、欺こうとしていたんだよ。僕をここに幽閉し、君が、ここへ来るのを邪魔しようとしたはずだ」

 言葉を切り、彼は彼女の肩に手を置いた。

「そいつは……ホーランドと、名乗っている」

 びくりと、ヴァレンシアの身体が強張る。

 ディルディアードの手が置かれている部分に、急速的に熱が集まりだす。

「さあ、ヴァイ」

 ディルディアードの声が子守歌のように耳元で響いた。と、身体の力が抜けていくような奇妙な感覚が全身を駆け巡る。

「僕を、この城から解放してくれ」

 素直に、何も考えずにヴァレンシアは頷いた。

「僕のために、あいつを殺してくれ」

「──え?」

 黒い目を大きく見開き、ヴァレンシアは目の前の人の顔を、瞳を、見つめ返す。

 ──何故、そのようなことを……

「あいつを殺してくれ。僕を、ここから解き放ってくれ。君は、僕の騎士だろう?」



      ≪3≫


 ディルディアードの言葉が耳元で心地好く響く。

 優しい、大切な人の言葉。

「殺してくれ、ヴァイ。妖魔も、カスケードも……僕を傷付けようとする者は、すべて」

 ヴァレンシアは動くことができなかった。

 身体の芯まで痺れるような感覚が、ゆっくりと全身を駆け巡る。自分の意思では指先すら動かすことができないほどに、ゆっくりと、全身が痺れてゆく。

「──そのためにこんな遠くまで来てくれたのだろう?」

 ディルディアードが至上の笑みを浮かべる。

 ヴァレンシアは、何も気付いていなかった。自分が、ディルディアードの言葉によって操られようとしているということも、虚ろな眼差しで今、彼の言葉を聞いているということも。

「ヴァレンシア」

 声が、彼女の瞳から生気を奪い取っていく。

「──…貴様、自分は手を汚さないつもりか」

 それまで扉のところで沈黙を守っていたホーランドが、不意に口を開いた。

「ヴァイに人殺しをさせる気か!」

 しかしその声も、ヴァレンシアの耳には遠かった。

 もう、何も感じない。

 心が痺れてしまっており、ディルディアードの声も、ホーランドの言葉も、もう、区別がつかないほどになっている。

 ──ディルディアード様……

 腰に下げた短剣に手をかけ、虚ろな瞳の娘はホーランドのほうに向き直る。自分が今、何をしようとしているのかも、この娘は理解していなかった。鞘から抜かれた刃が、蒼白く光る。暗闇に輝く銀の三日月のように、細く、鋭い。

「ヴァイ」

 ディルディアードが優しく促す。

「ヴァイ!」

 ホーランドが叫ぶのと、ほぼ同時だった。

 ヴァレンシアは剣を掲げると、藍色の髪の青年を見据えた。

「ホー…ランド……」

 ──この人は……ディルディアード様の、敵。

 ゆっくりと、確かな足取りで彼女は歩き始めた。黒耀石の二つの瞳に映るのは、藍色の髪の妖魔──ホーランドの驚愕の顔。

 喉を鳴らし、ディルディアードが笑った。

「ホーランド!」

 剣を振り上げたヴァレンシアの理性が、警告の言葉を発する。

 が、ホーランドは避けなかった。避けようと思えば避けられただろうに、彼はあえて、剣を受けた。焼けつくような激しい痛みが肩を襲った。腕が、しばらくのあいだ麻痺したようになる。左肩を襲った痛みは、傷口に血を滲ませた。緑色の、妖魔特有の血の色が衣服を染め抜いて……

「貴様っ…──」

 黄金の瞳がディルディアード王子を射抜く。

 ──だめ…だ。

 ヴァレンシアは、たった今、自分が切りつけた人の顔を見上げる。褐色の肌の、厳しい表情の青年。肩口からは、血を流して……血を…──赤い流れが、衣服に滲み始めていた。

「ホーランド……?」

 ──あか…い? 赤い、血?

 見上げると、旅のあいだずっと一緒だった、見知った青年の顔がある。彼は、彼女を見殺しにするようなことはしなかった。それどころか、彼女を殺そうとしたことだって、一度もなかったはずだ。それなのに何故、自分はこの青年にこうも易々と刃を向けることができるのだろうか。何故、殺さなければならない。殺す必要がどこにあるというのだ。

「どうかしたのかい、ヴァイ」

 彼女の側に寄り添い、ディルディアードは囁いた。ナイフを再び、ヴァレンシアの手に握らせて。

「さあ、殺してしまうんだよ」

 ディルディアードの白い指が、ヴァイの頬を捕らえる。

「──でも、ホーランドは……私を助けてくれました」

 ──どうしてだ? ディルディアード様は何故、ホーランドを……?

「罠だよ」

 栗色の瞳がすうっ、と細められる。

「君を誑かそうとしているんだ、ヴァイ」

 心地好いテノールが暗示となって、再びヴァレンシアの意識を奪おうとする。

 ──ホーランド……

 赤い、血。

 妖魔ではなかったのか、彼は?

「殺せ……」

 ディルディアードは、微笑んでいた。妖艶な、いつか、見たことのあるような笑み──そう、あれはカスケード第二王子の表情だ。「ディルディアードを捜せ。──捜し出し、殺してこい」そう言ったときの表情が、ディルディアード王子の笑みと重なる。

「殺すんだよ」

 ──違う……この人は、違う!

「止めろ!」

 ホーランドの声が部屋に響いた。

「ヴァイにさわるな」

 赤い血が、衣服を濡らしてゆく。

 赤い、血が。

 ディルディアードの手を振り払い、ヴァレンシアは後退る。つい、とホーランドの腕が彼女の肩を捕らえた。優しくて、あたたかな腕。

「剣を」

 自らが手にしていた剣を、ヴァレンシアはホーランドに与えた。

 ホーランドは頷くと、口許に微かな笑みを浮かべる。

「貴様だけは、許さん」

 黄金の瞳に険しい色が現れる。剣を大きく薙ぎ払い、弧を描き出した。血に染まった服が揺らぐ。鮮やかな、血の色。妖魔ではなく、人間の。

 ──どうして…ディルディアード様……!

 ヴァレンシアは見つめていた。

 ディルディアードという名の、青年を。

 今はすっかり変わってしまったかつての想い人の姿を、彼女はじっと凝視していた。



      ≪4≫


 ──できるか、この俺に。

 ホーランドはディルディアードに視線を定めると、剣を握り直した。

「浅はかな。たかが妖魔如きが、この僕に触れられるとでも?」

 言って、ディルディアードは笑う。

 酷く気に障る、傲慢な笑い。

『いいのか?  元に戻れなくなっても』

 声が……ディルディアードのものであってそうでない声が、ホーランドの頭のなかに直接、語りかけてきた。

『あの賭けは、まだ有効だぞ』

 黙れっ──ホーランドは答えた。

 ──あいつを傷付ければ、元には……戻れない。

 口唇をぎゅっと噛み、ホーランドは目の前の男を睨む。かつては、自分自身のものだった身体を持つ、妖魔サルトを。

 あの妖魔に、自分の身体をむざむざと明け渡してしまうのは許せなかった。が、彼にヴァレンシアを連れて行かれることは、もっと許せないことだった。

『どうする、ホーランド……いや。ディルディアード』

 耳障りな笑いが栗色の髪の青年──サルトの口から、洩れる。その姿は<神聖王国ホーランド>第三王子の姿以外の何者にもなり得なかったが、中身は、妖魔サルトでしかなかった。それと同じように、藍色の髪の青年の中身は、ディルディアード第三王子以外の何者でもなかった。

 ──たとえ……たとえ、君に憎まれることになっても……

 ホーランドは、剣を構えた。

 ──君を、渡すわけにはゆかない。

「ヴァレンシア──」

 ホーランドは、足を踏み出した。

「ホーランド!」

 ヴァレンシアの叫び声が耳に飛び込んでくる。

 切っ先が、サルトの心臓を捕らえた。ホーランドはかつて自分の身体だった器に深々と剣を突き立て……勢いよく、斜めに切り裂いた。

「馬鹿な……ぐっ…ふ……」

 激しく、血が飛び散る。

 ディルディアードの身体から、鮮やかな緑色の血が。

「…おのれ……」

 切られてもなお、サルトは生きていた。

「覚えておれ……ディルディアードォォ──!」

 最期の絶叫が、部屋だけでなく、城をも揺るがした。

 よろよろとよろめいたディルディアードの身体から緑色の淡い煙が立ち上ぼり、勢いよく発火する。そうして、炎は彼の身体を焼き尽くしてしまうと、ゆっくりと消えていった。

 血に塗れたホーランドは、肩で息をしながら立っていた。ここで倒れるわけにはいかない。倒れることはつまり、敗北を意味するのだ。もう、あのときのような屈辱は味わいたくない。ホーランドは剣を杖のかわりにして寄りかかると、恐る恐るヴァレンシアのほうへと視線を向けた。

 彼女は、両手を胸の前に組んで立ち尽くしていた。黒い瞳には、わずかばかりだが涙が滲んでいる。

「ディルディアード様……なのですか、本当に──?」

 ホーランドは頷いた。

「本当に?」

「そうだよ」

 優しい響きの声が、ホーランドの口から洩れる。

「本当に……ディルディアード様、貴方なのですか?」

「そうだよ、ヴァイ」

「ディルディアード様…──」

 気付かれたくはなかった事実。

 他の誰よりも、ヴァレンシアだけには知られたくなかった。

 淋しそうな笑みを口許に浮かべると、ホーランドはこの赤毛の娘を愛しげに見つめ返した。

「……ディルディアード様!」

 ヴァレンシアの声が高らかに響く。誇らしげに、柔らかく部屋を満たす。

 これで良かったのかもしれない──ホーランドはぼんやりと心のなかで思った。ヴァレンシアが、サルトの傀儡に成り下がるのを見るよりも、はるかにましだ。それに比べれば、自分の身体を妖魔にくれてやるぐらい、わけもないことではないか。

 諦めにも似た気持ちでヴァレンシアを見遺ると、彼は、ゆっくりと彼女のほうへと歩み寄って行った。



      ≪5≫


 サルトが消滅したその瞬間、<神聖王国ホーランド>では、生死の境を彷徨っていたトラガード第一王子が意識を取り戻した。

 ──サルト様?

 日課となったトラガードの見舞いのために部屋を出たシラは、扉を閉じた刹那、いつも自分を監視していたサルトの気配がとぎれるのを感じた。

 ──サルト様の身に、何か……いいえ。これは、ホーランドの仕業。とうとうやったのだわ、あの者は。サルト様の呪縛を撥ね付け、自らの力で自由になったのだわ、彼は。

 ただならぬ気配に、シラは急いでトラガードの部屋へと向かう。

 サルトの力が失われた今、何らかの変化が現れてもいいはずだった。それが何であるのかは、誰にも分からない。それを見てそこで初めて、それが変化だったと気付くのだ。シラは、トラガードの部屋へと急いだ。ノックもそぞろに、扉を大きく開けた。

 ベッドの上には目を覚ましたトラガードの姿があった。やつれてはいるが、褐色の瞳は力強く見開かれている。

「……ようやく御目覚めになられましたか、トラガード第一殿下」

 悪びれた風もなく、金髪の娘は声をかけた。

「どのぐらいのあいだ眠っていたのだね、私は」

 カスケードの声よりも深く、落ち着きのある声が、トラガードの口から洩れた。

「ほぼ三月のあいだ、貴方様は眠り続けておられました。そのあいだ、カスケード様が国を守っておられました」

 言って、シラは、ディルディアード第三王子のことを何と言えばいいものか思案した。第二王子の陰謀によって<神聖王国ホーランド>を追い出されたばかりか、妖魔にその姿を奪われてしまったとは、とてもではないがシラの口から説明することはできなかった。

 だが、それでもディルディアードのことは話しておかなければならない。絶対に。

 この世には、ディルディアード王子の身体がすでに存在していないということ。そして、ホーランドという名の妖魔の姿となって第三王子が生きているということ。すぐには信じることはできないだろうが、トラガードだけには何としても信じてもらわなければならない。

 何故なら、トラガード第一王子こそが、<神聖王国ホーランド>の正統なる王だからだ。

「貴女の名は?」

 不意に、トラガードが尋ねかけた。

「私……は、シラ、と申します。故あってカスケード第二王子様に保護して頂いております」

 こたえて彼女は、ディルディアードのことをいつ切り出そうかと考えた。

 第三王子が妖魔サルトとの戦いに勝ったことは確かだった。シラの妖魔の勘が、告げていた。サルトは死んだのだ、と。

「カスケードが、か。私が眠っているあいだに、どうやら色々なことがあったようだな」

 本当のことを何も知らないトラガードは、軽く驚いて見せた。それから表情を元に戻すと、窓の外にちらりと目を馳せ、訊いた。

「ディルディアードはどうしている? <神聖王国ホーランド>の末っ子は、相変わらずなのか?」

 びくっ、と肩を震わすと、シラは、第一王子から目を逸らした。

「あの、それが…──」

 手を組み、気まずそうに指を絡めて口ごもる。

 言わなければならないことだったが、どうしても決心が鈍ってしまうのは、何故だろう。カスケードに不利な事実が隠されているからか。それとも、ディルディアードという名の栗色の髪と瞳の青年は、もう、この世にはいないと言わなければならないからだろうか。シラは目を伏せると、床をじっと凝視した。

「……ディルディアード様は、妖魔サルトに拉致されました。貴方様がその傷を負った日のことです。今は、<商の都レスティア>の南に位置する樹海の中枢部にいるはずです。ですが、いまごろはタリミアス騎士団長が一個隊を率いてディルディアード様のお迎えに上がっていることでしょう」

 そう告げると、この金髪の妖魔女はそっと目を伏せた。

 ディルディアード──ホーランド──が、自由を勝ち得たことに対する、賛辞の念を込めて。

 かつて誰一人として、妖魔サルトに勝る力を持った者はいなかった。だが、ホーランド……ディルディアード第三王子は、勝ったのだ。

「この年の暮れには、ディルディアード様もタリミアス殿も、無事、城に戻ってこられましょう」

 ──もうすぐ、戻ってくる。

 言いながらシラは目を伏せた。

 ホーランドが戻ってくれば、またカスケードの居場所がなくなってしまう。あまりにも酷なことではないか。一度与えた幸せを、再び、奪い取るとは。しかも、彼を愛する者自身の手で、やっと手に入れた幸せを奪うというのだ。

 何ともやり切れない気持ちを無理に押さえ込むと、彼女は顔を上げた。

「それまでに、貴方様はその傷を治さなければなりません」

 と、シラは大きく微笑んだ。

「貴方様の御世話をする者を後で寄越します。私などよりもずっと、貴方様のことを気遣っている者ですから安心なさって下さい」

 ──戻ってくる。ホーランドが……

 いったい、自分はどうすればいいのだろうか──思って、シラは両の拳をぎゅっ、と握り締めた。彼ら…ホーランドとヴァレンシアが城に戻ってくることが、酷く恐ろしいことのように思われた。今までの安寧な日々が失われていくようで、怖かった。

 ──いったい、どうすればいいのです? ああ……ホーランド。私を……私たちを、放っておいて。そっとしておいて。お願いだから……

 やっと手に入れた幸せなのだ。

 手放してしまうにはあまりにも身に染みた、手放しがたい幸せ。

 きっと、カスケードを失ったら、自分は生きてはいないだろう──そう思うほどまでに、シラはこの不肖の第二王子を慕っていた。

 時は流れ、秋も終りに近付いたある日。

 シラは、聞くだろう。

 サルトの姿をしたディルディアード第三王子が故国<神聖王国ホーランド>へと凱旋する足音を。人々の、第三王子を称える歓声を。

 それはまだ、これよりもう少し先のことになるのだが。

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