第16話 ありがとう、負けてくれて。
事前に約束した待ち合わせ場所に出向いてみれば、挨拶もそこそこに人がいない場所でゆっくり話そうと誘われ、それもそうだなと促されるままに彼が暮らしているアパートの一室に入った。ネットの副業で稼げているのか、それなりに家賃が高そうな真新しいアパートの上階だ。
これまでの印象から何に対してもいい加減そうな性格に思えたが、意外にも部屋はきれいに片付いている。
ただ、きちんと整頓が行き届いているのは客間も兼ねたリビングだけのようで、奥の部屋はパソコンなどの機材で散らかっているらしい。仕事場としても使っているという寝室への扉は固く閉ざされていた。
「ほら、とにかく好きなところに座れよ」
戸棚から取り出した紙コップにペットボトルのコーラをなみなみと注がれて、事前に近くのコンビニで買ってきていたらしいロールケーキを袋ごと渡される。
座布団代わりのクッションは投げ渡されたのでそっけなく対応されたようにも見えたが、そういう性格というだけで、一応は客人として歓迎されているようだ。
誘われるまま無警戒に部屋まで上がりこんだものの、大学生のころにサークルが同じだったというだけで、数年ぶりに再会したばかりの彼とは仲のいい友達でもない。二人で楽しく盛り上がるような雑談もなく、しばらくはスマホを眺めながら時間をつぶしていると、あくびを漏らした彼がこちらの顔を見た。
「ここまで来たってことは、手伝ってくれるのか?」
「いや……」
自分でもよくわからない。彼がやっているのは煽り専門の悪質なサービスばかりであって、普通の人が利用する良識的なものでないことは知っているので、仕事を手伝うとかいう以前に人として関わりたくない気持ちが依然として強い。
それでも話をしたかった。うまく話をつけて彼らの仲間に加えてもらいたいと思っているわけではなく、ネット時代の狂騒を娯楽として享受する彼と改めて対話をすることで、自分の立ち位置を確認したかった。
彼とは違う。相容れない。
それだけを確認したかった。
「まあ、すぐには返事できないだろうな」
「……優柔不断ですまない」
確かに、何を言うにしても簡単には返事はできない。
膝を突き付け合って話をしたいのは事実だが、変にこじれて彼と口論をしたいわけでもない。
ためらっている理由を勘違いしたのか、出来の悪い新人を思いやる先輩ぶっているらしく、やや強い力で俺の肩を叩いて励ましてくる。
「仕事ったって、やることは簡単だぜ。どんなジャンルであれ、テレビでもネットでも、何らかの主張がくっついているニュース記事は叩こうと思えば誰でも叩けるから、適当な理屈をつけて『これ間違ってるぞ』と引っ張ってくれば後は勝手に騒がれる。時間だけは大量に持っているくせに、自分がやるべきことさえ見つけられない暇人は多いからな、毎日どうでもいいネタが必要とされている。俺も奴らも騒げればそれでいい。目的なんてないからな」
目的はない。それはそうかもしれない。
趣味であれ仕事であれ、明確な目的を持ってネットを利用している人も多いだろうが、これといった目的もなく、暇つぶしにネットを利用している人も多いだろう。今とは違ってネットなどない時代、帰宅すればとりあえずテレビをつけていた人が多かったように。
何か面白いことはないか。選択肢が爆発的に増えた情報社会を生きる現代人を日に日に悩ませる難問だ。
数ある選択肢の中から自分が何をしたいのか、何をやるべきなのか。
簡単に答えが出せそうでいて、そのことについては俺も迷っている。
一方、その悩みを一切感じさせない彼は軽く言ってのける。
「幸いなことに俺たちの目的ははっきりしている。即物的に言えばアクセス数の増加だ。閲覧数を増やして広告料で稼ぐ。人間としての悟性を失って騒ぎたいだけの奴らに対して、普通の会社が用意する広告を見せて意味があるのかどうか俺でさえ疑問に思うが、それでアフィリエイトは回っているから効果はあるんだろう」
「そっちの話を疑っているわけじゃないけど、本当に回っているんだな」
「イエス。人生の片手間に稼がせてもらってる。ネット越しの安全な場所から多種多様な騒動を眺めていたい卑劣なやじ馬ってもんが、この世の中にはびっくりするほど隠れ住んでいるんだろう。だから民度の低いサイトや荒れている炎上事件はアクセス数が跳ね上がる」
どこまで本当のことを言っているのか、常日頃からネットを煽っている人間のことだから鵜呑みにはできない。
会話にのめりこんでいないことをアピールするためにも、視線を下げてロールケーキの袋を開けながら相槌を打つ。
「あえて否定はしないが、興味がない人だっている」
「そりゃいるだろう。けどよ、普段の生活では誹謗中傷を許さない健全な市民の一員として生きているつもりの人間も、大なり小なりネットに触れて生きているからな。なんだかんだとネットの広告を目にする機会は多いわけだ」
「まあな。スマホやパソコンを利用している人で、ネットの広告を一度も目にしない人はほとんどいない。やろうと思えば広告をブロックすることもできるけど、普通の人は普通に使っておしまいだ。ネットでの宣伝は想像よりも大きな効果があるのかもしれない」
「そうは言っても広告収入が思うようにいかず破綻するサービスもたくさんあって、SNSや動画サイトなんかで定期的に民族大移動が起こるネットも移り気が多いから楽観視もできんがな。けれど、やりようによってはうまく渡っていけるだろうさ」
「やりよう?」
興味を持ったわけではないが、つい問いかけてしまう。
ロールケーキを食べる寸前で手が止まった俺から質問が来たことが嬉しいのか、説明したくてたまらないらしい彼の声が一段と弾む。
「そうだ。やりようだ。一番やりやすくて楽しいのは政治的に対立している話題だな。どういう切り口で扱っても、誰かや何かに対して遠慮なくヘイトをぶつけられる。普段から政治のことに言及したがる奴は高確率で自分が正しいと信じ切って気持ち悪い発言や書き込みをしてくれるから、これが最高に煽りがいがある。ほっといても自分から勝手に暴言や誹謗中傷を吐いて炎上の火種になってくれる。個人情報をさらけ出したSNSに自滅的な書き込みをするソーシャル投身が好きな奴ばっかりだ」
かなり馬鹿にした物言いだが、確かにネット上では政治の話題は荒れやすい。だから自分の意見を表明するのも二の足を踏んでしまいがちだし、話を聞いていると双方が喧嘩腰だから、賛否のどちら側にも共感しにくくなる。
かといって、すべてを馬鹿にしてあざ笑う彼に同意するのも難しいが。
しかし、おそらく彼は目の前に座っている俺の共感や理解など求めていないだろう。理路整然と言い聞かせるようでいて、結局はただの独り言だ。多くのネットユーザーと同じように。
「幸せなことに俺はどっちに転んでも負けたほうを楽しく煽ってやれる。今の世界は何事においても極端で馬鹿な奴ほど目立つから、こいつ間違ってるぞなんて晒し上げて、適当な知識と情報ソースで煽ってやると、みんなも一緒に石を投げ始めてくれる。わざわざ自分で直接石を手に取る必要なんてないのさ。どちらかと言えば俺は自分の手で石を投げるよりも、誰かに石を投げる人間を眺めているのが好きなんだ。人間の愚かさや醜さを実感できるからな」
趣味の悪い話だ。レクチャーを受けて実際にやっているわけでもなく話を聞いているだけなのに、標的に選んだ誰かに向かって石を投げるように大衆を扇動する自分の姿を想像しただけで気が沈んでくる。
何を言えばいいのかわからず、紙コップを手に取ってコーラを飲むふりをして黙る。
「愚かさっていえば、ニュースを正しく読み取るネットユーザーの読解力が落ちているのは火を見るよりも明らかだが、テレビもネットもアクセス数や反応なんかを気にするあまり、発信しているニュースの質それ自体が落ちているからな。もちろん有意義で秀逸な記事は今でも存在するが、それ以上に低レベルなものが溢れかえっている。玉石混交なんてのは言葉遊びでしかなく、実際には投げやすい石がたくさん転がっているだけだ」
投げにくい石があっても構わず投げたがる人間がよく言うものだ。
目の前に座っている人間とは違って自分が常識人だと思いたい気持ちもあって、うっかり飲んでしまったコーラの炭酸に喉を傷めつつも緩やかに反論しておく。
「人間のネガティブな側面を見たがる気持ちまで否定するつもりはないけれど、さすがに石を投げたがる人間ばかりでもないだろう。誰かが集団リンチの標的になっていれば、善悪はともかく石を投げる人々を止めようとする人だって出てくる」
「いなくはないが、投げるのをやめさせようとするというか、石を投げる人に石を投げつける人だよな。投げる相手が違うってだけで本質的には変わらないぜ」
「……あまり強く否定はできないが」
「そりゃそうだろうさ。なにしろみんな思い思いの石を投げたがっているんだからな。弱っているほうに同情する判官びいきなんてものは今の日本じゃ死んでいる。溺れる犬を見つけたら、反撃されない場所から寄ってたかって棒で叩き付けるのがネットの正義さ。小さな子どもでも歩いて渡れるような浅瀬でひっくり返って溺れる溺れるとキャンキャン騒いでうるさいからな。どうせ助けても恩知らずに噛みついてくるのがわかっているから、勝手に溺れて被害者ぶって騒いでいるほうも悪いが。次に溺れるのが自分たちだとしても、ネットの連中は都合の悪い未来を想像するのが苦手だから平気で弱者や敗者を追い込める」
それを本当に楽しそうに語るので、他人の不幸を喜ぶような彼の人間性が歪んで見えた。
紙コップを握る手に力が入り、中のコーラが波打って炭酸がはじける。
食べることなく袋に戻したロールケーキの、見るからに甘そうなクリームが塗ったくられた渦巻きを見ながら、つい言わなくてもいいことを口にしてしまう。
「お前、ろくな死に方しないな」
「そうやって根拠もなく人を脅すのがカルト宗教の定石だよな。まあ、今の政治は宗教みたいなもんだから別にいいけど」
そう言って彼は鼻で笑う。すべてを馬鹿にしたような口ぶりで。
「いわゆるイデオロギーってもんは危険な劇物でな、少しでも関心を持つとアイデンティティの根幹に入り込んで、徐々に理性を保てなくさせていく。敵対する異教徒への人格攻撃を繰り返して、押し売り状態の迷惑な布教活動に明け暮れて、自分たちの神を信じない連中を愚者呼ばわりする。現代の政治活動には理屈じゃなく信仰心が大事だからな」
逃げるようにロールケーキから視線をそらしたものの、テーブルをはさんで二人きりの状況では会話の相手からは逃げられず、返事に困った。
古代からの歴史を考えれば政治と宗教が近しいものであるのは当然でもあるが、それはそれとして、現代においても政治が宗教みたいなものだというのは俺も感じていた。
だからこそ、世の中の何に対しても信仰心を持っていない俺は本気で戦ったら誰にも勝てないことも。
真正面から語り合ったところで誰かを納得させられることもできず、結局は彼とも話が通じ合わないだろうと思えば、実際に試すより前にあきらめの気持ちが勝ってしまう。
故に、わざわざ反論などせず彼の言うままに任せる。
「どんな話題でもそうだが、賛成派も反対派も自分たちに都合のいい情報だけを信じて、お互いに議論が全くできていない馬鹿のバーゲンセールをやってるからな。こんな連中が主権を握って政治の未来を決めるんだから、まあ、民主政治がポピュリズムの波に押し流されて不寛容さと分断の時代を迎えたのも無理はない。これを日本人の問題と語る奴もいるが、ネットが出てきて世界もそうだから人間がそうなんだろ。人種や年代など関係なく、大多数の人間は議論をうまくやれない。衆愚政治やってたころの古代ギリシャに逆戻りして、詭弁が大好きなソフィストに有利な時代だぜ」
「そこまで言うつもりはないが……」
「はあ? いや言えよ。だってほら、もう一度よくネットを見てみろよ。ニュース記事でも動画でも掲示板でもSNSでもいい、ネットで政治を語ってる連中の書き込みを見てみろよ」
まさか彼の言いなりになっているわけでもないだろうが、そう言われると逆らえず、半ば勝手に手が動いてスマホの画面が目に入った。
今まで幾度となく
「な、こいつらが主権だぜ? 多数決と功利主義に毒された民主主義の理屈では、賢明で博識な一人の賢者は手を組んだ二人の馬鹿による数の暴力に議論では絶対に勝てないんだ。そりゃ世界も正義を見失って混迷の時代に突入するはずさ。こんなでも一応は平和な時代が続いていたことが、逆にすごくて感心するよな。あきれるほど身勝手なエゴイストにあふれている窮屈な世界なんて、これまでに何度滅亡していてもおかしくないと思えてくる」
「けど、幸いながら人類は一度も滅んじゃいない」
「だな。ドン引きするくらいの殺し合いは何度となくやってきたのにな。世の中には戦争の責任を国やら軍やらメディアやら企業やら宗教やらといった大きなものに求めて、いつの時代も無垢な市民は犠牲になって来たとか言う奴もいるけどさ、結局は大衆同士が争ってんじゃん。戦争反対を叫ぶような人間も他者を否定する争いごとは大好きで、誰に対しても手を差し伸べて和平を求めるどころか、意見が違う相手とは全く話し合いができてないじゃん。自分と意見を共有したがらない奴は消したがってるじゃん」
「まあ……」
一応は話を聞いているという合図のために声を出すだけで、返事や相槌はあいまいなものになる。喧嘩をしないため口論となりそうな反論はしないにしても、安易に彼の意見に賛同してしまうのは危険だ。
詐欺師の話術に丸め込まれてはならない。
残っているコーラを飲み上げて心を落ち着かせるように反応を抑えていると、こちらの返事を待たずに彼は話を続けていく。
「政治ってものに頭をやられた連中には気をつけなきゃだめだな。SNSなんかで政治活動しているアカウントを見ると面白いぜ。もう本当に言葉が通じず、結論ありきで自分の主張をしていて頭が痛くなるくらいだ。自分が多数派になれなければ悲劇のヒロイン気取りか弾圧に立ち向かう革命家気取りで、浅はかな知識と思考で周りを馬鹿にし始める。一流大学を出ているはずの著名人でさえ、政治のこととなると人格が変わって偉そうに暴言を吐くから、盲目的なファンと支持者以外からは嫌われる。なのに今では学のない馬鹿までがネットで騒いで暴れるから、ますます普通のまともな意見は隠れて見えなくなってしまった」
何がおかしいのか、くすくすと笑う。
「今の政治や世の中が間違っていると主張する人間に鏡を見せてやりたい。お前みたいのが増えたほうが社会は地獄だろ。だから言論活動(笑)とか頑張ってんのに社会を変えるほどには支持者が増えないんじゃねえのか。その点、俺はわきまえている。なにしろ自分がまともじゃないとの自覚があるからな」
「自覚がある?」
「そうさ。だからこそ、より強く思う。まともじゃない俺以上にまともじゃない人間が次から次へと名乗り出て、自滅覚悟で自己アピールをしてくれる今の時代ってやつは、最高にエキサイティングで最大級に幸せだ。こちらが黙っていても馬鹿どもの炎上は止まらない。こんな奴らに比べれば自分がまともに思えてくる。お前もそう思うだろ?」
いや、思わない。
しかしこれは声に出せなかった。
あまりに露悪的な彼と同じ考えを持ちたくないという気持ちはあるものの、清廉潔白であろうとする精一杯の抵抗はむなしく、明確には反論することもできずにいる。
……そうなのかもしれない。ネットで何らかの主張を語る人は、誰も彼もが相手を打ち負かしたいだけなのかもしれない。相互理解も寛容さもなく、ヘイトスピーチを繰り返して相手を黙らせたいだけなのかもしれない。
自分だけに正しい現実が見えていて他人よりも頭がいいと信じているから、議論の場に立ったとしても、相手の話を聞くつもりなど最初からないのかもしれない。とにかく大きな声を出して賛同者を増やせば自分たちが勝てると、本気で信じているのかもしれない。
これといった確証もないのに、そう感じる。
評価できるところは評価して、駄目なところは駄目だと指摘する。これを偏見や感情論に支配されず、汚い言葉を使わず、自分とは違う立場の人々へのリスペクトを忘れずにやる。
これだけのことが世の中の誰にもできていない気がするから。
すぐに大きなことを言う。すぐに誰かの攻撃に走る。
そんなことでは平和な世界の実現など不可能だというのに。
「そうだ。不可能だ。ネットが普及して庶民の考えってものが明らかになればなるほど、人間が分かり合うなんて無理だと思えてくる」
「それは……」
そんなことないと、今の俺は強く言い返すことができない。
「言葉遣いが汚い、視野が狭くて思い込みが強い、無駄に攻撃的、自分の意見を押し付けてくるくせに人の話は聞きたがらない、なぜか自分がこの世で一番頭がいいと思っていて世間を見下して偉ぶる、自分を称賛する人間や自分に共感する相手だけを常識人扱いする、なんでもかんでも政治のせいにする、あるいはなんでもかんでも政治のおかげにする、自分を批判する人間は徹底的に批判して馬鹿にもするが自分への批判は絶対に許さない、そうやって散々暴れておいて世間に受け入れられないでいると、日本人は政治をタブー視していて海外と比べて民主主義が遅れているとか周りのせいにする。政治って怖いな。お前が批判している政治よりも、お前のほうがよっぽどやばいだろ。むしろ馬鹿どもに批判されている相手がかわいそうに思えてくる」
何も言えずに口をつぐんだまま聞いている俺を置き去りにして、いささか過剰に自分の言いたいことを言い放つ彼。
まるで雄弁な政治家の演説を真似するように続ける。
実際にはペテン師のスピーチであるにしても。
「政治的な発言をする人間は真っ当な批判じゃなくて、常軌を逸した誹謗中傷のヘイトスピーチをしがちだよな。どういうわけか政治活動を熱心にするようになると、ほぼ必ず嫌いな政党や支持者たちの悪口に精を出す。政治家の失言はちょっとしたことでも問題視してしつこく追及するのに、自分では失言になるレベルの発言を平気で繰り返す。卑劣なヤジを飛ばせば大衆が味方に付いてくれると勘違いしている。そんなんで支持を得られるわけがないだろうによ」
「……言わんとすることはわかる。すべてを否定するわけじゃないけど、攻撃的な人たちが支持するものはあまり大きな存在になってほしくない」
「そうだろうとも。ネットもメディアも俯瞰して見ていればわかるが、今の政治界隈なんて目立つ人間は誰一人まともじゃないから、結局のところ消極的に現状維持を選択するしかなくなってるだろ。スマホが普及するまではメディアに踊らされて首相がころころ変わっていたが、スマホが普及してネットが一般化すると、以前にもまして政治を語りにくい空気が出来上がった。ネットが反論するからマスコミによる世論操作もうまくいかなくなり、かといってネットが一致団結することは永遠にないから、無力感と混迷だけが強くなる。そう、俺たちが活躍できる時代だ」
いかにも政治が好きそうな人間の偏った分析である。
まだまだ続けるつもりらしいので、茶々を入れずに黙って聞く。
「ネットやってる芸能人たちも気づけば上から目線で物申し、無知な大衆に社会の真実を教えると豪語するネット活動家に転身していってるぜ。ブログでもSNSでも動画配信サイトでも、ファンと支持者に向かって狭い世界の革命家ごっこをして、実に楽しそうだ。政治や社会問題を語る奴は芸能人に限らず誰でもそうだが、感情論と思い込みが前提にあっていくらでも穴があるから、これが俺たちにとっては都合のいい標的になる。もちろん芸能人の意見を拡大解釈しながら武器にして、炎上しやすい組織や人物を攻撃するのにも便利だ。俺じゃなくて彼が言ってるんですよと、まあ都合よく責任転嫁できる」
「性格が悪いな」
「当然だろ。……飲むか?」
「いや、いい」
コーラのおかわりを飲むかどうか尋ねられ、ゆっくりと紙コップを握りつぶしながら断っておく。
ここで二杯目を受け入れてしまえば、彼の仲間に入ることが確定してしまうような気がして。
あまったペットボトルのコーラは彼が口をつけてラッパ飲みする。炭酸だというのに一気飲みだ。
「うっぷ。やはり何事も、自分たちこそ正義とうぬぼれる自称有識者がいてくれてこそだ。その傲慢な思い上がりを、無秩序な暴動を飽きもせずに年中やってるネットの力で崩壊させてやるのが見ものさ。偉そうに批判する人間は自分が一方的に批判されることに慣れていないから、ネットで炎上すると冷静に対応できなくて醜態をさらしてくれる。それが面白いからますます炎上する。それを見て余計な口を出す人間も続出するから、しばらくは放っておいても祭りが続いてくれる。みんな自分が正しいと思ってるからな。どこかで炎上が起きると黙っていられなくなるのさ」
関係ないなら黙っていればいいのに、何かにつけて口を出さずにはいられない一言居士はたくさんいる。
事件や事故に遭遇すると、スマホを取り出して写真を撮らずにはいられない野次馬と同じかそれ以上に。
お前も同じだろ、とは言われたくないので、言葉を口にする代わりに放置していたロールケーキをかじる。
「うまいか?」
「甘いな」
「二個目が欲しいなら言えよ。抹茶味もあるぜ」
「いや、いい。さっきから悪いな。ありがとう」
なかなか気が乗らない話の内容は別として、飲み物とお菓子をもらったことには礼を言っておく。
とりあえず食べ進める。無言のまま半分以上を腹の中に収めたのを見て、スリープモードにしたスマホを手に持ち扇子のように振って顔を仰ぎながら、その中に詰まっているすべてのものを馬鹿にするように彼が笑った。
「ずれた正義感と醜い嫉妬と身に余る自尊心だけはあるネット国民はバカだから、自分の妄想に都合のいい書き込みを見れば真実であると安易に受けとって、あまりにお粗末な脳内検証を繰り返して、どんどん間違った真実を信じ込むようになる。こうなると誰が何を言っても駄目だ。あとは感情論と水掛け論で疲弊したほうが負けのゲームに成り下がる」
あまりに単純なゲーム。最後に勝利宣言をした者が勝ち。
これは何もネットに限った話でもないとは思うが。
ロールケーキの最後のかけらを口に含み、たっぷりと咀嚼してから飲み込む。
「お前は強そうだな、そのゲーム」
「おやおや、お褒めいただきありがとう。だが俺はプレーヤーとして参加するよりもゲームを主催して場を提供するほうが好きなんだ。阿鼻叫喚も地獄絵図も遠くから眺めるのは好きだが、話の通じない馬鹿の相手をするのは疲れるからな」
やや皮肉をにじませて持ち上げてやろうとしたものの、やはり効果はなかった。
たった一人の聴衆である俺の反応よりも、常に全世界へ向かって主張しているように自分のしゃべりたいことを優先している。
「それにしたって、ネットの連中が書いた馬鹿で間抜けな意見も削除せずに守らねばならない表現の自由も大変だな。誰にでも与えられる基本的人権を守るため、善良なる市民の皆さんは騒ぐだけ騒ぎたがる彼らの相手を頑張ってくださいとしか言えん。まったく大変だ。自分の思い通りにいかないからといってかんしゃくを起こす幼稚な大人たちの子守を、本来は無関係であるはずの一般人が負担せねばならん時代だからな」
「さすがにそれはネットの悪しき部分に毒されすぎた意見な気もするがな。今の世界が理想的な状況ではないにせよ、現実はもう少し穏やかで幸せだろう」
「まあ、それは確かにな。ネットの一部だけを見て世間もこうだと語ることの危険性は俺にもよくわかる。ネット市民を意味するネチズンとかいう死語はスマホの普及で概念ごと死んだが、土地にも社会階層にも縛られないネット空間はかなり特殊なコミュニティが形成されている。ゲマインシャフトでもゲゼルシャフトでもない独特な社会だ」
「どんな社会であれ、老若男女問わずネットを利用するようになった今では、ネットのコミュニティや文化を一言で説明するのは難しいだろう」
「その通り。でも日本語にはちょうどいい言葉があるぜ」
「あったか?」
「ムラ」
「……村?」
「ああ、悪い意味での村さ。他人の言動や意見に口出しするような相互監視社会、目立つものを見つければ寄ってたかって出る杭は打つ、高齢化が進んで若者や若者の文化に否定的。あれ? ネットって気が付けば村社会じゃん。理屈よりも感情論やローカルルールが先行しがち、悪者を見つければ全員でリンチするか無視するか、悪口や噂話に熱心でデマやフェイクが事実よりも広範囲に伝播する反知性主義的な空気感、常に多数派が強く、少数派はうるさい」
肩をすくめて苦笑する。
「これって下手をすると現実の田舎よりも口うるさい高度なムラ社会では? まともな人間は出ていきたくなる奴では? サイバービレッジは魔女狩りが盛んな中世以下だな。……だが、意外と捨てたもんじゃない。馬鹿どもの混乱を望むなら最高に楽しい時代だぜ」
「……楽しい? もしかして、今、楽しいと言ったか?」
「言ったぜ。だって楽しいだろ。……よかったよ、俺には政治的な信念が何もなくて。頭の使い方を知らない馬鹿どもが右往左往して作り上げる現実がどう転ぼうが、一歩引いているおかげで絶対に負けない勝負を楽しめる。勝敗なんて見方一つで変わる曖昧なものだとしても、現実的には常に誰かが負けている。負け惜しむ連中もたくさんいて、勝っているつもりが逆転される奴もたくさんいる。いやぁ、飽きないねえ」
「一応は忠告しておく。絶対に負けない勝負なんてない。お前にだって負けるときが来るかもしれないぞ」
「へえへえ、ありがたく忠告は受け取っておくが、負けるときは負けてもいいさ。別に勝ちたくてやっているわけじゃないからな。もはや生きることにもしがみついていないから、極論すれば死んだってかまわん」
名声に固執せず、罪を恐れず、失うものが何もない人間。
悪意ばかりのネットの蟲毒にやられ、仲間のいない孤独の中でエゴを肥大化させて、ついには過激な思想を育む現代社会にとっての脅威。
ただ、それとも違う別種の何かだ。
善人でも悪人でもなく、普通でさえない気がする彼の正体が見えない。
「たとえば俺なんかは野球に全然興味がないから、どの球団が勝とうとどうでもいいんだよ。だけど試合の度にネガキャンやブーイングを熱心にやってる野球ファン同士の低レベルな喧嘩を見るのは大好きだ。同じようにサッカーでも、相撲でも、あるいは芸能でも政治でも、自分たちが勝つべきだと思ってそうな奴ら同士が争うものは全部、それ全体が興行として楽しめる。フーリガンやデモや暴動を見下していると、自分が上流階級の人間になったような気さえする」
「そんなものはまやかしだ」
「まやかしだとも。しかし満足感のあるまやかしだ」
ひねくれた強がりというわけでもないらしく、そう語る彼は本当に幸せそうな顔を浮かべている。
まるで現実に疲弊して苦しんでいる俺のほうがおかしいと言わんばかりの目を向けてくる。
「犯罪、ドラッグ、浮気に不倫にハラスメントや失言暴言、不協和音な煽り合い。どうだこの世は素晴らしい。じっと黙って普通に過ごしているだけで、頼まれもしないのに勝手に堕落して『絶対に勝てる格下の比較対象』になってくれる奴がたくさんいる。おいまた勝った。聞いてくれ、こいつらと違って俺はまともな人間だ。こんな奴らより、ずっとまともに生きている。ありがとう、負けてくれて。どんどん馬鹿が名乗り出て、次々と間抜けが自己主張して暴れてくれて」
はっはっは、と、どこまでも嬉しそうに笑って語る。
「自分の力で頑張らなくちゃいけない絶対評価は息苦しい。だけど相対評価なら今の時代は下がいくらでもいる。こんなに生きるのが楽な時代があるか? ネットのおかげで、褒めるところのない敗者を安全圏からいくらでも嘲笑しながら眺めることができる。脇の甘い勝者を安全圏からいくらでも攻撃することができる。いやあ、神様も俺をいい時代に産んでくれたもんだ。感謝したところで、どうせどこにもいないだろうがな」
やはり違う。俺と彼とは何かが致命的に違う。
これまでの俺がすがってきた不戦勝とは、自分こそが正しいと世間に対して勝ち誇ることではない。
あざ笑って楽しむものでもない。
現実逃避したくなるくらい追い込まれていた俺の延命手段だった。
独善的なルールで積極的に勝負を挑んで、一方的に勝利宣言を繰り返すような彼とは違う。
「現実の社会では周囲に受け入れられない嫌われ者で、言動が幼く、信頼も実績もない末端の人間ども。そんな落伍者たちの醜態を安全圏から見下ろして、現在進行形の低俗な私小説としてエンタメ的に享受しているのさ。年相応に精神が成長できていない幼稚な大人たちが怨嗟混じりに地団太を踏むさまは、遠巻きに眺めているだけでも気分がいい。あえて石を投げるまでもないじゃないか。暴れ始めた馬鹿を相手に同じレベルかそれ以上の馬鹿が絡んでいって、勝手に激しく燃やしてくれる。現代の生き恥サーカス団。素敵だね。あざ笑うにもつまらない人間のちっぽけさ。何もしていないのに自分が大きく見えてくる」
批判したいのに批判できない。
強い言葉で彼のすべてを否定したいのに、相反して言い含められそうな気持ちも鎌首をもたげつつある。
ひょっとすると彼と俺とは鏡映しの存在なのか。
自分の浅ましさを突きつけられている思いがする。
「おいおい、塚本ぉ。なんで苦しんでいる振りをしてるんだよ。悩むまでもなく、お前だって立派に俺の同類だろ」
「同類? 俺が? お前と?」
「そうだとも。どうせ自分の主張や信念なんて何もないんだろ。その時その時で保守層とリベラル層をどちらも満遍なく馬鹿にして、無関心な奴らも馬鹿にして、自分は一歩引いた気になって大賢人を気取っているんだろ。今までの話を聞いていて、俺のことを批判したいよな? けどな、お前は俺と、根本のところでは変わらない。世間の馬鹿どもとも変わらない。自分だけが一段上にいると勘違いしたがっているだけだ」
そんなことないと力強く言えたらいいのに。
なのに実際の俺は血がにじまない程度に唇をかみしめて、こぶしを震わせることしかできない。
「ネットを批判しながら、ネットをやめるには至らない。馬鹿どもの展覧会を見て楽しんでるんだろ。ただの卑怯者でしかないのがお前の正体だ。わかるか? 社会的には負けてんだよ、お前」
「……負けているとしても、今の俺は戦ってさえいない。だから勝つとか負けるとかでもないんだ」
「あほらし。戦ってさえいない? なんだそれ」
「……不戦勝だ」
「もっとかっこいいことを言えよ。不戦勝なんてのは、薄志弱行な奴が唱える馬鹿げたスローガンだろ」
ようやく絞り出した言葉も軽くあしらわれた。
俺の中に眠る弱さを見抜かれている。
あるいは不戦勝にすがりたくなる浅ましい欲望を。
「勝つ方法を俺が教えてやるって言ってんだ。今の世の中を楽しみたいなら、俺の仲間になれ」
正直なところ、彼の誘いに対して食指が全く動かないわけではない。
魅力を感じないわけでもない。
だが、やはり最終的には嫌悪感が勝る。
「……いや、断る。お前の仲間にはならない」
「ふうん。じゃあ帰れば?」
気分を悪くするわけでもなく、執着するわけでもない。興味を失ったとか冷たくするのでもなく、帰りたいならそうすればいいとフラットに退出を促された。
同類と認めたくはなく、仲間にはなれないが、拒絶したところで彼とは敵対することもない。
それが理解できたからとて、嬉しくも悲しくもない。
「ああ、もう帰るよ」
このまま長居する理由もないので立ち上がって外に出る。
しかし、どこに帰ればいいのだろう。
目指すべきゴールもわからず、俺が帰るべき居場所はどこにあるのだろう。
一説によれば、アイデンティティとは他者との関わり合いの中で生まれてくるという。それが事実であるとすれば、あやふやになりつつあるアイデンティティを浮きだたせるためにも、今日のことは役に立つはずだった。極端な思想を持っている彼との話し合いを通して、世界における自分の立ち位置を確認したかったから。
結果、ますますわからなくなったのは相手が悪かったのか。
それとも俺が致命的におかしくなっているのか。
今日わかったことは一つだ。ある意味では再確認でしかないが、今の世の中はそれぞれの人がそれぞれに都合よく世界を定義したがっている。
自分にとって心地よく現実を理解したがっているのだ。
その戦いに終わりはない。ならばもう、戦いたがっている人間たちに世間などくれてやろう。
狭い世界で勝手にエゴを押し付け合っていればいい。
果たして俺は誰に勝ちたかったのか。
誰に認めてほしくて、誰と何を共有したかったのか。
もはや何もわからなくなった。
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