第15話 今の自分はまともでない。

 さすがに六千万円の貯蓄があるだけでは一生安泰というわけにはいかない。うまく節約して生きれば十年どころか二十年以上の猶予を得られるだろうが、健康であれ不健康であれ長生きする可能性を考えると、最終的には何らかの手段で収入を得なければ生活が立ち行かなくなる。

 一時的な不戦勝を得るために堕落して暮らしているだけでは、資金が底をついて生活が行き詰った老後に誰も助けてはくれないだろう。

 だからというわけではないが、結局のところ俺はリンゲちゃんの提案に乗って小成さんと会うことにした。

 いくつかの理由があるにしても、一番の動機としては前向きに彼女たちの活動を手伝うためである。


「古橋ちゃんからお願いされたときは驚いたよ。でも、来てくれてありがとう」


「まあ、その、あまり役に立てるとは思えませんが」


「ううん、そんなことないよ」


 なんとなくお互いに距離感を探り合うような気まずさを抱きつつも、今日の予定を合わせる以外にはスマホでさえ連絡を取り合わず、久しぶりに会ったことを感じさせないまま本題に入る。

 忘れてはならない大事なこと、そうでもないこと、いろいろな説明を小成さんから受けて、ひとまず俺は施設全体の清掃係になった。


 ――じゃあ、学校行ってきます。


 ――うん、いってらっしゃい。気を付けてね。


 四月になって毎朝元気に学校へ行くリンゲちゃんをスマホで見送った後は身だしなみを整えて施設に顔を出し、掃除道具を持って建物の内外をきれいにする。シフトは週に休みが一日から多いときで三日、労働時間は午前の時と午後の時があり、これはどちらも数時間程度に抑えられているが、きちんと働いているんだと思えばやりがいはある。

 生まれた時から社会性に乏しく労働力もなかった俺だが、今はその何倍もどうしようもなく弱くなっていて、こんな状態の俺が働いたところで迷惑をかけるだけかもしれない。

 そう思っていたけれど、小成さんはどんなに俺の掃除の手が遅くても小言の一つさえ言わないでくれる。不手際があっても落胆や失望を見せないでくれる。それどころか顔を合わせるたびに俺のことを気遣ってくれる。

 いちいち気にかけてもらっている申し訳なさと情けなさで死にたくなる半面、生きていてもいいのかな、と弱気ながらも思えてくる。

 誰もいない場所へ逃げたくなると同時に、こここそが俺の居場所なのかな、とも思えてくる。

 勝ったとか負けたとか、安っぽい概念はどこかに消えてしまった気さえする。


 ――今日もお疲れ様でした。


 ――ありがとう。リンゲちゃんもね。


 ――はい。何かあったら言ってください。小成さんに言えないことでも私なら大丈夫ですから。弱音でも、不安でも、くだらないことでも。


 ――うん。


 と送った後で、頭を切り替えるように深呼吸をしてから小成さんに伝える。


 ――今日もお疲れ様でした。


 リンゲちゃんとは違って、こちらは十分以上も遅れて返信が来る。


 ――ありがとう。塚本君もね。


 ――はい。何かあったら言ってください。駄目なところとか、直したほうがいいところか、そういうことはいつでも。


 ――今のところはないよ。


 ――今のところ。


 ――ごめんごめん。別にこれから何かあるってわけじゃないけどね。塚本君はすごくよく頑張ってるよ。


 そう言ってもらえるだけで救われる思いがする。すべてを肯定されている気がする。

 まだ彼女に対する恋心は死んでいないんだな、なんて痛感してしまうくらいに。

 あれから結婚はしたんだろうか。さすがにそうなっている場合は教えてくれそうなものだが、それさえも聞けずにいる。

 今もあの男性と付き合っているのかどうかすら。





 新しい生活に慣れ始めたころ、仕事終わりに呼び止められた。小成さんや他の職員さんではなく、芹村君だ。


「すみません、いきなり話がしたいだなんて」


「いや、別に俺は大丈夫だよ」


 招かれるままに彼の部屋に入ってみれば、もじもじと所在なさそうに立っているので座ってもらうことにする。

 どこで買ってきたのか飲み物や茶菓子をテーブルの上に出してくれているが、芹村君は遠慮して口にしなさそうな雰囲気だ。一人だけ食べるのも気が進まない。


「どうしたの? 話だけならスマホでもできると思うけど」


「それはそうなんですが、すみません。スマホは今あまり持ち歩かないようにしているので」


「ふうん……」


 スマホが普及して生活必需品と同等の扱いを受けるようになった時代ではあるけれど、それを持ち歩きたがらない気持ちは理解できる。仕事をやっているころ、スマホなんて何度も捨てたく思ったことがあるからだ。仕事を辞めた今でさえ、他人のどうでもいい言論が詰まっているスマホやネットが煩わしく思える。

 一人の時間を問答無用でこじ開けてくる危険なマスターキー。捨てられるなら捨てたいが、学校でも仕事でも、あるいは適度に一般社会に溶け込む必要がある日々の生活でも、所持していることが当然の扱いを受けるようになったスマホを完全に捨て去るのは難しい。

 だから、なるべく持ち歩かないようにするという代替案。

 人と会いたくないときは無理に会わないようにする。うるさく感じた時はテレビを消す。情報に溺れそうになったらネットを見るのもほどほどに。

 たまには静かに一人で過ごすのもいい。


「塚本さんは今は施設を手伝っているようなので、お邪魔でなければ話をしたいなと」


「それは別に構わないけど、お話って?」


「ええと、そうですね。呼び止めておいてなんですけど、どう話を始めればいいのか……。世間話があまり得意ではないので、いきなり本題に入ってもいいですか?」


「そんなに心配しなくたって、もちろん好きなようにしてくれていいよ。話したいことがあるなら早く話してくれたほうがいい。回りくどい前提を置かれても、こっちだって本題が気になって話が入ってこなくなるからね」


 それに俺だってそういうやり取りは苦手だ。ここまで生きてきて、数々の会話に失敗し続けてきた経験を悲しいくらいに自覚して記憶している。普通の人が普通にこなしている普通の人生を送れずに、逃げるように社会からドロップアウトするくらいには他者とのコミュニケーションが不得手なのだ。

 余計なものをすっ飛ばして本題に入ってくれるなら、目の前の用件に集中するだけでいいので助かる。

 少しだけ言いにくそうな素振りで芹村君が口を開いた。


「実は、少し前にこの施設を脱走してみたんです」


「え、脱走? 芹村君が?」


「はい、僕が」


 意外な話だ。頼んでもいないのに両親に押し込まれてしまったという彼は自分の境遇に納得していないようだったけれど、わざわざ施設を脱走するほどのバイタリティもないように感じていたから。

 俺と同種の、何があろうとも抵抗せず、周囲に流されて生きるタイプの人間だと思えたから。

 それにもし芹村君が施設を脱走したのが事実なら、彼のことを目にかけていた小成さんが情報を求めて俺にも連絡をくれるんじゃないかと思った。期待でも信頼でもなく、なんとなく彼女なら俺にも知らせておく気がする。

 いや、どうだろう。知らせてくれなくても当たり前か。

 まさに社会から脱走するように逃避中の生活を送っている俺のことを考えてくれたからこそ、脱走した芹村君のことを心配しつつも俺に報告するのを避けたのかもしれない。直接的に連絡を取っていなくても、小成さんは限界ぎりぎりで生きている今の俺の余裕のなさを見抜いていたに違いないから、下手に負担をかけないようにしてくれたのだろう。

 芹村君の話は続く。


「本格的に家族との縁を切って、知らない場所で新しい生活を始めたかったんです。ネットで知り合った人に紹介してもらって塗装業の仕事が見つかったんですけど……これが、実際に会ってみたら高校生はダメだって追い返されちゃいまして」


「そっか。それで施設に戻ったんだね。で、親御さんにその話は?」


「たぶん施設の人からも報告はあったんでしょうけど、何かを聞かれる前に腹をくくって僕の口から言いました。ただ、こうして施設に戻ってきたとはいえ僕が脱走したことで恥をかかされたと感じているらしく、人並み以上にメンツを気にする母はすごく怒ってしまって。八つ当たりとは違うのでしょうけれど、ヒステリーみたいに当たりが強くなっちゃって」


「それは大変だろうね。今は大丈夫なの?」


「大丈夫です。実はそれはどうでもいいんですよ。僕は昔から母に甘えたい気持ちもなくて、スマホに連絡が来たって適当に相手をして、物理的な距離をとってれば済む話なので。だから気にしてるのは別の部分というか、その……」


「何か言いにくいこと? 時間はたっぷりあるからゆっくりでもいいよ」


 のどが渇いていたわけでもないが、緊張している彼をリラックスさせるために飲み物を手に取る。

 しばらくして、ふう、と息をついてから芹村君が顔を上げた。


「あの、ネットでの書き込みが少し過激になったような気がするんです。おっさん臭くて偉そうな書き込みをして一人で悦に入っている父の書き込みも前から気持ち悪いな、って感じてはいたんですが、最近は母も今まで以上に世間に対して上から目線で物申し始めていて、これはどうしようかと」


「なるほどね。ネットか」


 ネットの書き込みが過激化すると言えば、ネットにおける炎上が原因で会社を解雇されたという岩野木さんのことを思い出した。もしも職を失うような結果となれば、親子喧嘩で終わるような問題ではない。収入がなくなって生活が一変する大問題だ。どこから個人情報が洩れるかもわからないので、匿名アカウントだから大丈夫と言い切るのは難しい。

 反抗期の少年が語る自分の親に対する不満だから、実際よりも大げさに捉えている可能性もあるけれど、どれくらい深刻な状況なのだろう。

 初めて会った時も芹村君は親がネットを使っていることに悩みがあるようだった。とすると、あれから今日まで彼の精神の中に不安やストレスはたまり続けてきたのかもしれない。

 世間から見れば些細な悩みでも、それを悩みと考える本人にとっては大きなものだ。

 彼とは知らぬ仲でもないので、どうでもいいと切り捨てて無視はできない。


「やめさせるっていうのは難しいんだよね?」


「難しいです。僕の話を聞いてはくれませんし、ネットでも反論してくる人はみんな敵だと考えているタイプですから。子どもにとっての親はどこもそうでしょうけど、頭が固いんです。とりあえず今は匿名でなんとか無事に済んでますけど、まあ、少しくらいは痛い目を見たほうがいいかもしれません。さすがに悪質なデマとか誹謗中傷といった捕まるようなことは書いていないんで、ちょっとは炎上して目を覚ましてほしいです」


 ちょっとで済むだろうか。ネットの炎上は乾燥地帯で発生する山火事のように延焼しやすくコントロールも難しい。最悪の場合を想像するなら、父親か母親のどちらかがネットリンチの対象になって個人情報を晒されて、芹村君を含めた一家全員が普通に生きていくことも難しくなってしまいかねない。

 ただし、今では正気を疑う過激な書き込みをする人が増えたおかげもあってか、何処かの誰かが不適切な意見を書き込むことなど日常茶飯事であり、よほど悪目立ちさえしなければ、匿名で活動している一般人が炎上するリスクは下がっている気もする。


「まあ、あまり人生がうまくいっていない俺から言えるのは一つだけかな。親を反面教師にして、ネットに不用意な発言を書き込まないようにすることだよ。あと、関わらなくてもいいなら無理に関わらないことだ。学校に行けなくて高校を卒業するのが難しくても、小成さんたちに支援してもらって自立できれば親とも離れられる」


 実際、大学を卒業してからの俺は両親とほとんど会っていない。小学校から大学までの知り合いもそうで、多くは卒業してしまえば会う機会もなくなる。自分も他人もそれぞれに就職してしまえば目の前の生活が忙しくなり、昔の知り合いと連絡を取ろうとも思わなくなった。

 無論、これは子供のころから周囲との絆を重要視してこなかった俺だからこその寂しさかもしれないが。

 今の時代はネットがあるおかげで、環境が変わってリアルで離れても仮想空間でなら縁を持ち続けられる。そのモチベーションが続くかどうかは別問題としても。

 少しでも重荷が降ろせたのか、芹村君がほっと溜息をついた。


「そう言ってくれると思ってました。無理に両親と仲良くしろとは言わないって。僕、今の塚本さんに憧れというか、シンパシーを感じているんです」


「感じられても困るというか……。今の俺は大人としての見本にはならないよ。芹村君にとっての憧れとかシンパシーってのがよくわからないけど、たぶんそれは気の迷いじゃないかな?」


「迷っていると言えば、それはそうですよ。悩んでいるんです。苦しんでいるんです。つらいんですよ、全部が」


 今までは年長者として一歩引いた視点から相談に乗っていたが、すべてがつらいという彼の言葉が自分の中にすとんと落ちてくる。

 シンパシー。なるほど。確かに俺と彼の間には共通するものがある。

 世間や社会、もっと言えば人生そのものへの疲れと悲観。

 あらゆるものと距離を置きたがっている精神性。

 面倒ごとと関わらずにいられる不戦への憧憬。

 正直なところ、勝利などいらない。


「施設の人たちに支援してもらって自立できればいいって言いますけど、できそうにないっていうか……。誤解を恐れずに言うと、僕、できることなら社会に飛び込まずに閉じこもって生きていたいんです。仕事をしたくないとか、勉強が嫌だとか、そういうことじゃなくって、その、自分でもこの気持ちをなんと言えばいいのか……」


「いいんだ、芹村君。わかるよ。俺にもわかる。完全に理解しているとまでは言わないけれど、その気持ちはわかる」


「わかってくれますか」


 十歳以上も年が離れていることには構わず、俺を一人の同士と見たのか、芹村君が嬉しそうに目を輝かせる。期待されても返せるものが何一つないので罪悪感を覚える。

 誰かに慕われるのは嬉しくもあるが、同じくらいに負担もある。

 心がぐっと重くなる。

 子供のころから友情には一歩引いていた。明確な理由があるわけではなく、誰かに深く踏み込まれるのを恐れていたから。


「だったら、これもわかってくれますか? 僕、なんだか理由もなく死にたくなるんです。でも本当は死にたいわけじゃなくて……」


「え? うん」


 わかるけれど、わからない。

 わかってはいけない気もするが、わかってあげなければならない気もする。

 死にたい。

 よく聞く言葉だ。軽くもあり、重くもあり、いろんな思いを込めた言葉。

 とにかく彼の話を聞こう。そうすることしかできない受け身の自分をよく知っているから。


「ネットとかテレビとか見てても、なんていうか、なんだかなあって……。今の大人とか社会を見ていても、なんだかなぁって……。かといって自分が若い世代の価値観に染まれていない気もして、過ぎ去った時代に名残惜しいものもなくて、これからの時代や未来に期待するものもなくて……。普通に生きていられるだけで、幸せと言えば十分に幸せなんです。でも、なんでかわからないんですけど、つらくなって死にたくなるんです。世界のどこにも自分の居場所がないというか」


「自分の居場所か……」


 何か気の利いたことを言ってあげられればいいのだけれど、あいにく俺にも見つかっていないものを教えることはできない。同じ立場に立っている理解者のふりをして、孤独の淵に落ちかかっている彼を慰めることしかできない。

 生死の狭間で悩める青少年に希望を提示することができるなら、まず真っ先に自分のことを救えていた。

 まさか世をはかなんで心中をやるように誘うわけにもいかず、相談相手に俺を選んでくれた彼を冷たく見捨ててしまうわけにもいかず、なのに考えても考えても悩める彼を救える言葉に見当はつかない。

 知ってるかい? リンゲちゃんや小成さんの隣が俺の居場所なのさ。

 そんなことを言えるわけもない。


「楽しいことが何かないかなと思ってネットを見るんですが、見るたびに世界が嫌いになるんです。中毒ってほどじゃないのに気が付くとスマホを見てしまうんですが、その度に頭が痛くなって、心が疲れてしまうんです。全部がそうだとは言いませんけど、ネットって何かネガティブな書き込みばっかりじゃないですか? そういうのこそ目に付きやすいだけかもしれませんが、でも、世の中って本当にこういう形をしているんじゃないかって思えて、苦しいんです」


 そんなことないよ、と若者を励ます言葉も出てこない。

 疲弊しているのは俺も同じだから。

 感情を抑えて、なるべく事務的に、世間話をする程度に芹村君が俺に訴えかけてくる。


「若者を批判する声ってどこにでもあるじゃないですか。どこの誰かも知らない人たちばかりなのに、みんな偉そうじゃないですか。日本への悪口とか、同じくらい外国への悪口とか、世界を馬鹿にするとか、現代社会への批判とか。今と違って昔はよかったとか、どうでもいいような対立とか、あらゆるものへの衰退論とか」


 無駄に偉そうで話を聞かず、何をしゃべるにも結論ありき。

 批判はするが、されると怒る。

 そんな書き込みばかりだから、他人の悪意に耐性のない人がネットに接していると気疲れすることが多いだろう。


「そういうのを見てると死にたくなるんです。ネットやテレビが悪いというよりも、そういう人が存在するんだなぁって思うと、生きているのが大変に思えてくるんです。目に付いたものを許さない、自分と違うものを素直に褒められない、そんな人ばかりの世界で、自分と同じような声は誰にも届かない……。生きにくさって国や時代のせいでもないと、なんとなく僕は思うんです。これが紀元前の遠い世界であっても、たぶん僕は普通に生きるってのが苦手だと痛感する日々です」


 あまりに淡々と語るので、過剰な演技でもなく素直な本心を伝えてくれているのだと理解できる。

 だからこちらも取り繕った一般論を用意することに抵抗を覚える。

 稚拙でも自分の言葉を絞り出す。

 それで駄目なら俺には無理だ。


「いつの時代でも普通に生きるのは難しくて、芹村君と同じように生きるのが苦手な人はたくさんいるんだと思うよ。まさしく俺もそんな人間の一人だからね。だから君のつらさはわかるんだ。死にたくなるって気持ちも、居場所がないって気持ちも理解できる」


「はい」


「だけどね、今の俺は苦しいことがあっても、本気で死にたいとまでは思わずに済んでいるんだ。居場所がないと思いつつも、ここが居場所だと信じたい人のそばにいられる気もする。何度となく周囲の期待を裏切り、何度となく期待を裏切られ、それでも致命的に死なずには済んでいる。今、それがどうしてかっていうと、たぶん、リンゲちゃんや小成さんといった人たちが俺のことを気に掛けてくれているからだと思うんだ」


 誰かを救うことは難しい。

 具体的な力になれるかどうかなんてわからない。

 けれど、心配して気に掛けるくらいなら俺にだってできる。


「芹村君、まずは俺と手をつなごう。いわゆる普通の友達とは違うかもしれないけれど、おはようとか、おやすみとか、そういうとりとめのない言葉をスマホ越しでいいから毎日ちょっとずつ送り合うんだ。たった一人でも自分のことを考えてくれる人がいると感じられているうちは大丈夫だから。負担にならないくらいに、まあ生きていてもいいかと思えるくらいのつながりを、俺とでいいなら……」


 他に何を言えたのか、うまく言葉をまとめられなかったので、口にした自分でも覚えていない。

 ろくでもない無力な大人だから、世界を変えることなどできない。

 精神が弱い人間だから、前向きな言葉で彼を励ますこともできない。

 だからこんなことしか言えやしないのだ。

 なのに芹村君は満足そうな顔をしてくれる。


「わかります。大きなことを期待しているわけじゃないんです。そういえば小成さんも言ってましたよ、同じような立場で自分のことを少しでも理解してくれる誰かがいてくれるだけで救われるって。たぶん、僕もそうです」


「小成さんが?」


「そうですよ。あの人、少しの間だけ休んでたんです。ひきこもりに対するネットの中傷を見ちゃって、自分のことのように傷ついた感じで。それで塚本さんが相談に乗ってあげてたんじゃないんですか?」


「いや、俺は……」


 そんな話は一度も聞いていない。


「だったらあの人は一人で立ち直ったのかもしれませんね」


 それから何を言ってくれたか、しばらくして立ち上がった芹村君はわざわざ俺に礼を言って、部屋の外まで見送りに来てくれた。

 役に立てたのかもわからず、何かをしてあげられたという達成感もないが、少なくとも罪悪感だけは抱えずに済んだ気もする。

 これから少しずつでも彼の力になれればいい。

 そう考えながら帰宅の途に就いた。





 その日の晩、次第にふつふつと怒りがわいてきた。

 自主的に島流しされたような精神状態となっている俺が一人で苦悩するならばともかく、芹村君やリンゲちゃん、そして小成さんが苦しむ原因となった何かへの苛立ち。

 明確な敵がいるわけではなく、自分でも矛先がわからない怒り。

 あえて批判したい対象を見つけるなら、攻撃する民主主義、とでもいうべき世の流れ。

 現状、いわゆる民主主義は様々な立場から話し合いを積み重ねて合意を目指すのではなく、自分たちの主義主張が多数派になることを第一目標に据えた排他的なデモ社会として実現されている。剣よりも強いとされるペンを武器として、自分たちに敵対するイデオロギーを排除しようとする戦争状態にあると言ってもよい。

 しかもそれは必ずしも国家やメディアが主導するものではなく、ネットによって分断と結束が両極端に強化された大衆の側が、それぞれのペンと拡声器を駆使して攻撃に明け暮れているのだ。

 ネットの普及とともに個人主義が台頭して価値観が多様化したことで全員が納得できる大きな物語を失い、もはや「反○○」でしかまとまれない時代なのだろうか。いわゆる「正・反・合」ではなく、延々と「正・反・反反」を繰り返していく攻撃的な議論がスタンダードになったようにも思える。

 自分たちの信じるイデオロギーを学術的な側面から理論武装するのではなく、まずは快・不快に基づいた情報の取捨選択を行い、続いて飛躍した意見や都合のいいフェイクで塗り固め、最後には対立するイデオロギーを下げることで自分たちの優位性や正当性を高めようとする運動が活発になった。

 万が一にも自分たちが負けかねない建設的な議論を挑むのではなく、話の本筋とは関係ない人格攻撃やレッテル貼りを繰り返すことにより、ネガティブなイメージを押し付けあって勝利を目指す運動だ。

 教養のない大衆であってもネットのおかげで主体的に世論を形成できるようになり、個々人の思い込みや浅い知識による一貫性のない議論が繰り返され、相手の意見をまともに取り合わず、何よりも感情論が優先されるようになった。

 誰かを倒すために意見を書き込む。

 議論はいつも感情的に水掛け論を繰り返しがちで、論理的な合一を目指すことはない。

 くたびれたほうの負け。声のでかいほうが勝ち。

 ちっぽけで不毛な終わりのない争い。

 良識があって模範的な人間ほどおとなしく、目立つのは極端な人間ばかりだから、そういう社会に巻き込まれて希望を持てない若者が出てきても不思議ではない。

 なんだか死にたくなると言っていた芹村君。精神的につらく、死にたくなるほど追い込まれているのは彼だけなのだろうか。

 そうでないとすれば、その責任は誰にあるのだろう。

 誰かを叩きたい人間たちだけが叩き合って、お互いを負かしあって、勝手に悲観して絶望して世の中から消え去ってくれればいいのに。日常的に攻撃に精を出している人間など、どうせ誰にも本当の意味では求められていないのだ。

 ネットでヘイトをぶちまけて、うまくいかないのを他人や環境のせいにして、幸せそうにしている人には例外なく泥を投げつけて、同じレベルの人間たちで徒党を組んで「お先真っ暗!」と騒ぐ。政治や経済の問題にとどまらず、娯楽やらスポーツやら日常のどうでもいいようなことすら問題視して、違う価値観を許せずに攻撃しては見下して自己満足な勝利宣言をしたかと思えば、周りを巻き込んで不幸アピール。

 社会が悪い、大衆が悪い、俺は悪くないのに報われない、努力もしないのに口だけはうるさい。歴史上定期的に出てくるニヒルな終末論者と何が違う。社会転覆を目論むカルト信者と何が違う。

 不安を煽って何をなすでもなく、普通に暮らしている他人まで不幸にしたがる。

 独りよがりの主張はどうでもいいから、まずはまともに良識を持て。

 結局は自分が愛する価値観を多数派にしたくてたまらないだけなんだろ。

 思想弾圧や情報規制には反対だから黙れとは言わないけど、まともに話し合いたいなら言葉を選べ。きちんと人並みに相手をしてほしければ、まずはお前が他人にリスペクトを払って対等に扱え。

 他人をどうしたいか、どうしてやりたいかばかり押し付け合う。自分がどうするか、どうしたいかを語りもせずに。

 世間が何を怠慢しているか、他人が何を努力していないかを偉そうに批判してばかり。

 まずは自分が何を努力しているかを数えろ。

 どうせなら自分の夢を語れ。

 最低限、偉そうな態度で周りを見下さずに他者を尊重しろ。

 テレビを見てもネットを見ても、世界が窮屈になったことを痛感する。情報化社会が発展するとともに多種多様な価値観が表に出てきて世界が広がったようでいて、不特定多数の人間が自由につながり合うようになり、目に見えて増えたのは摩擦熱だ。

 面白いことをやろうとすれば興味もないくせに冷や水を浴びせ、おとなしくしていようと思えば勝手に怒り始めて問題を見つけ出す。

 己の理解する善意と常識だけを振りかざし、正論ぶったエゴをたたきつける。

 ……もう疲れた。

 俺は相手をしていられない。

 この期に及んで願いは一つ。

 優しい人だけで世界を作りたい。

 人間離れした聖人君子のことではなく、まともで普通な人だけが暮らす社会。ほどほどに他人を尊重できて、それなりに寛容性があって、ひとまずは前を向いて生きられる人だけを集めて生きるのだ。

 もっとも、それは実現する可能性の低い理想論でしかなく、あいにく真っ先に俺がはじき出されそうな世界だが。

 残念ながらユートピアとディストピアは紙一重だ。汚れや異分子を許容できない世界は窮屈で生きづらかろう。

 度を越して健全な社会に俺の居場所はない。

 結局、周囲の環境を自分好みに作り変えるために戦いずくめの人生を送るよりも、どんな状況になっても生きていけるように強くなるべきなのだろう。現実が都合よく誰かを多数派の地位に置き続けてくれるわけもなく、気に食わないものは誰にとっても世にあふれ、無理を押し通そうとすれば衝突して仲間や理解者を失う。

 ならば適応力を高めるしかない。

 自分にとって大事なものを見失いさえしないなら、世間や他人がどうなろうとも関係ない。

 心を恒温にして生きる。

 強く生きるというのは、なにも他人をやり込める技術のことばかりをいうのではないだろう。


「はあ……」


 ここまで考えて、ため息が出た。

 先ほどから俺は一体何を偉そうに語っているのだ。

 冷静になるにしたがって、自分への嫌悪感が湧き上がってくる。

 ネットの書き込みやメディアのニュースを見て、いちいち腹を立ててしまう俺こそが幼稚で独りよがりなのだ。

 自分にとって都合のいい極端な考え方をする人間たちを想定して、一方的に言い負かしているのは他でもない俺自身ではないか。考え方が間違っている人間を批判する口ぶりで、誰からも反撃を受けない安全圏から攻撃して、実際には自分が気持ちよくなりたいだけ。

 いつまでも不戦勝を捨てきれずにいるのだ。

 自分だけが世界で唯一まともだと、全身全霊で思い込みたがっているのだ。

 右も左も、理想も現実も関係ない。自分が所属する国やコミュニティが否定されると自分まで一緒に否定された気分になるから躍起になって反論して、逆にそれらを過剰に持ち上げる人がいれば、現実的には疲弊して生きている自分との距離感に納得ができず、みんな苦しんでるんだと水を差す。

 守りたいのは現実でも理想でもなく、気に食わない意見をすべて排除した世界に訪れるであろう、自分一人の心地よさ。

 今までひどいことを言ったすべての人に謝りたい。

 テレビもネットも、どんな人間だって俺よりはまともだ。

 間違っているのは俺だった。

 情緒不安定だと我ながら思う。

 けれど自己嫌悪で胸が苦しい。

 つまらぬエゴに押しつぶされそうだ。

 スマホが鳴った。


 ――ネットメディアを支える人手が欲しい。そろそろ俺の仕事を手伝わないか?


 年末に会ってそれっきりでいた、かつて政経討論サークルで一緒だった男だ。

 教えてもらったくせに名前は忘れたが、かろうじて顔は覚えている。

 投げつけたい気分でスマホを握りしめたまま数秒ほど考えたのち、事務的で淡々とした短い返事を送って、彼と再び会って話をする約束を取り付けた。

 今の自分はまともでない。

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