第13話 とんでもない馬鹿を相手にする気分。
まだまだ寒い三月の中頃、やはり俺の精神は低調なまま不戦勝を見失っていた。
あの日、岩野木さんと繰り広げた口論の余韻が残っていた。
あれから何度も架空の言い争いをして、そのたびに岩野木さんを言い負かして俺が勝った妄想をする。その時々で岩野木さんの主張が変わり、それに応じて俺の反論も都合よく変化する。とんでもない馬鹿を相手にする気分。お膳立てされ、最初から勝敗の決まっている独りよがりの論戦では収穫もなく、再び彼と対話する予行練習にさえならない。
そう思っていたからか、また会えないかとの連絡が来た。岩野木さんからではなく、彼と一緒にいた浅川さんだ。
政経討論サークルに所属していたころ、いつも一緒にいてくれた浅川さん。喧嘩別れをして、それを最後に会わなくなって、そのことをずっと謝りたかった。
結局この前は岩野木さんのせいで彼女とはちゃんと話せなかった。
彼女は俺のことをどう思っているのだろう。
少なくとも向こうから誘ってくれたからには、俺と会いたくないわけでもないらしい。
予定を確認すると今度は岩野木さん抜きで二人きりで会おうということなので、覚悟を決めて俺は彼女と会うことにした。
「この前は二人で会話ができなかったから、今度こそ久しぶりだね、塚本君。しゃべりたいことはたくさんあるけど、まずは移動しよっか」
「そうですね」
浅川さんとの待ち合わせは駅前だった。
ここからどこに行くのやら、すべては彼女に任せてついていく。
繁華街へ向かうのかと思ったら逆方向で、とあるアパートに入るとエレベーターに乗って上階を目指す。止まったのは四階。エレベーターを出て通路を歩き、ここが目的地なのか、浅川さんは奥の部屋の前で立ち止まった。
扉に手をかけた彼女は照れるでもなく自然なふるまいで俺を見た。
「ここが私の部屋なんだ」
「そうなんですか。入ってもいいんですか?」
「もちろんだよ。そのために連れてきたんだからね」
ならば遠慮していても仕方がない。
一人暮らしなら珍しくもないワンルーム。格安の量販店で買ったようなインテリアも質素で、ただ家具を定番通りに置いたようなレイアウトもシンプルな部屋だ。
いつでも立ち退ける必要最低限のパッケージ。一時期それなりに流行ったミニマリストとも違う。
生活の拠点をここに置いていても、人生の拠点まではここに置いていない感じ。
うまくは説明できない。
招かれて部屋の中に入ったはいいが、はじき出されそうな気がする。
彼女の人生にとって、俺は不要なものであろうから。
「塚本君、はいこれ。よかったら飲んで?」
単身で敵地に乗り込んだ気分で緊張しているのを見抜かれたのか、肩の力を抜いてリラックスするようにと、まずは一杯のグラスに入った飲み物を渡される。
警戒心を見せないように振る舞う彼女がそばに来て、受け取る際に指が触れ、あわやグラスを落としそうになる。
「お酒ですか?」
「ううん、アルコールは入ってないジンジャーエールだよ。この前、お酒は苦手そうだったから」
「あ、はい……」
ありがたい思いがした。俺が何を好きで何を嫌いかなんて、世界の誰も興味がないと思っていた。
社交辞令ではなく、彼女が俺をちゃんと見ていてくれたことを実感する。
今だけの話ではない。大学生のころから彼女はそうだった。
いつも俺のそばにいて、いつも俺を気にかけてくれていた。
だからこそ心残りは取り除いておきたい。感謝と謝罪と、あとは何を。
「あの、俺、ずっと浅川さんに言いたかったことがあって」
気負いすぎているくらいに気負って言うと、何を言われると想像したのか、手を上げた浅川さんはちょっと待ってと俺を制した。
ふふ、と楽しそうに笑われてしまう。
「いきなりだね。いつもそう。変わってないなぁ……」
懐かしそうにする彼女に悪意はないだろうけれど、聞く人が聞けば嫌味に聞こえなくもない。
変わっていない。昔を知る誰かに会うたび、いつもよく言われる。記憶が確かなら小成さんにも言われた。見た目や精神が若々しいという意味での前向きな誉め言葉ではなく、会わない期間で見違えるほどの成長をしたことがないから。
圧倒的な経験不足。向上心はなく、志も低い。
「変わらない人って安心する。変わらなくちゃって生き急いでいる世の中が苦しく感じるから」
無論、だからといって、変わらないでいた俺の存在が彼女に安心感を与えているわけではないだろう。比較対象として都合のいい俺がいて、彼女はそれを遠巻きに眺めて安心しているだけなのだ。こういう生き方をしている人もいると知れるだけで、間違っているかもしれないと思っていた自分の生き方を肯定できるようになる。ずっと変わらずにいる昔馴染みを見つければ、無理に自分が変わらなくてもいいと言い聞かせられる。
もし自分が成長できたと感じているときは、その成長具合をもっと大きなものとして理解できる。
数年ぶりに参加した同窓会で、自分以外の全員が誰一人として自分よりも上に行っていないときの安心感。
ひどい優越感。
こうして俺に優しく接してくれている彼女がそうだとは言わないが、そうだろうと思ってしまう自分のひねくれ具合に悲しくなる。
気分直しのジンジャーエール。
アルコールも抜きに女性と部屋で二人きり、口を閉ざしたまま黙っていても場が持たない。かといって彼女と楽しく交わせる雑談の種もなく、結局は本題に入らざるを得ない。
「あの……」
気まずさをぬぐって口を開けば、よっこいしょとわざとらしく声に出した彼女が立ち上がって俺に背を向けた。
「ちょっと待ってて。着替えてくる」
「え? あ、はい。わかりました」
なぜ着替える必要があるのだろう。しかし彼女を止めるほどの理由もないので、ここはおとなしく待つしかない。
思えば同年代の女性の家に来たのは初めての経験かもしれない。しかも一人暮らしの女性となればなおさらだ。
勝手に部屋を物色するわけにもいかず、所在なく座って待つ。いつもやっている生き方のように、小さくなって声も上げずに。
おそらく浴室につながっているであろう脱衣所から戻ってきた浅川さんは俺の前で立ち止まって、着替えてきた服を見せてくれる。
「これ、昔の服なんだけど似合うかな?」
視線を誘うように胸元が開いているブラウス。裾に行くほど広がっている紺色のスカートは長い。髪型も変わっていないので、否応なく当時を思い出す。
大学生のころの服装だ。
サークルにもよく着てきたので、今でもよく覚えている。彼女が気に入っているというコーディネートの一つであり、いつも記憶の中で浅川さんを思い出すとき、高確率でその姿をしている。
なんだか気分が十歳くらい若返った感じがする。
「似合ってますよ。まだ二十歳くらいの大学生でも通用するんじゃないですか?」
「ありがとう。昔も褒めてくれたよね」
そうだ。確かに俺は昔も褒めた。
忘れもしない、あの日の彼女が身にまとっていた服である。
どういう流れで喧嘩に至ったのか、今でも明瞭に覚えている。
二人きりの部屋。大学生らしい生々しい恋の話。オタク趣味に逃げていて、目の前の女性に向き合えなかった俺の日々。
「それで、あの日のことなんですけど……」
今の俺たちの間であの日と言えば、たぶん一つしかないだろう。
浅川さんは俺が何を言いたいのかすぐに察したらしい。
「ああ、そのこと……」
グラスを手に、浅川さんは昔を思い出すように遠い目をする。
そしてこちらを見て、ゆっくりと語り掛けてくる。
「実はあのころ、サークル長が提案した勧誘ノルマっていうのがあってね?」
勧誘ノルマか。初めて聞いた話だ。
けれど意外性もなく、すんなりと受け入れられる。
サークルに俺を誘った浅川さんに裏事情が何もなく、純粋に俺のパーソナリティだけが彼女の行動原理になっていたとは思えないから。当時の冴えない俺が理由もなく彼女に気に入られていたとは思えないから。
むしろこうして自分から説明してくれることに優しさや温情を感じる。
彼女は俺を見下してはいない。
当時も今も、ある意味では一人の人間としてまっとうに扱ってくれている。
「会費が必要だからって言われて、あなたをやめさせないために面倒を見てたの。けどね、それは最初だけ。途中からはそれだけじゃない。私の嫌いだった先輩にも堂々と言い返すあなたがかわいくも思えたから」
嫌いだった先輩。誰のことだろう。
俺の他には三人しかいなかった男子ならばともかく、女子の先輩だったら一人として顔も名前も思い出せないが、そもそも俺からすれば好きになれた先輩は一人もいなかった。だからみんな嫌いと言えば嫌いだ。
サークルにいて好きになれた人は、偉そうにするだけの先輩ではなかったから。
「塚本君、あなた、ずっと小成さんが好きだったんでしょ?」
「どうしてそう思うんですか?」
なるべく感情を殺して問い返すと、それが気に食わないのか浅川さんは俺以上に感情を殺して淡々と答えた。
「誘っても私に乗ってこなかったから」
「それは……」
「ほら、今も距離を置いてるよね? 心に壁を作ってるでしょ? そんなに私のことが嫌い?」
畳みかけるように追及されるので弁護人を呼びたくなる。
もし俺に嫌われていたら、少しくらい浅川さんは悲しがってくれるんだろうか。こんな俺が相手でも、好かれていたいと期待してくれるんだろうか。
どちらにせよ、事実でないことを誤解されたままでは寝覚めが悪い。これでも俺は彼女と喧嘩別れしたことを本当に後悔していたのだ。今回もまた喧嘩別れになれば新たな懸念材料を上塗りすることになり、ストレスをため込んだ今後の俺が精神の安定を維持できるとも思えない。
「いえ、浅川さんのことは好きですよ。すごく感謝してます。ただ……」
何を言うにしても、ふさわしい言葉を選ばなければ。
そう思って少しだけ迷ったものの、うまい言い草は見つからない。人間関係を円滑に進めるために必要な小手先の技術に自信はないから、結局は誠意だけを武器に正直に答えることにする。
「さっきのは認めます。俺は小成さんが好きでした」
それが浅川さんに近づけない理由。
一度恋をした俺は無駄に一途だったのだ。報われるかどうかもわからぬまま小成さんへの片想いが続いている状態では、心変わりするように浅川さんへとアプローチするわけにもいかず、優しくしてくれる彼女への誠実さも捨てたくはなかった。
不器用なのだ。
どうせ届かぬくせに理想だけは高く、目の前にある現実からは逃避して、自分に対して何度も幻滅する。
小成さんを好きでいた俺は彼女のことで心がいっぱいだった。浅川さんに優しくされて嬉しく感じても、優しくしてくれる彼女に恋心を持つほどの余裕がなかった。人間関係が下手にこじれるのを恐れていた。何もうまくいかぬ失敗の多い人生だったからこそ、浅川さんの優しさを心のどこかでは疑っていたのかもしれない。
浅川さんが俺を見て気の毒そうな顔をする。
「なのに自分からはアプローチできない。彼女もしてくれない」
「それはそうですよ。今、小成さんには付き合っている彼氏がいるんです」
「そうなの? 私は聞いてないけど……ま、友達というには距離がある私と彼女の関係じゃね。それで?」
「俺だって直接は聞いてないですけど、このままいけば二人はきっと結婚だってします。お似合いの相手ですよ。前に食事会で会ったときは俺なんかにもよくしてくれるような人だったので、彼が相手なら……」
「諦めがつくって? だからこの前は小成さんとしゃべらなかったの? 可能性を求めて会いには来るくせに、負けを認めるのがつらいから、直接会話をするのは恐れてるんだ」
「……否定はしません。浅川さんにはわからないかもしれませんが、俺は彼女に会えるだけでよかったんですよ。付き合いたいとか、結婚したいとか、そういうことじゃないんです」
報われたいわけではない。恋愛のみに限らず、人生すべてにおいてそうだ。
蜃気楼じみた一時の幸せ。手に入らなくてもよい。
自分が報われることを半ば最初から諦めているから。
もしかしたら……という淡い期待だけは胸に抱きつつ、そりゃそうだよなと簡単に割り切れる。そんな生き方。
不戦勝。
勝ち負け以前に、誰とも戦いたくはない。自分が負けるのも、相手を負かすのも嫌いだ。
しばらく長い沈黙が続き、どうでもいい雑談がぎこちなく繰り返された後で、これが聞きたかったと言わんばかりに浅川さんが切り出した。
「岩野木さんのこと、どう思った?」
「どうって、それは……」
言葉を選ぼうとすると、ネガティブな言葉しか出てこない。
はっきり言ってしまえば俺は嫌いだが、彼と一緒にいた彼女が岩野木さんのことをどう思っているのか想像もつかないので、いきなり否定するのもためらわれる。
言いよどむ俺の雰囲気から言いたいことを察したようで、浅川さんは同意を求めるように俺を見る。
「嫌いなタイプの人でしょ?」
「苦手な人です」
一応はオブラート。誰かに向けた敵意や悪意は必ず自分に返ってくるから。
他人の陰口が苦手だから適当に相槌を打って聞き流していたら、後日、お前も一緒になって悪口を言っていただろうと憎しみを持たれたことがある。悪口を言うだけ言った人間が最終的に私は言うつもりがなかったなどと裏切り、聞き流していただけの俺が最大の悪者みたいになったことも。
「ふふ、塚本君らしい。でも、確かにそうかもね。あの人って、たぶん生きるのが苦手な人だから」
「生きるのが苦手?」
無視できない言葉だ。
生きるのが苦手。どんな言葉よりも共感できる。
するとスマホを取り出した浅川さん。画面は消えているが、暗い画面を眺めながら何かを思い出しているようだ。
「あの人、ネットで炎上して仕事辞めちゃったの」
「そうなんですか? 仕事をやめなければならないくらいにネットで炎上するなんて、いったいどんなことをやったんですか?」
「政治や社会問題のことを熱く語っているうちに過激な書き込みをしてね、それが一部で炎上して、彼の個人情報が特定されると会社に問題視されて解雇されたの。それからずっと炎上に加担したネットユーザーを敵視して、ますます思想や言動が過激になっちゃって。昔はもっとまともな人だったの。仕事を教えてもらっていたころは優しかった」
この前のファミレスで会話をした際の彼の性格や言動を思い出せば、ネットで炎上したという話は容易に想像できるが、優しかったという話は全く想像がつかない。人間性のすべてを知るには短い会話だったが、優しさよりも気難しさや傲慢さのほうが印象深かったくらいだ。
あれで仕事ができていたんだろうかと疑問に思う。
案外ネットの炎上など口実でしかなく、解雇するための適当な理由付けだったんじゃないかと思える。
立ち上がった浅川さんは俺の隣にやってきて座ると、しなだれかかってくるように膝の上へと手を置いた。
「今の彼、どう思う? どこかで引き返せると思う?」
「俺が思うに、今のままだと無理でしょうね」
おそらく難しいだろう。
少なくとも、今のままでは彼は引き返せまい。
匿名性がなくなれば、ネットの書き込みはまともになる。そういう一見もっともらしい意見が昔は盛んだったが、それはまやかしでしかなかった。SNSや動画投稿サイトにおける実名アカウントの実情は必ずしも平和な理想郷ではない。一般ユーザーだけではなく、社会的地位のある著名人でさえ油断をすれば失言することは避けられない。
結局、実名だろうが匿名だろうが関係なく、相手の顔を想像できないネット越しだと、軽い気持ちで暴言を書けてしまうのが問題なのかもしれない。
最初はまともでも、ネットを使っているうちに他人を煽ったり暴言を吐いたり、偏見を丸出しにするようになる人も多い。ネットがよくないのか、もともとそういう人だからネットを使い始めたのかはわからないが。
都合のいいデータや論法を駆使して自分の主張を押し付けてきて、他の話題だと普通に楽しそうにしているのに、自分が強く関心を持っている話題となると感情的になる。
まともな議論にはならず、すぐに加熱して幼稚な口喧嘩となり、あっちでもこっちでも人格否定が飛び交う。
岩野木さんもそんな一人。ネットとの相性が悪い人。
「理不尽な炎上に巻き込まれたくなければ、関わるのはやめたほうがいいと思います」
思ったことを率直に伝えてみれば、そうだよねと浅川さんは俺の言葉に同意して、けれど今後も関わり続けることを示唆するような口振りで答える。
こちらの膝の上に置かれていた手がいったん離れる。
「同棲してたの」
瞬間、彼女の声が遠く聞こえた。同棲というのは、俺の知識が正しければ一緒の部屋で暮らすということだろう。
多くの場合、ある程度は結婚を見据えた男女がするものであるとも。
「……岩野木さんとですか?」
「そう。彼は就職した会社の先輩で。同じ大学で同じサークルの先輩でもあったから、その流れでね」
どんな流れだろう。流れるようにスムーズに生きられたことがないので、俺には遠い世界の話に聞こえる。
どう頑張ってみても、二人が同じ部屋で生活するほどの恋仲にあったイメージができない。それがますます自分の想像力のなさを意識させられる。
「だけどもう別れたの。同棲はやめた」
「だったら……」
どうだというのだ。
今はフリーだから俺にもチャンスがあると言いたいのか?
あるいは失恋状態だから慰めてほしいのか。
または今も恋人のいない孤独な俺の姿を見て安心したいか。
全く悪気のない素振りで彼女は俺の手を取る。
「彼の悪口を聞いてくれる? 言いたくて仕方がないの。あの人の嫌なところ、あなたもわかったでしょ? あの人の愚痴、たっぷり聞いてほしいの」
「あの……」
犬も食わない話だろうか。まさか俺は当て馬か。
ここにきて、心の温度が急速に冷めていくのを感じる。
わざわざ俺を家に呼びつけて、彼女は愚痴を吐き出したがっているだけなのかもしれない。
しかし、それなら俺は適任ではない。ネットやテレビでも旦那や妻の悪口を言っている人をたまに見かけるが、被害者ぶる彼らには一度も共感できたことはないからだ。相手のことを悪く言う一方的な言い分を聞いている限り、誰かを口汚く罵るような性格の悪い者同士、お互い他に相手が見つからなかったんだろうと言いたくなる。
いくら腹が立つからといって、一度は愛した大事なパートナーのことを人前で口汚く馬鹿にできる神経が理解できない。お見合い結婚で押し付けられた好きでもない相手ならばともかく、自分で選んだ大切な人だったんだろ。自分を選んでくれた相手なんだろ。ちょっとした愚痴ならストレスが溜まってるんだろうと理解もできるが、人格否定までいくのはいただけない。
あるいは、そういった経験がないだけで俺も誰かと結婚すればそういう人間になってしまうのだろうか?
なりたくないが、なるんだろうか。
たとえば親への悪口なんて十代のころに迎えた反抗期が最盛期で、大人になると腹が立っても過激な悪口なんて言わなくなる。それが普通だと思っていた。家庭の内側ではともかく、世間の目がある人前で身内との喧嘩なんてやらないと。同じような不満を抱える者同士が寄ってたかって誰かの悪口を喧伝する行為などしないと。
なのに、今はそれがオープンに行われるようになった気がして怖くなる。
気に食わないやつ、許せない言動、嫌いなものの話。
昔は井戸端でやっていたローカルなヘイト消費がネットの普及とともに発展して、今は拡声器を持って次から次へと大々的にヘイトアピールをするデモ隊がやってくる。
誰かが別の誰かを叩けば、それを叩きたい人間が即座に群れを作る。それを叩きたい人間も暴れる。
収拾がつかない。吐き出したいものを吐き出しつくすまで。
「たまってるんですね」
「そうね。けど、あなたも色々とたまってるんじゃない? 私が相手してあげる」
「……相手?」
「任せて。あなたは私の言葉を聞いているだけでいいから」
間接照明が照らしているベッドの横に立ち、事務的な手つきでブラウスのボタンを外していく彼女。
どうやら誘われているらしい。
実を言えば家に連れ込まれた時点でそれを全く予想していなかったわけでもないけれど、想定していた状況とは違う。興奮できる精神状態ではない。流されるような流れにもなれない。
「待ってください。おそらくですけど、まだ交際しているんですよね? これ、浮気になるんじゃないですか?」
常識を振りかざして彼女を思いとどまらせようとする。
小心者にふさわしい保身。
やすやすと打ち砕かれる。
「一度くらい同棲したってだけで、勝手に私と夫婦になった気でいる岩野木さんが追ってきてるだけよ。別れたいの。あの人って強情だから、なかなか負けを認めたがらない。納得させるためには、誰かと寝るのが早いわ」
「それが、俺である理由は……」
ゆっくりと上着を脱いでいく彼女は下着姿になって、ようやくこちらを見ると優しくも冷たく微笑む。
「後腐れがないから。あの人と違って、あなたは追ってこない。どれほど深くつながろうとも簡単に縁が切れる」
否定できなくて、言葉さえ出てこなかった。
実際その通りだから彼女を抱いてもいいかと思えた。
もうどうにでもなれ。
俺が大事にしてきた一切はどうせ価値もないのだ。
しんどそうに下着を外そうとした浅川さんはベッドに腰かけて、自分のお腹に手を当てて暗い顔をした。
「ごめん。最初から無茶だとは思ってたけど、やっぱり今日は無理かもしれない。結論を早く出したくて急ぎすぎたかも」
「あの、無理はしないほうがいいですよ。もしかして体調がよくないんですか?」
すべてに対して捨て鉢になりつつあった俺だが、ぎりぎりのところで我に返って理性が戻ってきた。
つらそうにする彼女が心配になったので不器用に気遣うと、複雑な感情を飲み込んだような声が浅川さんの口から漏れた。
「子どもができたの」
「……妊娠ですか?」
「まだ四週間になってない。迷ってるの。産むべきかどうか。それに、あの人との結婚も……」
お腹をさする彼女の腕の動きに合わせて揺れるブラジャーを見ながら、一体俺は何をやっているんだろうかと嘆きたくなる。
ひとまず彼女のそばへ行って、座っている浅川さんに背中から毛布を掛ける。
「不安なのはわかります。でもそれは俺と話し合うことじゃないでしょう。今からでも彼と話すべきです」
「わかってる。そのつもりなんだけど……。あら?」
話を遮って部屋に響いたのは、乾いたようなインターホンの音だった。
「もっと遅くに来てって伝えたはずなのに」
その一言で俺は事情を察する。
焦りもなく、苛立ちもなく、驚きさえもなく。
「まさか岩野木さんを呼んだんですか? 俺と鉢合わせさせるために?」
「言ったでしょ? そうしないと別れられない」
「……浅川さん、もっと正直に言ってください。彼と別れるためって、そうは思えません」
別れるための方法なら他にもたくさんある。
本気で別れたいなら、頼れる人は他にもいる。
よりにもよって、わざわざ俺を選ぶ必要などない。
だから俺を利用するなら別の理由があるはずであり、それは実際にそうだったらしく、お辞儀のように頭を下げる彼女の口から肯定された。
「ごめんなさい。こうでもしないと本気になってくれないの。恋愛の相手として追いかけては来るくせに、いつまでも結婚はしてくれない。責任は取りたくないから」
「だったら俺なんかいなくても、子どもができたことを伝えれば……」
「違うの。あの人、責任を負うのは二の足を踏むけどね――」
合鍵を持っているのか、少し乱暴にガチャガチャと鍵を開ける音がする。
「自分が誰かに負けるのだけは認めたがらないの」
「ああ……」
それはそうだろうな、と、すごく納得できてしまう。
だから浅川さんは俺に目を付けたんだろうなと、これも納得できてしまう。
部屋に入ってきた岩野木さんは俺と浅川さんを見比べて、血相を変えずに淡々と吐き捨てた。
「塚本君、見損なったぞ。君は最低な人間だな」
「岩野木さん、彼を責めないであげて。悪いのは私だから」
「いいや、君は悪くない。悪いのは塚本君だ」
当然、この前のこともあって俺を敵視する岩野木さんは彼女の言葉を真に受けはしない。
浅川さんをかばうように抱き寄せながら、反論せずに立ったままでいる俺をにらみつけてくる。
「出ていってくれ。そして二度と来るんじゃない。彼女は私のものだ」
視界が狭まって、音もなく意識が閉じるような錯覚。
苦痛もなく自分が世界からはじき出される感覚。
勝敗が決まる以前の勝負不成立。
「はい……。お邪魔しました」
感謝も、謝罪も、今までずっと伝えたかった言葉も最後には伝えられなかった。
もはや形さえもわからなくなった何かへの敗北感と喪失感を否定できない程度に抱えて、なんとか転ばずに俺は外に出た。
もう二度とここへは来ないだろうと他人事のように思いながら。
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