第11話 何をやっているんだろう。

 つまらない日常は低調な精神を引きずって続いていた。

 仕事をせずに暮らしていられる安寧な毎日は手放したくない一方で、俺が目指した本来の不戦勝は遠のいていた。

 他人の目が届かない安全圏でのひきこもり生活を享受して、頭を痛ませながらもネットやテレビを通して世間を遠巻きに眺めている。勝つとか負けるとかではなく、ひっくるめて馬鹿にしている。

 二月、いつの間にか日本全土で伝統文化の扱いをされるようになった恵方巻を買うつもりもなかったのに買ってしまい、年齢の数だけ食べようと思って買ってきた枝豆が意外においしくて後期高齢者ぐらいになって、そういえば今年は実家に帰らなかったなと不意に両親の顔を思い浮かべた。おそらく最後に豆まきをした小学生のころを思い出したからだろう。

 豆を投げた程度で鬼が外へ出ていき福が内に来るのなら喜んで毎日でも豆投げ祭りをやるけれど、世界がそんなに単純でないことは小学生の時点でわかっていた。

 なつかしさに胸がうずく。実家か。最後に両親と話したのは当選した直後に仕事を辞めると伝えた時だった。軽い気持ちで地元に帰ると今の生活や将来のことを詳しく尋ねられるので絶対に帰りたくないが、たまには電話くらいして元気かどうかを確認するのもいいだろう。

 もしかしたら向こうも一人息子の体調を心配しているかもしれない。


「スマホの連絡先を教えてあげるから、次からはそっちで連絡しなさい」


 母親が出た電話ではメッセージアプリの使用を言いつけられ、あっけなく電話を切られた。別に声は聴きたくないのか、電話でなければメールでもいいらしい。現代的な話だ。ついでにSNSとかブログとかをやってないかも念のために確認してみたが、さすがにそれはなかったので安心した。やっていたらフォローとかさせられそうなので心労に悪い。

 その後、することもなくなって数日を無駄に過ごす。

 どうでもいい他人のブログを覗いては記事を流し読みして、コメントを書くでもなく立ち去る。SNSで知らない人間のアカウントを意味もなくチェックして、次々と出てくる内容のない書き込みや写真を無感情に眺める。動画サイトで再生回数の少ない動画を適当に再生して時間をつぶす。よくわからない無料のゲームを始めて飽きる。テレビをつけたり消したりする。

 何をやっているんだろう。

 けれど具体的に何かをやろうとすると気力が消えていく。

 だから自堕落に生きて、受動的な退屈しのぎしかできない。

 仕事をやっていたころと同じような魂の浪費。

 わざわざ本を買ってきて、読む気も起きずに本棚にしまうような日々。そのくせ他人の感想だけは気になる毎日。


「はぁ……」


 もう何度目かと思えるため息が出た。

 ぼんやり見ていたテレビのニュースで「人気者だった動物園のライオンが亡くなりました」というのをやっていたが、それを見た一部のネットユーザーが「亡くなるは人間にしか使わない。動物の場合は死ぬだ! ニュースなんだから日本語は正しく使え!」とか怒っている書き込みを見つけた。

 普段から日本語博士をやっているような口ぶりで、しかもよく見るといい年をしたおじさんだ。若いアナウンサーにマウントを取っているのも含めて、またこの輩かと俺はあきれて頭を抱えた。

 ニュースで伝えているのは動物園で飼われていたライオンなんだから、たくさんの人に愛されていたことを表現するためにも人間と同じように「亡くなる」をあえて使ったのだ。野性のライオンは死ぬが、動物園のライオンは亡くなる。こんなもの、小学生でも知っている擬人法である。正しい日本語とかいうものにこだわる人間はこういう間違いをよく犯す。言葉の一つ一つにとらわれて文脈を考慮せず、時代に応じた意味の転用や慣用表現を理解できず、どうでもいい細部にこだわって誰かを馬鹿にして自分が気持ちよくなれればいいだけ。

 冷静に考えると彼らが言っているのは言語学者が決めた広辞苑語であって、厳密に言えば一般に広く使われているネイティブの日本語ではない。やや極論だが、ネイティブの英語話者に対して日本人向けの英語テキストに書いてある文法と違うと指摘するようなものだ。

 基本的には原理原則を重視して正しい言葉を選ぶのがベストだが、他人とのコミュニケーションで会得する「より身近な人々と共有されやすい言語感覚」というものは、辞書や教科書で学ぶものだけではない。

 公的な場での言葉遣いと日常会話では求められるものが違うとはいえ、偉そうに指摘するような場面ではないだろう。

 これに関しては言葉遣いを巡る問題だが、気が付けば世間はこんなクレーマーばかりになっている。

 正しい言葉だの、マナーだの、常識だのの前に寛大な心を身に着けるべきであって、けれどそれを他人に期待したところでネット時代にはそうでない人ほど元気だから、結局はこちらが我慢するしかない。

 誰に何を言われても、大人になれるほうが大人になるしかないのだ。


 ――塚本さん、JK語ってわかります? おじさんだからわかんないですか?


 学校帰りのリンゲちゃんがスマホでのあいさつもそこそこに、暇つぶしのつもりでいたくせに気づけば頭を抱えながらパソコンをやっていた俺に問いかけてきた。

 おじさんじゃない、と言おうとしてやめる。

 いつまでも若いつもりでいても体はごまかせない。


 ――俺はもうおじさんだからわかんないけど、それってたぶん女子高生が使う言葉のことだよね?


 ――そーです、それです。女子の間で使われる若者言葉です。


 何があったのか、やや元気をなくしたリンゲちゃんである。


 ――まわりのみんなが使ってたんですけど、友達が少ないせいか私そういうのに疎くて困ります。ネットもそんなにやらないので、新しいスラングとか流行語とかもついていけません。


 ただの雑談か、それとも弱音か。ひょっとして学校に行くのがつらくなってきたのかと心配したが、深刻な相談という雰囲気は感じられない。ちょっとした愚痴や不満を漏らしているだけなのかもしれない。

 スラングや流行語か。

 ひとまず俺なりのアドバイスを伝えておく。


 ――知らないなら無理して知ったかぶりをしないで、どういう意味なのか教えてもらえばいいんじゃないかな?


 するとリンゲちゃんはうーんとだけ書いておいて、しばらく考えてから返信が来た。


 ――知らなかったら馬鹿にされません?


 文字にはせぬまま俺もうーんと考えてから答える。


 ――どうだろう。みんなが知っていることを知らないって言うと笑う人もいるかもしれないけど、馬鹿にされるっていうのとは違うんじゃないかな。たぶん普通に教えてくれると思うよ。


 その普通がわからなくて苦労してきた俺が言う言葉だから説得力は皆無だ。

 リンゲちゃんには気休めにもならなかったらしい。


 ――言葉って、間違った言葉を使うと怒られるからトラウマです。普通の人が知ってることで間違うと自分の生き方まで馬鹿にされることがあって恥ずかしいです。


 小学生のころから不登校だったリンゲちゃんは学校に行っていない期間が長かったので、頑張っているけれど勉強は苦手らしい。だから知らないことや間違って覚えていることは同年代と比べても多く、劣等感を覚えることも少なくはないという。

 授業中、普通に聞いていれば難しくもない初歩の問題で先生に当てられて、答えられずに恥ずかしい思いをする。友達としゃべっていると、一般常識や世間で話題になっていることを知らず話についていけない。ネットで何かが炎上していると、炎上している側に肩入れしてしまって、自分が叩かれているような錯覚に苦しむ。ニュースからバラエティーまで、テレビでは中高年の出演者によって若者が馬鹿にされていて傷つく。

 学校でも世間でもネットでもテレビでも、自己主張できない自分が一方的に攻撃されている気がして、窮屈に生きている。

 こちらには戦うつもりなどないのに、ちょっとでも油断すると相手にとって都合のいい舞台に引きずりあげられて、気が付けば負かされている。その場で反論できねば負けを認めることになり、反論すれば以前に増して強く叩かれるようになる。


 ――言葉を間違えたくらいで、


 続きを書こうとしたが指は止まった。決して許されない失敗ならばともかく、どうでもいいミスや言い間違いでも厳しく追及されることはある。ほんのちょっぴり間違えただけなのに、まるで生き方すべてが間違っているかのように馬鹿にされることもある。

 俺の実体験だけで語るのではなく、世間全体でもたくさんあるだろう。

 言葉を間違えたくらいで人間性まで批判してくる連中はどこにでもいる。知性だの学歴だのをひっくるめて馬鹿にしてくる連中が。

 ついこの間も、あまりにも暇でネットをだらだらと検索していたら「誰もが」が誤用であると主張する自称日本語博士の書き込みを見つけた。

 自分の説に都合がいい辞書や文献やらを持ち出してきて、よくもまあ長々と「誰もが」を使うのは文法的におかしいと指摘していたが、それを律儀に最後まで読んだ俺の感想はただ単純に「何を言っているんだろう?」だった。

 たとえ本来は誤用だったとして、使われて何か問題でもあるか? そんなに理解できないか? おそらく勉強はできるのだろうが、それは文法だのに限定した勉強で、人間についての勉強はできていない気がした。間違った日本語だとか、おかしな言語感覚だとか、若い人の知識不足だとか、あまりに決めつけが強い性格の悪い文章に思えた。

 日常的に使う言葉なんてものは俺は言語学者ではなく世間に合わせるので国語審議会の見解など正直どうでもいいが、一般に広まりつつある慣用表現を認めずに偉そうな態度で正しさを主張されるのは不快でしかない。間違った意味で言葉を使う人間を一方的に馬鹿にして、その表現や言葉選びの意味を理解しようともしない人間たちの言葉を聞いていると、彼らが大好きな本来の意味では使いたくなくなる。

 何がそこまで彼らを駆り立てるのだろう。きっと歴史的な大母音推移にも同じくらい激怒して、今頃は本来の正しい発音で英語の勉強をしているに違いない。世界中の英語話者を知識不足の馬鹿だと見下しながら。

 それは冗談としても、冗談には思えないくらい偏った正論をぶつけてくる人はいるものだ。

 正しい言葉遣いや本来の意味を知っておくことは大事だ。少なくとも、それについては異論がない。

 しかし、言葉とは誕生した瞬間に進化を止められた化石ではなく、社会に寄り添って存在する成長途中の生き物であり、極端な見方をすれば、辞書は後追いで収録しているに過ぎない。新種を見つければ収録する動植物の図鑑と一緒であり、辞書が先にあって存在が許される言葉が決まるのではない。一過性のイレギュラーや突然変異を新種と認めるかどうかは学者に任せるが、例外であろうと実際に存在するのは間違いない。

 それを躍起になって否定する意味は何なのか。守りたいものは正しい日本語ではなく、自分が蓄えた知識で世間を見下して悦に入る啓蒙ごっこだろう。

 意味の転用や音便化、実際の生活からくる慣用表現、言葉の使い方や選び方の個性、スラングや新語。それらは必要に応じて発生してきたものだ。どうせ勉強不足で間違った言葉や誤用が広まっているに過ぎないと決めつけるのは、あまりにお粗末ではないか。

 一般的に広まっている誤用とは、おそらく、もっとも肌感覚に近い生きた言語の使われ方である。

 情報の伝達だけでなく、脳内で行われる人間の思考までもが言葉を必要とするからこそ、常にフィードバックを受け、適宜アップデートしていかなければならない。時代とともに価値観や社会が変われば、まず真っ先に影響を受けるのは言葉なのかもしれぬ。

 本来の美しい日本語がどうこう言ってるが、そうやって上から目線で偉そうに間違いを指摘する人間からは、美しい日本の心など全く感じられない。むしろ形式主義で権威主義的な日本のダメなところを感じる。だから彼らと同じ言葉を同じ意味で使いたいとは思えない。むしろ積極的に違う言葉や新しい表現を使って、旧弊を守りたがる古びた人間とは関係を断ちたくなる。新しい言葉に伴って、新しい価値観や文化が流通する寛容な社会のほうが美しく思える。

 言葉とは精神の着物だ。頼まれてもいないのに街中にやってきて正しいドレスコードはこうだと押し付けてくるおっさんのダサい着こなしを真似したいと思うかどうかを考えれば、自分たちなりの自己表現を楽しみたい若者ほど着たがらなくても仕方がなかろう。


 ――塚本さん?


 ――あ、ごめん。何の話だっけ?


 しまった。またこれである。

 最近の俺は一度何かを考え始めると、どんどん考え込んでしまう。

 しかも、たいていは何かを批判するような考えを。

 世間は間違っていて、世間を見下ろす自分だけが正しい価値観を持っているのではないかとの自惚れ。

 危険だ。いつの間にか自分もネット時代のエゴイストになりかかっていた。

 不戦勝は一歩間違うと傲慢な常勝宣言にたどり着く。その先にあるのは過激化する似非エリートだ。

 頭を抱えて息を吐きだす。めまいと頭痛と胸の痛さを必死に抑え込む。

 最初とは立場が逆となり、スマホの文面を見ていただけで不安そうにするリンゲちゃんが俺を心配してくれた。


 ――何か仕事で悩んでるんですか? 今はネットの仕事でしたよね? もしかして私が声かけたの邪魔でしたか?


 ――いや、別にそういうわけじゃないよ。


 否定する。仕事ならよかったが仕事ではない。

 仕事を辞めてからはネットのアフィリエイトで稼いでいる、なんて馬鹿げた嘘は今も伝えていなかったが、どうやらリンゲちゃんは今の俺がネットで何か仕事をやっていると思っているようだ。

 実際には目的もなく、ネットのニュースや書き込みを見ているだけなのに。


 ――あの、そういえば荷物、ちゃんと届いてましたか? こっちの住所がわからない匿名配送とかいうサービスで送ったので、うまくいっているかわからないんですけど……。


 ――そうだね。差出人の名前が書いてないからリンゲちゃんからのものとは断定できないけど、荷物なら一つ届いてたよ。まだ中身は確認してないけど……。わざわざ送ってくれるなんて何か大事なもの?


 ――いえ、ただ、なんとなく差し上げようと思いまして。特別な意味はないんです。甘いやつなんで、塚本さんにも喜んでもらえるんじゃないかと。


 ――そうなんだ。ありがとう。


 なんだか知らないが、甘いものなら確かに俺は嬉しい。


 ――それじゃ、あの、今日はこれで。


 という言葉を残してリンゲちゃんからのメッセージは止まった。今日のやり取りはこれで終わりらしい。

 宅配便を受け取った後で邪魔にならないよう部屋の隅に置いておいた箱を開けて、中に入っていた小さな箱を取り出す。

 赤いリボンの巻かれたピンク色の包装を外して蓋を開ける。


「あ、これ……」


 何かと思えば中身はチョコレートだった。

 カレンダーの日付を確認すると二月十四日。そういえば今日はバレンタインデーだ。

 お世話になっている人に対しては好意など関係なくチョコを渡すタイプの優しいリンゲちゃんだから、わざわざ俺にも渡してくれたんだろう。あるいは、やはり俺を元気づけようと思ってくれたのかもしれない。


「本当、何をやっているんだろうな、俺は……」


 心配をかけて、不安がらせて、知らず知らずのうちにリンゲちゃんの優しさに甘えている自分。

 情けなくなる。

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