第10話 静かな世界に暮らしたい。

 大学時代に政経討論サークルで同じ時を過ごした彼との会話は、想像以上に俺の精神に大打撃を与えていた。

 仕事を辞めてから同僚はもちろん友達とも会わなくなり、ろくに出かけることも少なくなった半ひきこもり状態の俺にとって、望むと望まざるとにかかわらず、ネットの声こそが世間を代表するイメージとなっていた。

 だが、そのネットというものは昔からそうであったように優しくて幸せな世界とは言い切れない。楽しい話題も役立つ情報も存在しないわけではなく、むしろ普通に使っていれば厄介ごとを見かけるほうが意外と少なかったりするが、一度でもネットに染まってしまえば、この「普通に使う」というのが難しい。

 学校や会社に行っていればネットなど所詮はネットでしかなく、自分の地盤はネットの外側にあるため依存度も没入感も低くて済むが、社会との関係が薄くなってネットが重要な位置を占めるようになると、自分の在り方さえネット次第となる。

 しかも俺などは昔から意志薄弱な人間であるから、ネガティブなニュースや書き込みばかりが目に付くようになる。

 些細な意見やちょっとした感想でさえ、目にするたびに精神がひどく傷つく。

 心がざわつく。

 超然として生きることを目指した不戦勝にゆらぎが生まれる。

 あっけなく新年を迎えて、いつの間にやら一月も中盤に入り、雪が降って寒さが一段と心を蝕んで、ますます外に出たがらなくなってネットを見る。

 気分がいいときも悪いときも、時間ができればネットを確認してしまう。

 いつしか自分でもよくわからなくなってきた。

 生まれながらに持っているであろう人間の善性を信じる一方で、もはや世間には悪意ばかりが蔓延しているんじゃないかとも思える。

 見返りを求めずに誰かを助けようとする優しい人間が世の中には数多く存在すると信じる一方で、誰かを傷つけたがる人間もそれ以上に多いんじゃないかと思ってしまう。


「……はぁ」


 ため息。

 大した目的もなく暇つぶしになんとなくネットを漁って、たまたま挑発的なタイトルが目に付いたので社会問題について書かれた批判記事を読んでみたら、やたら意識が高いことをアピールする一般的には無名な識者が「さぁ、みんなも私と一緒になって怒りの声を上げろ!」と読者を煽っていた。

 これが許される時代じゃないとか、世界の流れから逆行しているとか、どこが悪いのかもわからず問題視しない奴も問題だとか、またこれか。

 まったく何年も前から毎日毎日、あきれるほどに連日連夜、テレビもネットもヘイトに追及、クレーム、攻撃、罵詈雑言、いたるところで炎上だ。私が正しい、俺こそ正義、賛否両論が飛び交う熱心な議論をやってるふりをして、どちらにも加担したくなくなる罵り合いだ。

 ほら悪いことをした奴が出てきたぞ、だからお前も一緒になってこいつをネットでリンチしろ! 批判しなければ悪事に加担しているのと同義だ! 意識が低い者として貴様も叩く! 戦争やらなきゃ非国民扱いされる戦時中かよ。

 あいつらは敵だ、許しちゃおけない、これは正義の戦争だ! 知らんがな。いかれた粛清ごっこは勝手にやってくれ。

 かつて猛威を振るったイデオロギーも宗教も今では小さな物語として分解され、世界中がネガティブな動機に基づいた個人間の戦争をやっている。武器ではなく言葉による他者の人格否定と、己が愛する狭い価値観の攻撃的な布教に明け暮れている。

 寛容さもない。相手側の話を聞く姿勢もない。

 代わる代わるに敵とみなした個人や組織や意見を相手に、怒りと失望と攻撃と批判に大量のエネルギーを費やして、相容れない他人をつぶせればいいだけ。

 匿名だろうが実名だろうが民意の代表者ぶった異常者ばかりだが、どこが善良な一般市民なのか疑問に思える。

 こんなのが市民なら、とっくに世の中は滅んでる。

 自分の思い通りに世の中を作り変えたい好戦的で過激な思想家たちは、みんなそろって閉鎖的なコミュニティにでも引きこもって、そこでいくらでも理想の社会を作ればいい。外への影響を断ち切るためにネットも遮断しろ。危険な犯罪者の相手は警察に任せて穏やかに暮らしたい一般人とすれ違うたび、同じ街に生きている犯罪者を野放しにするとは看過できんと銃口を突きつけて脅し、敵はどこだと頼まれもしないのに勝手なパトロールを行う現代のネット憲兵たち。少しでも彼らの治安維持活動に反すれば非公民としてやり玉にあげられ、そんなことを繰り返しておきながら民衆に支持されなければ逆上して世間を恨む。ただの平和テロリスト。

 静かな世界に暮らしたい。

 政治的な対立を生み出してばかりの過剰な平和論などいらない。

 どうか平穏が欲しい。

 こんなのを野放しにすれば世界は生きにくくなるぞ! いや、もう、すでにお前がいることで生きるのが苦しいよ。お願いだから黙っていてくれ。他人と関わるのがどんどん面倒くさくなっていく。無駄にアンテナを広げて世間の(幅広いようで狭い)意見に耳を傾けるよりも、自分のことだけを大切に世界など閉ざしたほうが幸せになれる気がする。

 ネットやSNSをやって痛感したことは、本質的には自分がマイノリティなんじゃないかということだけ。いろんな人とつながりたいというよりも、こんな奴らとは絶対に現実では出会いたくないと思うほうが多い。正直なところ、ネット越しでさえ関わりたくない。知りたくもない悪意、暴走した正義感、見なければよかった書き込みばかり。かといってネットを問題視して理論派ぶっているテレビもうるさいばかりで、結局は役にも立たず面白くもないので消した。新聞なんてとっくの昔に読んでない。探したところで周りには賢者も善良なる一市民もいない。

 では、どこに自分の居場所を見出せばいい?

 誰のそばにいればいい?

 人生とは?


「……ふう」


 窒息しそうになったので息を吸い、それからゆっくりと吐いて出す。

 結局、人間なんてものは誰も彼もが自分の意見を押し付けたいだけなのだ。己が是とする思想的遺伝子を残したがって、自分が多数派にならねばとの生存競争に命を懸けているだけなのだ。

 ならば、そんなものに勝つ必要はない。過激な異端者たちに否定されたところでダメージはなく、戦ってまで否定したいものもない。

 不戦勝。あるいは不戦敗。

 どっちでもいい。

 もう世界は自由に意見を主張し合って、不自由を押し付け合っていればいい。

 それでいいじゃないか。

 うんざりしてパソコンの電源を落とすと、モニターが暗くなったちょうどのタイミングでスマホが通知音を鳴らした。

 リンゲちゃんだ。


 ――私は怒ってますよ!


 いじけた考えを見抜かれて怒られたのかと思ったが、スマホには何も書いて送っていない。

 となると、彼女に怒られるようなことは身に覚えがないので謝る前に尋ねる。


 ――どうしたの? もしかして俺、何か悪いことした?


 ――いーえ、違います! さっき観終えた映画が面白かったんで、みんなはどうだろうと思ってスマホで感想を調べてみたんです。そしたらどうですか! つまらないの嵐です! 信じられません!


 ――それで怒ってたの?


 ――はい! もちろんちゃんとした批判なら私も怒りませんよ! でもこれは誹謗中傷です! 塚本さんも見てください! 感想が書いてあるサイトのURLを教えますから!


 どんなひどい書き込みがあるだろうかと思って待っているが、いつまで経ってもURLが来ない。


 ――すみません、勢い余って開いていたページを閉じちゃいました。あっ、でもこれでネガティブな意見が私の世界から消えてくれましたね……。


 なんだかよくわからないけれどトーンダウンしてくれた。結果的には俺がパソコンを消したのと同じようなものなので笑うに笑えない。

 ネットの書き込みに対する最大の防衛策はネットと距離を置くことだ。少なくとも今は技術的な問題でネットが向こうから追ってくることはない。そうは言ってもSNSでトラブルを起こした場合など、断片的な情報からリアルを特定されて実際に襲われないとも限らないので、どんな時でも使えるような万全の対策ではないけれど。

 このままおとなしくなってくれるかと思っていたリンゲちゃんだったが、続きが来た。


 ――でもこれだけじゃないんです。ずっと前から楽しみにしていた映画があるんですけど、いつから公開だったっけと思ってネットを調べたら、すでに公開されてて映画サイトで酷評されてたんです。もやもやします。なんかこれじゃ素直に楽しめません。


 ――でも楽しみにしてたんでしょ?


 ――だからこそなんです! 楽しみにしてたのに楽しくない気分が発生してて、すでに損した気分なんです!


 損した気分か。それはなんとなくだが、よくわかる。最初は彼女をなだめようと思っていたけれど、リンゲちゃんの不満を受け取って俺まで気分が落ちてきた。

 他人の評価や感想に左右されたくない。

 自分の好きなものまで世間に流されたくはない。

 けれど、そうは言ってもいられない。情報社会は情報過多社会でもあり、見たくない情報を避けるのも難しくなりつつある。

 試しにネットを見れば、なんにでも他人の評価がラベルのように貼り付けられているのがわかる。選択肢が多すぎて自分で選べないという人のためにランキングや評価機能は存在していてもいいが、だからって重要な情報として前面に押し出されても迷惑に感じるときはある。

 動画配信サービスで、ちょうどこれから見ようと思ったタイトルを調べたら、視聴ボタンのすぐ横にユーザー評価が飾られていて、これは低評価されていますとか余計なことを押し付けてくる。逆に絶賛されているのも、それはそれでうっとうしい。

 そういうのは作品を見た後だ。レビューや宣伝さえ邪魔に感じ始める。

 余計な情報は全部こっちで非表示にできるようにしろ! なんて、わざわざクレームを出すほどのことでもないけれど。


 ――あー、もう、いろんなことに萎えちゃった感じですよ……。


 ――気にしすぎないほうがいいんじゃないかな。ネットにはたくさんの人がいるけれど、だからといってそれが世界のすべてってわけじゃないんだから。リンゲちゃんにとってはリンゲちゃんの気持ちが一番大事だよ。


 何事においても大事なのは他人ではなく自分の意見や考えだ。もちろん己を大事にするあまり自意識過剰に陥っては元も子もないが、安易に判断基準を他人にゆだねすぎてはいけない。

 ひねくれた見方をするなら、ネットで積極的に作品の批評や評価をしたがる人間は、いわゆるエリート意識に支配されている感じもする。

 流行りのものを楽しむ人たちを考えなしの大衆と決めつけて、愚民や腐敗という意味の言葉が大好きで、とにかく今のエンタメや社会の在り方を否定したがる。自分が好きな作品や作家が生まれた時代だけを偏愛していて、新しいものは受け付けないから、劣化や衰退をことさらに強調したがる。

 実際には自分を認めてくれない世間へのルサンチマンがベースにあるから、世の中の見方がかなり偏っていて、普通にしゃべっても聞いてもらえないから口調は攻撃的で、悲しいくらいに彼らの意見は一般受けしない。それがますます大衆を見下す原動力となる。

 ……いや、ひねくれた見方という前提があるとしても、さすがに悪く考えすぎかもしれない。この前たまたま目にした映画の感想があまりにも偉そうな口調で馬鹿にしていたから、作り手やファンでもないのにネットの批評家たちを敵視して、子供みたいに腹を立てているだけなのかもしれない。

 エリート意識などと、定義があやふやで実体のない言葉を安易に使って安心したいのは俺のほうではないか。

 スマホにメッセージを書き込む手が止まっていると、リンゲちゃんのほうから言葉が来た。


 ――みんな好きなものの話だけしてくれればいいのに。


 ――それはそれで、って気もするけどね。大事なのはバランスだよ。


 ――好きなものの話ばかりするようになってダメになるバランスって何ですか?


 ――それはほら、クオリティとかサービスの質とか、そういう……。


 などと書いておきながら、ふと年末に聞いた話を思い出した。ネットのヘイトを楽しむ彼の話を。

 好きなものの話だけしてくれればいいのに。

 おそらく、そう考えるのはリンゲちゃんだけでもないだろう。

 すでに俺みたいな人間にとって、ネットの言論空間はホームグラウンドでもなければ安住地でもない。

 いい意味でも悪い意味でも、ネットでは話題になりやすさが大事だ。絶賛でも酷評でも、一度大きな流れができてしまうと個人で抵抗するのは難しい。

 結局は楽しく騒げるかどうか。

 特定の作品が好きなのではなく、目の前の作品をだしにして暴れたいだけ。

 この話が嫌い、この登場人物が嫌い、この作家が嫌い、この制作会社が嫌い、だから作品も嫌い。

 これはいらない、こんなのが好きなのって馬鹿だけでしょ、これって誰が得するの?

 クソ、カス、ゴミ。意味がわからない。

 つまんね。

 何かを純粋に楽しみたいなら、もうあまりネットを見ないほうがいい気がしてくる。優しくて真面目な人であるならば、特にそうだろう。優しくなくて不真面目な俺でさえ、ネットを見るようになってから何かを純粋に楽しむ気持ちが薄れ、心が濁り始めたと今になって思う。

 たぶん最初はネットを使って、遠く離れた場所にいる人たちと楽しい気持ちを共有したかったはずなのに。

 もっとポジティブに生きたかったはずなのに。

 いつしかネットの書き込みに一人だけ傷つき、沸騰しがちな世間の温度感にはついていけずに、何もできないまま不戦敗している自分に気づく。

 元気な人たちに攻撃を受けて、ひたすら負け続けている自分に。

 死にたくなるような暗い気持ちに目線を下げるとリンゲちゃんがスマホで呼びかけてきた。


 ――塚本さん、今日は暇ですか?


 ――うん、今日も暇だよ。


 ――よかった。だったら今から一緒に映画を見ませんか。動画サイトにある面白そうな作品を二人で選んで、一緒に見てる感じで同時に再生しましょうよ。そしたら感想だって言い合えます。


 ――別に俺はいいけど……。でも、リンゲちゃんはいいの? 他の作品にしたって、もやもやした気持ちが残ってると純粋な気分では映画を楽しめないんじゃない?


 ――そうですね。だけど、だからこそ塚本さんと一緒に見たいんです。そうすれば楽しい気持ちがプラスされますから、どんな作品を見ても損はしません。


 ――そんなものかな?


 ――そんなものですよ。映画なんて、私にとって名作である必要はないんです。仲のいい誰かと一緒に見て感想を言い合って、同じ時間を共有することで楽しめれば十分に幸せですから。


 ――そっか……。


 ――はい。だから楽しみましょう!


 先日の飲み会があってからネットを悲観的に捉えるあまり、くだらないことまで難しく考えすぎていたのかもしれない。

 楽しむという行為に関しては、大切な誰かと一緒だと簡単だ。


 ――けれど、やっぱりどうせなら面白い作品だといいですよね。さっきの悪口の話に戻りますけど、映画に深いテーマがないとか書かれてたんです。でも、作品のテーマなんて『すごく面白い!』でいいと思いません?


 ――あはは、リンゲちゃんはそうかもね。


 ――私だけじゃなくって、きっと他にもいるはずです! だけど私だけっていうのが本当なら、それはそれで嬉しいですね。特別な存在には憧れます。


 どうなってもリンゲちゃんは喜びそうだ。

 そんな彼女を見ていると考えさせられる。

 批評家や映画オタクは小難しい作品をありがたがるけれど、一般層の映画ファンは作り手側のテーマやメッセージを押し付けてくる作品ではなく、単純に楽しめる極上のエンタメ作品を求めているのかもしれない。家族愛とか、人生哲学とか、社会風刺とか、そういうテーマを盛り込みたいあまり娯楽性を犠牲にするのは、果たして大衆映画に求められているのだろうか?

 卑屈な俺の思い過ごしかもしれないが、ここ数年のハリウッド映画は世界的に信者が急増しているグローバルスタンダード教のカルトムービー化しているように感じられてしまう瞬間がある。正しい価値観と思考様式が記されているポリコレ経典に従って作品が製作され、それに少しでも反した言動をすれば異教徒として火あぶりの刑に処されてしまうような。

 極論すれば、批評家やメディアに絶賛されたプロパガンダ性の強い映画は公の場でつまらないと言うのも憚られるほどだ。

 昔は「これが最先端のエンタメだ!」という映画をすごい予算をかけて見せてくれたから面白かったけれど、今は「これが最先端の正しい価値観だ!」という映画をすごい予算をかけて見せつけられている気分になる。二千円くらいで二時間程度のテーマパーク気分を味わえていた娯楽映画が、二千円くらい払って二時間くらいのセミナーを受けているように感じる。

 それも悪くないが、休日に見るにはしんどい。

 実際にはそんなことなくて、心が弱って防御力が低下しているからメッセージ性などの主張を強く受け取ってしまうようになっているだけかもしれないが。

 できることなら余計なことを考えず、最初から最後まで普通に面白い作品が欲しい。

 映画に限らず、ゲームでも、漫画でも、まずは単純な癒しや娯楽が欲しい。

 日々の生活がすでに誰かの主張ばかりで、新しく何かを知ろうと思えない疲れた気分になっているから。


 ――言葉を選ばなければ、あんまり面白くなかったですね……。


 ――うん、まあね。


 ――で、でも、あそこはよかったですよね! ほら、最初にヒロインがアップになって登場したシーン!


 そうしてリンゲちゃんと同じタイミングで動画配信サービスにあった適当な映画を見たはいいものの、肝心の映画はすごくつまらなかった。

 なのに、すごく楽しかったのは彼女と一緒に鑑賞できたからだろう。

 リンゲちゃんはせっせと映画の「いいところ探し」をして、それからしばらく楽しくしゃべってくれた。

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