第9話 狂気に満ちた狂乱索餌。
世間が幸せそうにしたクリスマスが過ぎて数日、先日たまたま数年ぶりに書店で再会したばかりの彼から連絡が入った。どうやって予定を取り付けたのか、早速この週末に忘年会とサークルの同窓会を兼ねた飲み会をやるらしい。
スマホを片手に誘いを断るべきかどうか悩んで、結局は行くことにする。完全に乗り気だったとは言えないが、まさか向かった先で仕事をさせられるわけでもあるまい。空気が悪ければこれを最後に二度と会わなければ済む話だ。
――塚本さん、たまに知り合いに誘われて飲み会に行くんだって報告くれますけど、やっぱりお酒が好きなんですか? 飲み会以外に誰かと遊びに行くって話を聞かないですし。
――誘われた手前ちゃんと好きそうにするけど、実際は苦手かな。ウーロン茶とかジュースとか飲んでる時も多いよ。飲み会以外には誘われないだけ。
――そうなんだ。でも、お酒があったほうが話しやすいのかなって思えます。シラフだと間が持たないって人もいるじゃないですか。
――そういう人もいるけど、俺は違うかな。どっちにしろ話せない。見栄を張ってお酒を飲むことはあるけどさ。ウーロン茶でもビールって言い張る。炭酸水とかも。
――そうでしたか。あまりお酒の話はしてくれないので知りませんでした。どっちみち私はまだ飲めませんけどね。
というわけで、今回も気軽に飲み食いできる安い居酒屋かと思えば、スマホに送られてきた地図を頼りに行くと目の前に出てきたのは小さな面構えの古びた建物で、ちゃんこ鍋の絵が描かれた看板が目立つ鍋物の飲食店だった。
時期的に冬は寒いのでちょうどいいが、人通りの多い繁華街から少し離れた立地で、限られた常連客を対象にやっているような個人の店だ。チェーン店とは違って一見さんお断りな雰囲気を勝手に感じて足が重くなる。
もしも店の前を通ったのが自分一人だったなら、どんなにお腹が空いていても絶対に入ることのない場所だろう。
たかが店の一つや二つだが、こうして自分の行動圏が増えたり変わったりするのを実感すると、やはり他人との付き合いも大事なものなのだと勉強させられる。
他人と会うのを避けて一人で家にひきこもっていたら、変化のない日常を繰り返すだけだ。それが必ずしも社会的に否定される生き方というわけでもないだろうが、あまりに変化がなさすぎると自分が生きているのか死んでいるのかよくわからなくなってくる。
「おい、塚本! 集合時間を五分も過ぎるなんて遅いじゃないか。もしかしたら来ないのかと思って、不安に思いながら待ちくたびれたぞ」
「ごめん。ちゃんと連絡はしたんだけど……」
「さっきの道に迷ったって連絡か? お前のことだから途中であきらめて帰っちゃうかと思ったぜ」
「ははは……」
かすれるくらいの小さな声で笑ってごまかすが、本当は何度も帰ろうかと思った。頼れる人もいない知らない土地で道に迷うと、あたかも人生の路頭に迷ってしまったかのように心細くなる。
いつでも簡単に手に入るスマホの地図で生活が便利になったことは認めるけれど、もとからの方向音痴は詳細な地図があれば解決するというものでもない。老後まで困らずに済む理想的な人生のモデルケースを提示されようと、それをそのまま狂いなく実践することが難しいように。
「お、本当に塚本じゃん。俺のこと覚えてる?」
「え、まあ……」
ちっとも覚えていない。たぶん当時の政経討論サークルに所属していたんだろうが、顔も名前もはっきりしない。
昔から思うことではあるけれど、どういうわけか自分以外の人間はみんな人の顔や名前を覚えるのが得意で、時間が経っても忘れないでいるように感じる。人通りの多い街の中で会っても、すぐに知り合いを見つけたりする。
俺にはできない。
こういうところでも自分の人生の下手さを痛感してしまう。
相手を覚えるのはコミュニケーションの初手だ。そこで手こずっていてどうする。
「この人が塚本さんですか。僕が入る前にサークルを辞めちゃったんですってね」
ということは後輩か。
ただし、たとえ年下だとしても彼との間に直接の面識はないので先輩面はできない。
こういう相手との距離感が一番難しい。向こうが年上ならこっちが恐縮して謙虚に出れば大体はやり過ごせるが、年下となると変に気を遣われてしまって息苦しい。いきなり馴れ馴れしく接するのはリンゲちゃんのような相手でもなければ難しい。
大人になってから出会う初対面の大人とは、いったいどうやって仲良くなればいいのだろう。学生のころと違って、社会人になると公私の切り替えがはっきりしている人も多いので、こちらからのアプローチの仕方が見当もつかない。
そもそも、それほど仲良くなりたいと思えていないのが最大の原因ではあろうけど。
プライベートまで気安く踏み込まれてしまうことを、今も彼らに対して警戒している。
唯一ゆっくりと安らいでいられる聖域を守りたい。
「今日は無礼講だから先輩後輩はなしだ! 好きにやろうぜ!」
そういうわけで始まった忘年会は年齢の上下もなく、最初に宣言された無礼講を実践するかの如く騒がしさを増していった。無法地帯と呼ぶほど荒れはしないが、中学生が先生抜きで自習を命じられた教室くらいには騒がしい。
苦手なノリ。大学生のころ義務感を抱えて参加したゼミやサークルの飲み会で何度も味わったこの感じ。社会人の時は給料マイナスの残業にしか思えなかったこの感じ。
酔いもせぬのに吐き気がする。いったい何が人をそこまでアルコールに駆り立てるのか。
数十年前に比べれば怖いくらいに嫌煙ムードが進んだ世の中だから、他人を巻き込んだ禁酒ムードも同じくらいの速度で突き進むんだろうか。
実際、今は一気飲みや飲酒の強要はタブーとして扱われている。酒は飲まぬし好まぬものの、酒そのものを排除するほど社会が不寛容になるのは他人事とはいえ望まないけれど。
どうせ次には別のマイノリティをつぶしにかかる。
そうしていつか俺のような人間も世間の悪として弾劾されるのだ。
「おいおい塚本、お前も酒くらい飲めよ。そうやって一人で難しい顔して何考えているんだ?」
つまらなそうにしていたのを見とがめられる。
「世界のことかな」
煙に巻くための冗談を口にすれば、あーはいはいと適当に返事をして流してくれるだろう。今までも大概の人はそうだった。面倒くさそうな気配を察すると、途端に俺への興味をなくす。
だから冗談は嫌いだ。場を和ませようと思って口にしても逆効果ばかりで、いまいちうまくいったためしがない。人並みのユーモアセンスがなくても自虐ならできると思いがちだが、面白くない人間の自虐は人を不快にさせるだけだ。
ところが、今までの人と違って彼はそうではなかった。
こちらへの興味をなくすどころか、まさしく興味津々といった表情で顔を近づけてくる。
「やっぱりお前は面白いよ。ははっ、俺が見込んでいた通りだ!」
どこが面白かったのか、手を叩かんばかりに声を張り上げる。顔を赤らめるほどに酒が入っているとはいえ、耳をふさぎたくなるくらいに騒がしい男だ。
「よくわからんが、馬鹿にしているのか?」
だとすれば、どう反応するのがよいだろう。
からかいも、いじめも、最初の対応が一番肝心だ。ここで選択を間違えると相手との関係性が固定化されて、あがきようもなくなる。双方納得尽くの主従関係にも似た環境が構築されて、周りもそういうものとみなして問題視はしなくなる。
みんな幸せ。誰か一人がおとなしくスケープゴートにさえなってくれれば狭い世間はよく回る。
それでも地球は動く。世の風潮とは異なる正しさを主張して処刑される羽目になり、そう言ったのは誰だったか。
今の時代ならどんな主張が誰によって断罪されるかはいざ知らず。
「はあ? そんなわけないだろ。むしろ俺は喜んでいるんだ。本当は大学生のころからお前には目をつけていた」
「……大学生のころから俺に目をつけていた?」
この場限りの嘘や冗談にしても現実味がなく、如実に胡散臭さが増す。
自分の目から見ても、当時の俺は誰かに気に入られるような人間ではなかった。
優しくしてくれた浅川さんにさえ嫌われるくらいのクズだった。
「なんだろう。話が見えないな」
「難しく考えるなよ。お前と仲良くなりたいって話さ。いいだろ?」
いいか悪いかの単純な二択で言えば、それは確かに構わない。誰かと仲良くなりたいと思えるくらいの衝動がないのと同じように、誰かを強烈に拒絶するほどのエネルギーもない。
人付き合いが面倒になったら、消極的に会わなくなってフェードアウトするだけだ。
好きな時に連絡を絶つ。ありがたいことに相手も追ってこない。
だが、それはそれとして彼の話には何か裏がありそうだ。
厄介ごとを嫌って、にわかに警戒を強める。大学時代の知り合いとはいえ、会わなかった数年の間に昔なじみが豹変していることはよくある話だ。友達になるくらいならと、軽々しくうなずくことはできない。
セールスの話か? 宗教の勧誘か? あるいは、もっと別の何かだろうか。
無条件で人を信じるというのは一種の才能だ。誤解を恐れずに言えば、あからさまな詐欺に疑いもせず騙される人がある意味ではうらやましい。どこまで純粋に生きているのだろう。あるいは、どこまで単純に生きているのか。
もちろん騙す奴が一番悪いとしても。
隠しきれずにいた迷いや警戒心が顔に出ていたのかもしれない。
が、それでも構わずに彼は本題を切り出した。
「実は今、仕事の人手を探していてな」
「仕事……」
ついにこの言葉が出た。いかなる罵詈雑言や差別用語などよりも、ある意味では一番聞きたくなかった単語だ。
この世界において、二度と関わりたくなかった概念。
「そうか、仕事か……」
そのはずだったのに、なぜか不思議と好奇心が刺激される。
窮屈な社会を抜け出して悠々自適な一人暮らしを謳歌しているなどと口先では強がっていても、自覚さえできない心の奥底では人とのつながりを求めているのか。生きがいと呼べるほどのやりがいを欲しているのか。
自由を奪われる鎖ではなく、達成感とフィードバックを得られる適度なタスクを必要としている。
不戦勝のままでいられるであろう、ほどよい難度の仕事を。
労働に押しつぶされ、無理をする生活に戻るのはもう嫌だ。
崖の淵まで追い詰められる生き方だけは、絶対に。
「安心してくれ。お前にお似合いの仕事だよ」
「俺にお似合いの仕事? そんなものが?」
これまでに俺が送ってきた人生を知らない彼は簡単に言ってくれるが、残念ながら俺にお似合いの仕事など存在しない。
あってほしいと今までずっと願い続け、精一杯に視野を広げて辛抱強く探してきたが、とうとう見つけられずにここまできた。
本当にそんなものがあるなら教えてほしいくらいだ。
この世界に天職なんてものが実在するのなら与えてほしい。
どうせ存在しないだろうと斜めに構えつつも俺が興味を持ったのを悟ったのか、待ってましたとばかりに満を持して彼は語る。
「ネットのニュースサイトや動画チャンネルだよ。一つじゃなくて複数のサイトを何人かの知人と共同で運用していてな、SNSやオンラインサロン、まとめサイトと呼ばれるものも多角的に運営しているんだ。ここ最近は順調にアクセス数も増えてきて広告収入とかアフィリエイトなんかで稼げるようになったから、手伝ってくれるなら報酬も出すぜ」
「アフィリエイト……」
思ってもみなかった言葉を耳にして背筋に冷や汗をかいた。およそ半年前に高額当選したことを親にも隠して嘘をついた話が、こうして意外なところから現実となるのか。
単なる偶然だとしても、なんだか運命に操られている気がしてくる。
あるいは、目の前の男にすべてを見透かされているような寒気がした。
「まあ、どんなに魅力的であったとしても仕事の話をいきなり即答はできんわな。だから返事は後日でいい。今日は話を持ってきただけだ」
「それなら別にいいけど……。ちなみに、参考までに聞かせてほしいんだが、どんなサイトや動画をやっているんだ? ネットでニュースサイトなんかをやっているといっても、いろいろあるだろ?」
彼らの仕事を手伝うかどうか決めるにしても、まずは判断材料となる情報がいる。
知らず知らずのうちに反社会的な悪事に加担する展開になるのは最悪の事態だ。無知で無防備な人間はうまい話に乗せられて、ほいほいとネットで仕事を引き受けて詐欺の片棒を担がせられたりもする。お金を受け取るだけのバイトだと思ったら犯罪グループの雑兵扱いで、あっさり尻尾を切られて警察のお世話になる場合もある。
どんな内容であることを期待しているのかもわからぬまま俺が尋ねると、面白がっているのか彼は答えを濁した。
「専門家でもない素人がやれて、手っ取り早くアクセスも稼げそうなやつだよ」
「あんまりいい予感がしないな……」
はっきり言えば、ゴシップ的なサイトしか思いつかない。
普通に考えれば悪趣味で低俗なものでしかないので即座に断りたくなってくるが、逆に考えると、そういうもののほうが適当にやれて楽なのかもしれない。大手の新聞社に負けず劣らず高品質なクオリティでやっている本格的なニュースサイトなど任されても、忙しいうえに精神的な負担でしかない。
ちょっとした小遣いを稼ぐ程度の仕事なら、こちらに求められる労働や責任も、その程度に抑えておきたい。
もっとも、あまりに常軌を逸した劣悪なサイトなら話は別だ。
控えめに言って、一切関わりたくない。
自分の精神が高潔だとはとても思えないけれど、進んで泥水をすすりたいとも思えない。
「まあ、ぺらぺらと口で説明するよりも実際に見てもらったほうが早いだろう。今の時代はどこにいても手軽にスマホで調べられるから便利だよな。こうやって暇つぶしにスマホをいじる人間が増えてくれたおかげでアクセス数も増えて、ネットを遊び場にしている俺たちもやりがいがある」
そう言って彼にスマホを渡された。
そろそろ電源が落ちそうなくらい充電が少なくなっているスマホの画面では複数のサイトや動画がリストになっていて、どうやら彼を主催にして何人かのアシスタントたちが情報収集や記事の作成などを手伝っているらしい。
まず目についたのは右派と左派のそれぞれを煽る政治的なサイトや動画チャンネルだ。政治に限らず芸能やスポーツ関連のスキャンダルも取り扱っていて、いろんな話題でネットユーザーを煽っている。すべての記事や動画にくっついているコメント欄もひどいありさまで、これはもう見るに堪えない。
次に目に付いたのはアニメやゲームなどのエンタメ業界を扱ったサイトで、これまた同じように対立を煽っている。健康情報、占いやオカルト、投資関連など他にもあるが、最後に見つけたのは炎上ネタをひたすらまとめて更新しているサイトと動画チャンネルだ。
ざっと目を通して中身を確認してみたけれど、テレビのワイドショーや写真週刊誌をひどくしたものという印象で終わった。
実際に投稿されている動画は当然のように扇情的なタイトルやサムネばかりで、チャンネル登録者数や再生数は多いようだが、あえて中身を確認してみようとは思えないものばかりだ。
それらとは別にSNSのアカウントもあり、これが意外にもたくさんのフォロワーがついている。SNSにおけるフォロワーとは必ずしも熱心なファンや信者を意味しないが、それだけの数に注目されているのは一端の事実だろう。あくまでもネットでの知名度であり、現実への影響力がどれほどあるのかは未知数だが。
老若男女にファンが多い芸能人の言動が、必ずしも社会を変えるほどの影響力を持っているとは限らないように。
「これ、本当に稼げているのか?」
まずは単純に疑問に思える。
広告収入を意味するアフィリエイトというのは口で言うほどに簡単ではなく、かなりの閲覧数が必要になる。それはつまり多くのネットユーザーに支持されなければ成功しないということだから、ただ過激なサイトや動画を作ればいいというものでもない。
良くも悪くも才能がいる。
運と、タイミングと、時代や世論を見る目と、他にもいろいろ必要だ。
「あのな、これでも一応は稼げているから誘っているんだ。残念ながら、こういうのを楽しみたがる性格の悪い人間は世の中にたくさんいる。今は自分たちでさえ気が付いていないだけで、潜在的な”客”はもっとたくさんいるだろう」
「そんなにいるか?」
と、一応は疑いの目を向けて否定的なニュアンスの相槌を打っておいたが、一方ではそういうものだろうなと納得もできる。世の中の全員がそうではないというのは前提としても、ネットの書き込みや日々話題になっていることを見ていれば想像もつく。
テレビでも新聞でも書籍などでもそうだろうが、結局のところ手っ取り早く一番に話題を集められるのはやじ馬が集まりやすい騒動だ。すべてがそうだとは言わないけれど、じゃあ真面目な話題が真面目な論調でネットユーザーの耳目を集めるかと言われれば難しい。
暗い気持ちになる俺とは対照的に楽しそうな笑顔を浮かべる彼は目の前の鍋に遠慮なく箸を突っ込んで、ぐずぐずになった大根を意味もなく切り刻んでから、元型もわからないほど小さくなった欠片を口へと運ぶ。
「かつてのネットはアングラ文化やポルノが一大勢力を築いていたが、今はヘイトの時代だよ。何かを叩く、批判する、偉そうにマウントをとる。ネガティブで攻撃的な話題ほど人が寄ってくる。神経を疑う過激な書き込みほど多くの人に広まる。この次の時代に何が流行するかはわからないが、こちらとしては特定の思想やこだわりがあるわけでもないから、健康情報でもクイズでも食べ物でも、世間様のブームには積極的に乗っていくさ。そうでなくては楽しくないからな」
ゆでたまごに箸を突き刺して見せびらかすみたいに持ち上げると、放り投げるように皿の上で半分に切断した。さらにそれを半分にして、飴玉をしゃぶるように口の中へ放り込んで舌の上で転がしている。
「古代は宗教、かつては政治、そしてこれまではメディアが価値観の指導者となって時代や常識を作っていたが、今はネットが世論や風潮を作る。世間に向かって情報発信するために、もはや知恵も力も資金力も必要なくなった時代だ。権力嫌いのメディアが政府による情報統制や規制の強化に反対してくれるおかげで、我らがネットも自由にやっていられる。ネットでの頑張り方を知っている奴らが頑張れば頑張るほど多数派を気取れる。声のでかいマイノリティどもが寄り集まって、架空の『みんな』をネットで作る」
勝手なムードを形成して、思い込みや偏見で敵や悪さえも作ってしまう。
所詮、現実の生活環境では家族や友人に職場の人間関係など、これらを精一杯に合算しても日常的に会話や交流ができるのは百人にも満たない人が多数だろう。だからこそもっと大きな世の中の流れを知るためにメディアの役割は大きかったが、次第にそれはネットの存在感に奪われつつある。
テレビに出演するご意見番のコメントではなく、ネットに無数に見られる無責任な書き込みが世間の反応や考え方を規定するようになってきた。
俺を含めてネットを使う人たちは自分の手が届く範囲でセルフ街頭インタビューをしているようなもので、ニュースに対する感想や意見から飲食店への評価など、ありとあらゆるものを調べては平均値を探ろうとする。だが、そこにあるのは偽りの平均値だ。たまに現実と合致する場合もあるだろうが、おそらく実際の平均値や中央値とはかけ離れている。
けれど、それを実際に確かめる術もないので、ネット上で多数派に見えれば世間の多数派に見えてしまう。
たとえ虚像であったとしても、ネットの声が大きくなればテレビや企業も無視できなくなる。選挙にも影響が出るとなれば、あるいは政治家さえも。
少なくとも現時点においては世間の人々の意見がそのままネットに表出しているのではない気がする。まだまだ日本ではネットに意見を書きこむ人が世の中の多数派というわけでもないからだ。けれどネットの意見がそのまま世間の意見として扱われる機会も多く目にする時代である。
よく知らないインフルエンサーや動画配信者が自分たちの世代の代表者として紹介されても、違うと言えば自分が世間からずれているだけだろうと笑われて終わる。
酒を飲むのに飽きたのか、おでんの汁をコップに注いでぐびぐびと飲み始めた彼が大きく息を吐きだす。
「積極的にネットを活用していない連中は自分が不戦敗していることに気づかないと駄目だ。どう頑張ってもたかだか一票にしかならない無名な庶民の投票行為なんかよりも、ネットへの書き込みのほうが世の中への影響力は大きい。まともに生きてまともなことを言っても影響力は乏しく世間の誰も耳を傾けないが、適当に生きて過激なことを書き込めばネットだとすぐに広まる。個人でやるにはリスクもあるがね」
くくっと笑って、こんにゃくを皿に取った彼は意味もなくつついて遊び始める。
ぷるぷる震えるのが面白いのか、かなり子供じみて見える。
「知名度のない個人が一人で不買行為をやっても大量に客を抱えている企業からすれば知ったことではないが、善良な一般市民のふりをしてネットでクレームやらネガキャンをすれば、想像以上に悪評が拡散して大打撃を与えることもある。あくまでも悪意のない一般人を装って、著名人や企業から訴訟を起こされないために直接的なデマを書き込むことは避けて、暇を持て余しているネットの連中を煽るためのもっともらしいヘイトと口実を構築する必要はあるがな」
「そう言われると、ネット上のクレームで企業が謝罪したり、逆に嘘の書き込みでネットユーザーが批判されたりしているニュースを見たことはあるな。どこまでが事実でどこからが嘘なのか、当事者以外にはわからない書き込みが多いから反応は難しいが」
その断片的な情報で騒ぐ方がおかしい。
ただ、それを言っても仕方がないと、あきらめもある。
センセーショナルな物事ほど、事実よりも思い込みが先行して炎上は広がりやすい。そして新しい情報が出るたびに叩きの対象が変わっていくことも珍しくない。やめろと水をかけても延焼は止まらず、実際には水をかけるつもりで油をかけてしまう人ばかりだから、一度激しく炎上してしまうと、しばらくまともに論じ合うことなどできなくなる。
こんにゃくはかじっただけでほとんど残し、箸を置いた彼は何かを思い出したらしく手を叩いた。
「もう何年も昔の話になるが、アニメ関連で面白い炎上案件があった。小学生みたいなフレーズが流行って視聴者が幼児退行して正常な判断能力を失って、よくわからんブームになって渋谷のハロウィン会場みたいにファンが群衆化した作品があったんだけどよ、その続編でいろいろな問題が発生してネットが炎上したんだ。少ない情報源を頼りに脳内検証を繰り返して、陰謀論的に寄ってたかって誹謗中傷していたぜ。ファンもアンチも関係者もそれぞれにそれぞれの正義をぶつけ合って獣のように暴れた大炎上だったが、一歩引いて騒動の外から見ると誰もまともではなく、そもそもネットやってるオタク以外には騒動があったことさえ知られていないだろう」
そこまでを早口で言って、ふーっと大きく息をつくと彼は笑みを深める。
「それでも俺は震えたね。これからのネットはあらゆる分野でこうなってくれるだろう。中学生のころに俺がネットに何かを書き込むようになってから、どんどん治安が荒れ果てて、気が付けば一番気持ちのいい時代が来た。腹を空かせたサメの群れに向かって、船の上から血まみれの魚を放り込む。そして始まる、狂気に満ちた
それこそが彼にとっての素晴らしい勝利。
醜いまでの、心地よい桃源郷。
大学生のころにサークルが同じだったというだけで、今は違う人生を歩んでいる彼が何を楽しもうが俺には関係ない。俺が求める不戦勝とは似て非なるものだ。
そう必死に思いたくて、俺は反感を覚えた。
「どうせその炎上というのも、ネットを馬鹿にしたいお前の視点から見た印象に過ぎないんじゃないか。ネットユーザーを煽るのだって、今はうまくいっているかもしれないが、いつかそっぽを向かれて続けられなくなるだろう」
冷たく指摘して嫌味も混ぜておいたが、言われた彼は気を悪くするでもなく、あっさり返されてしまう。
「それでも構わんよ。あくまでもこれは副業だからな。本業より稼げるだけの副業だ。ただし、より正確なモチベーションに基づいて言うなら、これは俺の趣味なのさ」
「趣味? そんなのが趣味なのか?」
「ああ、こんなのでも立派な趣味さ。なんたって最高に楽しいからな。たまたま稼げるようになってきただけで、本来は稼ぐのが目的じゃなかったくらいだ。意見するのが好きなんだよ、俺は。他人の意見を都合よくまとめるのも、上や下から煽ってやるのも大好きだ。だから稼げなくなってもやり続けたい。いっそ金を払ってでも続けたい気分なのさ。だからお前を誘っているんだよ。赤字になっても裏切らない人間の手はいくらでも欲しいから」
裏切らないというより、裏切れないだけだ。
面倒になって逃げることはあっても、わざわざ反旗を翻すことはない。
だから都合がいい。頼ったところで役には立たぬから、結局は誰もが離れていくけれど。
「いつかお前もやりたくなるさ。その時はいつでも連絡してくれ」
あらゆる人間が自分に備わっていると信じて疑わない良識や高潔さなど、欲の前には簡単に崩れ去る。
そう言った彼はこれで仕事の話は終わりだと、楽しい飲み食いの時間に戻っていった。浮かない顔をした俺のことは忘れて、反対側にいる男とくだらない話で盛り上がり始める。
内容が内容だけに自分から会話に入っていく元気もないので、一人残された俺は考えざるを得ない。
今の俺にどんな欲があるというのだ。
少なくとも、食欲はなくなっていた。
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