第8話 孤独ではあっても孤高にはなれない。

 仕事を辞めると伝えて実際に辞めることができたのは二週間後だ。特に引き留めもなく退職することが決まると、残りの期間は職場で居心地が悪くなるということもなく、むしろ最後の経験だと思えば名残惜しくもなった。

 まさか「多額の当選金を手に入れたので退職します」などと馬鹿正直に事情を伝えられるわけもないので、同僚や上司にとっては精神を病んで辞めていく設定だった俺は同情の対象にさえなった。


「これから先どうするの?」


「まあ、無理をしない程度に生きていきます」


「そっか。じゃあ頑張ってね」


 見間違いや夢ではなく、しっかり銀行に行って高額当選が事実であると確定した後は、もうどうにでもなれと周囲には迷惑をかけない程度に上の空で仕事をこなしていたので、最後の会話はこんな感じだったとおぼろげに覚えているくらいだ。小言や嫌味を言われた記憶もない。何を頑張らせたいのか言った彼らでさえわからぬであろう言葉を餞別せんべつに、俺は社会と今までとは違う意味で距離を置いて生きる道を選んだ。

 一つ、何があっても絶対に無駄遣いをしない。ありがたいことに豪遊や散財などには興味もない。承認欲求も枯れている。ただひたすら堅実に、死ぬまで無理せず働かずに生きていたい。

 ほどほどの生活でいいのだ。幸福や刺激がなくとも、ストレスとプレッシャーさえなければ。

 一つ、当選した事実は誰にも教えない。これだけは何があっても絶対だ。手に余るほどの大金を独り占めしたいとか、一円たりとも他人のために使いたくないといったケチな考え方が理由ではない。不戦勝を貫くためには、あらゆる種類の戦いに巻き込まれぬための超然的な生き方が必要なのだ。

 全世界的に拝金主義者も多い現代社会、お金を持っていると、ただそれだけでいろんなことに巻き込まれる。顔も知らぬような人間の反感を買い、信頼関係もない相手に頼られ、すがられ、うらやましがられたり、ねたまれたりもする。

 精神の安定を欲するならば、自分が特別であるとする一切の事情は誰に対しても隠し通すべきである。

 強者であれ、弱者であれ、とびぬけたパーソナリティは誰かの道具として都合よく使われる。そんなものはごめんだ。

 もっとも、老後に備えた貯蓄もないのに自暴自棄になって仕事を辞めたと思われては、不必要に周りの人間を心配させるだけでなく、自分の立場を危うくさせる。これからの人生において二度と就職しないとなれば、余計な気苦労をさせぬためにも両親への言い訳が必要だ。

 つたない頭で考えた末、ひとまずネットのアフィリエイトで一般的な平均年収くらいは稼ぐことができていると説明することにした。

 正直、そんなにうまくいくはずがない。

 幸いながら両親はネットの知識に疎いので、こちらから矢継ぎ早に適当な説明をすると納得して引き下がった。


 ――それ、大丈夫ですか? もしかして私、この前の通話で自分でも気づかないうちに変なこと言っちゃってましたか?


 ――そんなことないよ。大丈夫。生活もできるから安心して。


 ――はい。塚本さんがそう言うなら……。でも何かあったらすぐに言ってください。


 つらくて逃げ出したいなら、いっそ素直に仕事を辞めればいいと言ってくれていたリンゲちゃん。俺以上に俺のことを心配してくれている彼女にも高額当選した事実は伝えずに、まずは仕事を辞めることだけを辞めた後で教えた。ネットを駆使して生活費を稼いでいるという作り話は詳しく説明するとボロが出てしまいかねないので、親とは違ってリンゲちゃんには黙っていることにする。

 もともと彼女に対しては仕事や収入の話をほとんどしてこなかったので嘘をついて隠すまでもなく、最初に心配してくれて以降は遠回しに尋ねられることもなかった。


 ――リンゲちゃん、俺、強くなるよ。


 ――えっと。どういうことですか? 筋トレとかですか?


 ――精神的な話。


 そうして仕事を辞めてからの俺は、ほぼ自主的にひきこもり生活をすることに決めた。

 あくせく働かなくても人並みに生きていけるだけの財産があるという強力な後ろ盾は、実感してみると驚くほど精神に余裕を与えてくれる。今までは家でじっとしていると世間に後ろ指をさされ、社会に断罪されているような強迫観念におちおち眠ってもいられなかったが、今では家でじっとしていることを許され、怠惰な生活を肯定されているような安心感がある。

 朝から晩まで一日中どころではなく、春から冬まで一年中そうしていても誰にも文句は言われない。何をするにもしないにも、サービスや責任の対価を支払うだけの十分なお金がある。あくせく働いているのに肩身が狭く、隠れるように生きざるを得なかった零細消費者ではない。

 初めて世界に受け入れられた気がする。

 がんじがらめにされていた巨大な鎖を引きちぎり、乗っけるだけ乗っけられていた重荷をすべて振り払ったような解放感。

 最初の一週間はひたすらに寝て過ごした。

 続く一週間はひたすらにぼんやり過ごした。

 真っ当な社会の一員になろうとして、けれど現実的には単なる一介の労働者として働いていたころは、何をやっても「このままではいけない」と自分を苦しめた。働くのをやめた今、何をやろうが「このままでもいい」と自分を優しくできる。

 世界や世間を遠巻きに、余裕をもって見渡せる。

 不戦勝とはこういうものか。

 究極的なところでは、勝つことさえどうでもよくなってくる。

 人生における勝ち負けなど所詮は多数派によって作られた概念でしかなく、戦わずしてすでに満たされているからだ。


 ――リンゲちゃん。


 ――なんですか?


 ――ごめん、なんでもない。ただ返事があるかなって思っただけ。


 ――へんなの。でもいつでも呼んでください。


 そう、俺は変になっている。

 戦わずして満たされていると思っていたのは最初のころだけで、こともあろうに俺は不戦勝の呪縛に囚われ始めたのだ。

 これまでの俺は心身ともにつぶれそうなくらい追い詰められており、せめてもの救いである不戦勝を得るため、積極的に自分の心を殺そうとしてきた。何に対しても無感動でいることを理想像として、地を這うように日々をしのいできた。

 そのせいなのだろうか。

 今さら巨額の富と自由を手に入れたところで心は湧き立たず、なかなか普通の人間のようにはなれなかったのだ。

 かつての輝かしい趣味を取り戻すようにアニメやゲーム、手当たり次第に映画や読書にも手を出し始めたものの、これが全く身に入らない。興味がないわけでもなく、面白くないわけでもない。なのに熱中できないのだ。

 時間だけは大量に余っているのに集中力がない。

 やりたいことがなく用事もないので外に出ようとも思えず、かといって部屋の中でじっとしているのは一か月も続ければ飽きてきた。自由に使える暇な時間というものは、ないときには欲しがるが、有り余るときには捨てたくなる。何か有意義なことをしなければ人生を浪費している気がする。

 だが、やりたいことは一つもない。

 いい趣味が見つからぬからと言って、あんなに苦しかった仕事を再開するなど論外だ。

 他人と関わりたいか? あまりそうではない。

 このままずっと一人きりで生きていたいか? これもそうではない。


 ――リンゲちゃん。


 ――はいはーい。


 反応があったことだけを確認してメッセージアプリを閉じる。正しい人生を取り戻そうとして高校生活を頑張っている彼女を俺の不戦勝生活に巻き込むわけにはいかない。心配するふりをして心配をかけるわけにはいかない。

 そう思えば、自由で暇な時間が大量に発生したくせに彼女とのやり取りは格段と減ってしまっていた。

 そして自主的にリンゲちゃんを遠ざけた結果の妥協案として、仕事をしなくなった俺は最低限の社会とのつながりを維持するため、ぼんやりネットを見ながらひきこもり生活をむさぼることにした。

 半端な不戦勝。安全圏と呼べる程度に世間と距離をとって堅実に生きていくと強がっているくせに、実際には目に見えて心が疲弊し始めている。

 身の丈に余る財宝を抱えて洞窟の奥にひきこもりながら、勇者の討伐を恐れる張りぼてのドラゴン。

 根が小心者だから、孤独ではあっても孤高にはなれない。

 仕事を辞めて数か月、今までずっと願っていた安息の地を手に入れたと能天気に浮かれていた俺ではあったが、予想外にも段々と着実に精神は濁り始めた。何をするでもなく半年が過ぎるころには、当初あった楽観論や余裕が薄れていくのを感じた。

 窮屈な世界に対する静かなる勝利宣言をして、悩みや不安がなくなった余裕綽々の勝ち逃げ生活を楽しむ予定だったはずが、いつ崩れるとも知らぬ砂上の楼閣に籠城して、正体も知らぬ何かの存在におびえる生活を送っているようだ。外は無数の兵士に包囲され、今にも壁を壊さんとひっきりなしに石を投げつけられている。

 遅ればせながら気づかされた。今まで長年の間に俺の精神を苦しめ続けていたのは、労働の過酷さや生活の貧しさではない。まだ若かった学生のころも、大人になって労働者となったころも、不調の原因を学校や会社へ求めていたのは一種の逃避だった。

 俺が悩んでいた自己疎外の一番の原因は、社会への打ち解けなさであったのだ。

 今の世界に溶け込めない。

 現代社会に居場所がない。

 逃げたい逃げたいとそればかり考えていたが、実は心のどこかで憧憬を抱いていた。この場に存在することを認められた社会の一員でいたいという、小規模な承認欲求だ。

 ひたすら懸命に願っていたのは、同じ時代を生きる誰からも後ろ指をさされず、正々堂々と諸手を振って歩いて行ける平和な世界である。経済的には豊かでなくともよい。自分と違いすぎる価値観の人間が、自分と同じような人間を苦しめなくて済むような世界を求めている。

 けれど、そんなものはない。

 赤子のように指をくわえて待っていても訪れはしない。

 誰かを感化することは難しく、大多数の人間は己と違うものの存在を看過もできず、自分が聖人になれもしない。宗教を妄信できるほど純真でもないので、死後の世界を夢見るにも抵抗がある。

 結局は流れるように生きていくしかない。

 流されすぎず、せめて不戦勝を信じられるくらいには己の精神を守りながら。

 その場に立っていられず倒れたくなるほどに暑かった夏が過ぎて、秋を忘れたような速度で季節が冬になると、雪を塗り付けたような寒さが身に染みるようになった。

 金銭も精神も無駄遣いせず、ほとんど部屋にひきこもって暇つぶしにネットなどして堅実に暮らす俺にも、そろそろ人肌の恋しくなる孤独が襲いつつある。

 だけど無駄にあがくことはしない。なぜならばこれこそ、この平穏の名を借りた徒然なる生活こそ、ようやく手に入れた真実の不戦勝なのだ。

 自分を認めてくれる誰かのそばにいたいという願望があったとしても、一時の気の迷いで現在の環境を軽々しく手放すわけにはいかない。

 だが、それを許さぬ存在が一人いた。

 やたらと俺の腕を引きたがるリンゲちゃんだ。


 ――塚本さん、どこか一緒に出かけましょうよ。いつもみたいにネットで。


 そう、それが俺と彼女の正しい距離感だ。

 あるいは、やはり俺と世間との。

 夏の終わりごろ無事に退院した彼女のおばあちゃんは家に戻っているらしく、すでに一人暮らしではなくなっているリンゲちゃんではあるが、今でも変わらずに俺としゃべりたがって頻繁にメッセージをくれている。

 どんなに距離を置こうとしても、結局はこちらからも返してしまう。

 なんにせよ追われるように仕事をして生きていた以前までとは違い、この半年は一日中ずっと暇をしているので無視するのも難しい。


 ――今日は学校じゃなかった?


 ――午前で終わりの終業式ですよ。明日からは冬休みです。


 ――あ、そうだったっけ。


 ――はい。ですので、遊ぼうと思えば毎日遊べますね。


 真実の不戦勝生活を手に入れた直後だったからか、世間と距離を置きたいあまりに、今年の夏休みはいつになくリンゲちゃんともスマホでの会話が少なくなっていた。少しずつではあれ、不戦勝生活に迷いが生じつつある俺がリンゲちゃんとの会話を以前の頻度に戻し始めていたので、これをいい機会にして冬休みを楽しみたいのかもしれない。

 ネット越しの友達として、顔を合わせることなく気軽に遊んでくれることを期待されているだけかもしれないが、それを嬉しく感じてしまい、必要以上に喜びを感じないようにと心を殺す。


 ――ショッピングしましょうよ。いろんなサイトを一緒に見て、どんなものが欲しいかとか話しましょう。


 ――いいね。せっかくだから、いいものがあったら買ってあげるよ。買ってあげるというか、値段分のギフトコードをメールで送るから、そのあとは自分で買ってね。リンゲちゃんへのプレゼントってことで。


 ――え、本当ですか。嬉しいです! クリスマスイブですもんね!


 話の流れで軽く口にしただけのつもりが、プレゼントと聞いたリンゲちゃんが嬉しそうに声を弾ませたような気がした。自分が子供だったころに親からもらえるクリスマスプレゼントがどれだけ楽しみだったかを思い返すと、必要以上に期待させてしまったかもしれない。

 こちらとしては最初からクリスマスには何か買ってあげようと思っていたから問題はないが、ねだられるようになると困る。俺みたいな小市民の金銭感覚は崩れやすく、財布のひもが緩んで散財に至るきっかけは些細なものだ。

 高額当選のことは今も彼女には秘密にしているので、常識はずれの高級品を買うように求められることもなく、女子高生へのプレゼント程度で経済状況が破綻する規模の無駄遣いを心配するほどではないけれど。

 ともかくとして、いくつか通販サイトの商品を眺めた後でイルカのぬいぐるみを買ってあげると、これが子供みたいに喜ぶ。そんな彼女の反応に、この半年の間にしてきた何よりも嬉しくなったのは、一体どういうことだろうかと疑問に思いもした。


 ――今日はありがとうございました。塚本さんとのオンラインデート、すごく楽しかったです。


 ――え、今のデートだったの?


 ――ちょっとちょっと、塚本さん。だって今日は年に一度のクリスマスイブですよ。気分だけでもデートだったってことにしましょうよ。


 だとしたら生まれて初めてのデートだ。お互いの顔が見えないオンラインでのやり取りとはいえ、ネット越しの遊びでこんなにも楽しく過ごせるなら、本物の恋人と実際に会ってデートをやれたらもっと楽しいんだろう。

 そんなことを考えていたら、その相手として小成さんの姿が思い浮かんだ。

 もしも彼女が恋人だったなら、いまいちぱっとしない俺なんかが相手でも優しく手をつないでくれるんだろうなと考えて、どんなに願っても実現することのない空想に心が痛くなる。

 そしてすべてを否定したくなる。


 ――いや、たとえ気分だけだったとしても今のをデートにはできないよ。俺は大人で、リンゲちゃんは高校生なんだ。そういうことならもう今みたいなことはできない。たとえメッセージのやり取りだけだったとしてもね。


 ――ごめんなさい。ちょっとした冗談のつもりだったんです。深い意味なんてないんです。忘れてください。楽しかったってことを私なりに伝えたかっただけですから。


 ――こっちこそごめん。リンゲちゃんがそういうつもりじゃないっていうのはわかるけどさ。


 わかっているのはわかっている。だけど本当に俺はわかっているのだろうか?

 あまりにも弱って悩んで苦しんでいるからか、ほんのちょっとでも理性を手放して心を解放したように油断してしまえば、いつも優しく接してくれるリンゲちゃんを将来の恋人として求めたくなる。今すぐには倫理的にも法律的にも許されずとも、このままの関係で数年ほど待てば二人とも大人になるのだからと、自分を納得させようとしてしまう。

 しかもそれは小成さんに振られた埋め合わせとしてなのだ。

 それがわかっているからこそ、どんなに仲良くしていようとも彼女との間には明確な一線を引かねばならないと思えた。





 高校生は冬休みになって、すでに仕事を辞めた俺には関係ないだろうと思いつつも、休日を楽しみたがるリンゲちゃんの遊びに付き合うつもりで外へ出た。

 テーマパークを盛り上げる賑やかなパレードのように輝くイルミネーションに縁どられた冬空の街を巡って、スマホで写真を撮ってリンゲちゃんに送り、にぎわっている人混みを避けつつ適当に街を回る。ほぼウインドウショッピングでもリンゲちゃんは楽しそうだ。

 いくつかの店を冷やかした後、これを最後にしようと適当な書店に入る。

 まずは立ち読みでもしようと思って雑誌売り場を覗いてみたが、さすがに休日は客が多くて近寄れない。立ち読みをするとか以前にどんな雑誌が並んでいるのかも確認できないのでは仕方がないので、何か具体的な目的があるわけでもなく、落ち着いて散策できるように人が少ないほうへ向かって足を運ぶことにする。

 理路整然と本棚に詰められている無数の本を買うつもりもなく、ぶらぶらと眺めながら通路を移動していると、いかにも堅苦しい政治や経済について書かれた本が集まる人気のないコーナーにたどり着いた。


 ――どんな本がありますか?


 ――リンゲちゃんに渡したら五分で寝ちゃいそうな本。


 好きな人は好きだろうが、リンゲちゃんみたいな人は食指が動かないだろうなと思うラインナップ。

 有名無名の専門家が書いた素人には読ませる気のない地味で小難しいタイトルの本から、ゴシップ系の週刊誌を彷彿とさせる低俗な煽りのタイトルまで、ネットを馬鹿にできぬ玉石混交のありさまで大量の書物が奴隷市場のように並んでいる。このうちのほとんどは大半の人間に存在を気づかれもせず、熱心な読書家の間でさえ売れもせずに紙資源を無駄にして返本されるだろうと思えば、世間の誰にも顧みられぬ無名作家の人生をむなしく想像してしまう。

 ただ、そういう人は兼業で本を出しているだけの場合も多いだろうから、ベストセラー作家のように売れなくても本人的には満足かもしれないが。

 ともかく、本を読んで知識を身につけることは大事だ。けれども、残念なことに読むとかえって頭を悪くしそうな本もありはする。歴史的な名著に引けを取らない優れた本も探せばあるのだろうが、よくできているだけに、一度読んだくらいで自分の頭がよくなったかのような錯覚に陥りかねない危険性もある。

 知識は所詮、どこまでいっても知識でしかない。世間と比べて知識だけはたくさん持っている高学歴エリートの中にも素行不良な人間はたくさんいる。だからといって知識を得ようともしない人間が善良であるとはちっとも思えないが、理論や理屈が先行している頭でっかちな人間はたいていどこかで問題を起こす。

 もちろん向上心は大事だ。俺にはないので余計にそう思う。

 けれど我を通すためだけの向上心はどうだろう。誰かをやり込めるためだけに蓄える知識など意味があるのだろうか。

 つまみ食い気分で何冊かパラパラめくって読んでいると、大学生のころ所属していた政経討論サークルのことを思い出した。あまり楽しくない記憶の数々を、望んでいもいないのに想起してしまう。

 大学生となって張り切るあまり、調子に乗って何でもかんでも意見する自分。

 誰からも共感を得られぬくせに自分こそが正しいと信じて我を押し通そうとする、あまりに痛々しい記憶の数々。

 ここが本屋なのを忘れて、大きな声で叫びたくなる。

 それで何かが否定されるわけでもないのに。


「おいおい、誰かと思えば塚本じゃないか。懐かしいな」


「えっ?」


 いきなり声をかけられたので、つい反射的に勢い余って読んでいた本をバタンと音を立てて閉じてしまった。折り目が付いたり破れたりしたわけではないものの、根が小心者なので肝を冷やす。大切な商品を雑に扱った行動を店員に見とがめられたような気がして、買うつもりもなかったのに購入を決意する。

 無駄金を使わされた。


「よっ」


 こちらこそ誰かと思って振り返れば、そこにいたのは大学の同期であり、あまりいい思い出のない政経討論サークルで一緒だった男である。

 むっとするつもりだったが、愛想笑いを浮かべつつ背筋が伸びる。もう辞めた会社の同僚と会うのと同じくらい、気まずさプラスで緊張してしまう。

 それにしてもよく俺の顔と名前を憶えていたものだ。申し訳ない話だが俺は相手の名前を思い出せない。

 ただ、やたらに気の強い男だった記憶はある。


「やあ、久しぶり。懐かしいね」


 とりあえず名前を忘れていることはごまかして、あいまいに挨拶をしておく処世術。珍しい顔を見つけたから声をかけてきただけで特別に用事があるわけでもないだろうから、簡単な近況報告くらいをしたら適当なところで話を切り上げてどこかへ行くだろう。

 そう思っていたが、なかなか彼は立ち去ろうとしない。

 間違い電話で話し込むタイプか。


「ふうん。お前もそういう本に興味があるんだな。相変わらずで嬉しいよ」


「まあね」


「よっしゃ、だったら久し振りに他の奴らも誘って一緒に飲もうぜ。さすがに今日すぐには無理だが、予定が決まったら数日中に連絡するわ。もちろん来るよな?」


「そうだね。もちろん行けたら行くよ。行けたら行く」


 社交辞令の言葉を口にして言外に断ろうとしたらスマホを出すように言われて、素直にそうしたら連絡先を強引に交換させられた。有無を言わせぬ積極性に驚かされるものの、どうやら向こうは本気で誘っているらしい。

 今も昔もそうだが、酒が好きな人間はむやみに人を誘いたがる印象が強い。

 それにしてもまた飲み会か。登山やらサーフィンやら、あるいは政治的なデモや聞いたこともないバンドのライブなど、精神的にも肉体的にも疲弊する余暇活動に誘われるよりはずっと楽だが、正直まったく心は踊らない。

 それほど親しい間柄ではなく、共通の趣味もないとなれば、大人になると適当な店に入って飲み食いするくらいしかやることもないのだ。話題が尽きても、食べることに集中していれば間は持つ。たとえ嫌いな人間がいても、あまり相手をせずに飲んで食ってさよならできる。

 そうしている瞬間が楽しいかどうかは別として、誰かと予定を立てることそれ自体が社会とのつながりを維持する最小にして最大の手段である。今さら新しい知り合いを作るのは性格的にも大変なので、古くからいる知人をないがしろにはできない。

 一度くらい飲みの席を一緒にする程度なら、まあ。


「じゃあ、こっちで予定が決まったら連絡するからな。その時は絶対にお前も来いよ」


 そう言われて抵抗するでもなくそうしようと思えたのは、今の俺に仕事の重圧がなく、以前よりも心に余裕があって気が楽になっているからだろうか。むきになって誘いを断るほうが体力を使いそうだと判断して、ここは「わかった」と答えて彼を見送った。


 ――おーい。もしかしてトイレですか? なかなか反応ないですね。


 ――ごめんごめん。ちょっと声を掛けられちゃってさ。


 ――お知り合いですか?


 ――大学時代の……友達かな。


 書いてしまってから気づく言葉の空虚さに、我ながら乾いた笑いが出る。

 たぶん本気では俺も向こうも友達だとは思っていないだろう。

 だけど、ひとまず友達ということにして、彼の素性はリンゲちゃんに隠しておきたかった。

 かつての俺が所属していた政経討論サークルのことは、絶対に彼女には教えたくない。

 ひきこもり支援サークルの時とは違って、当時の俺は痛い奴だったから。

 可能であれば自分でも忘れたいくらいに。

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