第7話 そして俺は戦うことをやめた。
アパートに戻ると雨が降り出して、それは間を置かずに豪雨となった。
一番近くにあったコンビニで買った弁当を食べて、ぼんやりテレビを眺めていたら約束通りにリンゲちゃんから通話がかかってきた。
初めての通話。
意を決してスマホを手に取る。
「…………」
だけどお互いに何かを言うことはなかった。
――通話といっても、しゃべるのはやめましょう。お互いに声を出さないで、スマホを耳に当てあうんです。
――それ、意味あるのかな。
――ありますよ。たぶん、やってみればわかります。文字だけと違って、相手をそこに感じますから。
実際、よくわかった。
はっきりとした声を聞かなくても、そこにリンゲちゃんを感じたからだ。
ふふっと照れて笑ったような音。緊張して息をのむ音。大きくなったり小さくなったりする呼吸の音。衣擦れの音。立ち上がったり、歩いたり、何かを飲んだりする音。
さすがに鼓動の音までは聞こえないけれど、そこにリンゲちゃんがいて、離れた場所ではあるけれど同じ時間を共有していることを強く感じる。
――通話をかけたらメッセージは送れないので先に言っておきますけど、私、今日は九時になったらベッドに入ります。
などと事前に宣言していた通り、九時ごろになって彼女がベッドに入る音がした。
お互いに何かを言うことはない。もう一時間以上もスマホを耳に当てて、声を出さないように生きているだけ。
なのに不安を忘れたような気分になった。
いびきが大きいなと思ったら遠くで鳴り始めた雷で、まれに振動を伴うくらい近場に落ちる。詳しく状況を説明されたわけではないけれど、ベッドの上で手足を投げ出すリンゲちゃんを微笑ましく想像しながら横になる。
――寝る前には通話を切りますね。
そう言っていた彼女が油断してしまったのか、すうすうと寝息が聞こえてきた。
安心しきっているのか、そばにいる彼女をより強く感じる。
間違っても自分の声を聞かれたくはないだろうなと思い、何か寝言を口にしてしまう前に通話を切る。
――おやすみ。
それだけを伝えて俺も寝ることにした。
だが、いつまでたってもなかなか眠れない。雷の音がうるさいのと、初めて耳にしたリンゲちゃんの存在する音に胸の鼓動が早まっているのと、もともと寝つきが悪いのと、いつもなら普通に起きている時間であるせいか、全然ちっとも眠気がない。
このまま起きているのもいいかと天井を眺めながら考え事をしていたら、ふと思い出した。
そういえば習慣的に買っていた宝くじが数枚あった。リンゲちゃんのことや接近する台風の情報に気を取られていて、まだ当たっているかどうかを確認していない。就職したのをきっかけに三年くらい買い続けていて、今までの最高成績が一万円程度なので合計すると使った額のほうが多いけれど、夢を買うにはちょうどいい娯楽だ。
子供のころから運がいい方ではないので、根気強く買い続けていても絶対に当たるわけがないという諦観がありつつも、万が一にも当たったら潔く辞めてやると思えるからこそ、つらい仕事でも逃げずに頑張ってみようと思える。
次の当選発表まで、次の発表日まで。
そうやって少しずつポジティブな精神を引きずって生きていく。
こらえきれなくなって暴発してしまわぬよう、ぎりぎりのところで人並みに生きるための知恵だ。大人になってから抱える夢とは、子供のころのような大きな夢物語のことではない。現実を耐えるために築く、小さな蜃気楼のことだ。
道の先に見えるぼんやりとした幸せ。とりあえず一歩を踏み出すための道しるべ。
それで充分である。
通話を切った後はテーブルの上に置いていたスマホを手に取って当選番号をチェックする。最初のころは数字一つ見るのにもドキドキしてイベントのように楽しんでいたが、何度となく外れることを繰り返して事務的な作業になり下がった。
出かける予定のない休日の天気予報を調べるくらい。それくらいの低調な気分で確かめたほうが結果的にショックは小さい。
ああ、やっぱり今回も駄目だったかぁ……と、それだけを言いたい。
でも、次は当たるかもしれないし……と、それだけを言い続けたい。
実際、本気で当たりたくて買っているわけではないことくらい他でもない自分が一番よく知っている。あっけなく外れてもいいのだ。所詮は言い訳づくり。現状を脱するために何かをやっているとの、無理をしない実績作り。
眠くなるまでの暇つぶしを兼ねた作業として、さて今回も確認してみるかと軽い気持ちでベッドに腰かけて、スマホの画面と紙きれの数字とを見比べる。
「……ん?」
瞬間、手が震えた。
あまりに大きな不意打ちを食らったので己の目を疑って何度も見返すが、どうやら間違いはない。
あろうことか当選している。
一、十、百、千、万……ああ、なんと高額当選だ。
事態を理解した途端、死ぬんじゃないかと思うくらいに心臓が激しく鼓動を打ち始める。外の豪雨よりも激しく音がする。スマホが滑り落ちそうなくらい手汗が噴き出すのも当然で、どう頑張っても冷静ではいられない。
お金の使い道、これからの生き方、大事なことからつまらぬことまで実に様々なことを考えたが、すべては一つのことに集約されていく。
仕事をやめよう。即座にそう思った。
そして俺は戦うことをやめた。
絶対なる勝利、真なる不戦勝のために。
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