第6話 あまりに俺が弱いから。
小成さんには「やっぱり考えます」とだけ答えて、実質お断りの内容を伝えた。
察しのいい小成さんは露骨に二の足を踏んだ俺の気持ちを汲み取ってくれたので、それからは誘わなくなってくれたし、そのことについて話もしなくなった。一応は残念がってくれたことが救いかもしれない。たとえ本心ではなく演技に過ぎなかったとしても、彼女に残念がられたことが俺の罪悪感と未練を刺激するのにも関わらず。
誰かに必要とされたいくせに、いざ誰かから必要とされると怖気づく。
そんなだから人生を普通に生きるのでさえ苦労するのだ。
――すみませんでした。
――いいよ、そんな。気にしないで。
いいや俺は気にする。いい出来事であれ、悪い出来事であれ、一度経験してしまったことを心の中でうまく処理できない。
不器用で容量の悪い人間、そういう存在だ。
何はともあれ自分の都合で迷惑をかけてしまった罪悪感と申し訳なさがあって、失望と失点が原因で小成さんとの間に距離ができた気がして、予定を合わせて直接会うことはもちろん、スマホでのやり取りも少なくなった。
それはそれとして芹村君に施設の手伝いを辞退したことを伝えると、こんな返信が来た。
――そうですか。仲良くしていただけそうだったのに残念です。
なんと返そうか迷って、結局はこうした。
――これも何かの縁だから、他の人に言えない悩みがあったら俺に相談してくれると嬉しい。
社会人としてはずぶの素人で、職場では新人相手にさえ先輩ぶれぬから、こうして代替的かつ代償的に彼の面倒を見たがっているのかもしれない。人生の先輩として、自分より年下の悩める青少年の役に立ちたいのかもしれない。
彼の人生の責任を取りたいわけでもなく、本当のところでは彼がどうなろうと知ったことではないのかもしれぬのに。
――はい。
彼からの返信はそれきりで、それから音沙汰がなくなった。
一方、しばらく経ってからリンゲちゃんからは心配になる報告が来た。
なんでも、おばあちゃんが病気をして入院したというのだ。幸いにも命に別状はないものの、治療が長引けば数か月は入院生活が続くという。現在のリンゲちゃんはおばあちゃんとの二人暮らしで、小学生のころに失踪した両親以外には身寄りもいないから、おばあちゃんが入院している間は一人暮らしとなる。
おじいちゃんが早くに亡くなったこともあって貯蓄もあまりなく、ただでさえ少ない年金なども入院費で消えてしまうので、これは俺のほうから彼女の生活費や光熱費の面倒を見ることを提案した。
――そんな! お金はいらないです! むしろ困ります!
――いや、さすがに心配だからさ。口座番号を教えてくれれば毎月振り込んでおくよ。それか電子マネーとか。生活費というには少額だけどね。
――違います。そういうつもりじゃなかったんです。塚本さん。私、お金が不安なんじゃなくって。
――大丈夫。リンゲちゃんのために使いたいだけだから。そうじゃないと俺が不安を感じるから。
――不安は感じる必要ないですよ。だって塚本さん、お金は……。
――リンゲちゃんのために使いたいんだ。
――あの、じゃあ、わかりました。本当に困ったときは遠慮なく塚本さんのことを頼ります。でも、その時は直接受け取りに行きますよ。それが礼儀ですから。
――うん。そうして。
すぐにとは言わずとも、ひとまず受け入れてもらえてほっとする。
有難迷惑な差し出がましいことをして邪険にあしらわれたのは、今までの人生で何度もある。通勤や通学の道すがら、すれ違っただけの人にあいさつをしてしまって不審者扱いされたことも。
さすがのリンゲちゃんも数日は落ち込んでおとなしかったけれど、何度か見舞いに行って、本当に病気なのかと疑いたくなるくらいに元気なおばあちゃんに追い返されるのを繰り返しているうちに、すっかり元通りになったようだ。まったく不安がなくなったわけでもないだろうが、今では彼女は彼女なりに自由な一人暮らしを楽しんでいる。
――退屈なので何か面白い話してください!
などと、以前よりもスマホに送られてくるメッセージが増えたのは寂しさのためだろう。つまらぬ話ならいくらでもあるので、そういうのばかり返信していたら、リンゲちゃんは怒るでもなく喜んでくれた。そんな彼女の反応を嬉しく思えてしまう自分の単純さに救われもしながら、世界全体が彼女くらい無邪気で優しくて包容力もあったならどんなによかっただろうと、ありもしない仮定を想像しては現実との落差に心が傷ついた。
――塚本君、ちょっといい?
――はい、何ですか?
――お誘い。
とのことで、リンゲちゃんが一人暮らしを始めたくらいのころに小成さんから夕食のお誘いがあった。聞くところによれば彼女の知り合いが何人か集まって食事会をするらしい。
いつもの居酒屋やファミレスではなく、気軽に参加するには難しい価格帯が高めの料亭で、不安がって尋ねれば小成さんのおごりだという。もともと予約していたメンバーに一人欠員が出たとかで、俺を誘ってくれたようだ。
会話が弾まなくても笑顔でいてくれる小成さんと二人きりの席ならともかく、知らない人間が何人もいるのでは気が進まない。どうしようか迷って結局はのこのこと会いに行くと、その場には女性だけでなく見知らぬ男性がいた。俺よりも背が高く爽やかな顔つきで、やることなすこと成功してきた青年実業家のように堂々たる立ち姿だ。
「知ってる? あの人、小成さんと付き合ってるんだってさ」
「え、そうなの?」
「そうそう。だってそうにしか見えないじゃん? 遠慮しちゃって本人たちは言わないけどね」
待ち合わせ場所で二人がしゃべっていたので小成さんにも彼にも声をかけられずにいると、そんな感じで名前も知らない同席者たちが噂していたので、お似合いだなぁと思って食事会は静かに過ごした。
「今日、なんか静かだったけど、どうしたの?」
「いえ、別に。いつもこんなですよ」
「そうだったかな。楽しんでくれたならよかったんだけど」
という挨拶を最後に別れる。
あの男性が自分の恋人だと本人の口から紹介されたわけでもないが、周囲の噂になるくらい親密な関係なのは間違いないだろう。万が一にも小成さんに付き合っている彼氏がいるのでは二人で仲良くするわけにもいかないだろうと、それとなく避けたがっているニュアンスを伝えてスマホでのやり取りもしなくなった。
――今までありがとうございました。
――塚本君、本当にどうしたの? もう施設を手伝ってほしいなんて言わないから、ね?
――ありがとうございました。
もうこれっきりだと小成さんの連絡先まで消そうとして、それだけはやめておく。
何年も前に大学を卒業する時とは違って、今度は告白をするまでもなく失恋したのだが、しぶとく残っていた片想いの再燃をはっきりと自覚する前に現実を突きつけられたので、もやもやとした気持ちが霧散もできずに行く先を失った。
失恋……いや、これが本当に失恋なのかさえわからない。
果たして現在の俺は小成さんを恋愛対象として好いているのだろうか。以前とは違って死にたくなるほどのショックを受けていないのは、一度はっきりと断られていて耐性ができていたからだろうか。あるいは彼女を恋人候補ではなく、頼れる救世主としてすがっていたにすぎなかったのか。
どうせ彼女と結ばれるわけもないと、再会する以前からあきらめていたおかげかもしれない。最初から戦わぬ姿勢で受動的に生きていると、こういう時には強い。
なんにせよ、失恋による精神的ダメージは少なかったが自分でも正体のつかめない喪失感はあり、それは集中力の欠如として日々の行動に現れた。
後日、仕事では気を付けていたくせに大事な書類をなくして大目玉を食らった。直後に同僚が見つけてくれたので上司の怒りや懲罰はともかく、仕事に支障をきたすような大ごとにはならずにすんだ。もともと評価が低かったので、今さら失敗を一つや二つ重ねたところで信頼も期待も殊更に失うものはなかったが、周囲の人間たちに邪険にはされずとも、職場での居心地の悪さを再確認させられる結果となった。
なにより、上司の前で何度となく頭を下げて口では謝罪の言葉を必死に繰り返していても、心の中は空っぽだったことに自分でも危機感を覚えた。
世界の誰とも戦わずして勝つ、不戦勝とはどういうことだろう。
一時は念仏のように唱えていたくせに、最近では自分でもわからなくなりつつあった。
ちょっとでも気を抜いて油断すると、自分が何か得体の知れない巨大なものに負け続けている感覚に襲われる。先頭を走っているわけでもないのに、次々と後続に追い抜かれていく感覚が常にある。
せめて仕事くらいはうまくやれればいいのに、努力してもそうはならない。
正直に本音を漏らせば、このまま仕事を続けた先に幸せが待っているようにも思えないのだ。
むしろ、どうあがいてもどん詰まりのような気がする。
誰のせいでもなく。
じめじめした梅雨も明けて、日増しに暑くなっていく七月。
高校は終業式を終えて夏休みを迎えたころ、勢力の強い台風が迫りつつあった。
リンゲちゃんが住んでいる古い一軒家は警報が出るレベルの暴風雨が心配であり、激しい嵐の夜に一人きりで過ごすのは心細いという。
なので、無事に台風が過ぎ去ってくれるまで俺たちはスマホ越しにメッセージを送り合うことにした。
そして夕刻。
まだらに空を覆っている夕焼け雲は炭火に炙られたように真っ赤で綺麗だなぁ、と危機感もなく能天気に思っていたら、こちらから送った写真を見たらしいリンゲちゃんが喜びをこぼした。
――台風一過ですね!
――それ台風が過ぎた後のやつだよ。
――嵐の前の……なんだっけ、とにかく好きな感じです!
――嵐の前のと言ったら、静けさだね。でもリンゲちゃんが騒ぐから静けさも台無し感あるよ。
――うー! ひゅー!
そうそう、その自然の機微を全然理解してない感じ。
こっちの話を聞いてないというか、外で風が吹くのに合わせてヒューヒューと大量の文字を送るだけのスパムやBOTみたいになった。いよいよやばいかもしれない。
無駄にテンション高い系な女子高生の中でも、特にバカのほうに入っている私なんです。自分でそう言っていた。人生の二軍準レギュラー。やる気がないわけでもなく、毎日練習を一生懸命にやっててそれ。
報われないですね、とスマホの文章越しに微笑まれて俺は彼女を何度励ましたことか。自分で勝手に立ち直るタイプの彼女なので、俺の思いやりだって一度も報われたことはないけれど。
ふと、不可視の壁が突っ込んでくるような強い風が来て、一時的に周囲の音をかき消すほどの圧が来る。小柄だというリンゲちゃんなら、あっけなく飛ばされそうなくらいだ。
実際には姿の見えない彼女のことが心配になる。
――さっきから生暖かい風が強く吹いてるね。これは一雨来るかな。ひどい雷雨になるかもしれないよ。
――ドカンと光って地面がズドン! とにかく大きな音がする雷って苦手ですけど、夜中に停電しちゃったら大変ですね。今のうちにスマホの充電しとかなきゃです。
とか言いつつも、いつもバッテリー残量ぎりぎりでスマホを持ち歩いているようで、たまに会話が途中で打ち切られてしまうリンゲちゃんはたぶんあんまり計画性とか先見性がない。無茶と無謀を心の中で野放し状態にしていて、自分では飼いならすことができていないのかもしれない。
このまま川や海の様子を見に行こうとか言い出しかねない彼女なので、彼女の世話係を自認している俺も興奮状態のリンゲちゃんを放置しているわけにもいかなそうだ。
――夏休みだからっていうのもあるかもしれないけど、いつにも増して今日はテンションが高いね。台風の前に騒ぎたくなるのって小学生くらいだと思っていたけど。
――しゅん。
――いや、しゅんって文字で打っただけじゃ落ち着いた感ないよ。
どういうわけか、やはり楽しそうにしているリンゲちゃん。一学期が終わり夏休みに入って気分が楽になっていることもあり、おそらく心身両面のエネルギーが無駄に有り余っているのだろう。何か運動して発散しないと満足してくれないのかもしれない。
そう思っていたら、しゅん、と自分で書いただけで精神状態が落ち着いたらしいリンゲちゃんが急に真面目なメッセージを送ってきた。
――あの、最近うじうじしているのって何か原因あります? たとえば人間関係で悩みがあるとか……。
――え?
――具体的なことは言わなくってもいいんです。けど、何か気にしていることがあるなら相談してください。そりゃあ、私、スマホでリアルタイムの文通やってるだけなんで力にはなれないですけど。
――そんなことないよ。そう言ってくれるだけで嬉しい。力になってるよ。
――ということは、やっぱり何かあるんですね。
あるにしてもリンゲちゃんには言わない。
下手にごまかすと気を遣わせてしまうだろうと思い、だったらどう言えばいいだろうかと返事に迷ってスマホから顔をそらせば、ハザードマップで大雨の際の氾濫に気を付けるように書いてあった一級河川のそばを歩いていることに気づいた。
ここ数日ほど断続的に雨が降っていたので、すでに流れは激しい。これからますます激しくなると考えれば、たとえ洪水にならなくても、様子を見に来てうっかり足を滑らせて落ちでもしたら大変だろう。
話を変える意味もあり、心配になって忠告しておく。
――本格的に雨が降り出したら川が一気に増水して危ないかもね。外の様子が気になるからって、リンゲちゃんは下手に出歩かないようにしないと駄目だよ。
――ねえ、塚本さん。もしも私が荒れている川に飛び込みたいって言ったらどうします?
――え? 川に?
いきなりすぎて頭が理解を拒絶した。
飛び込みたい?
荒れている川に?
――たぶん、本当にやろうとしたらダメだって腕を引いてくれますよね。
――そりゃそうだよ。
突拍子もない質問だったので答えるのに時間がかかったが、本来なら考えるまでもないことだ。
だって、それは自殺したいと言っているようなものだから。
川だろうが海だろうが、誰かが死に向かって飛び込もうとする瞬間に立ち会えば見知らぬ相手でも止めようとするし、それがリンゲちゃんなら絶対に止める。
理屈ではない。感情がそう叫ぶ。
――私もそんな気分です。いつだって塚本さんの腕を引いてるんですよ、私。
何かを言おうとして、何も言えなくなった。どんな声で言っているのかもわからない文字だけの情報なのに、スマホ越しに彼女の手の温度が伝わってくるようだ。
口先だけの社交辞令ではなく、リンゲちゃんは俺のことを本気で心配してくれている。
ここ数日の話ではなく、ここ数年、あるいは今後数十年の俺を心配してくれている。
たった一人でスマホを握り締めたまま、あらゆる感情を吐き出すように泣いてしまいたくなる。さすがに我慢するけれど、どうしようもなく涙がにじんでくる。
いつになく元気に振る舞う理由がわかった。空回りするくらい無邪気に騒ぎたがっている彼女の目的がわかった。
おそらく、あの時とは逆のことを彼女なりの方法でやろうとしているのだ。
ひきこもりで不登校だった小学生のリンゲちゃんを励まそうとしていた当時の俺と、同じようなことを。
台風を前にして年甲斐もなく浮かれているなどと勝手に決めつけていた自分が恥ずかしい。
自分の生き方は「不戦勝」なのだと強がって、実際には死にたい寸前の低空飛行で生きている俺の苦悩を見抜かれていたのだ。
あまりに俺が弱いから。
放っておいたら今にも俺が死んでしまいそうだから。
わざとらしく明るく振る舞って、楽しい気分を引き出そうとしてくれている。
――私、台風が怖いんじゃないんです。この嵐で何かがなくなっちゃうんじゃないかって、すごく不安になったんです。でもそれは今回だけのことじゃなくて……。
相槌さえを含めて、まだ俺は何も言えずにいる。
何を言っても情けなさを自覚するだけだ。そして彼女を不安がらせるだけ。
だったら黙っているほうがいい。
――今日これから私たちってスマホ越しとはいえ二人で台風の夜を過ごすじゃないですか。でも、相手を心配して励まそうとしても文字だけじゃ不安なんです。メッセージを送りあうだけなら、それは私のふりをした私でなくたってできちゃうんですから。おばあちゃんにだってできます。
なので、という短い言葉の後で彼女が提案する。
――通話、つなげてみませんか。
――うん。そうだね。
これに俺は子供みたいにうなずくしかなかった。
みっともない。そう思いつつも、一方ではなんだか心が満ち足りた気がした。
実体のない錯覚だろうが構わない。
この世界において、ここに生きている自分が決して一人きりなのではないと信じられる刹那の幸福感が彼女によってもたらされていた。
本当はわかっていた。
その優しさも、強さも、あるいは不安さえも。
リンゲちゃんは俺が死んでしまわないように、いつだって腕を引いていてくれていたのだ。
落ち込みつつも元気で、悩みながらも明るくて、いつも会話をする裏側で俺のことを心配してくれていたのだ。
いつまでも引かれてばかりはいられないな、と思いつつ、いよいよ間近に迫った嵐を肌に感じる俺だった。
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