第5話 究極的なところでは誰にとっての一番にもなれない。

 その後、日常的に雑談を交わすリンゲちゃんほど頻繁ではないけれど、何度か連絡をやり取りするうちに直接会おうという話になって、ちょうど予定のなかった暇な休日に待ち合わせをすることになった。

 相手はもちろん小成さんである。きちんとした自覚もなく大学生のころの恋愛感情を引きずっており、ちょっとしたきっかけがあれば片想いが再燃しそうになっている相手ではあるものの、残念ながら心浮き立つようなデートではない。休日に異性と二人で会うことをデートと呼ぶならデートでいいが、そう単純な話でもなかろう。

 加藤たちと過ごした飲み会の時とは違って、彼女と二人で一緒にする食事はずいぶん落ち着いていて、しっとりとした大人な雰囲気があるといえばあったが、単純に会話が盛り上がらなかっただけだ。

 学生のころも仕事でも、誰かと二人になるといつもこうである。

 なのに慣れることはなく、気まずさに胃を痛めて心を冷たくして、それでも相手をしてくれている目の前の人間に対して申し訳なく思って小さくなりたくなる。


「実は会社を辞めたくて」


 そう言った後で、すかさず付け加える。


「でも辞めたくはないんです」


 何を言ってるんだと自分でも思う。あまりに馬鹿げだ自己矛盾だと思いはするが事実だからごまかしようもない。

 そこまで詳しくなくともスマホでは事前にそれとなく聞いていたからか、みっともない弱音を吐かれた小成さんは俺を見下げるでもなく温かいまなざしで受け入れてくれる。数年ぶりに会って数回程度メッセージを送り合っただけの関係とは思えないほど、ひどいくらいの優しさで。

 そんなだから恋をされてしまうのだ。

 俺みたいな救いようのない人間に、あっさりとすがられてしまう。


「知ったような口は言いたくないんだけど、それってもしかしたら会社にしか居場所がないからじゃないかな?」


 そうかもしれない。そうじゃないかもしれないが強く否定する材料がない。

 大学を卒業してから親元を離れて一人暮らしを始めて、自分で生計を立てていかなければならない社会人となって、悩みを相談できるような友達や恋人を作るようなこともなく、このまま仕事を続けていても出世や昇給が確約されているわけでもなく、かといって今の職場を辞めた後にプランがあるわけでもなく、だからといって本音のところでは死にたいわけでもない。

 本当は生きていたい。

 寿命以外で死ぬのが怖い。

 自分を含めた誰かを憎むでもなく、敵であれ味方であれ誰かを負かさずにすむ不戦勝が無理をせず続けていられる環境で、どうか死ぬまでずっと生きていたい。


「ね、私たちの活動を手伝ってみない?」


「えっと……」


 私たちの活動とは、この前の飲み会で言っていたボランティア活動のことだろう。

 自分たちの仕事を手伝わないかと小成さんに誘われて喜びを覚えると同時に、面倒ごとが増えそうだと反射的にためらって警戒して、けれど一種の救いではないかと魅力的にも思えて、とはいえ普通に生活しているだけでも精神的に余裕がなくなりつつある今の自分には他のことをするキャパシティーなど残っていないとも冷静にわかっていて、だから返答はひとまず迷いをにじませるものとなる。


「あの、まずは見学だけでもいいですか?」


「もちろんだよ。私が案内してあげるね」


 善は急げというわけでもないだろうが、何事においても行動力がある小成さんに引き連れられて、その日のうちに見学させてもらうことになった。

 見学と言っても就職を見据えた本格的な職場体験というものではなく、小成さんたちが働く現場を見て話を聞いて、彼女たちが普段どんなことをしているかを肌で感じる程度だ。


「ここだよ」


 そこは俺の勤める職場からそう遠くはなく、車であれば信号機込みで三十分くらいもあれば行ける街外れで、外観はおしゃれな老人ホームといった感じのひきこもり専門の更生施設だった。行政などの政府機関が関わっているわけではなく、組織の沿革やシステム自体には興味もないのでNPOなのか営利目的の民間業者なのかも俺にはよくわからないが、とにかく本人と保護者の了承を得た後で、同じような状況にあるひきこもりの人たちで集団生活をしながら勉強や職業訓練など、まあいろいろなことをするらしい。

 立ち上げて数年の現在は職員たちはほぼボランティアみたいなもので、きちんと謝礼は出るが小成さんが言うには俺の仕事よりも給料が低いようだ。

 利用者と一緒に住み込みで働いている人もいれば、小成さんのようにたまに来て仕事を手伝う人もいるらしい。どちらかと言えばボランティア活動なので厳格なノルマやシフトがあるわけではないようだが、ひきこもりの社会問題化とともに規模を拡大するとかいう話が出ているので、それに伴ってより本格的な施設に育てたいという。

 大学生のころに社会学を学ぶ一環でひきこもり問題やその対策について調べた知識があって、ついでにサークル活動を通して得た経験などがあるから少しは詳しいけれど、民間のひきこもり支援団体や業者には良質なところと悪質なところがある。

 家族に具体的な説明もなく数百万ほど請求する一方、ひきこもり本人は病人どころか奴隷扱いして、更生施設に押し込める場所もあるという。

 ひきこもりを病気とみなして患者扱いしていいのかどうか、という問題は政府や学者やWHOの定義と国内外の世論によるのでわからない。ここも更生施設というからには一種の疾患扱いではあるかもしれない。

 しかし外側からイメージするほど施設の内側は病院じみているわけでもなく、利用者には思春期の少年少女が多いこともあってか、どこか合宿場みたいな雰囲気があった。

 若くして世をはかなんでいるとか、事件を起こしかねないほど世間を恨んでいるとか、今にも自殺しそうなほど人生を悲観している人というのは少ないとか。もちろん、そこまで追い詰められている人はこういう施設にさえ足を踏み入れることができないものだけど。

 現状ここに入ることができるのは、ひきこもりとされる人の内でも軽い症状の人だけなのだろう。とはいえ、それでも更生や社会復帰は難しい。一度足を踏み外してしまえば、普通の生き方に戻るだけでも大変だ。

 へたくそなりに普通に生きているはずの俺でさえ、今にも倒れそうになることは多いから。

 ふと、学校へ行くようになったリンゲちゃんを思い出す。つらいことを乗り越えて、自分の力で立ち直れた彼女は本当にすごい。

 だけど、そのすごさを無意識に他の誰かにも押し付けようとする自分がいることに気づいて、それが無理解な厳しさを弱者に叩きつける原動力となりかねないことにも気が付かされて、やっぱり俺はこの場にふさわしくないんじゃないかと思えた。

 無駄に自己主張しないから聞き手にふさわしいと思われがちだが、話を聞いているようで、ちゃんと聞いているわけではない。おとなしいから「真面目」とか「優しそう」とか言われることがあっても、それが実際の内面を正当に評価しているわけではないのは多くの人が理解してくれることであろう。

 文句を言わず従順ではあるから数合わせにはちょうどいいだろうが、大事なところでは役に立たない。

 端的に言えばダメな人間。

 不戦勝でなければ誰にも勝てないカス人間。


「私が目をかけている子がいてね、最近入ってきたばかりの男の子なんだけど、親御さんとうまくいっていないみたいで心配なんだ」


「それはいけませんね。心配です」


 もっともらしく同調しておきながら胸がチクリと痛む。小さなころはともかく、思春期に入って反抗期を迎えたくらいから、親とは今もうまくいっていない。ここ数年は事務的な報告以外では会話らしい会話もない状態だ。

 取り立てて悪くもないので心配するほどではないけれど、他人の家族関係に偉そうに意見できる立場では決してないのだ。それでも小成さんが我が事のように心配そうな顔をしているから、同じような顔をせぬわけにもいかなかった。


「ここなんだけど、会っていってくれる?」


「俺なんかが会ってもいいんですか?」


「塚本君だから会ってほしいんだよ」


 そう言われれば断るに断れぬ。頼られたというよりも都合よく利用されている気がしないでもないけれど、たとえ便利な道具扱いに過ぎなくても、必要とされる瞬間があるのは喜ばしい出来事だ。

 人は自分の存在が認められることに幸せを感じる。自己評価も他者からの評価も低すぎる俺の場合、ほんの些細な加点であってもプラス評価は千金に値する。そして後になってむなしさに気づくのだ。

 誰であれ、本当は俺なんかじゃなくて、他の誰かを欲していることを理解してしまうから。究極的なところでは誰にとっての一番にもなれない。いついかなる時も代替物でしかない。

 もっとうまくやれる奴がいる。俺自身の人生さえ。

 小成さんがドアをノックして、ややくぐもっているが部屋の中から返事があったことを確認して開けた。

 入所したばかりの彼が暮らしている部屋は病室というよりもホテルのように小奇麗な一人部屋で、シーツがくしゃくしゃになったベッドに腰かけて待っていたのは高校生くらいの少年だった。

 髪は短く、体格は中肉中背。病的な印象はない。


「誰ですか?」


 当然のことながら歓迎されている気配はなかった。

 俺が逆の立場でもそうなので、これは早く警戒を解いたほうがいい。


「俺は……」


 が、説明しようとして言葉に詰まった。

 果たして俺は何だろう。どこの誰で、どうしてここにいるのだろう。

 追い抜くように横から出てきた小成さんが沈黙を共有する俺と彼の間で仲立ちをしてくれる。


「この人は塚本君だよ。もしかしたら今後ここで働いてくれるかもしれなくってね、今日は見学に来てくれたから、君にも挨拶しておこうと思って。邪魔だったかな、芹村せりむら君」


「いえ、別に」


 機嫌が悪いわけではないようだが、それきり興味をなくしたみたいに俺から顔をそらした。


「芹村君だっけ、ごめんね? 今日は見学させてもらっていて……」


 あまり圧をかけないよう控えめに声をかけてみたけれど、これでいいのかよくわからない。

 自分よりずっと年下の少年にしゃべりかけるのは、大人になってからほとんど初めての経験だ。

 大学生のころはまだ自分も大人ではなく若者の一員という気持ちが強かったので小中学生とも無理なく接することができたし、大人になった今も付き合いを続けているリンゲちゃんはちょっと普通とは違う感じがするから、あまり若者相手の参考にはならない。

 知らない大人に対しては誰であれそうするであろうという仕草で、ぎこちないお辞儀をする芹村君が自信なさげに顔を上げる。


「高校に行けなくなって家にいたら、どこで見つけてきたのか『ここでまともな人間になれ』って親に押し込められたんですよ。こっちは頼んでもいないのに。ひどくないですか?」


「ひどくはないよ。心配しているんだよ」


 たまらず小成さんが割って入って言い聞かせる。確かに小成さんなら自分の子供が手の付けられない不良になっても最後まで変わらずに愛して心配するだろう。けれど世の中の親が皆、彼女と同じように最後まで愛一辺倒で子供に接するわけではない。見捨てるのは極端なケースだとしても、誰かにゆだねたくなって世話を任せることもある。

 是非はともかく、こういった施設はそういう人にとっての駆け込み寺としても機能する。

 必要か不必要かの極端な二元論で結論は出さず、まあ存在したほうがいいだろうと思って小成さんたちの努力に敬服する。世間が冷たければ冷たいほど、それを熱意で跳ね返す優しい人の存在は弱者にとって救いだ。

 弱者を救いたいあまりに世間を敵視して戦争を始めるようになると、かえって偏見や冷たさを助長するのでやめてほしいけれど、弱者ではない普通の人たちの抱えている弱さも理解する小成さんは己の正しさを社会に押し付けるような人ではない。

 自分の考えに賛同しない人間たちもまとめて敵対者に仕立て上げて戦うのではなく、否定されながらも人知れず支えようと頑張る人だ。


「……ですが、最初は不満だったけど今では気が楽になった気がします。いつもうるさい親から逃げられたので」


 ここは青少年の理解者ぶって、うんうんとうなずいておく。


「なるほど、親から逃げてきたのか」


 それなら理解できる。親から逃げたいというのは不思議な感情ではなく、反抗期や思春期にはありがちな感情で、まず俺がそうだった。十代のころは親との間に精神的な距離があって、嫌いというわけではなく、あまり深くかかわっていたくなかった。

 すぐにでも家を出て自立したいと強烈に願うわけでもなく、干渉されたくなかっただけかもしれないけれど、それを世間一般で言う反抗期と呼んでしまうには、なんだか申し訳ない気もする。普通の人は大人になろうとして親や世間に反抗するが、俺の場合は単純に幼稚だったから反抗的だっただけなのだ。そのくせ口や行動では表立って反論もできないから、もやもやと精神を曇らせるばかり。

 不満を募らせながらも従順なふりをする以前までに比べれば、少なくとも不満をそらして精神を強く持とうとする不戦勝な生き方は対処療法的に正しいのかもしれない。言い訳がましくて自己弁護しているように聞こえるが、不戦勝とはそういうものだ。

 喧嘩するくらいなら避ける。挑発されても、やり過ごす。

 戦うのは強い奴と面倒ごとが好きな奴が勝手にやってくれ。ただし決して周囲を巻き込まずに、可能ならつぶし合って消えてくれ。

 しかしどうやら俺が想像している事情とは少し異なるらしい。

 芹村君は気まずそうに目をそらした。


「うちの親、なんでもすぐネットに上げたがるので」


「なんでもすぐネットに上げたがるって、親が?」


「はい。SNSやってるので」


「ははあ、なるほど」


 つい疑問に思って聞き返したが、そんな時代か。スマホやパソコンに若者が依存するのではなく、むしろ大人世代の親が子供たちよりも積極的にネットを利用する。ここまで大規模にネットが普及して何年も経つから、ある種の私生活をさらけ出すためにネットを活用する親が昔も存在しなかったわけではないにせよ、今は確かに時代が開けた。

 俺が小学生のころも本人が嫌がっているのにビデオカメラや携帯電話で写真や動画を残したがる親というのはいたけれど、今ではそれに加えてネットに公開してしまう親もいるのかもしれない。実名アカウントで不特定多数に堂々とプライベートを公開するのは依然として少数派だろうが、知り合いの間だけで写真や動画を共有するというのは普通にあり得る。

 自分の親が撮影した体育祭や文化祭の映像が保護者の間で共有されているとか、それが原因でクラスメイトにも見られていたとか、しかもそれが恥ずかしい瞬間だったとか、そういうことまで想像すると他人事ながら恐ろしい。

 度を越したキラキラネームなどもそうで、子供のためと好きでやってる親にとってはいいのかもしれないが、親を選べぬ子供にとってはつらいものもあるのだろう。俺などは親に迷惑をかけてきた側の人間なので偉そうなことは何一つ言えないけれど、自分だったらと想像するだに同情せずにはいられないような話はよく聞いた。

 無論、それを好意的に受け入れる子供たちもいるだろうから、すべてを画一化して批判するのは勇み足だけれど。子供の発表会をネットに公開して喜ぶ子供もいる。

 思い込みや偏見から口にする浅慮な批判は、間違ったことを正しいこととして押し付けるのと本質的には同じである。

 なので適当なことは言わずに彼の話を聞く。


「SNSをやっていると言っても匿名なんです。一応は誰かわからないように匿名なんですけど、だからこそ見栄を張って仮面をかぶって大きなことを書いたりするので、子供としては恥ずかしいんです」


 もっとも、実際にそういう親を持つ一人である芹村君の場合は否定的な立場らしい。彼が十代の少年における標準タイプとは限らないので下手に同調するのもどうだろうかと思いつつ、やっぱりそれはそうだろうなと個人的には共感してしまう。

 たとえば普段は娘や息子の話をしながら一方では社会問題に上から目線で物申す中高年のネットユーザーがいるけれど、自分が十代の子供だとして、自分の親がネットで偉そうな態度で世間に噛みついていたとしたら、おぞましくて反抗期どころの話じゃない。

 小学生のころは自分の親が授業参観に来て目立つだけでも嫌だったのに、ネットで悪目立ちする親はきつい。しかも自分が正しいと思って見知らぬ他人にマウントをとって、意見の違う人たちに論破を挑んでいるとか、すぐにでも家を出て縁を切りたくなるレベルだ。クラスの友達に「お前の母ちゃんネットですごいね」とか言われたら死にたくなる。

 というか、あることないこと赤裸々に書かれた普通の日記でも見つけたらきついのに、プライベートな記録や思考が本人の言葉で駄々洩れになっている親のSNSが残るのは地獄でしかなく、それが家族以外の誰にでも見られてしまうというのは今の時代の新しい問題かもしれない。せめて自分の親が良識のあるネットの使い方をしてくれることを期待するしかないではないか。

 幸い、うちの場合は両親ともにネットは軽くしか触れていない様子なので安心だ。仕事以外で使うとすれば調べ物や通販くらいだろう。もしSNSやらブログやらをやっていたら俺のことをダメ息子として全世界に紹介していたかもしれないと考えると、これからもネットとは適切な距離を保っていてほしくなる。


「自分の手柄みたいによくできた架空の息子をネットに打ち上げて、自分のしゃべりたいことを腹話術させてるんです。実際の僕はそんなんじゃないので、やめてほしいんですけど」


 どこまで深刻な悩みなのかわからないので適当なことも言えない。

 とはいえ、これでも大学生のころは支援サークルで悩める中高生を相手に相談に乗ってきた経験がある。専門の教育を受けてきたプロのカウンセラーではないにせよ、ここは的確な助言で彼の力になってあげたいところだ。


「少なくとも自分のことを書くのはやめてほしいって言ってみたらいいんじゃないかな。そういうのを仕事でやっているんじゃなければ、息子のためを思ってネットに書き込むのを控えてくれるようになるかもしれないよ」


「何度か言ってみたことはあるんですけどね。効果はないです」


「そっか。まあ、難しい問題だと思うよ」


 引き出しが少ないのでアドバイスは尽きた。こういう問題は家庭内の問題でもあり、第三者が一般論を口にして解決するほど簡単なものではない。

 ネットそれ自体が悪ではない。ネットを利用するときに悪を通過させてしまうのだ。彼の両親が人としてまともであるなら、急いでネットをやめさせる必要もない。

 そんなことを言って気休めにしてもらった。この程度で気持ちが休まるなら最初から悩んでもいないだろうけど。

 考え込んでしまった芹村君が黙ってしまったので、代わりでもないだろうが小成さんが口を開く。


「塚本君はそういうのやってる?」


「俺は会社の同僚なんかとメールやメッセージアプリでやり取りするくらいですね。SNSとか動画サイトとか、ネットは基本的に見るだけで」


 昔ならともかく、不戦勝を心得た今は誰かに何かを主張しようとも思えない。

 親しくなれそうもない相手と積極的に交流したいとも思えず、熱量や空気感が合わないネットのコミュニティとは完全に一線を引いてしまっている。

 現実的には、すでに社会そのものと距離を置いている感じだが。


「そうだ。塚本君と連絡先を交換したらいいんじゃない?」


 小成さんがいいことを思いついたように俺の顔を見た。

 彼女の視線に誘導されるように芹村君も俺を見る。


「いいんですか?」


「えっと……」


 期待されているのか社交辞令なのかよくわからない。こうした小さな状況判断でいちいち戸惑ってしまうので、何をするにも反応がもたつく。よどみないコミュニケーションをするなど夢のまた夢で、子供のころから変わらず今も人間関係が致命的に下手だ。

 自分より年下の男子高校生が相手でさえ、イエスかノーの簡単な返事をするのに二の足を踏んでしまう。

 まさか友達として求められているのではあるまい。

 相手の言葉の裏を読み、勝手に察して、一方的に決めつけて、すべてが面倒くさくなって断ろうと思った。

 だが、人間の善性を信じているような小成さんの笑顔が視界の隅に入って思いとどまる。

 若い世代の彼らが日常的に行っているコミュニケーションは必ずしも損得勘定じゃないんだ。特に深い意味もなく、そうするようになった話の流れで聞いてくれている。

 興味があるからとも限らず、縁を切っておきたいほどには嫌いな相手ではないから、念のためつながりを持っておく。

 何事にも理屈を求めたがる大人の大好きな社会の原理に引きずられていた。

 ネット時代の人のつながりは重いようで軽く、永遠のようで刹那的だ。そして気が付けば染まっている。

 案外、自由化された人間というのは本来そういうものかもしれない。


「俺でよければ」


 何でも相談に乗るよ。そう付け加えることも忘れない。

 頼りないと思えるような弱い紐帯ちゅうたいこそ、時には強く人を引っ張る。いつもそばにいる相手とは違って、見栄を張らずに済むから。

 それで話が終わりかと思えば、スマホの連絡先を教え合ったところで芹村君が肩の力を抜いた。


「で、今日はどういう用事で来たんでしたっけ。塚本さんも入所するんですか?」


「ちょっと芹村君、そうじゃないって言ったよね」


「ははは……」


 笑いながら言っているので彼なりの冗談だと受け取った小成さんは芹村君に苦言を呈すが、俺は笑うに笑えなかった。

 同類は同類を察する能力に長けているのか、一目で見抜かれてしまったらしい。

 逃げ場所を探していることが。いや、現実はもっと醜い。

 不戦勝の対象を彼らに見ようとしていることが。

 ここにはいられないな、と、自分を殺したいくらいに痛感した。

 結局、死にたくもないくせに。

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