第2話 常時おとなしく生きてきた。
振り返れば高校時代から可もなく不可もなく、無駄に物事を荒立てぬよう、常時おとなしく生きてきた。ところがその実体は友達おらず恋人おらず、成績も全般的に中の上を精一杯に追いかけているばかりで、なんとか一浪もせずに地元の国立大学に合格できて胸をなでおろすような人生だった。
人に聞かせられるほどの夢や目標なんて一つもなく、数年先も数十年先もあやふや、将来のことなど一度も真剣に考えたことはない。かといって打ち込めるほどの現在もないし、幸せな気分で郷愁に浸れるような過去も記憶もない。
じゃあなんで生きているんだろう? などと早くも小学生のころから哲学的難題に向き合うような自分であったが、そんなに頭もよくないし凝り性でもなかったので、どんな疑問に対しても最後には「ま、いっか」という結論で思考を停止させてきた。
せめてもの楽しみと言えばマンガにアニメにゲームに小説、たまに食べる百円のクリームパンくらいなもので、動物が好きなのに動物に嫌われるタイプの俺はいまいち「今が青春だ!」という思春期特有の浮ついた実感を抱けなかった。どうせ勝てぬ現実、ならばとて俺は浴びるように空想や妄想の世界、語弊があるならフィクションと言い換えてもいいが、そういうものへと逃げるように没頭していた。
単純に言えば、周囲からはアニメとかが好きなオタクと思われがちな俺だった。
幸いにも時代が時代で、特に若い世代の間ではオタクに対する理解も広がっていたため出会い頭に「おい、あいつオタクだぞ!」とか学校で馬鹿にされることは少なかった。もちろんオタクだからといって歓迎されることもあまりなかったが、そもそも友達も少なく他人との交流が片手で数えるほどしかなかったこともあり、あれ一体俺はどう扱われていたんだろうと今さらになって気づく。
気が付いたついでに思い出したけれど、卒業してから小中高と同窓会の誘いはまだ一度もない。なんてシャイな我がクラス。俺もシャイなので誘われたって絶対行かない。
そんな調子だから大学に行っても能天気にキャンパスライフをエンジョイするなんて絶対に無理だろうなと、最初からあきらめ半分でスタートした。
結果、ものの見事にそうなった。
なんとなく興味のあった文学部の社会学科に進んで、それなりの目的意識を持って講義に挑んだが、専門的な知識を駆使して小難しいことばかりを語る教授の話は勉強になる一方で、熱心にノートを取りつつ俺は些細な違和感に首を傾げた。
おかしい、真面目に頑張る俺が浮いている気がする。
周りの学友や先輩たちの多くが勉学など二の次あるいは三の次で、就職活動、サークル、バイトに飲み会と、同じ大学に在籍していながらも遠く離れた別の世界に拠点を置いているようだった。
この流れに取り残されてはいかぬと俺も慌ててサークルに入ったはよかったものの、選んだサークルがまずかった。趣味が高じて門をたたいたのはサブカル系のサークルだったが、これが全くオタクでない。趣味も価値観も合わず、居場所がなくなって数日でやめて涙をのんだ。
やってみようと思ったバイトは面接で落とされ、真面目に受けている講義では俺の隣だけいつも空席になっていた。
みじめなものだ。
にじみ出る浪人じみた哀れさが、大人になる前に与えられたモラトリアム期間を精一杯に満喫する学生が多い大学の中では、逆に目立って人を引き付けたのかもしれぬ。一人いつもの安い学食ライフに奨学金と仕送りをやりくりしていると、ある日いきなり声をかけられた。
しかも相手はおしゃれなファッションに身を包んだ背の高い黒髪ロングの女子大生だ。
さわやかな笑顔を浮かべる彼女に「ちょっと私としゃべらない?」みたいなことを言われたら断る理由もなく、食事もそこそこに舞い上がって彼女についていくと、案内されたのは新築アパートの家賃が高そうな一室で、そこには男女数人が待ち構えていて俺を取り囲んだ。
あっさり逃げ道をふさがれた状態で事情を聞けば彼らの正体は政経討論サークルで、国内外の政治や経済のニュースについて討論するサークルらしい。すでに廃れた学生運動やらカルト臭にも似た怪しさはあったけれど、当時の俺は一人でいるのが寂しかったし退屈だったし、なにより男子三人に女子八名のややハーレム状態だ。
虎穴に入らずんばとの思いでサークルの一員となることを決意した。
「期待の新人だから優しくしないとね」
そう言って特に目をかけてくれたのは、最初に俺を誘ってくれた女子大生の浅川さんである。そんなに集めて何に使っているのか、サークルの部費は月に四千円で、しかも毎月開催される合宿では追加の一万円を徴収されるため金欠に苦しんだけれど、普段から話し相手になってくれる浅川さんのおかげでサークルを辞めたくなかった俺は食費と雑費をことごとく切り詰めることで生き延びた。
気難しいのと我が強いのと寡黙なので、いけ好かない男子学生の三人とは結局最後まで仲良くなれなかった。
浅川さんを除く残り七人の女性の中では、性格が穏やかで人当たりのいい
とにかく大学一年目の俺はこうして人生で最もうまくいっているバラ色生活を謳歌した。
二年目、しかし俺は敵が多かった。
なにしろ加入したサークルは政治と経済について語り合う上昇志向のそれである。浅い知識の俺が偏見に基づいてしゃべればしゃべるほど議論は止まって停滞し、論理的にも感情的にも反感を持って迎えられるようになっていた。
このころ始めたバイトでも失敗ばかりで上司や同僚とのコミュニケーションもうまくいかず、三か月程度でやんわりと辞めるようにプレッシャーをかけられて、その通りにした。学生の本分たる学業でも入学当初のころにあった熱意や集中力は失われ、ぎりぎりの成績を低空飛行で乗り越えるようになった。
なんだかうまくいかない。だけど俺には依然として浅川さんに小成さんという心強い味方がいた。そう思って得意げにサークルに顔を出し続けていたが、まず小成さんにサークルとは別に大事な用事ができたらしく、ほとんど顔を見なくなった。
いや大丈夫、それでも俺には頼りの浅川さんがいる。
でも彼女も結果的には俺の前を去ることとなる。
それはサークルが部室として使っていたアパートの一室で、たまたま彼女と二人きりになった夕暮れ時のことだ。先日のサークルで議題になった少子高齢化の問題や晩婚化などについて雑談交じりに彼女と語っていると、話の流れで俺の趣味に関する話題になった。そのころの俺は相も変わらずオタク趣味を愛するインドア青年であり、現実の恋を求めずにアニメやゲームに出てくる女の子相手に夢中になっているのは不健全ではないかと彼女に諭されたのである。
「君のような若者が増えてるから少子化がますます進んでるんじゃない?」
そして結論はこうだ。
「いい機会だと思ってオタク辞めたら? もうすぐ社会に出て大人になるんだから現実を直視しなきゃダメだよ」
これについての反論はたくさん思い浮かぶものの、それはそれとして彼女が言いたいことはわかる。ネットやメディアによるオタク批判はこれまでに何度も受けてきた経験があるから、オタクの抱えている様々な問題について、当事者である俺も全く理解できないわけでもない。
ただし昔からそう生きてきた俺にとって、数少ない趣味を捨てろというのはアイデンティティの否定につながる脅迫にも等しい。生産性がないからと同性愛者を差別するようなものだ。あるいは独身者に結婚を押し付けるような前時代的ハラスメントではないか。
売り言葉に買い言葉、むきになって反論すると彼女とは初めての口論になった。
そしたら出るわ出るわ彼女の口から俺に対する不満、苛立ち、嫌いな部分や罵詈雑言!
ここぞとばかりに吐き出される、ため込んだストレス!
「たとえば無人島に一つだけ何を持っていくかって話。それくらい人生で一番大切なものは何? って聞いてるの。知識をひけらかす妄想話とかサバイバル術とか、詳しい島の地形や植生がわからないと答えられないなぁとか、そういうことじゃないの」
これまで彼女がどれほど我慢してくれていたのか、気を遣ってくれていたのか、いつも自分のことばかりで意識していなかった俺は呆然と受け止めるしかなかった。
「事あるごとにあなたの偏見に満ちた政治批判や社会批判を延々と聞かされる身にもなって? 勝ち誇るときは相手を人格ごと含めて馬鹿にして、負けそうになれば捨て台詞を残して議論にならないと相手のせいにする。知ってる? あなたは話を聞かないの。できていないのよ、あなたって」
いや、さすがにそれは言いすぎじゃないか。そりゃコミュニケーションが不得手だった俺にも反省すべき点がたくさんあるのは認めるけれど、何もここまで
自己弁護じみた反論を試みると、それが彼女の逆鱗に触れたらしい。
「あんたなんか誰も好きになんねぇよ!」
ほれぼれするほどの捨て台詞を残して飛び出していった浅川さんを追いかけることもせず、結果として彼女の顔から善意の仮面を引きはがしてしまった俺は部屋に残って遅すぎる涙をこぼす。次からのサークルには浅川さんが出てこなくなっていて、スマホの連絡先も変えられてしまったのか一切つながらず、学部も違うので避けられるようになると大学で見かけることもなくなった。
一人になった俺はサークルで当然のように孤立して、毎月の部費も無駄だしモチベーションもなくなったので速攻で辞めた。
やったぜ、これで自由になったじゃん! などと無理に強がることは、もはや自分の心さえ騙せない無力な嘘だ。
このまま大学生活も終わりだ。人生もそうして終わるのだ。
失意に満ちた俺は人生のどん底気分に希望の扉を閉ざしつつあった。
そんな折、俺に一つの連絡が入った。
同じサークルだった小成さんである。
「やっほー。久し振りだけど今から会えない?」
「あ、はい。いいですよ」
「ほんとに? 今からだよ?」
「はい」
今からであっても人生のスケジュール帳が空欄ばかりの俺に断る理由はなく、はいはいうなずいていたら状況に流されるように会うことになった。
スマホに連絡があってから一時間後、ランチタイムなせいもあって多数の学生でごった返す学食の中ではなく、すぐ外にある殺風景な広場のベンチで彼女と待ち合わせ。
それは二年も終わりのころ、二月とか三月とか寒い季節だった気がする。
吐く息は白く、手は冷たかった。
「サークル辞めたんだってね? いなくなってたから驚いちゃったよ」
会って早々に答えにくい質問だったが、無反応でいるわけにもいかず俺は詳細を説明せずにうなずいた。まさか浅川さんと喧嘩別れして、サークルに居場所がなくなって逃げ出したとか言えるわけがない。
すでに自信もプライドも修正不能なほどにズタボロだったが、優しい彼女の前で張りたい見栄くらいは残っていた。
「そんな君にお勧めのサークルがあるんだけど、どうかな? 今さ、ちょっと手伝ってくれる人を探しててね。実は誘いに来たんだ」
「小成さんもそのサークルに?」
「うん。なにしろ私が今のサークル長なんだよ」
えへんと胸を張った小成さんはクラス委員長になったばかりの小学生にも見えたが、肩ひじを張っていないところが逆に頼もしい。責任感もなく威張るだけの人間がリーダーを務めていたら楽しい活動も地獄に変わるが、こんな人に優しく導かれるなら、サークルの活動内容が何であれ耐えられる気がした。
ちょうど自分が別人として生まれ変われるような新天地を探していることもある。
……というより、実を言えば俺は初めて会った時から小成さんに恋をしていたのだ。感謝しつつも若干の苦手意識が付きまとう程度には大人びていた浅川さんとは違い、どこか幼さの残る彼女に俺は無理をしないで済む居心地の良さを感じていたのである。
そんなわけで会話もそこそこに舞い上がって彼女についていくと、案内されたのは地区の公民館らしき古びた建物で、そこには男女数人が待ち構えていて俺を取り囲んだ。
あっさりと逃げ道をふさがれた状態で事情を聞けば彼らの正体はひきこもり支援サークルで、小学生から高校生までのひきこもりや不登校児を支援するサークルらしい。
その名も「ハネやすめ」だ。
すでに廃れた学生運動やらカルト臭といった怪しさはなかったけれど、黙って話を聞いていると、なんでもボランティア活動を通じて社会貢献しようと結成されたサークルらしい。目的意識を高く持った彼女たちの活動を批判こそしないが、積極的に肩を組みに行けるかというと難しく、自主的に慈善活動をするサークルの学生たちと仲良くなれる気がしなかった。
どうせ役にも立てないとなれば俺には参加する意味がない気がしたものの、されど渡りに船との思いでサークルの一員となることを決意した。
わずかな可能性であれ、人間的に変われるチャンスを逃してはならない気がしたのだ。
それに、あわよくば小成さんと恋仲になれるではないか。
「ともかく、これからよろしくお願いします!」
なんて元気よく挨拶して始まった新しいサークル活動。
さて、一口に支援すると言っても何をどう支援するのやら。疑問に思って聞けば家庭教師のように勉強を教えたり、カウンセラーのように相談に乗ったり、あるいは友達のように遊び相手になったりと、これがまあ、意外にハードワークだがやりがいもあって楽しかった。活動の目的は堅苦しく「支援」などと銘打ってはいるけれど、個人的には彼らを支援している感覚はなく、もっと的確な言葉を選べば「交流」である。
とはいえ相手はひきこもりの少年少女、こちらにも柔軟な対応力が求められるに違いない。
けれど、これについては一家言あった。
なにしろ俺は小学生のころに数か月ほど不登校だった時期のある引きこもり経験者なのだ。あまりに昔のことで自分からは積極的に口外しておらず、二年間も所属していた政経討論サークルでも黙っていた事実だが、あるいは小成さんは俺の日々の言動からそれを鋭く見抜いて誘ってくれたのかもしれぬ。
実のところ、昔は俺も不登校だったから同じく不登校している子供たちの気持ちがわかるぜ、みたいな感じで接したせいでコミュニケーションに失敗して申し訳なく思ったこともある。だけど少なくなく俺に親近感を持ってくれる相手も存在して、なんだかんだとサークル内における俺の評価は政経討論やってた時代とは比べるべくもないほど高かった。
このサークルではさらに、どこにでもいるような普遍的性格の鈴木や佐藤といった男子学生や、どこかで会ったような平均的な顔をしている加藤や高橋という男子学生とも知り合って親しくなった。慈善事業じみたサークルに参加しているからには奉仕精神にあふれる意識の高い若者であろうし、自堕落な生活やったぜ万歳な俺とは馬が合うわけがないと身構えていたのも最初だけの話で、彼らは人並みにバカもやるし人一倍に気も利く人間だったので、友達の少ない俺を仲間はずれにはしなかった。
ただし、そこには一つ条件があった。
周りに違和感なく溶け込むためには、まず俺が「自分らしさを発揮してはならぬ」という条件だ。
様々な理由で不登校に悩んでいるたくさんの少年少女を見て、その助けになろうと粉骨砕身するサークルの仲間たちを見て、これまで熱心さに欠けていた俺は自分のちっぽけさというものを見つめ直した。
高校生のころまでは空気みたいな存在感しかないオタクだった俺。そのくせ中途半端に大学デビューを果たして調子に乗っていた俺から飛び出す数々の痛々しい言動を、ことあるごとに補填してサポートしてくれていたのが優しい浅川さんだったのだ。そのありがたさが、さりげなく相槌を打ってくれるような彼女がいなくなって初めてよくわかった。面倒見の良い彼女は俺が孤立しないように普段から善処してくれていたのだ。
それを知らず、当たり前のものと勘違いして、いつも一人で盛り上がっていた自分の滑稽さが急に恥ずかしくなった。あんなに懐の深い彼女を激怒させた自分が救いようのない馬鹿だと思えた。
だから自分らしさを抑えて生きれば、なんでもうまくいった。
余計なことは言わず、感情を殺して、考えを表に出さず、その場に合った振る舞いだけを心掛ける。求められるまでは前に出ない。戦わない。やはりこれが俺に向いている生き方なのだ。
敵を作らないように顔色を窺って、誰が相手でも腰を低くする。
対立する前に身を引く。
そうすることで男子だけでなく女子ともうまくやっていけた。仲間になれた。
しかし結局は誰とでも友達止まりで、心の底から信頼し合えるような親友にはなれず、サークルの誰とも最後まで趣味や意見は合わなかった。ちょっとした思想や価値観の違いがあっても俺は愛想笑いで、楽しくないときにも楽しそうなふりをして、自分がやりたいと思うことよりも人にそうするように言われたことを選ぶようになって、それらたくさんの”自分らしさ”を一つ一つ丁寧に隠していくことに胸が痛んだ。
大学も四年目を迎えて、いよいよ人生のサイコロは振り終えた感があった。
馬鹿みたいに苦戦する俺とは違って何をするにも要領のいい彼らはすぐに条件のいい内定を決めてくるし、サークル以外にも友達がたくさんいて、自分を愛してくれる交際相手もいて、おまけに成績もいい。あげく俺みたいな浮かない奴にも笑顔をくれて、なんでもそつなくこなす真人間だ。
そうでない俺とは出来が違う。根本からして作りが違う。
一緒にいればいるほど、安心と不安の嫉妬的アンビバレンスに俺はますます自分が小さくなるような思いをした。
いよいよ卒業が迫ったころ、人生の節目を前にして、いつも優しくしてくれる小成さんに恋心だけでない恩を感じていた俺は勇気を出して告白した。
「ごめんね。今の私じゃあさ、どうしたって君を彼氏には思えないんだ」
気を遣われているのか、どもりながらも彼女に対する好意を告げた俺を傷つけないようにと、寂しそうに笑って断られた。
玉砕。
それを最後に彼女とは会っていない。どんなに優しくされても、どれほど親しい仲になれたと信じても、こちらが勘違いすれば関係は途絶える。そんな当たり前のことをようやく思い知って、俺は精神的に一人になって大学を卒業した。
就活はうまくいかず、父の紹介で地元の小さな会社に入った。
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