不戦勝

一天草莽

第1話 だけど絶対死にたくない。

 仕事が終わって午後八時。

 いつになく軽い足取りでアパートの部屋に入った瞬間、狭い室内をぐるぐる回って一人ぼっちの舞踏会。名前も知らない隣の住人に「うるさい、黙れ!」なんて怒鳴り込まれても困るので、声も出さずに足音殺して、腕だけダンスの大はしゃぎ。

 何を隠そう今日こそは、まだかまだかと待ちに待たされた給料日。

 暴言パワハラなんのその、この日のために耐えてきた。

 欲求不満にストレスも、給与があればさようなら。

 あれが欲しい、これが欲しい、この前買わずにおいたのなんだったっけ。

 はやる気持ちと緩みそうになる口元を左手で抑えて、年端も行かぬ少年のように振り回したくなる右手は喜びに震えてカバンを握りしめている。

 よーし、今日は自分にご褒美でちょっとした豪遊だ!

 いざネットショッピング!


「……ん?」


 という浮かれ気分だったが、一気に冷めた。

 ペラペラの給与明細を片手に心が沈む。

 なんだこれ低賃金だと手取りは低い。残業帰りに狭苦しい部屋で寝て過ごすだけでも家賃は五万、毎月きっちり五十歳まで返済しなくちゃ奨学金、暖房・冷房どっちを使ってもぞっとする光熱費、上りも下りも通信速度が遅いわりに安くならないスマホやネットの通信費、あれこれ税金、健康・災害・各種保険と受信してしまったN○K、料理もできぬと外食・宅配・弁当ばかりで食費はかかる、同僚・上司に誘われ飲み会、つまらぬとはいえ交際費、分割払いのスマホだテレビだパソコンだ、信じちゃいないが国民年金、せめての備えと貯金も毎月、仕事や趣味もただではできぬ、やれ服に家具に小物に家電に冠婚葬祭、親や自分が病気で予定になかった急な出費にと……。

 おい!

 自由に使えるお金、おい!

 どこいった俺の大事な可処分所得おーい!

 けれど悲しいかな、取るに足らない零細消費者の俺ってやつは、無邪気な子供の鼻息一つで吹き飛ぶ少ないお金で毎日生きる。

 暇つぶしに始めたスマホのゲームに課金して、つまらぬ射幸心を煽るだけ煽られ取られる一万円! 歩けば疲れる、交通機関じゃ運賃取られる! 車がいるなら免許に保険に税金に、忘れちゃならないガソリン代! なんでも値上げは家計に響く、お値段据え置き、なのに前より減ってる内容量! 夢は大事だ宝くじ、偽善に走って千円ちょっとの寄付義援、わけもわからぬ町内会費!

 最近の若者が結婚しなくなってるのは給料が少なくて経済力がないからだ、とか偉そうに語る識者は世間に多いが、いや相手がいるならしたいよ結婚! 金よりないのは出会いだよ! 他のやつらは正直知らんが、貧乏だから一人はきつい! 優しく相手をしてくれるなら男性でも女性でも誰だっていいから、いっそシェアハウス感覚で楽しく同棲できたらどんなにいいか。

 なにより大事だ金銭面より精神面! くたびれて暗い部屋に帰ってくるときのむなしさったらない。意外に美味だとスーパーよりも割高なコンビニ弁当で毎日をすませている自分がこれでいいのか悪いのか、たまる電子マネーのポイント、たまらぬ心のぬくもり!

 つけたテレビは空虚に響く、ネットの世界はどこもかしこもエゴだらけ。

 人生に幸せってどこ! 夢よ希望よ戻ってこーい!


「はぁ……」


 考えるだけ考えて疲れたので、着替えもそこそこにベッドへと横になる。

 仰向けのまま寝るでもなく目を開けて、じっと天井を見つめること一時間。睡眠不足だが眠気はない。しっかり眠らないと翌日までに体力は回復しないが、誰にも邪魔されず一人で家にいられる貴重な自由時間を一分たりとも無駄にしたくない。

 でも趣味って何だっけ。生きがいとは。

 仕事はやめたい、お金は足りない、実家に帰ってニートになりたい、でも、それは……。

 うだうだと考え事をしていたら時間はどんどん削られていく。一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、もう明日の出勤時間がプレッシャーとなって迫りくる。強烈な吐き気がして頭痛がして、なのに会社を休めるほどの病気にはなれない。小心者だから大胆な行動なんてできず、退職や転職なんて踏み切れない。

 死にたい、死にたい、死にたい、死にたい。

 だけど絶対死にたくない。

 恐怖と不安と情けなさに、ぽろぽろと小粒の涙がこぼれた。

 めんどくさくなって指でぬぐった。

 どうせ明日もまた何か失敗して怒られるのだ。誰も何も言わないが静かに幻滅されるのだ。歩きスマホのサラリーマンにぶつかりそうになって舌打ちを食らい、こっちが避けたのにお年寄りには怒鳴られ、散歩中の犬には吠えられる。なでようと近寄れば野良猫には逃げられるし、何か面白い情報がないかと思って軽い気持ちでネットを覗けば、どこの誰のものとも知れない怒りや嘲笑ばかりが目に付いてやりきれない。

 ……はぁ、生きるって大変だな。

 一年ごとに一つずつ年を取るたびに幸せってすり減っていく。子供のころにため込んだ夢や希望をすさまじい速度で切り崩して、やっと耐えていく。

 心を殺そう。

 高望みをやめて、叫びたくなる自意識を黙らせて、なにもかもに流されて余生を過ごすのだ。

 戦わずして生きる。社会的には弱者であり最下層であっても構わない。同年代の他人と比べて負けていてもいい。

 ステータスがなんだ。生きてさえいれば勝ちなのだ。

 自分らしくとは行かずとも、せめてもの命を守る。

 不戦勝。いつしかそれが俺の口癖になった。

 たとえ誰かに何かを言われても、こちらからは自己主張しない。何かが欲しくなっても、こちらからは取りに行かない。

 そんなんで生きてて楽しい? 楽しくはないさ。だけど無難だ。壊れずに生きていられる。せめてもの自尊心が、弱り切った魂を支えていてくれる。

 なんで頑張らないの? 知らねぇよ。これが俺の精一杯なんだからしょうがないだろ。そう思ってはいても決して言い返せない。元気な人間たちによる反撃が怖いから。普通に生きていられる人たちに馬鹿にされるのが、みじめに思えるから。

 黙るしかない、黙るしか。ふてくされても得をしない。

 ふとチカチカするものが目に入ったので、横になったままテーブルの上に手を伸ばす。届かなくて、ベッドから半身がだらりと落ちる。地味に響いてくる痛みにうなりつつも這いつくばって、帰宅してから捨てるように放置していたスマホを手にする。腹ばいのまま腕だけ使ってスリープモードを解除してみれば、通知が伝える誰かからのメッセージ。

 無視すべきか本気で悩んだ。もしこれが会社からの無慈悲な連絡であるなら、今すぐスマホをたたき割ってトイレに駆け込みたい。なぜ人間はスマホなんて開発したんだ。どこまでも伸びる鎖を。

 届いていたメッセージはこうだった。


 ――明日のお仕事も頑張ってくださいね!


 返信はこうする。


 ――うん。リンゲちゃんも学校頑張って!


 これだけのやり取りで救われた気がする。スマホ越しに送り合う取り留めのない雑談と、毎日ちょっとずつの励まし合い。あいさつ程度のささやかな交流でしかなくても、そこに自分を見てくれている存在を確かに感じられるから。

 自暴自棄の寸前で投げ捨てかかっていた一切を、かろうじて拾い集める。

 頑張ろう、ちょっとだけ。もう少しだけ、踏ん張ろう。

 そうやって一分一秒、一日を、歩くようなスピードで積み重ねていくしかないのだから。

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