一章 聖女の来訪とリルカの魔獣 ⑧
編み上げブーツの紐を結ぶと、エマはローブのフードを頭にかけた。
陽が沈みかけている。残照が射した坂道は赤く燃え立つかのようだ。坂の途中にある店の前に立つと、海に向かって吹き下ろす夕風がエマのフードからこぼれる髪を巻き上げた。
「わかるか、方向」
「もちろん」とクロエはエマを抱え上げた。
「おい抱えるな! 自分で歩ける!」
「ええー。でも貴女、魔獣のところにたどりつく頃には絶息していると思うよ?」
「そこまでじゃない」
「そう言わずに素直に抱えられていましょうよ、僕のかわいいお姫さま」
いちばんの宝物にするようにクロエはエマの額にくちづけた。蠱惑的な笑みは、世の令嬢相手なら軒並み射落としていただろう。けれど、エマには無意味だ。舌打ちしたいのをこらえて、エマはクロエの首に腕を回した。確かに意地を張っている場合ではない。
「時間が惜しい。……もう運んで」
「はいはい素直。仰せのままに」
今日はちょうど冬至祭の当日らしい。オーナメントやランタンで飾られ、喧噪の中にある街を、クロエは獣のように駆ける。
「サラの遺体からは、ひとりだけ魔物の反応が出なかった。つまり、サラだけは魔獣に襲われたのではないということ。殺したのはおそらくエラルド=スミス」
クロエの首に回した腕に力をこめて振り落とされないようにしながら、エマは言った。
「エラルドは墓の埋葬品を掘り起こして金品を得ていた。その現場を偶然、サラが目撃するかして殺されたんだ。彼女が仲良くしていた『犬』……リルカの魔獣の目のまえで。つまり――」
そのとき、頭上からけたたましい鐘の音が鳴った。
街のてっぺんにある鐘楼が夜を告げている。鐘楼に隣接して広がる墓地から鴉の群れが飛び立つのが見えた。
「あそこなのか?」と尋ねたエマに、「気配はそこで止まってるね」とクロエがこたえる。
クロエの腕から下りると、エマは暗闇にじっとりと沈む墓地を見渡す。鉄門からすこし離れた樹の下にちいさな人影が座り込んでいる。シャロンだ。その前方で光る二つの目にきづいて、「シャロン!」とエマは声を張った。
「……姫さま?」
呆けた表情でシャロンがエマを振り返る。
その横から黒い靄をまとった獣が躍り出た。「きゃっ」とよろめいたシャロンが転倒する。腕から落ちた干し肉には目もくれず、獣はシャロンに飛びかかった。
髪飾りから銀針を引き抜き、エマはそれを獣の前脚に投擲する。縫い留めた針の根元から銀の炎が燃え上がり、音階がおかしくなったチェンバロに似た叫び声が上がった。
「シャロン!」
尻もちをついた少女の腕をつかんで引き寄せる。
「姫さま! アユラが変……おかしいの!」
「アユラ?」
「わたしの友だち! 犬のすがたの……」
おびえた風に身を縮めるシャロンを背に押しやり、エマは顔を上げた。
銀針に前脚を縫い留められた獣は、黒い靄をほとばしらせながら苦悶の声を上げている。
おそらくあれがもともと墓地の守り主だったリルカの魔獣、シャロンが「アユラ」と呼んでいたものだ。エラルドをはじめとした街のひとびとを襲っていたのはこの魔獣だ。もとは墓地を守る無害な魔物だったのかもしれないが、今はちがう。証拠に先ほどアユラは迷うことなくシャロンに襲いかかった。
「下がって、シャロン」
黒い血を吐く魔獣を見据え、エマは銀針を握りしめる。
「ま、待って、姫さま。やめて……」
蒼白になって、シャロンはエマに飛びついた。
「やめてよ! アユラを殺さないで!」
「わたしは先に警告したぞ」
シャロンを引き剥がし、エマは低い声で言った。
「魔物はひとの手には余ると」
「魔物じゃないわ! わたしの友だちだものっ!」
目のふちに涙をためて、シャロンは魔獣を守るようにエマのまえに立ちはだかる。
その背中に銀針を外した魔獣が襲いかかった。頬をゆがめ、エマはシャロンの身体を引き倒す。ひるがえったローブの裾に魔獣の爪が引っかかって、鋭い音を立てて引き裂かれた。攻撃はかわしたが、エマの背中のほうががら空きになる。夜気を震わせる咆哮が上がり、魔獣がエマに向かって跳躍する。シャロンの頭を伏せさせたまま、エマは身をすくめた。
「あーあ」
場違いにのんきな声が上がり、地面に刺さったままの銀針が引き抜かれる。
「貴女はほんとうに甘くて弱くてかわいいな」
くるんと手のなかで回したそれをクロエが指で弾く。
クロエの魔力をのせて銀の炎を帯びた銀針が、魔獣の後ろ脚を射抜いた。この世ならざる悲鳴が上がり、魔獣が地面のうえでのたうちまわる。黒い血を吐き出す魔獣へ無関心そうな一瞥をやり、クロエはエマを振り返った。
「さあ、姫さま。貴女の僕はどうすればよい?」
つめたさと軽やかさが同居する、うつくしい微笑。
途方に暮れているのではなく、ただ犬が飼い主の命令を待っている。
今のだって、クロエの力をもってすれば、一撃で滅ぼせた。けれど、やらない。この魔物の主はエマであり、クロエはエマに「おうかがい」を立てることを忘れない。命じるのはエマ。いつだってそう。かつて魔物の大群に襲われたときですら、クロエは銀の矢を放つまえに十三歳のエマに尋ねた。
――姫さま、僕はどうすればよい?
「待って、姫さま!」
身を起こしたシャロンがエマの腰にぎゅっと腕を回す。
「おねがい! アユラまで連れていかないで!」
大粒の涙を散らしてしゃくり上げるシャロンに、エマは目を細めた。軽く頭に手を置くと、少女の細い腕を身体から外す。
ばちばちと銀の火花があちこちで爆ぜて、エマのドレスの裾を舞い上げている。
こぶしを握り、命令をくだした。
「――滅ぼせ、クロエ」
口の端に笑みを引っ掛け、クロエはすいと手を引いた。
銀の炎が燃え上がり、糾合とともに獣をのみこんで焼き尽くす。炎の中で黒い影が揺らめき、ぱっと飛び散った。大地にさらさらと灰が落ちる。クロエの攻撃は、浄化を基本にした通常の魔祓いとは異なる。より高位の魔物によって力を叩きつけられ、彼らは焼き滅ぼされるのだ。
「アユラ!」
炎が消えると、ひとかけの灰だけが残った。つめたくなった灰をつかんで泣きだした少女を見やり、エマはクロエに目配せを送る。
はいはい、とうなずき、クロエはシャロンの額を指で弾いた。銀の花がクロエの指先からふわりとひらいて、シャロンの額に吸い込まれる。眠りの魔術を使ったのだろう。意識を失い、くずおれたシャロンの身体にエマは腕を伸ばした。抱きとめようとしたのだが、支えきれず、よろけて転んだ。
【増量試し読み】聖女と悪魔の終身契約 水守糸子/富士見L文庫 @lbunko
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