タンカーの下から

髙 文緒

第1話

 落下した人体が岩礁にあたる音は独特で大きい。だから水の中にいても聞こえる。それから肉の器が勢いのままに沈むのが見える。それは多分肉には重力というものがまとわりついているからなのだろう。重力に慣らされた魂は、肉にしがみついて夢とも現とも分からないという顔をしている。

 そこに向かう私はイルカの気持ちでいる。下半身にひれをつけて、水の中を飛んでいく。尾びれはついているが背びれと胸びれはついていない。イルカにおいて、胸びれは推進力と方向のコントロールやブレーキの役割、背びれは左右のバランスの調整の役割を担っている。らしい。それがなくても問題なく進めるのは、ほんとうに水中を泳いでいるわけではないからだ。物理法則と切り離された世界にいるのが私だ。

 実際のイルカの形をとってもいいのだが、というかとっていた頃もあったのだが、人魚の形をとっていたほうが、魂を相手にしたときに話がはやい。肉体の器から抜け出て新しい世界を見ているのだ、と納得してもらえる。そういうわけで、伝説の生き物である人魚になっている。


「いらっしゃい。これから先にその肉は持っていけません。私の手をとって」


 そう差し出す手が乙女のしなやかな手であるときに、多くの魂は全て了解したという顔をする。これが胸びれではそうはいかない。まったく勝手なもので、胸びれに手をとられてあの世に行こうという気持ちにはならないらしい。

 了解した魂が私の白魚のような手に触れて、肉から離れる。


「これからどこに行くんでしょうか」


「どこに行くか決めるのはあなたです」


 不安げな魂にそう告げると、魂はアメーバーみたいに形を変えて、波間に広がったり急に縮こまったりする。そのくせ私の美しい手にはしっかりとつかまったままでいた。


「あなたの行きたい場所に案内するのが私の役割です。どこに行きたくてあなたは飛び込んだんですか」


「どこにと行っても、死んだ先のことなんて細かく考えませんよ。それに行き先は多くても三つくらいかと思ってました。地獄と天国と、どっちでもないみたいな。僕は比較的いい人間でしたけど、最後が自殺だから、地獄か、行けてもどっちでもない世界じゃないですか」


「なるほど、あるあるですね。でもそうじゃない。これから行く先はそれぞれ離れていて、道は複雑で、でもあなたが行きたいと願ったはずの場所がきっとあるから、そこに行っていただくお手伝いをしたいんです」


 アメーバーにもう片方の手も差し出してやると、どちらが前かは分からないがおそらく向き合って両手を繋いでいるのだろうなという状態になった。そのまま、水の中でくるくる回ってダンスをしてあげると、魂は足を取り戻し、首無しのマネキンみたいになった。胸のあたりに目を合わせてやると、そこに二つの空洞が開いた。瞳のつもりなのだろう。ずっと覗き込んだまま回り続けていると、空洞の中に緑の瞳が生まれた。


 やさしいひとだ、と思った。


「場所……それは誰かがいる場所でも良いんですか」


「人を探すことは出来ませんが、その人がいそうな場所になら連れていけます」


 そう答えてダンスを止める。両手を握りしめあったまま、魂はしばらく考えていた。

 考えているうちにマネキンの首の上に頭が生えて、顔はそちらに移動した。体の線はゆるんで、身長が少し縮む。中年男性らしい体つきと顔が出来上がった。


「妻と、当時7歳だった娘が、先に行っているはずなんです。会えるなら会いたいという気持ちになってきました」


「彼女たちもきっと、行きたい場所を選んで行っているはずですよ。心当たりはありませんか」


 男の魂は私の手から離れ、私の周りを漂い始めた。

 頭の上にイワシの群れが横切っていって、銀色の腹がパレードみたいに連なっている。それを見上げた男が、「これです!」と叫んだ。


「ぼくたちは家族旅行で一度ディズニーランドに行ったんです。ぼくは疲れるばっかりだったけど、妻と娘は楽しそうにしていた。二人が行きたいというなら、あそこじゃないでしょうか」


「お城があって、花火が打ち上がって、パレードのあるあそこですか」


「そうです! 園内にポップコーンが売っていて、みんなキャラクターの耳をつけていて、着ぐるみと写真をとるために並ぶあそこです!」


「なるほど、私はそちらに多くの方を案内してきました。会えると良いですね」


「ああやっぱりみんな行きたがるんだ! そこです、すぐに連れて行ってください」


 私はもはや男の手は取らなかった。尾びれを動かし体を水平にすると、ついてくるよう目線で合図をおくり、その場所へと猛スピードで進み始めた。男が必死でついてくるのが見えるので、ぎりぎりで見失わないよう時折スピードを落としてやる。そうしているうちにどんどんと男は水の中を飛ぶ動きに慣れ、すっかり肉と重力を忘れていく。


 男が、全速力の私の横について進めるようになるころに、「あの世」と人が言うなかの一つの場所、あの世に作られたディズニーランドにたどり着いた。

 入場ゲートをくぐると、そこは魂で溢れかえっている。家族で歩いている者も多いが、よく見ると、大人一人で、早足に歩き回っている者も少なくない。先に着いているはずの誰かを探し続けているのだ。

 その中に、以前に案内した母親も見つけた。ポップコーンのバケツを下げて、子どもを探して歩いている。

 私は園の奥までは入っていけない。ゲートを入ってすぐのところで男と別れ、行き交う人を見つめ、私の探す「彼」の姿が無いことを確認してランドを後にした。


 私はいつも係留中のタンカーの下に潜り込んで、崖の方をのぞいている。

 崖から人が落ちてもわかるし、タンカーから人が落ちても分かる。

 私がイルカあるいは人魚になってから、タンカーから人が落ちたことはない。それでも人がタンカーから落ちることがあることを知っている私は、いつか落ちることを願うようにしてそこに居続けている。

 

 *

 

 波が荒れていた。意外なものでこんな日に崖からわざわざ落ちようという人は少なくて、代わりに夜釣りの事故が増える。

 ほらひとつ、ライトが波に引きずり込まれる。

 私は案内しか出来ないので、魂が肉体に繋がっていられるかどうかを近よって確認することにする。光のほうへ向かっていくと、白い波を泡立てて紺色のウインドブレーカーの腕が海面から飛び出したり引っ込んだりしているのが見える。


 別に私は死神ではないから、魂が離れればよいと思っているわけではない。事故の魂は連れて行くまえに随分とごねるし、助かるなら助かった方がいい。

 埠頭に人影はなくて、海の110番こと118番に通報されたかどうかは分からない。

 海上保安庁の仕事を見るのは嫌いじゃない。

 助かるにせよ、助からないにせよ、肉体をきちんと回収する誠意がいい。でもその誠意に辛くなることもあるから、嫌いじゃないけど目をそらすこともある。私はまだ人魚に、空想上の生き物になりきれていないんだとその時に思う。いっそイルカの姿にしてもらったままの方が、思い出が顔を出すことも無くなるのかもしれない。

 男は一人で夜釣りに出ていたらしく、結局海保は来ず、肉体は波に揉まれて物理法則のままに揺れるのみになった。

 ああこれから、面倒な仕事が始まる。男の魂はまだ自分のウインドブレーカーにまとわりついたままでいて、手足をばたつかせて泳ごうとしている。


「ライフジャケットも無しに夜釣りですか」


 水面から肩を出して話しかけると、男は私にしがみつこうとした。嫌だ。反射的に尾びれを縦に動かして水中を滑ると、2メートルほど後ろに下がってしまった。


「助けて! 溺れそうなんだ!」


「もう溺れきっています」


「だから助けてって!」


「あなたの肉体は、いずれ回収されるでしょう。私はあなたの魂を連れに来たんです。それを助けと思ってくれますか?」


 1メートルのところまで近寄って話しかけるが、男の魂はまだばしゃばしゃとやっていた。


「ふざけてないで助けろって! 本当にもう溺れる!」


 怒りだした男の魂は頑固で、男の形を保ったまま沈んだり浮かんだりと波に揉まれる動きを止めない。水が口に入ってもこぶこぶしないことに自力で気付いて欲しいものだが、気付きそうもないので強硬手段に出ることにした。

 海中に潜り、男の魂の脚を思い切り引っ張って引きずりこんでやったのだ。

 当然男は驚いて怒るのだけど、私の姿を見て、「なにそれ」と動きを止める。

 そしてその「なにそれ」がきちんと水中で発語されて、泡すら出ないことにショックを受けたようで、「なにそれ」以降の言葉を失った。


「分かりました? 早くそのウインドブレーカーから手を離して、私の手をとってください」


 私の自慢の手を差し出すと、男は黙ったまま手をとった。空気を含んだウインドブレーカーとそれを羽織った男の肉体は、頭上に浮いていて、波にゆすられながら少しずつ離れていこうとしていた。


「どこに行きたいですか? 私は魂を、行きたい先に案内する役目を負っています。なんなりとどうぞ」


「あんたは死ぬ前に見る幻覚ってやつだろ。俺を気持ちいいところに連れて行ってよ」


「そのパターンもまあまあありがちですね」


 男の指が、なぜか私の指の股に絡んでこようとするのでそれを振りほどきながらこたえる。海老みたいに尾びれを丸めて二人の間に入れる。近寄られたくないからだ。


「死ぬ前ではなく、死にきっているんです。それに私は案内をするだけの役です。断っておきますが、天国とか地獄とかそういう分かりやすい場所はありません。無数に別れた『あの世』があります。どこに行きたいか、よく考えて具体的に言ってくださいね」


「もう死んでんならなんでもいいよ」


 そう言って胸にのばされる男の手を、強靭な尾びれで思い切り叩いてやった。痛みは無いはずだが、打たれた勢いで男はずっと後ろに飛ばされた。


「私が案内しなければ自力で行き先を探さないといけないんですよ。良いですか? 私と行きあったのが幸運なんですよ。私の案内を逃したら、行き先を探してずっとさまようことになりますからね。沢山の迷子たちに会うことになりますよ」


 あえて脅す口調で言うと、男はゆっくりと近寄って、腕一本ぶん離れた距離で止まった。


「…………家に帰りたい」


 絞り出された言葉は聞き飽きたもので、それとは別に、聞きたくない言葉でもあった。事故的に死んだ人間の「家に帰りたい」は私に残った人の頃の記憶に無遠慮に触れてくる。


「家ですね。『あの世』の家ですから、先に来ている人が居るかも分かりませんし、これから来る人があるとも限りませんが、いいですか。あなたの家にご案内するので良いですね」


 家につれていくとなると、私は妙におせっかいになってしまう。本当に家で良いのか。行った先で後悔しないのか。そこまであなたの家に、良い事が待っているのか。保障が出来ないことをことさら確認したくなってしまう。

 そんなに帰りたい家があるのに、こんな事故で死なないで欲しい、と思いかけたところで尾びれに痛みが走った。


「うん。いい。俺の家ならなんでもいいよ」


 家に帰れる、という事実に安堵したのか、男は大人しくなった。


「じゃあ、着いてきてくださいね」


 痛みを堪えて尾びれを動かす私の動きは鈍い。一方、男の魂はすっかり魂として納得しきったようで、気持ちよさそうに水の中を飛んで着いてくる。

 たどり着いた男の家には明かりがついていて、先に誰かが居るようだった。男が帰りたがった家に、男が求めたであろう明かりがあることに安心した私の尾びれから、痛みがひいていく。人の変わったように礼儀正しく頭を下げる男を後にして、私は急いでタンカーの下に戻った。

 いつタンカーから、人がおちてくるとも分からない。

 その人が、家に帰りたくて帰りたくて、迷子になるとも分からない。


 *


 私は陸にいるときに魂になった。

 行き先を案内する人は鳥の体に人の頭を持った青年だった。私は、行き先を家にしようとしたが、あいにく転勤族だったのでどの家にいけば、先に亡くなった夫がいるのかが分からない。

 もしかしたら、家でない場所にいるかもしれない。

 行き先を決められない私は、魂の案内役になるにはどうしたら良いのかと鳥の体の青年に訪ねた。出来れば海の生き物になりたいとも言った。夫は海で亡くなったから、海で魂になった人を案内したかった。そのなかで、様々な場所に顔を出して、先に行ったはずの夫が見つかればいいと思った。

 ディズニーランドだって、思い出の場所だから、行っている可能性はある。他にも思い出の場所はたくさんある。他の魂たちの思い出に便乗して、私は様々の場所に行く。

 

 夫の行き先が見つかっても、案内役になってしまった私はひとつの『あの世』にとどまることは出来ない。でも彼の横顔を、一度でも見られたらそれでいいのだ。


 そうして私は今日も、係留中のタンカーの下で、人が落ちるのを待っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

タンカーの下から 髙 文緒 @tkfmio_ikura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ