第94話 迷子の白猫
——朝が来た。
お風呂に入ってから、なにをする気力も湧かずに、ベッドに横になったはいいものの、結局眠れなかった私は、身体をゆっくりと起こす。
体調は悪くない。
けれど、身体が重くて、動くのも億劫。
まるで、心の中に穴が空いたみたいな感覚がする。
理由は明白。
私が鞄に視線をやると、大切な白猫はやっぱり見当たらなくて、余計に心が沈んだ。
「……学校、行きたくない」
優陽くんなら、休むことを許してくれそう。
でも、このまま部屋に1人でいてもきっと落ち込むだけ。
それなら、学校に行った方がまだ気が晴れるかもしれない。
それに、1人でいるよりも、優陽くんと一緒にいたい。
温かく笑う優陽くんの顔を思い浮かべると、少しだけ元気が出たような気がした。
それでも、心は重たいままで、行きたくないという抵抗を引きずったまま、のそり、のそりと準備を進めていく。
そんなことをしている内に、優陽くんがいつも起こしに来る時間になっていた。
私にしては珍しく既に朝食まで済ませてしまっているので、あとは本当に待つだけしかやることがない。
なにもせず、ただぼんやりと優陽くんが来るのを待っていると、スマホが着信音を鳴らした。
画面を見た私は、首を傾げてしまう。
「空ちゃん……?」
怪訝に思いつつ、ひとまずスマホを耳に当てた。
「もしもし」
『もしもしー? おはよー乃愛ち。よかったーちゃんと起きててくれて』
「ん。色々あって、寝てないだけ。それで、なにか用?」
『優陽くんに代わって乃愛ちを起こしに来たんだよ。私、今乃愛ちのマンションの前にいるから』
「……? なんで空ちゃんが?」
『実は優陽くんから頼まれてね。今日日直で起こしに行けないから、代わりに起こしに行ってあげてほしいって』
「……そう」
そう言えば、そうだった気がする。
空ちゃんが悪いわけじゃないし、こう言うと失礼なんだけど、優陽くんじゃなくてがっかりしてしまう。
とりあえず、まだ学校に行くには早過ぎるので、私は鍵を開けて空ちゃんを部屋に招き入れることした。
程なくして、玄関に空ちゃんの靴が並んだ。
空ちゃんは、「お邪魔しまーす」と部屋に入ってくるなり、きょろきょろと部屋を見回した。
「ひろっ! え、ほんとにここに1人で住んでるの?」
「ん、そう」
「ほえー……私も結構いい部屋に住んでるっていう自覚はあるけど、上には上がいるもんだなぁ……」
空ちゃんが呟きながら、部屋の一点で視線を止めた。
それから、瞳をパッと輝かせる。
朝からよくそこまで元気でいられる……ちょっと羨ましい。
「あの部屋ってもしかして、配信部屋!?」
「ん」
「うわー……! 推しが活動してる部屋が今目の前に……!」
「入ってみる?」
問いかけると、空ちゃんは更に目を輝かせてから、なぜかハッと我に返り、「……ぅぁー」と悩ましい声を上げた。
「? どうしたの?」
「……正直に言えば見たい。見たいんだけど……うん、今日はやめとく」
「どうして?」
「だって、乃愛ちが眠れないくらい悩んでるのに、私だけが楽しむなんて出来ないよ」
私は、目を見開く。
空ちゃんはそんな私を見て、言葉を重ねる。
「どうせ楽しむなら、乃愛ちが元気になってからの方が絶対に楽しいもん」
「……」
声を発さずにただ、空ちゃんを眺めていると、空ちゃんがバツの悪そうな顔を浮かべた。
「……まあ、オタクの私が自制出来ずにちょっとはしゃぎかけちゃったんだけどね」
たはは、と苦笑を漏らしてから、空ちゃんは一息入れて、私を気遣うような表情になった。
「優陽くんから話は聞いたよ。大事なものを落としちゃって、落ち込んでるって」
「……ん」
話を聞いているのなら、隠すことも誤魔化すことも無駄でしかないし、私は素直に頷く。
「……本当は、学校なんて休んで今からでも探しに行きたい」
どうせ学校に行ったって、寝不足とキーホルダーのことが引っかかって、集中なんて出来るわけがない。
だったら、学校を休んで探しに行けば、と思うかもしれないけど、私がそれをしないのは。
「……でも、私が休んで探すって言うと絶対に優陽くんも休んで、一緒に探してくれようとするから」
彼は、そういう人だ。
そこまでしてもらうわけにはいかない。
私にだって、言ってもいいワガママとそうじゃないものがあることくらいは分かる。
「うん、そうだね。でもね、乃愛ち」
「ん、なに?」
「優陽くんは、乃愛ちの予想を超えてお人好しだよ」
「予想を超えて?」
どういうこと?
呆れたような、困ったような空ちゃんの顔を見て、私は首を傾げることしか出来ない。
それに、そんな困った顔をしておきながら、空ちゃんはどこか嬉しそうでもあった。
ますます分からない。
「まあ、そんな超弩級のお人好しの優陽くんだけじゃなくて、私たちも学校が終わったら一緒に探すから! 大船に乗ったつもりでいてよ! 大丈夫、絶対見つかるから!」
どこにそんな根拠があるのか分からないけど、自信たっぷりに胸を張ってみせる空ちゃん。
わずかに、私の中のもやみたいなものが確かに、少しだけ晴れた気分になった。
(優陽くんも、この笑顔に勇気付けられてるんだ)
表情を自分の思ったように作れない私からすれば、とんでもない能力だ。
……でも、羨むのも眩しく思うのも、あとでいい。
「……ありがとう」
感謝の言葉を述べて、今は、そっと頭を下げた。
それから、気晴らしと時間潰しに多少ゲームに付き合ってもらってから、私と空ちゃんは部屋を出た。
そして、うっすらと曇った空に足を止める。
「雨、降るの……?」
「降水確率2、30パーくらいだってさ。降ったとしても午後には晴れてるって天気予報で言ってたよ」
2、30パーセント……なんとも心許ない数字だ。
ゲームのいちげきひっさつなら割と当たるやつ。
逆に90パーセントはよく外れる。
そして、現実なら、こういう時は悪い方でよく当たるというのは相場が決まっていること。
(……なんでこういう時に限って)
ため息をつきたい気分になった。というかついた。
こと更に重くなった心につられるようにして、足取りまで重くなる。
途中、何度も今からでも学校に行くのをやめて、探しに行こうと語りかけてくる自分のせいで足を止めてしまいそうになりつつも、私は歩き続けた。
やがて、学校が見えてきてしまう。
こんなに学校に行くのに気が進まないのは引きこもりをしていた時以来かもしれない。
いや、今の気持ちとしてはそれ以上。
後ろ髪を引かれ続けながら、私が上履きに履き替えていると、空ちゃんが他の生徒に挨拶をされ、挨拶を返し、そのまま談笑を始めてしまう。
最近の普段通りなら、私も混ざって経験値を積むところだけど、今日はそんな気分にはなれない。
空ちゃんに先に行っていることを告げ、階段ををゆっくりと上がっていくと、
「——待ちなさいよ」
階段の踊り場に差し掛かったところで、下の方からどこか刺々しさのある声が聞こえてくる。
ただ、周囲には登校している生徒がたくさんいて、誰に向けたものかは分からない。
(少なくとも、私じゃない)
こんな刺々しい声をかけられる理由もない。
私はそのまま、振り返ることなく踊り場から次の段差に足をかけた。
「っ! 待てって言ってんでしょ!」
そんな荒々しい声が聞こえてきたと思ったと同時に声同様にどこか荒々しい足音が、階段を駆け上がってくるのが分かった。
そして、自分で振り返る間もなく、肩を掴まれ無理矢理振り返らされる。
振り向かされた先で、剣呑な目付きで私を睨むショートポニーの女子と目が合った。
(……誰?)
名前どころか、顔も知らない人。
一応脳内で目の前の顔と記憶を照合してみたけど、引っかかりもしない。
そもそも、私は人の顔を覚えるのが得意じゃない。
その上で、まったく話したこともないと言い切れる人だった。
そんな人が、なんで私をそんな顔で睨んでるの?
困惑していると、その子が剣呑さに満ちていた勝ち気な瞳に更に目力をグッと込める。
「なんで、あんたがのうのうと学校に来てんのよ……! あの子はあんたの、あんたたちのせいで、学校にすら来れずに1人で泣いてるってのに!」
「……?」
意味が分からない。
私は一体、今、なにを怒られているの?
状況が理解出来ずに困惑していると、その子は更に続ける。
「あの子が今どれだけ苦しんでると思ってんの!?」
「あ、あの……? ……なんの話、ですか……?」
とにかくどうしてこうなっているのか理解したくて、聞き返すと、女の子は「はあ!?」と更に激昂した様子を見せた。
(今の、なにか、失敗、した……?)
分からない。
相手がギリッと奥歯を噛み締めるのを、ただ理解が追いつかない頭で眺めるだけになっていると、
「ちょっ、すとっぷすとーっぷ!」
空ちゃんが私と相手の間に飛び込むように入ってきた。
「怒鳴り声が聞こえたから来てみれば、なにがあったの? なんでそんな怒ってるの? 乃愛ちがなにかした?」
「……こいつのせいで、うちの友達が彼氏に振られたんだよ」
「乃愛ちのせいで……?」
「そうだよ! なんか昨日突然振られたみたいで、理由聞いたらなんか好きな相手が出来たからとか言われたって言ってて……! そしたら、その子夜にそいつと2人で帰ってるの見たって! 彼氏がそいつに告白してるところも!」
怒涛の勢いで捲し立てられ、私も空ちゃんもなにも返すことが出来ない。
そこまで一息に言った女の子は、私を、心底憎むようにまた睨みつけてくる。
「なんでポッと出のあんたみたいなのが! あの子の幸せを奪うの!? あの子が好かれる為にどれだけ色々頑張ってたと思ってんの!? ふざけんなよ!」
「……黙って聞いてたら、なにそれ。そんなの八つ当たりじゃんか。乃愛ちはなにも悪くないじゃん」
いつもよりも低い苛立ちを隠そうともしない声音で、空ちゃんが言い返す。
そっちを見れば、そこにいつもの明るい笑顔はなく、怒っている空ちゃんがいた。
「うるせえな! あんたには関係ないだろ! それに、うちだってそいつがあの子の彼氏に距離近かったの何度も見てんだよ! あの子の彼氏に色目使ってるところをさぁ!」
「そんなのただの言いがかりじゃん! 乃愛ちにその気がないことは私たちがよく知ってるし! それに、私が聞いた話と合わせたら、その彼氏は振ったあとすぐに乃愛ちに告白してるよね! 普通に考えて悪いのはその彼氏なんじゃないの!」
2人の言い合いはどんどんヒートアップしていく。
それなのに、当事者であるはずの私はやっぱり、付いていくことが出来なかった。
それどころか、これだけ言われても、なにが悪かったのかすら理解出来ない。
確かに、昨日私を遊びに行こうと誘って来たのは、その告白してきた相手だった。それだけは分かった。
それに、この女の子が友達の為に怒っていることも、分かった。
けど、分からない。
異性として好かれようと思ってなかった私は、どこでどう間違えて、異性として好かれるような行動を取ったの?
分からない。
分からないけれど、どうせ私がまた、致命的な間違いを冒してしまったのだろう。
昔からいつだってそう。
小さい頃から家を空けることが多かったお父さんとお母さん。
だから、心配をかけないようにして、お仕事を頑張ってもらいたくて、寂しくても表情に出さないようにってしてたら、いつの間にか今みたいに寂しさだけじゃなくて、いろんな感情が表情が出にくくなって。
お父さんとお母さんに心配をかけないようにって、寂しくないように友達をたくさん作ろうとして、ウザがられ、距離を取られて。
憧れのお母さんみたいに、明るく、朗らかになりたかった。
お母さんは、髪を褒められると嬉しそうに、自慢気に、「まあね!」と胸を張っていた。
ある日、私も髪を褒められたから、お母さんの真似をしてみた。
そうしたら、上手くいかずに余計に距離を取られることになって。
心配なんてさせたくなかったのに、結局学校にも行かなくなって、なに1つとして上手くいかなくて。
(どうして、私は、いつも……)
無意識の内に、手が鞄のとある位置に向かって伸び、そして空を切る。
当たり前だ。だって、そこにもう私に力をくれていた白猫はいない。
分かってる。
いくら流れが穏やかでも、あれだけ大きな川に落としてしまったら、本当はもう見つかりっこないなんてことは。
そう思うと、身体から力がフッと抜けていく。
そんな瞬間を狙い澄ますように、
「あんたがいたからこんなことになったんだ! あんたなんて転校してこなかったらよかったのに!」
放たれた言葉が、私の中に突き刺さった。
ぷつり、ぷつりと私の中の大切なものが1つずつ切れていくような感覚。
(……ああ。やっぱり、私、私なんかが……)
身体から力が抜け、ふらり、とたたらを踏み、私は……。
「——乃愛」
その声が聞こえてきて、私はハッと俯いていた顔を上げた。
声が聞こえた方に顔を向けると、
「ゆう、ひ……くん……?」
そこには、なぜか先に登校しているはずの優陽くんがいた。
優陽くんは階段をゆっくりと上がってきて、こっちに近づいてくる。
「……先に行ったんじゃなかったの?」
「あー……ごめん。それ、嘘。日直なのは本当だけど、そっちは藤城君に代わってもらってさ。これを探しに行ってたんだ」
少しだけバツの悪そうな顔をしていた優陽くんは、軽く口角を上げ、ポケットからなにかを取り出して、「じゃん」と私の顔の前で揺らしてみせる。
それは、川に落としたはずの白猫のキーホルダーだった。
(もしかして……ずっと探しててくれたの……? たった1人で……?)
声にならない。言葉にならない。
それでも、私は両手で白猫を握り締め、胸に抱く。
「どうにか学校が始まるまでに見つかってよかったよ」
いつもの鞄とは別に、肩から大きめな鞄を下げた優陽くんは、安堵したように微笑んでいた。
やっぱり私がなにも言えずにいると、優陽くんは突空ちゃんの方に「それで」と向き直った。
「最後の方しか聞いてないんだけど、これってどういう状況なの?」
「……えっとね」
空ちゃんが優陽くんに現状を説明していく。
その間、私に罵声を浴びせていた女の子は突然の乱入者に呆然としてしまったのか、なにも言わずにいた。
説明を聞き終えた優陽くんは「ふうん」と相槌を打ち、ちらりと女の子を一瞥する。
それから「んー……」となにかを考える仕草を取り、
「うん。乃愛、今日は帰ろっか」
「「「……え?」」」
その提案が突然過ぎて、私と空ちゃん、女の子までもがぽかんと口を開けた。
「ほら、行くよー」
そう言って、優陽くんが階段を1歩下りる。
「う、うん……?」
状況が飲み込めないまま、私は言われるがままについて行こうとする。
「ま、待ちなさいよ! まだ話は……!」
「——いや、終わりだよ」
女の子が声を張り上げたけど、優陽くんが淡々とその声を途中で遮った。
「これ以上、乃愛を傷付けるようなことを聞かせるわけにはいかない」
優陽くんの声音は淡々としていたけど、二の句を継がせないような迫力があった。
それに、と優陽くんが続ける。
「これ以上なにかを言うなら……俺も君を傷付けるようなことを言わざるを得なくなる」
声を荒げたわけじゃないのに、明らかに怒っているのが分かった。
優陽くんが肩越しに振り返り、女の子を見れば、女の子はビクリと身を竦ませてしまう。
それくらい、今の優陽くんの顔は普段の穏やかな表情とはかけ離れて冷たいものだった。
「自分がなにを言ったのか、ちゃんと考えた方がいい」
真っ直ぐに射抜くように女の子見つめ、優陽くんは呟く。
「頭に血が上ってたとしても、なにを言ってもいいわけじゃないんだから」
それだけ口にした優陽くんは「行こう」と私に言い、階段を下りて私たちを眺めていた人混みをかき分けるように歩いていく。
私は、ただただ、その背中について行くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます