第95話 そして白猫は。
来る時よりも気持ちどんよりとした曇り空の下、俺は乃愛と一緒に歩いていた。
(本当、雨が降ってくる前に見つかってよかった)
まあ、ほんの少しだけ無茶することになったけど、そのかいもあった。
少しだけ視線を後ろに向ければ、ここまでなにも喋らずに、視線がずっと斜め下を向いている乃愛の姿がある。
(……当たり前だよね、あんなこと言われたんだし)
学校に来なければいいなんて、1度学校に行かなくなって、またこうして通うようになった乃愛からすればクリティカルな言葉過ぎる。
実際に言われた乃愛が、今どれほどの痛みを覚えているのか、俺には計り知れない。
乃愛は学校でキーホルダーを渡してから、まるで2度と離さないと言わんばかりに、ずっと両手を胸に押し付けるようにぎゅっと握っていて、俺にはそれが、白猫だけじゃなくて、なにか他の大事なものもこぼれ落ちないようにしているように見えて仕方がなかった。
なにを言うべきか分かってないけれど、なにかを言わないといけないのは間違いない。
俺が歩くペースを緩め、乃愛の横に立つと、
「——私、失敗した」
乃愛が不意に口を開いた。
俺は、ちらりと乃愛を一瞥する。
「……うん、そうだね」
「……色々な人に迷惑と心配をかけた」
「……うん」
迷惑に関して言えば、俺はそんなものをかけられたとは微塵も思ってない。
でも、今それを否定したところで、乃愛自身が納得出来ないと思う。
だから、俺は頷き、肯定した。
視線を足下に落としたままだった乃愛は、ゆっくりと顔を上げ、こっちを見る。
「私……勇気なんて、出さない方がよかった……?」
瞳が揺れていた。
俺は、その問いにはすぐには答えなかった。
もちろん、心の中では即座に否定したし、すぐにでも口に出して、否定してあげたい。
そうするのは簡単だ。
(でも、きっと……ここが、乃愛がこの先も歩いていけるのか、折れるのか、分岐点になる)
だとしたら、勢いだけの脊髄反射で意味も言葉も伴わない適当な返答なんて出来やしない。
大事なのは、これからも乃愛の心に寄り添えるような、そんな言葉だ。
俺は頭の中で言葉を探しながら、慎重に声を空気に乗せた。
「そんなこと、ないよ」
乃愛は俺の顔を見上げたまま、なにも反応しない。
ただじっと、俺の言葉の続きを待っている。
「確かに、今回は失敗だった。それは間違いないよ」
「……ん」
「でもさ、今回のそれだけで、乃愛が勇気を出したこと全部を否定することなんてないよ」
「……なんで、そう思うの」
「だってさ。乃愛が勇気を出さなかったら、俺たちはこうして友達になってないし、パーティを組むどころか、顔すら知らなかったんだよ?」
……ぁ、と乃愛が小さく漏らし、わずかに目を見開いた。
そんな乃愛の目を見て、俺は微笑んでみせる。
「今回の失敗だけでさ。成功したことまで全部、なかったことにすることはないんだよ」
もう1度、ゆっくりと目を合わせながら言うと、乃愛の瞳が揺らめいた。
けれど、その揺れはさっきまでの不安そうなものとは別のものだと、俺は思う。
そんな漠然とした感覚を抱えつつ、俺は「ねえ、乃愛」と呼びかける。
「乃愛はさ、これから先も今日みたいな失敗をきっと何度もするよ」
俺が告げたのは、さっきみたいに安心させる為の言葉じゃない。
むしろ、確実に乃愛を切り付ける刃だ。
でも、言わないといけない。
これから先はきっと大丈夫なんて、耳障りのいい言葉で誤魔化せたらどれだけいいだろう。
(……けど、乃愛に伝えないといけないのは、そんなその場しのぎの言葉じゃない)
たった1回使ったらなくなる、RPGの薬草のような言葉じゃない。
これから先、何度だって同じ場面にあった時に、思い出して、心を奮い立たせる言葉だ。
1度覚えたら使用出来る、回復魔法のような言葉だ。
俺が俯きそうになった時、心を支えてくれた、ゲームやラノベのキャラクターが言っていたような、言葉だ。
そんなことを、俺が言えるなんて自惚れるつもりはない。
だけど、今、乃愛に言葉を届けられるのは、世界中で俺1人しかいないから。
自信がないだとか、不安とか、感じている場合じゃない。
「……その度に、さ。乃愛は立ち止まることになると思う。けど、その度に、俺が証明してみせるよ」
そう言うと、乃愛がぱちり、と不思議そうに瞬きをした。
まるで、なにを? と言いたげなその表情を見ながら、俺は続ける。
「君の勇気と頑張りを」
「……っ」
乃愛が息を呑んだ。
「言葉に迷って、肝心なことはなにも伝わらないかもしれない。それでも……言葉を尽くして、俺が、きっと証明してみせるよ」
「……」
「だから……勇気を出したことを、踏み出したことを……間違いだったなんて思わないでほしい」
たったこれだけのことで、乃愛の抱える不安を全部取り除けるだなんて思わない。
それでも、乃愛はやがて、唇をきゅっと結んで、胸に抱えた両手もまたきゅっと握り締めて、「……ん」と頷いてくれた。
その青い瞳はもう揺れていない。
(……よかった。もう大丈夫なんだね)
どうやら、答えを間違わなかったらしい。
本当によかった。間違ったこと言ってたらどうしようかと……。
俺が安堵の息を吐き出すと、
——ポツリ、ポツリ。
空から降ってきた雫が、地面に黒い染みを作り始める。
雫は徐々に勢いを増し、すぐき染みが染みじゃなくなっていく。
「やばっ!? 走れる!?」
「……ん。頑張る」
降り始めた雨の中、俺たちは雨宿り出来る場所を求めて走り始める。
幸い、すぐ近くに神社があったので、ひとまずはそこの軒下に避難させてもらった。
それでも、乃愛を置いていかないように、乃愛のペースに合わせていたら、それなりにずぶ濡れになってしまった。
俺は鞄を下ろし、中から服とタオルを取り出し、乃愛に手渡す。
「はい、とりあえずこれで拭いて。それから、これ着て」
「ん、ありがとう。……でも、なんでこんなに着替え持って来てるの?」
「念には念を入れて、ね。どれだけ濡れるか分からなかったし」
実際結構こけて、ずぶ濡れになったし。
たくさん持ってきておいてよかった。
俺は乃愛の頭を拭いてあげてから、乃愛の着替えを見ないように、背中を向ける。
すると、後ろから衣擦れの音が聞こえてきた。
若干気まずいけど、すぐに「もう大丈夫」という声がかけられる。
ふう、と息をつき、乃愛に向き直った。
「ひとまず、ここで雨が弱くなるまで待たせてもらうしかないね」
折りたたみ傘は持ってるけど、多分乃愛は持ってないだろうし、この雨の強さだと2人で使うと結局ずぶ濡れになってしまう。
だぼっとしたTシャツ姿になった乃愛は「ん」と小さく頷く。
(うん。完全にいつも通りみたいだね)
いつもの口癖が復活していることから、復調を悟った俺がそっと安堵の笑みを零していると、乃愛がふあっと欠伸を漏らした。
「眠いの?」
「……ん。昨日から眠れてない」
あ、そりゃそうだよね。
落としたキーホルダーのことを考えたら気が気じゃなかったはずだし。
(本当、よかった)
学校でのいざこざだったり、言われたことは消えないし、まだカサブタにすらなっていないだろう。
それでも色々なことが無事に済んで心からよかったと思える。
安心して力が抜けた俺は、ついつい気が緩んだまま、口を開いてしまった。
「そっか、乃愛も眠れなかったんだね」
声にしてしまってから、あ、と思ったものの既に手遅れで。
乃愛は「……も?」と不思議そうに首を傾げて、俺を見上げてきた。
それから、言葉の意味を考えるように間を取り、ポケットから白猫のキーホルダーを取り出して、手のひらの上に乗せた。
「……これ、本当はいつから探してたの?」
「あーいやー……夜明けくらい、だよ……?」
声は上擦り、目は泳ぎ、これじゃ誰が見たって嘘だってバレバレだ。
乃愛だってこんなバレバレの嘘に騙されてくれるわけがなく、少し目を見開いた。
「……もしかして、あのあとから……? ずっと、1人で探してたの……? 夜通し……?」
「……」
俺はつい黙って、ふいっと目を逸らす。
それがもう、乃愛にとっては答え合わせだった。
乃愛がなにも言わずに俺の横顔に視線を当ててくる。
沈黙と視線が痛い。
「見つけてくれたのはとても嬉しい。ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
「でも、なんで、1人でそんな無茶したの。私のことだから、人に任せっきりにしないで、私もやらないといけないことなのに」
淡々としているけど、問い詰めるような声音だった。
まあ、怒るよね。そりゃ。
自分の為に無茶されたらなおさら。
俺は誤魔化すのを諦めて、そっとため息をつく。
「……ごめん。けど、そうしないといけない理由があったんだよ」
「……どんな?」
「えっと、まず……乃愛が探し始めてから俺があそこに行くまでにもう数時間経ってたよね」
「ん」
「だからすぐに探さないとどんどん流されていっちゃうと思ってさ。実際、落とした所から結構離れたとこで見つけたし。あの時点で乃愛は限界だったから、無理させるわけにもいかないし」
「……ん」
「皆に電話して、説明したら当たり前のように手伝うって言ってくれたけど……藤城君には日直を代わってもらわないとだったし、芹沢さんと和泉さんには乃愛の近くにいてほしかったんだよ。あんな乃愛を1人にはしておけなかったし」
結果として、俺が1人で探すしかなかったというわけだ。
今の話を聞いた乃愛は、「ん、分かった」と小さく頷いた。
まだ言ってない理由もあるけど、どうやら今ので納得してくれたらしい。
「優陽くんはバカ」
「納得してくれてなかった!?」
俺の勘違いだったらしい。
「……理由としては納得出来るし、優陽くんがそこまで私に配慮してくれたことは嬉しい。けど、バカ」
「し、仕方ないじゃんか! 天気予報見たら雨ってなってたし! 降水確率2、30パーなんて信用出来ないじゃん! 割とよく当たるいちげきひっさつと同じ確率だよ!? 現にこうして降ってるわけだし!」
あの状況でこんな声を少し張らないと声が聞こえづらいくらいの雨なんて降られたら、いくらなんでも探しようがない。
夜通し探して見つけたのが皆が登校を始めるタイミングで、今降ってるってことは割とギリギリのタイミングだったってことだし。
と、脳内で自分を正当化し続けていると、乃愛がなぜか目を丸くして、俺の顔を凝視してきていた。
そして、
「ふふっ、ふふふっ……!」
今の今まで、怒っていたはずの乃愛は肩を震わせて、笑い出した。
「え、な、なに!? どうしたの!?」
しかも、あの乃愛が笑い声を上げている。
その事実が、更に俺の頭を混乱させた。
突然のことについていけずにいると、ひとしきり笑った乃愛が口を開く。
「……分からない」
「ええ……? どういうこと?」
自分がなんで笑ったのか分からないってこと?
「怒ってたはずなのに、優陽くんがいちげきひっさつの確率って言ったのを聞いて、朝私も同じことを考えたって思った。私と同じことを考えてくれる人がいるって思ったら、なんだか嬉しさが込み上げてきて、そうしたら、気付いたら笑ってた」
それは、なんでだろう。
単に自分と同じ考えの人がいて嬉しいってこと、なのかな?
理由を聞いても、俺にはいまいちピンとこない。
怪訝に思っていると、乃愛が「……ぁ」と小さく声を漏らした。
「……分かった」
「え? 今の数秒で? 本当に?」
「ん。2つ、分かった。空ちゃんの言ってたことの意味」
「え? 芹沢さん?」
どうしてここで芹沢さんの名前が?
そもそもさっきの笑いに複数の謎が隠れていた、っていうのも俺はまったく理解が及んでないんだけど……。
頭にハテナマークを浮かべていると、乃愛が「優陽くん」と俺を呼んだ。
「私、もう怒ってない。許した。助けてもらったのに、不満を言ってごめんなさい」
「え、あ、ああ……うん。それはいいよ、全然。悪いのは俺なんだし」
急にどうしたんだろう? まあ、許してくれるなら深くツッコむべきじゃないんだろうけど……。
戸惑っていると、さっきまでとは裏腹に心なしが柔らかな表情をして俺を見ていた乃愛が、また少しだけむっとした。
「でも、次またやったら怒る」
「……肝に銘じておきます。けど、絶交とは言わないんだね」
「それは私が絶対にいや」
驚くくらいの即答だった。
それだけ、縁を切りたくないと思われてるってことなのかな? そうなら、素直に喜んでいいよね?
って、それはそれとして……。
「それで結局、乃愛はなにが分かったの?」
「ん。空ちゃんが言ってた、優陽くんが私の予想を超えてお人好しだってことの意味」
「あー……うん、なるほど……?」
どういう経緯でそんな会話になったのかは分からないけど、そういう会話があって、俺の無茶を知った乃愛がそれを理解したってこと、だよね。
それは、なんとなく分かった。
「じゃあ、残りの1つは?」
「ん。これも、前に空ちゃんから言われたこと。ずっと考えてて、やっと今分かった」
そこで乃愛は言葉を区切り、俺の顔を見つめてくる。
それから、「優陽くん」とまた俺の名前を呼んで。
「——好き」
なにかを小さく、とても小さく呟いた。
そのなにかは、雨音にかき消され、俺の耳に届かない。
いくら独り言を聞き逃さないようにしている俺でも、さすがにこの土砂降りの中、その小さな呟きを拾うことは出来なかった。
「え? ごめん、今なんて? よく聞こえなかったんだけど……」
聞き返すと、乃愛はどこかいたずらっぽく見えるような微笑を浮かべ、
「今は分からなくていい。いつか分かってもらうから」
そんなよく分からないことを、本当に楽しそうに言ってきた。
意図をまったく掴めずに、きょとんとした俺を見て、乃愛がくすりと笑う。
(うーん……さっぱり分からない……こんなことなら読唇術でも習得しとくんだったなぁ……)
結局、いくら聞いても、乃愛が答えを教えてくれることはなかった。
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