紺碧の空

増田朋美

紺碧の空

その日も寒い朝で、3月というのに、雨が降って寒い日だった。今日も蘭は、その日のお客さんに刺青の仕事をしおえて、さて、晩ごはんでも食べようか、と考えていた。妻のアリスは、妊婦さんのところにでかけていて留守だった。蘭が、とりあえず冷蔵庫を開けて、何か食べるものはないかなあと考えていると、いきなりインターフォンが5回なって、

「おーい蘭!ちょっとこいつら二人が、お前さんに相談があるんだって。ちょっと相談にのってやってくれよ。」

でかい声で言うのは杉ちゃんだった。とりあえず、杉ちゃんの話は何が何でも受け付けなければならないな、と思った蘭は、

「ああ、いいよ、入れ。」

といった。それを言い終わらないうちに、玄関のドアがあいて、杉ちゃんと、顔をスカーフで覆っている女性と、ちょっと辛そうなかおをしている若い女性が現れた。一瞬こんな服装をしているので、蘭は一体誰だろうと思ったが、女性がスカーフをとって、蘭さんこんにちは、といったので、誰なのかわかった。

「桜子さん!一体どうしたんですか?」

女性は紛れもなく、中村桜子に間違いなかった。

「あのね、桜子さんが、カーヌーンの教室やりながら、生徒さんの悩み相談も始めたらしいんだ。それで、とんでもない悪役にぶつかっちまったから、連れてきたんだよ。」

杉ちゃんの説明を聞いて、蘭はそういうことであれば、カウンセリングを生業にしている古川涼さんのところに行けばよいのにと思ったが、そうも行かないのかなと思って、杉ちゃんたちを部屋のなかに入れた。

「そうですか。そちらにいる女性は、生徒さんですか?」

蘭が、もう一度聞くと、

「ええ、今月から私のところへ習いに来ている伊藤絵理香ちゃん。ずっと家に引きこもってしまっているようで、それなら私のところに来るようにして、いま、週二回カーヌーンのお稽古しています。」

と、桜子は、彼女を紹介した。

「それでご相談というのはなんでしょう?」

蘭はとりあえず彼女たちにお茶を出しながら言った。

「ええ、実は彼女、早稲田大学というところを受験したかったそうで。」

「早稲田大学?すごいところじゃないですか。」

蘭は思わず言った。

「そうなのね、つまり蘭さんが言うほど有名な大学なのね。」

桜子は、なるほどと言う顔でいった。

「そうですよ。日本人なら誰でも知っている大学ですよ。それを受験するのもすごいじゃないですか。有名な政治家だって、早稲田大学へ行った人はいっぱいいますよ。」

蘭は、すぐにそういうと、桜子はそうなのね、とだけ言った。

「じゃあやっぱり、彼女が早稲田大学を受験するのは、悪いことじゃないのね。彼女は、学校の先生に、早稲田大学を受験するのは、行けないことだと散々言われたせいで、受験当日に精神がおかしくなってしまって、結局、受験できなかったのよ。」

「はあ、なるほど。しかし、何で教師は早稲田大学が悪いといったんだろうね?」

杉ちゃんがそういうと、

「国公立大学のことばかりいって、早稲田大学のことは虫けらだとか、そういうことばかり言ってたそうよ。学校の価値は、国公立が全てだとか。彼女が吉永高校を選んでしまったのが悪いと言ってしまえばそれまでだけど、私は、そういうわけにも行かないと思ったから、それで蘭さんたちだったらなんていうかなと思って、連れてきたのよ。」

桜子は、伊藤絵理香さんの顔を見ながらそういうことを言った。彼女は、涙を流しながら、幽霊のように力なくぼんやりしている。まるで魂の抜け殻というのにふさわしい感じがする。

「そうなんだね。そんな教師、正しくばかやろうという言葉がふさわしいと思うけどね。本当に馬鹿だねえ。早稲田大学はいい学校であることは言うまでもないし、みんな楽しく勉強してるし、応援歌の紺碧の空だって、みんな楽しく歌ってるよ。それは、やっぱり否定しちゃいけないでしょ。国立だろうが、私立だろうが、良い学校はちゃんと教育してくれるよ。」

杉ちゃんは、できるだけ軽い感じで言った。 

「そうですね、僕もそう思います。学校の先生というより、なんだかただの理念を押し付けているだけのような気がする。それでは、いつまで立っても進歩しません。それに、学校の先生が、生徒の進学先を決めては行けないはずです。進学先は生徒の意思で決めるものでしょう?先生が、学校のメンツのために進学先を勝手に決めてしまう事はできないですよね?それに、早稲田大学を虫けらと言うなんて、そんな事言ったら、創立者である大隈重信さんが泣きますよ。」

蘭は、驚くというよりも呆れてしまった。

「それで結局、大学には進学できないで、こんなふうに幽霊みたいに力なくぼんやりしてんのか。それなら、そんなバカな教師見下してさ、もっといい学校に行ってやるっていう気にはならないのかな?」

杉ちゃんがそう言うと、桜子が、

「いえ、私も経験あるんだけど、学校とかそういうところは、一日の大半をそこで過ごしてしまう、いわば密閉された施設だし、他の人達と交流も無いことから、ある種の閉じ込められているような感覚に陥ることがあってね。始めは、反抗的な事を思いつくかもしれないけど、毎日のようにこの教えが正しいのだって怒鳴られ続ければ、あたかもその教えが正しいことのように、人間は思ってしまうものなのよね。私も、以前、教団にいたときにそういう経験したことあるわ。」

と、杉ちゃんに言った。

「なるほどねえ、そういうことだったら仕方ないな。よし、これは、真偽を確かめに行く必要があるな。本当に、早稲田大学は、行けないところなのか、実際に訪問して確かめてみよう!」

杉ちゃんはすぐに言った。

「いつ行くの!」

蘭は思わず言ったが、

「善は急げでしょ。だったらすぐ行こう。だってインターネットで電車とかバスとか予約が取れるし、ホテルも予約できるんじゃないの?最悪のことなら、介護タクシーに乗っけてもらってもいいじゃないか。」

と、杉ちゃんは言った。

「そうだけど、この先一週間、僕はずっと刺青の施術をしなければならないんだ。」

と、蘭は申し訳無さそうに言った。

「それなら、私が一緒に行きます。私、こう見えても、力仕事には自信があるのよ。それなら杉ちゃんと私と、伊藤絵里香さんと三人で行きましょう。」

桜子がすぐに言った。

「どうもすみません。桜子さん、それでは、杉ちゃんよろしくおねがいします。」

蘭は桜子に頭を下げた。桜子は、わかりましたと言って、すぐに小旅行の準備を立て始めた。蘭は、その間も、幽霊のように力なく座っている伊藤絵里香さんのことが気になった。桜子や、杉ちゃんが一生懸命計画を立てているのに対し、お礼もしないし、何も反応もしないのだ。もしかしたら、違法薬物でもやってしまったのかもしれない。

「明日の新幹線の予約ができたわ。品川駅近くのホテルも予約できた。今はいいわね、インターネットで何でも予約ができてしまうし、そういうところは、ちゃんと手続きできるから、便利な世の中になったものよ。」

桜子がそう言ってくれたので、蘭は、ちょっと安心して、改めてよろしくおねがいしますと言った。

翌日。

杉ちゃんと桜子、そして伊藤絵里香さんは、約束通り新富士駅に行った。このときばかりは、桜子はスカーフを取って、長い髪をポニーテールに縛っていた。とりあえず、駅員に手伝ってもらって、杉ちゃんたちはホームに行く。障害者はグリーン車に乗らなければならないので、自動的に駅員にグリーン車の停車するところへ連れて行かれた。新幹線がやってくると、駅員が三人を指定席まで乗せてくれた。新幹線はこだまと言っても非常に速く、一時間ちょっとで、杉ちゃんたちを品川駅まで連れて行ってくれた。

品川駅からは山手線である。そこへ行くには、階段を登っていかなければならない。杉ちゃんたちは駅員にエレベーターまで連れて行ってもらって、とりあえず、新幹線のホームを出た。皆、改札口近くに階段があって、すぐに改札できるようになっているのに、エレベーターはとても離れていて、改札へ行きにくかった。それに、杉ちゃんの場合、切符を自動改札機に入れることができない。切符を入れるのに、自動改札機の前で車椅子を止めなければならず、再度動かそうとすると、自動改札機の扉が時間切れでしまってしまうからである。仕方なく、駅員さんに切符を渡して、杉ちゃんたちは、改札口を出た。駅の中を移動するには、駅員に手伝ってもらわなくても良かったが、山手線のホームに乗るのにまたエレベーターに乗せてもらって、山手線のホームへ降りる。最近の電車では、車いす用に電車とホームの隙間を狭くしてくれてある電車もあるが、それでも、車椅子の杉ちゃんには、駅員さんに手伝ってもらわないと乗ることができなかった。

品川駅から、山手線で高田馬場駅へ。行くには、23分かかる。その間、杉ちゃんたちは、鼻歌を歌いながら電車に乗っていたが、三人を異質な集団として、嫌な顔をして見ている人も多かった。杉ちゃんは全く気にしていないのであるが、伊藤絵里香さんも、桜子も、なんだか、そういうことで嫌そうな顔をしているのは、都会の人たちは、気が小さいなと思った。

「まもなく、高田馬場、高田馬場に到着いたします。下り口は右側です。西武新宿線と東西線はお乗り換えです。」

と車内アナウンスがあって、電車は高田馬場に到着した。高田馬場駅には駅員が待っていてくれていて、杉ちゃんを電車からおろしてくれた。

「どうもありがとうな。お前さんたちには感謝するよ。」

杉ちゃんはそう言って、駅員に挨拶し、また、駅員に切符を渡して、改札口を出た。やはり自動改札機は通れなかった。桜子と、伊藤絵里香さんは、杉ちゃんが当たり前のようにやっているのを、不思議な顔で見ている。

高田馬場駅からは、タクシーで早稲田大学の正門まで乗せていってもらうことにした。それも、杉ちゃんのようなひとは、介護用の車両に乗らないと行けない。ここは静岡と東京では違うところで、静岡ではワンボックスタイプのタクシーが駅で待機していたり、自由に呼び出しできるようになっているが、東京では、そのようなタクシーは走っていなかった。なんでも、そうなるときは、介護タクシー会社に頼んで予約をし、指定した予約料金を払わなければだめということだった。そう言う乗り物に乗るには、前日までに予約をしなければだめだというが、桜子が電話をかけまくって、当日でも乗ることができる介護タクシー業者を見つけて、高田馬場駅まで迎えに来てもらったのであるが、迎車料金が偉くかかってしまった。杉ちゃんはそれでも、気にしないで平気で乗っていた。

「ほら着いたよ。早稲田大学の正門だよ。」

と、杉ちゃんが言うと、目の前に早稲田大学の正門がデーンと立っていた。近くには創立者の大隈重信さんを称える、大隈講堂もある。その近くに立っているのは、大隈重信さんの銅像と、早稲田大学の応援歌である、紺碧の空の歌碑だった。杉ちゃんなんかは、それを見て、文字は読めないくせにいい声で歌いだしてしまうくらいだ。

「いい声ですね。歌がお上手です。もし、学生でしたら、うちの応援部に来ていただきたいわ。」

と、杉ちゃんの声を聞いて、そこを通りかかった一人の学生がそういうことを言った。

「おう、お前さんは早稲田大学の学生?」

杉ちゃんがそう言うと、

「まだ一年生で、ここにやっとなれたばかりです。」

と女子学生は言った。もちろん大学だから、制服なんてものは無いけど、きちんとしたワンピースを着て、学生らしくあまり華美な服装はしていない。多分早稲田大学だから、良い家のお嬢さんかもしれないけれど、でも、清楚な感じがして良い印象の女性だった。

「そうか。お前さんは何学部の学生さん?」

杉ちゃんがそうきくと、

「はい。商学部です。家が会社を経営していますから、将来は、それを継がなければならないので、今そのことを勉強させてもらおうと思って、こちらの大学に入らせてもらいました。」

と、女性はそう答えたのだった。

「はあ、そうなんだねえ。将来は女社長かあ。ちゃんと、しっかり、学ぼうという意識があるんだな。じゃあ、将来に向けて、しっかり勉強してくれよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい、ありがとうございます。これからもがんばります。」

女性は、にこやかに言った。

「みなさんは、観光で来られたんですか?それとも、入学希望ですか?」

「いやあ、観光というより慰安旅行だ。こいつが、学校の先生にひどいこと言われてな。精神がおかしくなっちまったんで、それを慰めるためにこっちへこさせてもらってる。」

杉ちゃんは、即答してしまった。桜子は、杉ちゃんそんな事言わなくてもといったが、杉ちゃんは耳を貸すこともなく、

「新宗教とかそういうやつでもないよ。本当にこいつが、学校でえらく傷ついてさ。まだ、高校生なんだけど、やだよねえ。こういうことを、大人から押し付けられるなんて。なんでも、早稲田大学が変な大学だって、担任教師が言ったらしいよ。それで傷ついたから今日はその修正だ。早稲田大学は決して悪いところじゃないって言うところを、見せてやりに来たんだよ。」

「そうなんですか。実は私も、高校時代、似たようなことを言われたことがありました。国立大学のほうがずっと良いとかそんな事。でも、私は、それを押し切って、この大学に来てしまいましたけどね。それでも私は後悔しませんよ。だって早稲田大学ですもの。ここで学べるなんて幸せじゃないですか。それ以上の喜びがあるでしょうか?」

学生さんは、杉ちゃんの言葉に答えるように言った。

「そうか。お前さんもそう言われたんだね。お前さんも地方から出てきたの?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ。私は、九州から出てきたんですけど、やっぱり、田舎だったからかな。高校では変な事言われたことがありましたよ。でも私は、先程もいいました通り後悔していません。だから、この大学でしっかり勉強して、大隈重信さんに感謝できる四年間にしたいです。」

と、女性はしっかり答えた。

「ほらあ、こういう元気な学生さんも居るじゃないか。早稲田大学は悪いところじゃないでしょう?ついでに授業を見せてくれると、嬉しいんだんがね。」

杉ちゃんという人は、何でも即答で言ってしまうくせがあった。それがいい方へ働くときもあるし、悪い方へ行ってしまうときもある。

「生憎ですが、授業は公開していないんです。でも、観光できた方向けに、演劇博物館を公開していますから、それをご覧になってください。能の衣装とか、すごいものが展示されています。」

と、学生さんは言った。桜子が、

「どうもご親切にありがとうございます。それではそちらを見学させていただこうかなと思います。ありがとうございました。」

というと、彼女は、

「いえ、大丈夫です。観光で来られる方も多いので、ゆっくりなさっていってください。」

と、にこやかに言って、大隈講堂にはいっていった。多分、授業かなにかあるのだろう。杉ちゃんたちは、彼女がはいっていくさまを眺めながら、

「ちゃんとした学生だな。勉強しようという気持ちがちゃんと現れている。きっと立派な社長さんになれるよ。」

「そうね。なかなか今の学生さんでは少ないタイプじゃないかしら。」

なんていい合っていた。その間に、伊藤絵里香さんの表情は何も変わらなかった。

杉ちゃんと桜子は、演劇博物館に行ってみることにした。演劇博物館は、入場料を取られるのかなと思っていたが、無料で入場することができた。建物は、昔の建物であるが、ちゃんとエレベーターも着いていて、車椅子の杉ちゃんでも入れるようになっている。演劇と名がついているから、演劇にまつわる資料を展示してあって、あの学生が言ったとおり、能の衣装も展示してくれてあった。確かに派手な衣装で、素晴らしいものだった。それに、海外の映画にまつわる資料とか、名作と呼ばれる映画のポスターなどが展示してあるコーナー、はたまた早稲田大学そのものの、歴史を振り返るコーナーなどもあり、大学の中にありながら、大変貴重なものがある博物館だった。それが多分きっと早稲田大学が、古い歴史を背負っているということなのだろう。そういう大学で学ばせてもらえるのだから、たしかに幸せでもあるわけだ。

杉ちゃんたちは、大満足の顔で演劇博物館を出た。博物館からちょっと離れたところに、学生さんたちが利用すると思われるカフェがあったので、そこでお昼を食べることにした。何人かの学生さんがそこで食べに来ている。中には教授と思われるお年寄りもいた。学生さんたちが数人のグループになって、教科書を片手になにか喋っていたり、教授と思われるお年寄りに質問したりしているのであった。杉ちゃんたちは、とりあえず椅子に座り、カレーを注文して、学生たちの様子を眺めていた。中には、アジア系と思われる外国人もいて、本当にいろんな国から早稲田大学に来ているんだなということを感じさせた。

「すごい大学だな。いろんな学生さんがいて、ここでいろんな事を学ばせてもらっているんだな。」

杉ちゃんが思わずつぶやくと、

「いいわねえ、日本の大学は。若いときにあたしがいた、中東の国家では、誰でも自由に勉強ができることはなかったのよ。中東では、女は未だに家にいろですもの。仕事すると行ったら、体を売ることくらい。それに比べたら、日本の大学は本当に自由だわ。」

桜子も思わずそういったのだった。そして、伊藤絵里香さんの顔を見ると、彼女は何も言わなかったけれど、幽霊のような雰囲気は取れていて、なんだか、別のことを考えていそうな雰囲気だった。きっと早稲田大学は悪くないと思ってくれたのだろう。

杉ちゃんたちの前に、カレーライスが置かれた。

「さあ食べるぞ。いただきまあす!」

と杉ちゃんはカレーにかぶりついた。桜子も、絵里香さんも美味しそうにカレーを食べはじめた。


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紺碧の空 増田朋美 @masubuchi4996

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