雨降りだから勉強しようか

雨降りである。植草甚一に倣って、雨降りの日は気分を変えて何か本でも読んで「勉強しよう」かな……と思って本棚を見る。ぼくの部屋は本が散乱しているので床の上も見る。そこにはたくさんの本がある。それこそ植草甚一の文庫本や沢木耕太郎のノンフィクション、下條信輔が書いた脳科学の本からニーチェやル・クレジオ……ぼくは何者にもなろうと思わずただ自分の興味の赴くままに読み進める読書を続けていたら、結果としてそんな支離滅裂な本が部屋に集まってしまった。その中からぼくは沢木耕太郎『246』を再読することにした。この本は沢木耕太郎が『深夜特急』を発表した頃の日記である。ぼく自身日記を書く人間の端くれなので、彼の本からは多くを学べるはずだと思ったのだった。実際に読んでみて、その話題の展開のし方や沢木の読む本の選び方、日常の過ごし方などそれこそたくさんのことを学ぶことができて、実に得難いものを読んだと思った。


とはいえ、ぼくの部屋には支離滅裂な本が並んで(散らかって?)いるがそれらを深く読み込んだわけではないのが情けないところである。脳科学に興味を持ち茂木健一郎や下條信輔を読んだりするものの養老孟司を読んだことがないし(途中まで読んだ『唯脳論』が肌に合わなかったのだけれど、今読めばまた違った趣を感じるかもしれないので保留している)、文学や哲学を齧りはするもののカントやヘーゲル、漱石や鴎外にきちんと挑んだことはない。なんてことはない、つまりは乱読にして濫読を貫いてきた「たわけた」読書なのだ。でも、ここ最近は「それでもいいじゃないか」と思うようにもなった。頑張ったってどうせ今から自分がノーベル文学賞を取るような作家になれるわけでもなし、それどころかプロデビューだってできない人間だ。ならば開き直って好き勝手に読みテキトーに生きていけばいいじゃないか、と開き直っているのが正直なところなのだった。


いったいどうしてこんな風に成り果てたのだろう。これでも昔はもっとハングリー精神旺盛であり、かつ未知のものに謙虚な人間でもあったのだった。そんな精神が嵩じて、読んだことのない本(特に古典文学)にハードルの高さを感じてしまい「今更ドストエフスキーなんか読む価値があるのかなあ」とも思ったりして……結局ぼくがドストエフスキーを最初に読んだのは40を過ぎてからなのでかなり奥手な読書だったのだけれど、今では古典の方を好んで読むようになりつつある。ただ、それにしたって「勉強しよう」というノリではないのである。古典を読むのは古典が面白いから、というそれだけの理由でありつまりはぼくのおしりが軽いからだ。面白いものを読んでいけばいずれは誰もがドストエフスキーやカフカを通るのではないか、とさえ最近は思っている。好きなものを好きに読めばいずれはそうした作家たちにインスピレーションを与えた古典にたどり着く、だから案ずることはない、と。


それはたぶん他の芸術にも言えるのではないだろうか。我慢してゴダールに挑んで時間をドブに捨てるより、それこそタランティーノでも北野武でも好きなものを追いかけていれば人はいずれヌーヴェル・ヴァーグにたどり着くのではないかとも思う。そういう「好きなものを追う」ことがあるいは植草甚一の「勉強しよう」という言葉の謂なのかもしれない。その考え方に則るならぼくも「勉強」して今まで生きてきたことになる。でも、ここまで来ると単なる言葉遊びという気もする。どう「勉強」を定義するかはそれはそれで面白いテーマだが、あくまで「楽しい」かどうか。冷静に考えれば『246』を読んだって沢木耕太郎の日常がどうだったかしかわからないとも言えるのだけれど、でも「楽しい」ならそれでいいじゃないか、と実にぼくは不真面目に生きている。そんなぼくは読者として堕落したのか、あるいは解脱の境地に達したのか。

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水曜日の本 踊る猫 @throbbingdiscocat

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