第17話 月を渡る牛

 ヨモの手にギイがしがみつくが、ヨモはそれを振り払ってマニシャの前に歩を進める。

 

「マニシャの世界に、飛び込んであげる」


 混沌の肩に手を置いて、背中に向けてなでおろす。

 子どもらしい高い体温と、つるりとした無表情の顔の不調和が、ヨモにはあわれに映る。

 マニシャの手から水パイプの吸い口を受け取ると、ヨモはそっとくわえた。


 唇の端から、薄い煙が吐き出される。

 混沌が煙の行方を指して、「穴のなかへ夢見心地で、一歩一歩、ゆっくりと踏み出していくのです*」と呟いた。


 吸い口を持つヨモの手に、マニシャの手が重ねられる。

 その手は意外なほど汗ばんでいた。


「四歳にして混沌がやっと喋ったとき、僕は確信した。現世界の成り立ちと、現党首への疑いを伝えるのは子どもたちだと」


 マニシャの語る夢が、煙になってヨモの鼻から脳へと入り込んでくる。


 マニシャの語る夢のなかで、反響し合う子どもたちの浪倣ろうほうの音。Nyarlathotepナイアーラトテップの暗唱。

 運河の街から運ばれるヒトや荷物とともに、それは口から口へと伝わって、現世界を覆っていく。


「おかーさんになってくれるの? おとーさんとおかーさんはきっと新しい世界とレキシを作るね」


 混沌の嬉しそうな声がする。

 目の前で、多肉植物のむくんだ太い幹が裂けて、豊富にたたえられた水が溢れ出てくる。幻覚に違いない、とヨモは心を強く持とうとする。


 水のなかには、泡を吐きながら浮かび上がる、混沌の暗唱するコトバたちがある。

 コトバはヨモの長い袖に次から次へと侵入していって、重しのようになる。気づくとヨモは水の底に引きずり込まれる。無かったはずの記憶がヨモに生えてくる。

 確かに自分たちは、旧世界のヒトの混乱と滅亡を見た、ような気がする――。


「〜〜〜〜〜〜け! 〜〜〜〜〜〜〜〜だったろ!」


 水の外から、ギイの声がする。

 その瞬間、自分の手にしがみついている綿の手の感触がはっきりとよみがえる。

 ギイの手にしがみつくようにして、水のなかから脱出しようともがく。

 その時、もう一方の手がマニシャと繋がれていることに気が付いた。


 マニシャは水の底で、混沌を抱いたままヨモを見上げている。

 その瞳の奥に、寂しい色があった。


「これは作りごと! 君たちは作りごと!」


 水のなかで思い切り袖を振ると、コトバたちが袖から振り落とされた。

 

「マニシャも、来て。マニシャを連れて出る! そのために潜ったの! いい? マニシャは嫌いな言葉かもしれないし、私も好きじゃないけど、ショウセツは、『嘘』!! 本当みたいで、夢中になれて、信じた方が楽になることもあるけど、あくまで嘘なの!!」


 ヨモの叫び声が水におおきな渦を作る。渦の力で、幻覚の中の混沌が割れた。

 重しのなくなったマニシャが、困ったような顔をして浮かび上がってくる。

 そうしてヨモとマニシャは、幻覚の水池プールから帰還した。



 

る混沌に、黒い雪。旧世界をおそった災厄のあとに、現世界に根付いた石のヒト。それが僕らだっていうのは、事実としてあるじゃないか」


 つねに水パイプの管を持っていた右手を今はもてあましながら、マニシャが言う。

 いじけたような言い方から、先程までの不気味さは消えていた。

 

「事実は『現世界に根付いた石のヒト』っていう部分だけ。分けて考えないと」


 難しい、というようにマニシャが黙って頭を振る。

 ヨモはマニシャの手をとって、ぽかんとした表情をした混沌の手と繋がせてやった。

 混沌のもう一方の手を、握りながら言葉を続ける。

 

「私だって、コトバ修繕士を目指すのに、ちゃんと目標があるよ。現世界の自分たちが何者なのかを探る。むしろそれ無しで修繕士になるヒトなんて、居ないんじゃないかな」


「ヨモのお父上はそう見えなかったけど」


「それは……ヒトによって目標が変わることもあるかもしれないし、もしかして、マニシャみたいな幻覚に取り憑かれそうになって引き返したのかもしれない。ショウセツには、そうやってヒトを魅惑みわくするようなところがある」

 

 混沌がまた口の中でモゴモゴと暗唱を始めようとする。

 ヨモは飴を与えるみたいに、新しい言葉を混沌の耳に吹き込んだ。


「月を渡る牛。わたし達はそんなものに乗ってきたのかな。

 お皿とスプーン。無機物むきぶつだって動き出す。

 猫とバイオリン。有機物ゆうきぶつ無機物むきぶつが手を取り合って。

 ディドルディドルは、楽しい音。だってほら、子犬が笑うって。

 ほら呟いてごらん、ディドル、ディドル」


「でぃどる、でぃどる?」


 混沌の真っ暗な目に、小さな光が宿るのが見えた。

 

「そうだぜ、ディドル、ディドル、ねことバイオリンってな。ヨモが好きな、嘘ばっかりのたのしいシだ」


 混沌の周りを跳ねながら、ギイが陽気にくり返す。

 混沌が、初めて子どもらしい顔で笑う。

 それに驚いてサジーが目を丸くした。

 

「ねえサジー、混沌を怖がらないで、楽しい言葉をたくさん教えてあげて」

 

 ヨモに言われて、サジーは迷いながらも、うなずいてみせた。

「や、やあ!」と引きつった表情で、混沌にむけて手を振るサジーに、混沌が「さじおじちゃん!」とこたえる。

 サジーは緊張をわずかに緩めて、へら、と笑った。

 

「それから、サジーの好きなヒトは、まだサジーを待ってるの?」


「へぇっ!? なんだよ急に」


 とつぜん想い人の話題を振られたサジーは、顔を赤くして、「……まだひとり身だって聞いてるよ……」と呟いた。


「私、一つの仮説を思い出したの。マニシャの言っている予想とも一部かさなるんだけど、それについて、聞いてみる気はある? 呪いなんかじゃないって、思えるかも。それが、サジーとサジーの好きなヒトの関係を、作り直すきっかけになるかも」


「も、もちろんだよ!」


 と飛びつくサジーの声と、ヨモの腹が空腹をうったえる音が同時に鳴った。


「じゃあ、おいしいご飯で手を打とうかな」


 ヨモとマニシャに挟まれた混沌が、ヨモを真似るようにお腹を鳴らしたので、部屋にいる者みんなが声をあげて笑った。




 

  

 *引用:H・P・ラヴクラフト.『ニャルラトホテプ』.大久保ゆう訳,青空文庫


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