第12話 転覆

 両岸に建物が迫る運河を、様々な舟が航行していく。

 ヨモ達を乗せた小舟はその中へと漕ぎ出していく。周りを、生活用品を運ぶ舟、荷物を運ぶ舟、ヒトを運ぶ舟、などが通り過ぎていく。


「マニシャの家には舟で行くの?」


「そうだねえ、それもいいねえ」


 かいを操りながら男が答える。運河の流れに逆らっているために、舟は遅々として進まない。


「マニシャはこの街に居るんでしょ?」


「まあ、居るねえ」


「おい、この舟、本当にどっかに向かってるんだろうな?」


 のらりくらりを体現したような男の様子に痺れをきらして、ギイがたずねた。


「僕は言ったはずだよ、舟で話をしようってね」


「じゃあさっさとしろよ! 俺っち達、急いでるんだ」


 ギイがつかみかからんばかりの勢いで言う。

 男は、かいを一瞬持ち上げると、片側に大きく体を揺する。それから、逆側へと思い切り体を傾け、同時に櫂を深く水面に突き刺した。


 ぐらり、と舟が傾く。ヨモとギイが反応する間もなく、舟の片側のへりが、水面につき、水が侵入する。


「悪いけど、マニシャには会わせたくないよ。マニシャが会いたがったとしてもね」


 男の言葉が聞こえたときには、もう舟はひっくり返っていて、ヨモは河に投げ出されていた。

 水の予想外の冷たさに驚く間もなく、ヨモの着ている曲裾深衣ワンピースが体に張り付いて動きを封じられる。

 水面に顔を出したアーモンド型の船底に必死に手をのばすと、ヨモの腕を掴む綿の手がある。いつもはヨモの脇腹をつついたり、どついたりする手が、必死に上から伸ばされている。綿の詰まった手に捕まると、ギイが綿の顔をしわくちゃにしかめて、引っ張りあげようとしてくれた。


「そんなに、ゲフ! 引っ張っ、たら、ふがッ! ギイの、手が、ちぎれちゃう、よ!」

 

 水に浸かった際に、鼻や口から飲み込んだらしい水が、生臭いにおいをさせて喉にせり上がってくる。

 なんとか肺に空気を吸い込みながら、ヨモはギイに訴えた。


「気にしてる場合かよ! 一本の手がちぎれたら、もう一本の手を出しゃあいい! それもちぎれたら、足、それから角、なんでもいいから、つかまるんだよ! お前は泳げも、飛べも、しないんだからよう」


「ギイ……」


 ヨモがなんとか上半身を、グラグラとする船底に持ち上げたときだ。

 視界の端を、目の覚めるような青い布がかすめていった。

 例の男が、泳いで逃げようとしているのだ。


「待ぁてえー!!!」


「あ、こら、バカ娘!」


 ヨモが男の衣服の、どこかはしつかめたらいいと思って手を伸ばした。

 ひっくり返った船の底にかろうじて体を乗せていたヨモが、重心をかたむけたらどうなるか。

 当然ひっくり返るのである。


 ざばん!

 

 しぶきを上げて水に沈んだヨモは、しかし、男の衣服の一部の布を握っていた。

 泳いで逃げようとする男の動きに合わせて、布はしゅるしゅると外れていく。

 ヨモが掴んでいたのは男の青の表衣うわぎではなく、顔の下半分をおおっていた長い布であった。

 

「あぷ! 助けッ!」


「うわあ! 俺っちだって水吸ったら重くて飛べねえっての!」

 

 表衣うわぎではなく顔を覆う布を剥いだだけでは、もう男は遠くに泳ぎ去ってしまっただろう。

 それでも、男の――ひいてはマニシャの、居所を突き止める手がかりになるかもしれない布を、離すわけにはいかない。

 ふくらんだ袖いっぱいに水が入り、腕の自由が聞かない。

 鼻や口や目から自在に入り込む水が、体の内側から酸素を追い出していく気がする。

 苦しい。でも……。

 

 ――でも、絶対にこれは離したら駄目!


 水にうねる長い布は、ヘビみたいだ。元の布の薄緑色に、濁った水が染み込んで、暗い緑色に変化している。色までヘビのようになったそれを、片手でたぐって引き寄せる。

 ぐらぐら揺れ続ける船の底にしがみついている方の、指の先に血がにじんでいく。

 水を含んでずっしりと重くなったギイが、しずくをしたたらせながらヨモの腕を引き上げようとする。綿の手からどんどんと水が絞り出されていく。


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜てる! 〜〜〜〜だ!」


 ギイが何かを叫んでいるが、ヨモの耳には意味をもった音として入ってこない。

 溺れかけながら、長い布をたぐり終えようとしたときだ。


「かえ、せ、」


 水の底から、逃げたはずの配達人の男がにゅっと顔を現した。


「やだ! 返さない!」


「他人のモンを勝手に奪うのはどうかとおもうけどお?!」


「わざと、私を、ぷはっ、溺れさせようと、したのも、うわっ、どうなのかな……っと!」


「はいおしまい。見ろよ、野次馬が集まってきているぜ」

 

 布を奪い合って居る二人の間に、ヨモが水をたっぷり含んだ尻をずいっと突き出してきて言った。

 二人が揃って岸に目をやると、確かに老若男女さまざまな顔が集まり始めている。

 そして、救出用だろうか、階段に繋がれている小舟が一そう、漕ぎ出されようとしていた。

 

「お兄さん、私、お兄さんに溺れさせられそうになったって騒ごうか?」


「それは困るなあ。僕はここに住めなくなってしまう」


「布だって返してもらわないと困るだろうな、その顔じゃあ」


 ギイの言葉に、男はハッと表情を固まらせると、口もとを濡れた袖で覆った。

 覆う寸前、水に濡れた男の顔の口の周りに生える、ガラス片のような鱗をヨモは見た。


「それ……なに? 子ども石セキエイだよね? でもお兄さん男だし、場所も背中じゃないよね? どういうこと?」


「これは……」

 

「おーい、こっちゃ乗れ! あんたらがそこで溺れてたら運航の邪魔で仕方ないよ!」

 

 男の返事は、近づいてくる小舟を操船する老人の野太い声でかき消された。

 男は袖で口元を隠すようにすると、舟に乗せられて岸につくまで、一言も喋らなかった。

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