第10話 Narthypaloteのナゾ

 こっそり家を抜け出したヨモは、ギイを連れて月の下を歩き出す。


「俺っち、ご主人に黙って来ちゃった。クビになったらお前が責任もって使えよな」


 文句を言いながらも、ギイはすすんで着いてきているように見えた。マニシャが心配なのは、ギイも同じなのだ。


「まあ私が一人前になれたら私が所有者になる予定だってお父様も言ってたし、いいんじゃない」


「なれるのかね、一人前になんて」


「へらず口〜」


 歩いて歩いて歩き通して、寂しい路銀ろぎんを節約しながら宿をとり、マニシャの居るかもしれない街を目指す。

 宿では眠るまでの間に、マニシャの残したショウセツのぽえを聞く。現世界の口頭言語である浪倣ろうほうの音が懐かしいマニシャの声で聞こえてくる。子守唄のように優しく響いて、ヨモとギイは、マニシャの膝で兄妹のように昼寝した日のことを思い出す。

 ぽえに録音されていたのは、猫が喋るおかしなショウセツだ。


 旅に出て三日目の夜、宿で寝転がりながら空腹を抱えて、一人と一体はぽえを聞いていた。

 朝にかゆを食べてから、何も食べていない。ワタモノのギイはいいとして、ヨモは午後からずっとめまいに襲われていた。

 ぽえから聞こえる猫の話が、薄く閉じかけた瞼の裏に映し出される。マニシャのいた日々を思い出して少し感傷的になるのもつかの間、猫が餅を食べようとして格闘する場面になった。その場面のくだらなさと、餅から連想して空腹を思い出したのとで、ヨモはなんだかどうでも良くなった。

 ギイも同様のようだった。


「変な話だなあ、ビンが粘っこいって言ってら。鳥黐とりもちみたいな罠なのか? それを旧世界のヒトが食ってたのか?」


 短い手足をいっぱいに伸ばして、ギイが言う。


「ニホンゴのショウセツだからね、私たちの文化とはちょっと違う。ゾウニっていうのが何かは分からないけど、スープみたいなものかなあ、そこにネバネバしたものを浮かべる……よく分からないけど、そういう食べ物じゃない?」


「美味そうじゃねえなあ」


「美味しいでしょ、きっと。旧世界には沢山のコトバと文化があった。それを一つにしたのは党首の考えだし、ロンブンでは色々な文化の違いに触れているものもあるけど、私たちはただそれを浪倣ろうほうの音にして献上することしか出来ない。なにをどう採用するかは、全て党首が決める」

 

 ギイの手が顔にあたるのを、無言で押しやって反論する。


「でもよう、」

 と今度は体を起こして立ち上がったギイが、ヨモのお腹の上に座って言った。


「ショウセツは嘘ばっかりなんだから、この食べ物だって嘘なんじゃないのか? なにしろ猫が喋るんだからよう」


「それもそうかもしれないね」


「ほらみろ。だからこんなものばっかり修繕してたから、マニシャは何が本当か分からなくなっちまったんじゃねえのか? 変な奴だよホント、困った奴だ」


 ギイの言葉に、ヨモは何も返せなかった。

 ただ、お腹の上に乗ったギイを抱き寄せて、ぎゅうっと強く抱きしめた。

 昼間に歩き通したときの、砂と、太陽の香りが鼻を通して胸に抜ける。


 

『面白くっても、ショウセツって嘘だもん』


 

 このおかしなショウセツを修繕していたマニシャに、確かそんなことを言った。とヨモは思い出す。

 ヨモの考えは今も変わってはいないけれど、マニシャによって修繕されたコトバで、確かに今、ヨモの気持ちは上向きになった。

 

 ――あのときマニシャは、ただ静かに笑っていただけだけど、本当は何か言いたかったことがあるのかもしれない。それこそ、言葉を尽くして言いたいことが……。


 届きそうで届かない、マニシャの気持ち。

 それは分かりそうで分からない、シの謎のコトバに近いと思った。

 遠い昔、父親に習ったエイゴのシが、気付いたら口をついて出ていた。


「ヘイ、ディドルディドル ねことバイオリン――」


「なあ、わけわっかんねえなそれ。シか?」


「シだよ」


「ディドルディドルっていうのは何なんだ」


「わかんない。多分、なんだか楽しい音なんじゃない? 口に出してみたら、感じるよ。ディドルディドルはきっとがくみたいなものだって」


「そんなもんに夢中になって、マニシャみたいになっても知らねえぞ。……俺っちここに来るまでに考えていたんだ。マニシャはもう手遅れだけど、ヨモだけは助けたかった。だからマニシャは手紙を送ってきた。違うかな? 俺っち、マニシャの居るかもしれない街に近づくごとに、こう、角がピーンとなって、それからしおしおになるんだよ。尻尾もビリビリするんだよ。引き返すなら今だって、ずっと思ってるんだよ」

 

 ギイが珍しく、鼻先をヨモの鼻にくっつけるようにして甘えながら言った。

 左右の色の違う黒と白のボタンの目が、ヨモの目の下に冷たくあたる。そのかたい感触から、ギイの不安が伝わってくるような気がした。

 

「大丈夫、私はコトバと適切に付き合う。無駄に恐れもしないし、飲み込まれもしない。コトバのことを知って、コトバと遊んで、一流のコトバ修繕士になるんだから。ただ怖がって避けるだけなら、マニシャが居なくなったときの自警団の人たちや、ただ怖がって遠巻きに見ていただけの人たちと一緒だもの。修繕士を理由なく避ける人たちと一緒になっちゃうもの。そんなの、イヤ」


 安心させるようにギイの丸い後ろ頭を撫でてやると、ギイが、すん、と鼻を鳴らした。


「でも、お前、バカ娘じゃんかよう」


「バカじゃないってば!」


 そう言ってギイの頭を軽くはたいたものの、ギイが、すんすん、とますます悲しげに鼻を鳴らすので、ヨモはそのままギイを抱きしめた。

 



 そうして三日目の夜はけ、とうとう目指す街に着く予定の四日目の朝が来た。


「いよいよだね」


 宿を出てから屋台で買った饅頭まんとう頬張ほおばりながらヨモが言う。

 真っ直ぐ歩いていけば、昼前には目指す街に着くはずだ。

 

「お前、緊張感ねえなあ」


 ヨモの肩の上あたりを飛びながら、ギイが呆れたように言う。昨夜の甘えぶりはすっかりとりをひそめていた。それをからかうようなヨモではない。なんでも無い時ならそうしているが、今はなんでも無い時ではない。

 

「最後に、ふむ、マニシャの、あむ、部屋で見た、むんん、バラバラの文字をね、あむ、思い出してみたの」

 

 勢いをつけるように饅頭を大口で頬張って、ヨモが言う。

 

「おいおい、飲み込んでから話せよ」

  

「んっくん! ああ美味しかった! それで、文字なんだけど、あのチカチカがずっと頭から離れなくって、あの日からずっと覚えているの。N,a,r,t,h,y,p,a,l,o,t,e。それで、並べてみたの、それっぽく。Narthypaloteナースィパローテじゃないかなって」


「なんだよそれ」


「わっかんない! でも多分ディドルディドルと一緒だよ、あっちは楽しくなる音だったけど、こっちはきっと……悲しい音? 怖い音? そういうものなのかなって」


「適当言ってらあ」


 そう言ったギイが、ヨモの口の端についた饅頭のかすを取って道に投げる。

 ギニー、と鳴きながら現れた四つ目の猫が、それを食べた。

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