第2話 修繕士マニシャ

「マニシャの周りはいつでも煙っぽいような草っぽいような匂いがするね」


 柱だけの解放的な住まいの、すだれから顔をのぞかせてヨモが言った。ヨモはいま、彼女が住む小さな屋敷の近くの長屋に来ている。

 ヨモの声に、円坐えんざに座る青年が振り向いた。床には赤い絨毯が敷かれており、わざわざその上に円坐を置くのがこだわりらしい。マニシャ気に入りの絨毯は、暑苦しいし野暮だとヨモの周りの女性陣には不評だ。

 

 マニシャと呼ばれた青年は、深い緑色の瞳に、色の濃い肌で、掘りの深い顔立ちをしている。大きくうねる健康的な黒髪を頭頂から半分とって髷の形に結い、残りの髪は肩にそのまま垂らしている。

「あれで変わり者じゃなかったら、見かけるだけで一日幸せになるくらいの美しさだっていうのに」と街の女たちが話しているのを、ヨモはよく聞いている。


「ヨモか。いらっしゃい。匂い、気になるかい?」


 低い声は、優しさと落ち着きを備えている。


「ううん、いい匂いだよ」


「それなら良かった。最近こっていてね、水パイプだ。吸ってみるかい?」


 パイプの吸い口を差し出されて、ヨモは顔を赤くして両手を振った。


「いらないいらない! それよりも、あたしが来たってことは、お父様からお仕事が来たってことだよ。はい、ぽえ


 小さな手にぽえを握り込んだまま拳を突き出すと、マニシャは両手のひらを上にむけて、拳の下にそっと添える。触れるか触れないかの近さにあるマニシャの大きな手のひらに緊張しながら、ヨモがこぶしを開く。

 しぼんだ半月型の種が、マニシャの手のひらにぽとんと落ちた。


「ああ、ありがとう。それじゃあ早速とりかかろうかな」


 膝に手を置いて立ち上がりかけたマニシャは、まだそこに立っているヨモに笑顔を向ける。


「見ていくかい、仕事」


「いいの? やった!」


 ヨモはその場で仔ウサギみたいに飛び跳ねると、部屋の奥に向かうマニシャの背中を追いかける。

 気持ちがはやり過ぎて、絨毯の縁に足を引っ掛けそうになったのはご愛嬌あいきょう。振動で水パイプの道具が不満げにがちゃがちゃと鳴るのも、もはやヨモの耳には入っていない。

 部屋の奥には、大きさも深さもさまざまな水盆や水鉢が並んでいる。父親の仕事場にも同様のものがあった。もっとも、父親の持つ水盆や水鉢は脚付きの凝った装飾があったり、ヨモが中に隠れられそうなほど大きかったりする。

 ヨモもまだ歩き始めのころは、父親の仕事場でそれらの器のふちを叩いて鳴らして遊んだものだった。

 そのうちに、水に沈められたぽえが吐き出す泡と一緒に浮かんでくるコトバ達に夢中になるようになった。いまでは、そこらのコトバ修繕士の見習いには負けないくらいになった。

 

 とはいえ、父親の得意とするエイゴにばかりさとくなった少女には、マニシャが修繕するコトバたちはまだ難しい。

 修繕の対象となる、遺跡にあたるコトバは沢山の種類があるからだ。どうして、遺跡のコトバには多岐たきに渡る種類があるのか、ヨモには分からない。いまは――現世界では――みんな同じ言葉を喋っているというのに。

 チュウゴクゴ、は一番多く出土する。だから、私塾でも少し習う。私塾でちょっとばかり触れたところで、読み書き会話を出来る域にはなれないし、教養程度ではあるが。


「今日のは、なあに? ……あっ! こら!」


 泡と一緒に水の底から浮かんできたコトバたちが、しゅうしゅう立ち昇る湯気とともに逃げようとする。

 飛び上がって手のひらでつかまえたコトバを見て、習ったことを思い出す。これは確か――


「『猫』が出てきた!」


 専用のタモでコトバを集めていたマニシャに、手のひらを開いて見せる。

 

「正解。それは猫だ。どうやら猫が出てくるショウセツのようだ。よくニホンゴが分かるね」


「あら、ニホンゴだったの。チュウゴクゴでも同じ文字だったよ。でもニホンゴも、マニシャが教えてくれてるからちょっとだけ、分かる」


「教えられるほどではないけどね、僕は永遠に見習いみたいなものだよ」


 きらきらとした瞳で見上げるヨモに、マニシャは頭をきながら言った。

 

 確かに、ショウセツの修繕は見習いのすることだけれど、マニシャの修繕士としての実力も確かなものだというのは、門前の小僧ならぬ門前の小娘のヨモでも分かる。

 様々なコトバに精通していることも知っている。

 ショウセツの修繕ばかり引き受けるのは、マニシャが望んでのことらしい。腕は確かだから、見習い修繕士が手に負えなくてぐちゃぐちゃにしてしまったものを直したりもしていると、聞いている。


「これはどんな話なのかなあ」


 うろうろと動き回る『猫』の字を指でつつくと、フシューという音を吐いて文字がマニシャのかげに逃げ込んだ。


「うーん、前の修繕士がずいぶんとややこしくしてくれたようだ。ちょっと待ってて」


 マニシャが指をすいすいと動かして、コトバたちを中空に整列させていく。コトバたちは、薄黄色にほのかに光っている。

 聞き分けのないコトバたちが列を乱して逃げ出そうとするのを、長い袖でふわりと制して、胸のなかに捕まえる。小声でなにごとかを囁くと、捕まえられたコトバたちは大人しくもとの列に戻っていく。

 コトバたちとの交流が出来るのは、コトバに精通している一流の修繕士にしか出来ないことだ。


 ヨモはこの光景が好きだ。父親がそうするのも、もっと小さな子供のころから、父親がコトバと交流する姿を見て憧れをつのらせたものだった。

 

「ね、どう? 分かりそう?」


「そうだね、これは……」


 中空に並んだ文字達をにらんでいたマニシャが、ふっと目元をゆるませる。


「これは、猫が喋るお話みたいだね。面白い」


「猫が喋る? それってどういうこと? 旧世界では猫が喋っていたってこと? それって新発見じゃない?」


 ヨモはここに来る途中に道にいた猫を思い出して言った。

 猫は四つの目をくりくりと光らせて、いつもの通り、ギニーと鳴いていた。

 旧世界では二つ目でニャーとかミャアとか鳴くらしいけれど、喋るなんて聞いたことがない。

 

「いや、違うな。これはショウセツの異化効果というやつだ」


「異化効果?」


「見慣れたはずのものを、まるで初めて見たように表現してみると、当たり前に思っていたことが変なことかもしれないって気づける。それって面白くないかい? 猫が見たニンゲンの世界をぺらぺらと喋るっていうのが、このショウセツの面白いところだ」


 そう言ってうっとりとコトバの修繕をはじめるマニシャの鮮やかな手付きを眺めながら、ヨモはもったいなく思う。


「面白くっても、ショウセツって嘘だもん。嘘を本当みたいに書くから、ショウセツの修繕は見習いの勉強くらいにしか使えないって言われてる。ねえ、なんでマニシャはショウセツの修繕ばかりしているの?」


 ヨモがたずねると、マニシャは少し寂しそうに笑う。

 彼の周りで、文字がしゅるしゅると列を作り続けていた。

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