第7話
リリアーナのピアノコンサートの開催を、ロビンをはじめとしたソールド・ザ・ムーンの関係者一同が賛同してくれた。店で演奏する人間の顔ぶれも固定されてから久しく、店にある年代物のジュークボックスから流れる音楽も錆びついてきたから、と彼らは話した。電源についてはそのジュークボックスのものを一時的に借りる段取りになった。
予定どおり荷車を借用し、コンサートの三日前に電子ピアノを店内に運ぶ。グランドピアノだったら店に入れるために壁をぶち壊さないといけなかったわ、とロビンは笑っていた。ハインラインの学校にはかつて立派なグランドピアノがあったが、私たちが十三歳のときに寿命を迎えた。調律を長年の間にわたって担当していた高齢の男性がその数日後に亡くなり、学校では一時期話題になったものだった。
ピアノを運び入れた日、その場ですぐに打ち合わせが始まった。昔は店での催し物を運営していたのはロビンの母親だったが、今ではロビンがそれを担っているようだ。
「知らない曲ばかりだわ!」
リリアーナが持ってきた数十曲分の楽譜をチェックしてロビンが目を輝かせた。私や、それにオリヴォー博士と違って彼女は楽譜が読める。
「そうね、今からわたしが特に気に入っているものから、どんどん弾いていくわね。ロビン、貴女も気に入ってくれると嬉しいわ」
「いいわね! そのうちの何曲かでセットリストを組まなきゃ! いい? あたしはソフィーほど几帳面でも堅苦しくもないけど、こういうのにはうるさいの」
「へぇ、あんたにとってここでのコンサートってファッションコーディネートと同じってこと? それは意外」
「そういうソフィーは当日、ウェイトレスとして手伝ってよね!」
「ええっ!? お客としてゆったり聴きたいんだけれど……」
私がリリアーナに目配せをすると、彼女はやれやれといった表情をみせて、口を開いた。
「ソフィーには演奏に集中してほしいわね。いつも屋敷で聴いてくれているとは言っても、このお店での演奏は別物だもの。できれば視界の隅に常に置いておきたいわ。わたしもそのほうがリラックスできる」
「うーん、リリアーナがそう言うんだったらしかたないか!」
「あ、ありがとう」
そうして私たちはコンサートの準備を進めていくのだった。
コンサート当日は雨模様となった。
私とリリアーナは時間に余裕をもって屋敷を出発した。お互いに傘を差しているが、彼女が他に何も持っていないのに対し、私はドレス一着が入ったバッグを手にしている。そのドレスもバッグもロビンが手配してくれたものだった。先月に、ドレスメーカー・フライデイに三人で訪問したとき、ロビンの祖母がリリアーナを見て仰天していたのが思い出される。ミス・ハインラインに選ばれた五十年前の自分に匹敵するわぁ、と言っていたっけ。
「セットリストは決まった? それ以外も細かい部分まで二人で話し込んで決めていたみたいだけれど」
「ええ、勉強になったわ。ロビンの流儀なのかしら、音楽を時間芸術としてではなくて空間芸術としても享受しようとしているわね。聴かせる側と聴く側の双方を考えて、広いとは言えないあの酒場でできる限り上質な音響の場を構築しようとしている。その姿勢は尊敬に値するわ」
熱のこもった声でリリアーナが囁く。その声がかき消されてしまうほどの雨でなくてよかった。
「あら、いけない」
「どうしたの?」
「わたしったら、誰かさんみたいにまどろこしい説明をしてしまったわ」
リリアーナがにやりとして、私を見つめる。どことなく昂ぶっている様子だ。今、私の隣を歩いているのは誰が見ても、雨天を傘を差してうきうきと歩いている美人だった。いったい誰が、彼女が鋼鉄の身体を持った機械仕掛けの人形などと思うだろう? 私だってそう信じるのは難しいのに。
「この雨の中、転んだら危ない。前を見ていなよ」
私の忠言に彼女は「はぁい」と間延びした囁きをよこした。
コンサートの聴衆は私が想定していた以上に多かった。
ロビンは「これだと音がなぁ……」と眉根を寄せていたが、リリアーナはさほど気にしていない雰囲気でいくつかの鍵盤を叩き、音の調子を確かめた。
そして午後五時。赤いドレスを着たリリアーナは紹介を後回しにして、最初の一曲を演奏し始めた。それまで店にあったざわめきは失せ、皆が聴衆と変わった。その演奏に耳をすませ、息を呑み、奏でられる電子の音色を味わい始めたのだった。皆が心奪われていた。
一曲目が終わると、数秒間、時が止まったみたいに静まり返って、ふと意識に雨音が飛び込んでくるのと同時に、誰かが拍手を始め、そして喝采が巻き起こった。立ち上がったリリアーナが優雅にお辞儀をしてから、店内を見回し、やがて口の前に人差し指を立てて添えた。お静かに。そのジェスチャーを受けて、また静かさを取り戻した空間。
そのタイミングで、ロビンが脇からにゅっと姿を見せて、リリアーナを紹介した。後から判明して混乱させたくないから、とリリアーナ自身が言っていたとおりにロビンは彼女を「彼女の正体は、オリヴォー家に長らく眠っていた女性型アンドロイドで、名前はリリアーナ! 今はメイドのソフィーと一緒に屋敷で暮らしているの!」と明朗な声で話した。
私とリリアーナの目が合う。いやいや、と彼女が首を軽く横に振る。私をメイド扱いしたのはロビンであるようだ。私は小さく溜息を一つつくと、まぁいいかと思い直した。周りの人にはお嬢様ピアニストロボットぐらいに認識させておけばいい。彼らが知るのはリリアーナの演奏だけでいい、そんなふうに私は思ったのだ。
ざわめく店内であったが、リリアーナが再びピアノ椅子に座って、ポロンと一音鳴らすとそれを合図にして静寂が帰ってきた。不思議だ。私以上に、ここにいる人々はそう感じているに違いない。機械仕掛けの美しい彼女が、機械仕掛けの楽器を鳴らすとき、何とも言えない甘美な心地になると。
そして二曲目の演奏が始まった―――――。
予定されていた最後の十八曲目。
演奏直前にロビンがコンサートを締めくくる最後と話していたその曲は、リリアーナの一番のお気に入りの曲だった。事実、屋敷でもよく弾いていたのを私は知っており、何度も聴いたことがあった。曲名は『2045年のトランジスタ』。発表年はそれより十数年だそうで、何世紀に渡って残り続けているいわゆるクラシック曲と比べると、かなり新しい曲だ。歴史的評価がどうであるかは知らない。人類を衰退させる大戦の予感がまだ市民たちになかった時代の曲である。
彼女曰く、その曲を弾いていると記憶がよぎるのだと言う。あたたかな日差しを受ける感覚に襲われ、花の香りがして、失ったはずの光景が甦りそうになる、そう話していた。しかし一度だってそれを確かな像として記録できた試しはない。
もしかすると彼女の電子頭脳にある、不完全で不安定な記録の残滓に過ぎず、それはいつまでも、どうやってもクリアにならないものかもしれない。そんな考察を私は言えずに今日まできたが、そうした発想はリリアーナ自身もある素振りをしていた。でも、それと曲を弾く弾かないは別で、やはり彼女はその曲を愛していた。
その演奏が終わった時に起こった。
リリアーナが停止した。
停止。機械に疎い人間であっても、それがおよそ人間が動きを止めている様子と異なるのを瞬時に理解した。仮に目にしているそれが人間であるのなら、映像の一部が切り取られ、静止画となった状態。
『2045年のトランジスタ』の最後の一音、その余韻が店内にこだまし、予定なら演奏者たる彼女が指を鍵盤から離した後でその背筋を伸ばし、立ち上がり、皆に微笑みかけて頭を下げる場面。リリアーナは指を離す、だがそれは鍵盤の上数センチで止まる。そのまま彼女の身体全体が止まる。
アンドロイドの突然の機能停止。そのとき、店内にいる人間のどれぐらいがそうだとみなしたか。たぶんその停止から一分は誰一人して思わなかった。その停止は美しかった。芸術的で、だからそれがハプニングだとは信じられなかった。
「リリアーナっ!」
沈黙を裂いたのが私の声だと自覚したのは、彼女の名を発してからだった。私は彼女に駆け寄った。そして赤いドレスを纏う彼女の、後ろの首筋に触れた。発熱はない。電子頭脳へのアクセス部分にあたるそのコンセント部分に異常はない。次に私は彼女を肩を揺さぶった。反応がない。彼女を名を何度も耳元で言う。鍵盤の上で浮いたままの指先に触れる。しかし何も応えてくれない。
絶望で背筋が凍りつき、何をどうすればいいかわからず、店内を見回す。困惑の表情を浮かべる人たちは頼りにならなかった。
私は眩暈に襲われ、そのまま右手をピアノの鍵盤についてしまった。鈍く響く不協和音。直後、リリアーナの身体が痙攣する。数度の大きなものだった。それが終わり、彼女の瞼がゆっくりと閉じられていくのを私は目にした。もう一度、反射的に彼女の名前を叫びそうになった私だったけれど、それは未遂に終わる。
「ソフィー……?」
パチパチっと。リリアーナの瞼は完全に閉じられることなく、瞬きを繰り返し、そして止まっていた彼女の時が動き出すと、彼女は視界に私を見つけたのだった。
そこから先はよく覚えていない。気がつけば、ロビン以外の従業員の一人に促されるままにリリアーナと私は別室へと案内されていた。他に誰もいない小さな部屋だった。
「リリアーナ、脱いで」
「え?」
「お願い。まずは外傷があるかどうかチェックする。思えば、最後に診たのは二週間前。自己申告形式に変更したのがいけなかったのかも。あなたが知覚できないレベルでどこか損傷している恐れがある。ドレスは一人で着たんでしょ」
「え、ええ。でも、その、恥ずかしいわ」
「なんだって? ああ、えっと、大丈夫。他に誰もいない。入らせない」
「ソフィー、わたしね……」
「ひょっとして何か思い出した?」
こくりと彼女が肯く。
私は続きを待ったが、彼女は口を閉ざすとそのままになった。事象の因果関係として、何らかの外的損傷と彼女の一時的な停止を結びつけるよりは、あの曲の演奏によって彼女の記録の一部が復旧し、その衝撃によって停止してしまったと考えるのが自然だった。ただ、そうだとしても推論でしかない。私はすべての可能性をふまえて、検証にあたらねばならない。彼女のメカニックとして、あるいはメイド、いや、家族として。
「身体に異常はない……と思うわ」
しばらくして出てきたのは、弱々しい囁きだった。私はここで彼女を説得して脱がすのは困難だと判断した。強く要求すれば従ってくれるだろうけれど、彼女を信じることにした。少なくとも後ろ首だけでなく、瞳や表情筋にも異常はない。一昨日に日光浴をたっぷりしていたのは知っているから、バッテリー残量は存分にあるはずだ。
「わかった。屋敷で話そう」
「ありがとう」
「傘を持って一人で歩ける?」
「ええ、できるわ。けれど、できなかったら貴女が抱えて運んでくれる?」
「荷車に乗せるよ」
「かぼちゃの馬車じゃなきゃ嫌よ」
私たちは笑い合う。そしてロビンに断りを入れてから、雨の中を二人で急いで帰ることにした。まずはドレスから来た時の恰好に着替える。裏口から外へ出た。雨脚が来る前より強まっていて、視界も良好とは言えない。
「あのさ、リリアーナ」
屋敷まで半分というところで私は彼女に声をかける。「なに?」と彼女はマイクを使って返す。いつもの囁き声では今の雨音には負けてしまうから。
「あなたに任せるよ。思い出したことを私に話すかどうか」
私はつい先日に三冊目に突入した調査・観察記録ノートを想う。それは最近、彼女との暮らしぶりをまとめる日記と化している。博士が読んでも、首をかしげてしまうような。それとも彼は案外、乙女心を数式で解き明かしたがるだろうか。
「話したくないならそれでいいんだ。あなたの思い出はあなた自身のものだ。そうあるべきなんだ。逆に話したいのなら話して。いくらでも聞くから。そしてそれをノートに書き留められたり、他の誰かに共有したり、そういうのを嫌がるなら私はしない。二人の秘密にする」
自然と私自身の声色に熱が帯びた。
「えっと、聞こえた?」
「ばっちりね。知っているでしょう? 耳がいいの。とってもね」
「あと顔も」
「ソフィーは面食い?」
「さぁね」
屋敷まであとは角を右に曲がって、まっすぐ二百メートル先の地点に来た時だった。リリアーナがマイクなしで何かを口にした。それを私の耳は言葉として拾えず、訊き返す。「なんでもない」とマイクで返してくる彼女に「話してみて」と繰り返す。
傘が当たる距離に近づいて私は彼女の声に耳を傾ける。いっそ一つの傘でもいいかなと思えてくる。
「あのね、ソフィー」
「うん。聞こえているよ」
「もしもね」
「うん?」
「もしも―――――」
リリアーナの囁き声に気を取られていたからだ、私はそれが角を曲がって突っ込んでくるのにすぐには反応できなかった。
スクーター。私が直したやつだ。
お金を集めて部品交換対応になったあれ。私はその乗り物が私たちに迫るのを、どこか他人事のように、暢気に目にした。
そして次の瞬間、私はリリアーナを横に突き飛ばしていた。八十キログラム超えの彼女でも私のタックルに彼女はよろめき、傘が飛んでいき……そこまで私は見えなかった。物理的な衝撃が私を襲った。
意識が途絶える前、灰色の空を仰ぐ私に影が落とされる。彼女だ。私の名を囁いている。叫び声さえも、囁き声になってしまうのは不便だろうな。そんな場違いなことを思いながら、私の瞼はひどく重くなっていった。
雨粒とは異なる冷たい何かが唇に触れた感覚がして、私は目が覚めた。夢は見ていないと思う。永遠にも思える深い眠り。そこから起き上がると、すぐそこに彼女の顔があった。
「リリアーナ……?」
そう私が呼ぶと、彼女の瞳がぱっと大きく開いて、そこには驚きと、それから喜びがあった。彼女が私を抱きしめる。そうして私は自分が横たわっていることにやっと気づく。地面にではない。天井、壁、匂い……飛び込んでくる情報と記憶とを基に、そこが病院だとわかった。
「ソフィー! よかった……無事で……よかったわ……!」
涙を流せない彼女なのに、囁かれる声は湿っぽく、私はそれにあてられて目頭が熱くなった。抱きしめ返そうとするが、全身が痛くできない。すると、リリアーナが腕を解いて私を見据える。
「貴女は大馬鹿者よ!」
「えっ。急になに」
「だって! 機械のわたしを庇うなんて! いかれているわ!」
「反省している。咄嗟の出来事への対応力は低いことに。あなたを横に押し出すのではなく、引き寄せつつ回避するってのがベストだったんだろうね。ああ、でも二人とも傘を持っていて、あなたの体重を考えると……」
「ぶん殴るわよ! なに、冷静に反省しているのよ!」
そしてリリアーナは私が初めて目にする怒りの形相となり、聞き慣れない単語をいくつも私に浴びせた。
「な、なに? どうも統一人工言語じゃないような」
「うるさい! 貴女が死んじゃったらわたしは……どうすればいいのよ」
「ごめん」
「謝って済まされないわよ! もうっ、泣きたいのに泣けないのよ」
「なら、笑って。私はあなたの笑った顔が好き」
「っ! ソフィー、そういうのはもっと別のシチュエーションで……」
私は改めて自分の状態を確認する。五体満足だ。ただし今日明日すぐに屋敷に帰れる具合ではないみたい。リリアーナに訊ねると、医師曰く、骨は折れていないらしく二週間もあれば退院可能ということだった。運がいいんだろうな、この結果は。
窓を見やる。すっかり夜だ。雨は止んでいた。
私はあのスクーターの運転手であったり、私を診てくれた医師だったり、ようはこれから話をしていかないといけない諸々を一旦は無視した。
傍にいる彼女について。これが最良のタイミングなのかはわからない。けれど、直感が告げている。今だと。
「あのさ、リリアーナ。看護師を呼ぶ前に話しておきたいことがある」
「なに?」
「まず、言いそびれていたこと。今日の演奏会、素晴らしかった。私の心、確かに震えたよ。あなたのピアノで」
「ありがとう。貴女はクラシック曲のほうが好きだったのね。反応でわかった」
「見てくれていたんだ」
「言ったでしょう? 貴女を視界に置いてリラックスしておきたいって」
「ふふ、そうだったね。前に私が『ピアノは誰かに習ったの?』と訊いたら、あなたは『おそらく、そう』と答えてくれた。今も答えは同じ?」
「どうでしょうね」
かぶりを振る彼女に、私は少し迷ってからこう続ける。
「教えてほしいことがある。うん。初めからこう言えばよかった」
「……なにかしら」
私は継続する鈍い痛みをなんとか我慢して、いつもにまして真面目な表情と声を意識的に作って、覚悟を示し、彼女に問う。
「あなたは本当にアンドロイドなの?」
リリアーナの表情が歪む。可憐な顔立ちに在る感情はもはや読み取れないレベルの複雑さだ。私が電気錦鯉を造るために調べていた時に資料で目にしたアンドロイドのいずれと比べても、高度な技術の結晶。それが彼女だった。
しかし――――これまでの観察から、ある仮説が立てられもしたのだ。
「それはどういう意味かしら」
「オールディスホットハウス社製造一般家庭用オートマトン。型番は、AM-F0417YH-LAで、公式愛称はリリアーナ。それがあなたの素性だと思えない」
「それは貴女たちが見つけたというスペック詳細やマニュアルと、わたしが違うから? でも、それは……」
「後になってアップグレードや改造が施された可能性。それはある。仮にそうだとしても、その髪と両手は特筆すべき機能だ。あなたを覚醒できたのは偶然だけれど、その太陽電池機構を有した髪がなければ、私では目覚めさせられなかっただろうな。それから手。あなたは諦めずにピアノレッスンを繰り返し、演奏をものにした。それがプロのピアニストレベルなのかはさておき、ピアノを弾くには不向きと言える指先での達成は奇跡のよう」
「褒め言葉として受け取っていいのよね」
「うん。それからその表情だったり口調だったりも、仕様を超えていると私には思える。マニュアル上に表情の全パターンが写真で記載されていたわけでない。口調については学習しだいで変容させられるとはあったけれど、基盤は統一人工言語を用いた一般的な女性口調。あなたの
「きっとそうよ」
こわばった面持ちの彼女も美人に相違なかった。彼女は私の言わんとしていることをくみ取っていて、だからこそ笑い飛ばせずにいるのだと察した。
「じゃあ、その思考はどうだろう。電子頭脳の賜物なのかな。私は先月までずっとそうだと信じていた。そうとしかあり得ないと」
「今は違うと言うの……?」
「そう、違う。今、私はある仮説に憑りつかれているんだ。つまり少なくともあなたの脳は人間そのままではないかと。ようするに全身義体のサイボーグだ」
押し黙ってしまった彼女に私は続ける。
「残念ながら、と言うべきなのかな。今のところ証拠は見つかっていないんだ。たとえば屋敷の書斎、そこにある日記の中に誰か病弱な女の子でも現れてくれれば、それをあなただと仮定できた。すなわち、オリヴォー家はかつて、家族の一員を救うためにアンドロイドをベースにして、そこに人間の脳を移植したのだと」
ただ単に電子頭脳から置き換えたのではない。髪や手、それらの特徴であり特長は生身だったときの彼女に起因するのかもしれない。たとえば日に照らされて輝く美しい髪とピアノが弾ける指。「リリアーナ」は彼女へと変貌したのだ。
だが、おそらくそれはうまくいかなかった。彼女は彼らが望んだどおりには目覚めることなくあの地下室に「保管」されてしまった。それとも、とも考える。彼女は充分に「生きた」後で自ら眠りにつくのを選んだのかもしれないと。何通りもの可能性を私は彼女に提示してみせた。
「面白い推理だわ。なんていうSF小説なの?」
「さあ。人間とロボットの境界が曖昧になる話なんて腐るほどある。敢えて現状を整理しようか。今、私に在るのは論拠に乏しい仮説のみ。でも、あなたの側にあるのはそうではない」
「つまり?」
「証明してほしい。あなた自身で。記憶を思い出したのなら。『もしも』の続きを聞かせて、リリアーナ」
すべては彼女の思考に収束する。私にはそれが機械仕掛けだとは到底思えない。理屈では知っている。喪われた文明は、人間と瓜二つの人工物を造り出すことさえもできたのだと。そのはずだと。しかしどうして、自分の目で見ておらず、耳で聞いておらず、決して触れられない、資料の中にしか存在しない彼らを信じられる?
リリアーナのようなアンドロイド、文明の遺産が世界のどこか、研究機関に完全な形で大切に保存されていると教わった。それが真の意味で絶えてしまわないようにと。でも、そんなの嘘なのでは? この星の黄昏をどこまで私たちは真実として受け止めて生きればいい? なぜ大戦は起こった? なぜその理由が事細かに教育されず、ぼかされ続けている?
――――リリアーナ、彼女は何を知っている?
「当ててみて、ソフィー」
「え?」
「わたしが貴女に問おうとしたことが何か。『もしも』の続き」
「……。たぶん『もしもわたしが人間だったらどうする?』かな」
「不正解」
彼女はそう言うと、優しく微笑んだ。そして私の髪をそっと撫ではじめる。これまでにも時と場所は違えど、私たちの間にあった光景。それが今では違うように見えてくる。彼女が人間かアンドロイドか、それをはっきりさせる価値なんてあるんだろうか。アンドロイドはどうあがいたって、心が宿らないんだろうか?
「正解を教えてくれる?」
「いいわよ、耳を貸して」
そう言いながらも彼女のほうから私の耳元にその口を近づけてくる。
「もしも――――わたしが人間だったのなら、ソフィーと恋人になれたのかしら。そう訊いてみたかったの。さぁ、答えて」
私の脳を溶かしてしまうような甘い囁き声だった。
「答えはイエスでありノー」
「こんなときまで回りくどいのね。意味を教えて」
「…………あなたがロボットでも人間でも、あるいは天使や悪魔、たとえ神であっても。私の好きは変わらない。あなたのそばにいたい」
「わたしは我儘なお嬢様よ?」
「かまわない。世話ならいくらでもする」
「ふふっ、とんだ世話焼きメイドメカニックね」
彼女が私に聞き慣れない単語を告げる。これまでに増して密やかに。
「えっと……?」
「わたしの本当の名前よ」
「素敵だね。発音しにくいけれど」
「正直でけっこう。大丈夫、これからは毎日、愛の言葉と共に囁いてくれるのでしょう? すぐに慣れるわ」
「努力するよ」
庭に色とりどりの花が咲き誇る頃、私の怪我は完治して元通りの生活に戻っていた。彼女はその花のうちでも白い花に思い入れがあり、摘むと花瓶に挿して二人の寝室に飾った。曰く、二百年前と変わらない綺麗な花だ。季節が巡れば、また別の花を咲かせたいと話している。
「曲をね、書いてみようと思うの」
私の仕事が休みで、リビングのソファで午睡を貪っていたところに彼女がやってきてそう言った。彼女はあの演奏会以来、この町のピアニストとして活動しているのだった。
「ねぇ、歌ってくれる?」
「ほへ?」
寝ぼけたままの生返事をよこす私に、彼女が「いいでしょう?」と勧めてくる。
「う、歌うって、私が!?」
遅れて彼女の提案を理解して、私は慌てて身体を起こした。
「そうよ。貴女はわたしのこの声を褒めてくれるけれど、わたしはね、ずっと貴女の声もいいものだって気づいていたわ。誰からも言われたことないって顔しているわね。それは貴女が沈黙を好んできたからだわ。でも、わたしの前ではそうではない。だから、気づいたの」
「そ、そんなので誤魔化されないし、騙されないよ。歌なんて私は……」
「何事も挑戦よ、ソフィー。夢が一つ散っても、別の夢を咲かせばいいじゃない。貴女の夢はあの機械都市では果たされなかった。けれど、それがあってわたしたちは出会えた」
「う、うん」
「ねぇ、お願い」
ずるいなと思った。
彼女の囁きは本当にずるい。私の心をこうも揺さぶる。
「はぁ……。曲名は決まっているの?」
「いいえ、まだ何も」
「ふうん。じゃあ、『月は無慈悲な夜の女王』ってのはどう?」
「それなら、『夏への扉』のほうがいいわ」
「そうかな。まぁ、オリジナルの曲名にしようか」
そうして私たちは歌についてアイデアを出し始める。百年も千年も残り続ける歌でなくていい。この星を震撼させる曲である必要はない。
ソファに腰掛けてハーブティーを啜りながら、失われた過去ではなく、これからの未来を二人で想うこの時が愛しい。そんなのを歌ってもいいな、なんて。
囁き機械令嬢と世話焼きメイドメカニック よなが @yonaga221001
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