第6話

 私の母がおおよそすべての設計を担当したその建物が、十数人の棺桶となるなんて誰も思わなかっただろう。そして被害者には母と父の両方が含まれていた。大戦前からハインラインの町中にあったいわゆる町工場の一つが建物の老朽化で移設せざるを得なくなり、その新しい工場建設を母が勤める会社が請け負ったのだ。そして落成式が新工場の一室で行われ、二人も参加した。父は工場長とよくソールド・ザ・ムーンで飲む間柄だったので誘われたのだ。


「建物自体に不備はなかった。そう聞いた。消防や建築に関わる法令に則った建築物だったと。そう聞かされたところで、大戦前と行政機関の体系も違うし、それに……ううん、そんなの今はどうでもいい。問題は出火の原因」

「町工場ということは、工作機械になにか?」


 リリアーナは伏し目がちに私に訊ねた。そうであってほしくない、でもきっとそうなのだと推察しているのが見て取れた。


「そう。電気火災であったのが後の調査で判明したの。長年使用していた電気設備機器の一つ、その損傷が激しかった。それが何らかのトラブルで出火しただろうって。原因究明には叔父さんも協力した。むしろ生き残っている工場の人たちは機械については最低限のことしか知らなかったから、叔父さんが頼りだった」


 事故の直後、私は叔父さんに「なぜ定期的に工場の機械をメンテナンスしに行かなかったの?」と問い質した。答えはわかっていても、事故を未然に防げた可能性はそこにあった。依頼もされていないのに、町にある前時代の遺産の数々を定期的に見てまわって修理するなんて、彼個人が持つ権利と行える事業の範囲を逸脱している。それが現実だった。それでも叔父さんは私に謝った。そして「ああ、俺のせいだ」と消え入りそうな声で虚空に呟いた。その絶望した表情は忘れられない。


 私はハーブティーをまた一口飲んで気持ちを落ち着けようと努め、自嘲的に笑ってみせた。


「優秀なマシンオペレーターであっても、必ずしも装置のメカニズムまで知る必要はない。粉挽きが水車の構造に精通していなくてもいいように」

「でも、そんなの……」


 リリアーナが言い淀む。

 私は彼女が慰めの言葉をそこに足す前に、話を再開した。


「そして私はハインラインを離れて、マキネで機械のことを学ぶ決意をした。この町に帰らずにそこで働いて暮らすんだって。これは第三の選択と言えた」

「第三の選択? どういう意味なの、それは」

「機械を憎んでそれらと無縁の人生をハインラインで送る、あるいはそれらの知識に乏しい人たちを恨んで、叔父さんに教わってまともな機械技師になる。そうした選択肢もあったはずだから」

「でも、貴女はそうしなかった」

「実際のところ、マキネへと発つ時に思い描いていたのはその機械都市に馴染む自分であり、数年に一度は帰省する自分だった。つまり、ハインラインを完全に捨てるつもりはなかったの。結局さ――――」


 私は手に持ったままだったカップをテーブルに置き直す。その動きをリリアーナが目で追っていた。一挙一動を逃さない、自動的に追跡するセンサーが作動しているような様子。でも、そんなのはやっぱり仕様になかった気がする。


「両親を喪ったその町を離れたかったんだよね、何としても。あれこれ理由づけをしてみても、行き着くのは逃避。不条理な死を受容できずにいた私の」


 重い沈黙。その中で、私はリリアーナがハーブティーを飲むのを眺めた。味わうというよりも間をもたせるためだけの動き。それは人間とほとんど差がない。それが止まると、私は口を開く。


「まぁ、私がマキネに行くまでの経緯は、ざっとこんな感じ。ユービック大学の短期修学プログラムを受講するためにはそれなりに苦労があったけれど」

「行ってからの苦労に比べれば些細なのでしょう?」

「痛いところを突くね。でもね、リリアーナ」


 私は彼女に微笑む。話の中で一番暗い部分を抜けて、気持ちが緩んだ。そんな私の態度を捉えかねている彼女の返す笑みはいつもよりぎこちなかった。


「私がマキネからも逃げることになった経緯、こっちについてはそう暗くもない。馬鹿らしい話だよ。当事者にとっても、今では喜劇みたいなものかな」


 私は残りのハーブティーを飲み干した。おかわりはいらない。


「リリアーナ、あなたは電気錦鯉を知っている?」

「電気、なに?」

「錦鯉」


 今度は軽い沈黙があって、そして彼女は首を横に振った。私は鯉というのは大型の淡水魚であるのを説明した。私たちの町のそばを流れる河川には生息していない。


「私も図鑑で見せてもらうまで鯉を知らなかった。ううん、電気錦鯉について言えば、実現しなかったから誰も知らないままだ」

「ねぇ、どういうこと?」

「前提として、私がユービック大学で専攻したかったのは、メディカルデバイス分野だった。でも、そのコースの受講は私のような短期修学プログラム生ではまず無理だったの。厳密に言うなら、規定の費用と共に転科申請を出したうえで、他のすべてを擲って全身全霊で勉学に励み、試験に合格すれば叶う、そう聞いた」


 不可能を婉曲的かつ冗長に表現したものだ。

 リリアーナには言わなかったが、転科のプロセスにはもう一つ、特定の教授のご機嫌どりがあるとされていた。試験に合格するために必要不可欠な。そのご機嫌どりの具体的内容として、学生たちの間でどんな行為が噂されていたか。思い出すだけでも吐き気がする。それがどうもまったくの出鱈目でない気配がしたから、なおさら。


「残りは手短に話そう」


 私はオリヴォー博士がこの屋敷で私に彼のバックグラウンドを明かしたときを思い出して、そう言った。


「希望していた道への進路が早々に断たれ、ベーシックエンジニアコースの一人の生徒として、私はやさぐれていた。退学させられないだけの成績は維持して。ただ、卒業要件があった。論文あるいは制作物とその報告書。それらを決められずにずるずると時間が過ぎていった」

「ひょっとして、そこで電気意識鯉?」

「錦鯉だよ。……学友らしい学友を持たぬまま、図書館通いをするうちに一人のおじいさんと親しくなったんだ。もとは保険屋をしていて定年退職した人だった」


 本気ではなく話の流れだったと思う、私がそのおじいさんに卒業制作について相談を持ち掛けると、彼はそれならと逆に私に相談してきた。しかも本気で。


「思い出の錦鯉を機械で再現してくれってね。それを卒業制作にすればいいって、おじいさんは私に言ったんだ」

「それが電気錦鯉」

「うん」

「思い出って?」

「彼は極東の国で少年時代を過ごした。そこに彼が片思いをしていた高貴なる少女がいて、彼女は大きな屋敷に暮らしていた。話を聞く限り、屋敷と言ってもこことは様式が違う。それは内も外も。その屋敷の庭は植物ではなく岩や砂で造られ、そして池があった」

「そこにいたのね、錦鯉が」


 リリアーナが口にする「錦鯉」は「電気錦鯉」と同じだけ神秘的なトーンを孕んでいた。今の私以上に彼女にとって縁遠い存在。彼女の記録には鯉の姿は収められていないに違いない。


「それで私は、錦鯉が泳いでいたその池と彼の初恋にまつわるエピソードを聞いた。なんていうかな、そのおじいさんにしては夢想的な語り口だった」

「ソフィーが親しくなった相手なのだから、いつもはそんな語り口ではなかったのよね。そうでしょう?」

「ご明察のとおり」

「わたしにも教えてくれるかしら。そのいかにも淡い恋物語」

「それはダメ。秘密だと約束したから。たとえもう彼が死んでいても」

「…………亡くなったのね」


 その囁きは、問いかけではなく確信だった。


「訊かれる前に言ってしまうと、おじいさんが急病で倒れていなくても私は電気錦鯉を完成させられなかった。もしも完成させるだけの力量があれば、亡くなっていてもそれを成し遂げただろうね」


 努力はした。失敗した人間だって多かれ少なかれする。私はまず図書館で、人工生命体技術を論じてまとめてある本を探すことからスタートした。その中にはあの日、オリヴォー博士が言った『アーティフィシャル・ライフ概論』もある。その本は最も早くに手をつけたうちの一冊で、そして最も読み込んだうちの一冊だ。書名のとおり、あくまで概論である。それを何度も読んでも、実践には応用しにくい。

 おじいさんが倒れた時点で、私の闘いは八か月目に差し掛かっていたが、人工生命体だと胸を張って言える機械は一体たりとも製造できていなかった。

 いよいよもってバイオテクノロジー分野にも乗り出さねばならないかと覚悟していた矢先の死だった。それは両親のものと同じく不条理に感じたが、不幸中の幸いにも、病床で大いなる眠りに沈んだ彼の表情は安らかだった。どこも黒く焼け爛れていなかった。


「そうして私は卒業制作を断念した。でも、すべてが水泡に帰すのはおじいさんにも悪かったから、人工生命体技術について研究論文を書いて、それを提出して事無きを得たの。締め切り二十分前に受理してもらった」


 卒業要件以上の評価はされなかった。そして私は就職活動をやめ、ハインラインに戻るのを選んだ。


「思えば、もう少し視点を変えていれば、オリヴォー博士の論文や著作にも辿り着いていたのかも」

 

 だが、それで結果が変わったわけではあるまい。


「こんなところかな。何か質問は」

「それなら、一つだけ訊いてもいいかしら」

「ちょっと怖いな。どうしてそんな泣きそうな表情しているの」

「わたしは泣けないわ」


 そう返されてしまうと、どうしようもない。私は短時間で肩が凝ったのを感じた。 叔父さんにだって一部しか打ち明けていない話だった。緩く話そうと思ったのに上手くいかなかった。


「どうして貴女はメディカルデバイス分野を専攻したかったの?」


 リリアーナの眼差しには迷いがあった。

 一カ月前の私ならそれをどう受け取ったかな。今の世界ではプライスレスな技術の結晶だとでもみなしただろうか。

 考え方を変えてみよう。私が今、彼女に見ている迷いは自分の迷いなのだと。彼女の眼差しは相も変わらず美しい人工器官の産物でしかなく、そこに迷いや悲哀、憐憫といった色を私が勝手につけているだけなのでは。

 でもそれって相手がアンドロイドかどうかは関係あるの? 時として、人は他者や環境に、自分が見たいものを見る。


「言いたくないのならそれでもいいわ」

「ずるい言い方。それは最初に提示しておくべき条件。リリアーナ、あなたなら察しはついているんじゃないかな。ここまでにヒントはあった」

「わたしから言ってみていい?」

「どうぞ」

「もし仮に、卓越した機能をもつメディカルデバイスがあれば、貴女の両親の命は繋ぎ止められた。貴女はそれを知ったか、何かを根拠にそう判断した。だから……」

「半分だけ正解」


 私は立ち上がって、空になった二つのカップを手に取る。彼女の目が訴えかけてくる。もう半分を教えて、と。


「当時の私が知り得たのは、父母が負ったレベルの火傷と中毒症状から回復させるだけの技術も機械も薬剤もこの町にはないってこと。それが過去の文明にあったか、今のマキネにあるかはわからない」

「貴女はそれを自分の手で造り出したいと思った?」


 私は何も返さずに、でも微笑んでみせて、カップを洗いにキッチンに向かった。リリアーナが示したそれを正解だと認めたとして、今ここにいるのは夢破れて故郷に戻ってきた惨めな機械技師もどきなのだった。

 私は両親との会話、それにおじいさんとのやりとり、そういった失われて永遠に戻らない時を思い出しながらカップを丁寧に洗った。私はそれらと眠りの中で時々、すなわち夢の世界で出会い、別れるを繰り返す。忘れ得ぬ記憶がそうさせる。

 ふと思った。機械仕掛けの彼女。彼女の「思い出」とこれから先の未来。

 ――――リリアーナは電気錦鯉の夢を見るか、と。 




 リリアーナに私の過去を話してから数日後、彼女は私に修理を一件頼んできた。私が何を修理してほしいか訊ねると彼女は私を、屋敷の一階のとある部屋に招いた。部屋の扉の前まで来たときには、私もその部屋に何があるかを思い出していた。

 その広々とした部屋にあったのは一台の電子ピアノだった。それが最もわかりやすい表現だろう。アコースティックピアノに音と形を似せて作られた代物。大きさからして、持ち運びは難しい。外装は黒色。


「ピアノを弾きたいの?」

「そう。直せそうかしら」

「どうかな」


 私は彼女がピアノ演奏技能を搭載していないのは知っており、それは彼女の手がピアノを弾くのに最適化されていないのを意味していた。たとえ楽譜を読むことができ、弾き方をある程度は習得できたとしても、微妙なタッチの強弱をつけるのは指先の知覚センサー等のスペック上、不可能なはずだ。ピアノを巧みに弾くのと生卵を握りつぶすことなく掴むのとでは違う。

 それは別としても、その電子ピアノの壊れ具合だ。私は電源プラグのついたコードを近くのコンセントに差し込み、調べ始めた。リリアーナは事前に、電源を入れれば音が出るには出るのを確認済みとのことだった。

 

「うーん……」


 パネル中央のディスプレイ表示が乱れていたり、プリセットスタイルのほとんどが実行不可となっていたり、内臓曲の自動演奏再生のリクエストが悉くキャンセルされたり、内部機構のいくつもの故障に加えて、鍵盤の損傷もあった。原因はわからない。地震か何かあって、本体が倒れでもしたのだろうか。


「リリアーナは、電子ピアノならではの機能を何か使用したいの?」

「いいえ、そうではないわよ。わたしはこれを使って演奏できればいいの。なんだったら、不要な機能は取り除いてほしいぐらい」

「それはできないだろうね。このピアノは伝統的な造りのピアノに何かをプラスしてできあがっているわけじゃない。ましてやマイナスでもない。似て非なるものだ」

「それで、問題なく弾けるようにできそう?」


 どうやら講釈は不要なようだ。リリアーナの関心は、このピアノが楽器として充分に成立するか否かにある。私からしてみれば、今も音が出せるならそれでいいと思うが、彼女の考えではまだこれは、ピアノではない。


「あなたを信じていないわけではないけれど」

「なあに、その変な前置き。そろそろ気の置けない仲になりたいものね」

「……直すのには時間と手間が少しかかりそうなんだ。調律と破損した鍵盤の自作が主な作業になると思う」

「調律?」

「言葉の綾だよ。音の入出力やそのほかの電子制御システムに異常があるかどうか、詳しくみてみないと。音感を頼りにではなくて、搭載されている自己診断プログラムによってトラブルシューティングを見つけ出せればうまくいく」

「そんなプログラムが備わっているの? でもそれとわたしへの信頼がどう関係してくるのかしら」

「ええと、もし直らなくても私を責めないでほしいし、もし直ったのならすぐに飽きたり諦めたりはなしだ。いい?」


 リリアーナは腕組みをした。そしてその表情はムッとしている。私は言葉を探した。たしかに今のはまずい言い方だったかもしれない。

 しかし、彼女は不意に脱力したような面持ちと変わった。


「わたしは自分のためだけにピアノを演奏しようと思っていないわ」

「え?」

「それが答えにならないかしら」

「でも――――」


 彼女は私が何か言う前に、一本のその細く冷たい指先を私の唇にあてた。それが即座にできる距離。マイクを彼女に渡した後でもその距離感が私たちの普通だった。


「ソフィーが音楽の良し悪しがわかるかどうかなんて関係ないの。かといってわたしの側に貴女の心を震わす音楽を奏でられる自信が大いにあるのでもない。そのうえでわたしは挑戦するのよ。じっとしていられなくなったのだわ。わたしはお人形さんではないのだから」


 彼女が指を離す。そっと。そして私へと見せる笑みの美しさに頭が焦がされる。


「ふふっ、一種のレジスタンスなのかしら。それともリベリオン? まさかレボリューションではないでしょう?」

「あなたが機械であるのは脇に避けておこう。私たちの仲が深まった。そう考えてもいいんじゃないかな」


 彼女はすっとその顔を私の耳元に近づける。


「まだまだよ」


 ぞくぞくっとした。

 そのこそばゆさに悶えながら、私は静かに肯いた。




 それから一カ月が経った。

 庭の菜園区画に植えられたトマトは実をつけているが、まだ熟していない。ラディッシュは二回目の収穫が終わったところ。芋類はまだ。いずれも量としては店に卸せるほどには作っておらず、質もそこそこのものになりそうだとリリアーナが話していた。屋敷には本は残っていても、魔法みたいな肥料は残っていなかった。

 何種類か植えた観賞用の花はまだ咲いていない状態だ。少し前、心待ちにしている彼女に「でも、食べられないんだよね」と口にしたら睨まれてしまった。

 

 電子ピアノはリリアーナに依頼されてから一週間後には諸々の調整が完了して弾けるように仕上がった。マキネで見せてもらった電子オルガンの類とは製造年代も構造も違ったから苦戦した。

 ピアノがある部屋を私たちは音楽室と呼ぶことにしたが、そこには数百の楽譜が収められた書棚があった。紙媒体であること、そしてピアノの製造年からしても大戦後に収集されたものだと推測した。リリアーナのピアノレッスンはほぼ独学で行われた。なにしろ先生がいないのである。

 ハインラインの町に音楽がまるっきりないのではない。たとえば学校では音楽という教科が存在した。ただ、音楽のみで生計を立てている人間というのはこの町では一握りだ。研究職に至ってはゼロだろう。音楽をこよなく愛する人たちは、別の仕事をしながら古い楽器を持ち寄って演奏する。たとえば、その場所にはロビンたちが営む、ソールド・ザ・ムーンも含まれていた。

 

 話を戻すと、リリアーナのピアノレッスンは難航しているみたいだった。彼女は時間があれば練習に打ち込んでいたが、私も時間が許す限りはリビングではなく音楽室の椅子に座って読書をするようにした。彼女の指先に何か機械的な問題が生じる前に、兆候があればすぐにでも中断させるつもりだった。過負荷を与えないためにも、一日最長六時間までと約束した。

 



「わたしから提案があるわ、ソフィー」


 さらに二週間が過ぎ、つまりはリリアーナがレッスンを開始してから二カ月近くした頃、彼女は演奏後にそう言った。離れたところで座って聴いていた私に対し、マイクをわざわざ使って。


「いいアイデアだと思う」

「あら、わたしが言おうとしたことがわかったの?」

「両親と暮らしていた頃、二人はよく私の心を読んだものだった。もちろん、彼らがテレパシー能力者だったんじゃない」

「貴女はわかりやすい女の子だったのね」

「それは……どうだろう」

「冗談よ。でも、賛成してくれてよかった。反対されたらどう説得しよう、トマトピッツァやトマトパスタの作り方を調べないとかしらと思っていたの」

「採れたてのトマトが美味しかったのは認めるけれど、何もトマトが大好物ってわけじゃないよ。パスタなら……九歳の誕生日に食べたフェットチーネのカルボナーラが記憶に強く残っている。あれから十年以上が経っているなんて信じられない」


 彼女がそうしてくれないから、私から彼女に近づく。私は彼女の囁き声が好きなのだ。それは私にとってはもう機械音声ではない。


「あなたは外で演奏したいんだよね。たとえばロビンの店で」

「ええ、演奏会を開きたいの。これが儲け話になるかどうかは、わたしよりも周りの人たちしだいね」

「うん。さっそく今日の午後にでも二人で頼みにいってみよう。それと、電子ピアノを運搬する準備しないといけない」

「前にロビンが服を持ってきてくれた時に使っていた荷車はどうかしら」

「ありだね。正確な数値は知らないけれど、これは百キログラムないだろうし、もしかするとリリアーナより……」

「ソフィー。口は災いのもとよ?」


 私がぴたっと話を止めて、口を閉じるとリリアーナが笑う。それで私もつられて笑った。彼女による演奏会。楽しみだと素直に思う。彼女のピアノの腕はこの期間でかなり上達したと私でも感じる。それは彼女の仕様上、ありえない事態のはずだが何か理由があるのだろうか。たとえばピアノ側のタッチ感度のコントロールがうまくいって、彼女でもそこにわずかな差異をつけられるようになったとか。


「ところで、ソフィー。貴女のほうは何か進展あった? 最近、また書斎で調べ物しているのでしょう?」

「今のところ成果なし。でも、オリヴォー家の歴史を細部まで紐解いていけば、必ずあなたに繋がる手がかりがあるんじゃないかって」


 オリヴォー家で生きた人々の個人日記も何冊も見つかっている。事業記録やアルバムも。ハインラインの産業や教育、行政部分にまで貢献していた時代があったのが判明した。


「『リリアーナ』の記述は見つかっていないのよね?」

「うん。それは意図的に紙媒体として残されていないか、それとも後から消去したのか。後者であればその改竄の痕跡はあってもよさそう。ただ、他にも可能性はある」

「というと?」

「別の名称で、つまり暗号化されて記されているっていう線」

「わたしが隠匿しなければならない存在であったということかしら」

「だとしたら、徹底的に記録を残さない方針をとるだろうね」


 リリアーナは首をかしげる。

 私は仮説の域を出ない話をそれ以上は続けなかった。

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