5

 長くてきれいな黒髪が好きだ、ということに気づいたのは、十二歳の頃だった。

 なんで好きなのかといえば、それはたぶん、俺が小学校に上がる前によそに男を作って出て行った母親が、そういう髪型をしていたからだろうと思う。とんだマザコンだと自分でも呆れるが、自覚したところでどうにかできるものでもない。

 だから俺は今まで、黒髪ロングの女の子としか付き合ったことがない。それに別れる原因も、例外なく髪の毛だった。付き合った子たちにはいつも、今のその髪型が似合っていると思うこと、好みの髪型が黒髪ロングであることは伝えるのだが、さほど重要なことではないと思うのか、何年かするとみんな髪型を変えてしまった。俺にはそれが耐えられなかった。気持ちもそうだし、身体的にも無理だった。彼女たちから長くてきれいな黒髪が消えてしまうと、俺は途端に勃たなくなった。そんな風だから、たとえ自分から別れ話を持ち出さなくても、結局はレスになってフラれてしまうのだった。

 もう諦めよう、と決めたのは、二十八歳の誕生日だった。その頃ちょうど、俺は二年間付き合っていた彼女と大喧嘩をして別れていた。俺がいつもきちんと理由を言わないせいで、別れる時はどの女の子とも必ず揉めた。必要以上に相手を傷つけたこともあったし、自分自身が無駄に傷ついたこともある。だけど俺には、本当のことはどうしても言えなかった。それがもう、俺には辛かった。悩んでいたし、疲れていた。

 友人に相談してみたことも、実は一度だけある。言うつもりはなかったのだが、酔った時につい口が滑ってしまったのだ。酔っていたとはいえ決死の俺の告白は、しかしずいぶんと軽く受け取られただけで終わった。友人は笑いながら「黒髪ロングの子を取っ替え引っ替えすりゃいいだけじゃん」と言い、まるでわかったかのような顔で、「いいよね黒髪ロングの子、おとなしそうでかわいいよね」などニヤニヤしながら続けた。そういうことじゃないんだ、とアルコールで鈍った頭で必死に説明しても、結局何も伝わらなかった。

 俺はただ、長くてきれいな黒髪の人に、ずっと側にいてほしかった。だけどそれは難しいことだったのだと、三度にわたる別れの中でようやく気づいた。人間には意思がある。好みや気まぐれや、思いつきがある。変わってしまうし、離れてしまう。だったらもう、最初から求めない方がいい。そう思った。哀しかったが、仕方なかった。

 俺は二十八歳になったその日、通販で黒髪のウィッグを購入した。百パーセント人毛とかいう、五万円もする高価な代物だった。一週間後にそれは届いて、恐る恐る触れてみると、確かに本物の髪の感触がした。

 最初はただ、触れるだけで満足だった。ひとりきりの部屋で、枕元にそれを置いて、抱きしめて眠りにつき、時々は触れながら自慰をする。それで充分だった。充分、満たされていた。

 けれど時間が経つにつれ、俺はだんだん欲深くなった。枕元の髪の毛は、いくら本物の人毛を使っていても、人の頭についていないせいで味気なかった。

 だから今度は、自分で被ってみた。

 鏡を見ると、目の前には奇妙な生き物が立っていた。自分と同じ顔を持ち、しかし自分にはないはずの、理想の長い黒髪を持つその人物は、鏡の中にひとりきりで立っていた。俺はそっと片手を持ち上げ、鏡の中のその生き物を見つめたまま、自分の頭をゆっくり撫でた。黒い髪はさらさらしていて、触り心地が良かった。

 それからは、毎日ウィッグをかぶって寝た。安心して眠りにつけたが、だけどそういう自分を、俺の心は受け入れなかった。俺は自分自身を、不気味な生き物だと思った。気持ち悪いと思ったし、怖いとも思った。なのに身体はバカみたいに反応した。そのうち自慰をする時も、ただ触るだけではなく、ウィッグをかぶって鏡を見ながらするようになった。毎日、なんでこんな風になってしまったんだろうと考えた。考えて泣いた。鏡の中で涙に歪んでいる俺は、ますます不気味な、壊れた生き物のように見えた。

 美咲に出会ったのは、それから二年後のことだった。

 合コンの数合わせで無理やり連れてこられた俺は、遅れてやってきた美咲の容姿に釘付けになった。美咲は、長くてきれいな黒髪が、とてもよく似合う女性だった。

「あっ髪型変えたんだ?」

 女性陣のひとりが、彼女に声をかけていた。俺はその言葉に酷く落胆した。やはり今だけなのだと思った。彼女もいつか、染めたり切ったりしてしまう。変わってしまう。消えてしまう。

 しかし美咲は笑いながら、「ううん」と答えた。

「これからずっとこの髪型だよ」 

 ずっと、という言葉が、俺の胸に静かに刺さった。

「色々試した結果なんだよね。十代の頃から十数年、二か月ごとに違う髪型と色にしてさ。もう全部やりつくしたと思う。大変だったよ。特にブリーチ重ねがけしてる時とかは、髪も傷んでたし。でも結局、黒髪ロングが一番似合うと思ったの。だからもう、ずっとこれでいくの。パーマもかけない。黒髪の、ロングの、ストレート」

 決めたの、と言って美咲は笑った。口元は微笑んでいたが、その瞳は真剣に見えた。俺は、この子なら別れないで済むかもしれないと考えた。この子なら、今度こそ、俺の側にずっといてくれるかもしれない。いなくならないかもしれない。

 俺の猛アタックの末に付き合い始めた美咲は、それから本当に、ずっと髪型を変えないでいてくれた。仕事中は髪を結ぶが、帰宅すれば降ろしてくれる。彼女は優しかった。俺の願いを叶えてくれた。

 五年付き合って、俺はとうとう結婚を決めた。ずっと変わらないきれいな黒髪でいてくれる彼女と、ずっと生きていくことを決めた。

 だけど俺は結局、美咲にちゃんとは言えなかった。新居に越してきた時でさえ、俺はあのウィッグを手放せなかった。クローゼットの奥の紙袋にしまい込んで、見ないふりをしていた。

 だけどもう、決着をつけなければならない。

「──本当に好きなんだ、その髪が」

 俺の首が、俺を見ている。

「俺さ……」

 鏡に映ったあの日の奇妙な生き物が、じっとこちらを見詰めている。

「俺、美咲の長い黒髪じゃないと勃たないんだ」

 一息に言って、そして黙った。

 美咲は、ほんの少し口を開けて、黙ったままこちらを見た。

 俺は言葉を続ける。

「だから、短くしないで、染めたりも絶対しないで欲しいんだ」

 絶対、と、俺はもう一度、縋るような声で言う。

「絶対。ずっと。一生」

 こちらをじっと見ている首が、口元に弧を描く。

「……なあに、それ?」

 美咲は腕の中で身じろぎして、俺に顔を寄せてきた。長い黒髪がぱさりと動く。きれいだ、と思う。美咲の髪はきれいだ。

「変なの。でも、まあいいよ。約束してあげる」

 美咲は微笑んで言った。

 あまりにも軽い返事に、「本当に?」と俺は聞いている。首はまだ、じっとこちらを見つめている。

「うん、本当。いいよ。どうせ決めてるから、短くしないし染めないって。色々試した結果なんだって言ったでしょ? 私はこの髪型が一番似合うの。一生これでいくの」

 俺がすぐに反応できずにいると、美咲は「あっ」と思いついたように声を上げ、「老後の話だった?」と引き続き軽い調子で続けた。

「年齢には勝てないよね、どうしても白くはなっちゃうし。それに薄くなる可能性もあるかもしれない。だったら染めるとか……あ、ウィッグでもいいかもね。職場の後輩にコスプレが趣味の子がいるんだけど、最近のウィッグって結構質がいいらしいよ。良いやつ買うともうウィッグってわかんないんだって」

 ウィッグの話に俺は一瞬どきりとしたが、美咲は俺の様子に気づいていないようで、そのまま話続けた。

「あーでも、髪白くなる頃にはそもそもセックスできるかわかんないか。そういうのってどうなんだろうね? 自分のおじいちゃんとおばあちゃんには気まずくて絶対聞けないよね」

 急に真面目な顔をした美咲に、俺の緊張は急に解けた。

「確かに、それは聞けないよな」

 小さく吹き出す。美咲の向こうで、首も笑っている。

「……ねえ淳、もしかして泣いてる?」

 頬に手を添えられ、美咲が顔を覗き込んできた。視界が彼女の顔と髪でいっぱいになる。

「泣いてないよ」と答えたが、「泣いてるよ」と断定された。もう一度「泣いてない」と言いながら鼻をすすると、「鼻声じゃん」と笑われる。

「ずっと悩んでたの? もう、深刻にならないでよ。大丈夫、引かないよ。私淳のこと好きだもん。それに、前からそういうの、わりと気づいてたし」

「えっ」

 俺は驚いて声を上げる。「だっていっつも髪降ろしてって言うじゃん」と言いながら、美咲は俺の首に両手を回してきた。視界が少し開ける。チェストの上に乗っている首が、笑っているのが見える。

「最中もずっと触ってるし、嗅いでるし。終わったあともこういう感じだし。変わってるなって思ってたよ。だけど別にいいかと思ったの、どうせ私はこの髪型変えないし。だからプロポーズも受けたんだよ」

 くすくす笑いながら言われて、肩の力が抜けた。

「……そっか」

 そっか、と呟くように繰り返すと、首が目を閉じたのが見えた。

 首はそのまま、すう、と、溶けるように消えていく。

「……ありがとう、美咲」

 そう言った時には、首はもうどこにもなかった。

 ありがとう、と俺はもう一度言う。美咲の髪にキスをしながら、俺はもう、あれが二度と俺の視界に現れないだろうことを悟った。

 あれはもう、俺には必要ない。

 だって俺にはもう、美咲がいるのだから。

 長くてきれいな黒髪の人が、ずっと側にいてくれるのだから。




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羽衣麻琴 @uimakoto

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