第七話 肉が大きく膨れ上がって
ファロの話によると、化け物を目撃したのは今私たちがいるのと同じ階——迎賓フロアで、時期はつい二、三日前のことだという。月明かりのない真っ暗な夜だった。まどろみの中でふと物音を聞いたような気がして部屋の外に出てみると、廊下の突き当たりを何かが横切った。
二本の足で歩いていたので、初めは人だと思ったのだという。だが直後、燭台の灯りがその禍々しいシルエットを浮かび上がらせた。
「この世の物とは思えねっ、恐ろしい見た目でした……」
人間ならあって当然の頭部がなく、その代わりに胸部から肩にかけての肉が大きく膨れ上がっており、そこに無数の目玉がついていたのだと。
それを聞いたメルが「ううっ……怖い話は苦手〜」と耳を塞ぐ。
「あだす、あの化け物が〝行方不明事件〟とも関係している気がしてて……」
「行方不明事件?」
「はい……ここひと月の間にこの居館で人が何人も居なくなってるんです」
「居なくなったのはどんな人たち?」
尋ねると、ファロは首を横に振る。
「雑用係から兵士まで、年齢も性別も役どころも様々です。あだすの知ってる限りでも七人」
「七人も……」
ひと月で七人は相当な数だ。それに居なくなった人たちの属性がバラバラというのも、謎が深まる。仮に彼らが自発的に居館を去ったのだとすると、異なる属性の者たちがほぼ同時期に去るのに相当の理由がなければならない。だけど、それに関してファロは何も思い当たる節がないという。
また、
「行方不明になった人たちの間にはー、同じ居館に出入りしているという点以外、ほとんど繋がりはねがった感じでした」
「なるほど……ところでそういう事件が起きた時って、それを捜査する専門の機関みたいなのがあったりするの?」
「いえ、専門の機関はねえんですが、兵士長のドンゲさんがそういうのを任されてます」
「へえーあのドンゲさんが」
単に感心しただけで含みはない。
「話は戻るけど、化け物が居館をうろついているのを見たって人は他にいない?」
ファロは首を横に振って否定する。ファロは打ち明けたのは初めてだと言うが、実はすでに噂になっているという可能性はないだろうか? いや、その場合警戒体制がもっと厳しくなっていてもおかしくない。居館内を化け物がうろついているのが周知の事実となると、早々に見つけて対処しなければならないだろう。でもここにくるまでの回廊に警備の兵士はほとんどいなかった。ならばやはり目撃したのはファロだけなのか……それともファロのように言い出せないだけなのだろうか……?
いや、ちょっと待って……ファロには一緒に働いている同僚や上司がいるはず。いつも一緒にいるはずのその人たちには話せず、会ったばかりの私たちに打ち明けたのは何故だろう? もしかしてファロは身内に何らかの不信感を抱いているのではないだろうか。
「ファロ……言いにくかったら答えなくて構わないんだけど——」
言いかけたその時、ドォンという凄まじい爆音と共に建物が揺れた。
「ひゃっ!!」
メルが短い悲鳴を上げた。ファロが立ち上がり窓の方へ駆け寄った。私もその後に続く。窓からは城砦の街が一望できた。居館に近しい街中で黒煙が上がっている。
「クコキテの攻撃かもしれねえです。でもここにいる限りは安全です」
直後——ファロのその言葉を裏切るかのように、ガラスの砕け散る音がした。巨大な黒い塊が視界の端に映り、視線を移すと、そこには見るも悍ましい生き物がいた。
手足の長い猿を思わせる体躯には体毛がなく、ドス黒い表皮にはぬめりを思わせる光沢がある。背中には所々破れてボロボロになった皮膜の翼が生えており、剥き出しの長い牙を持つ醜悪な頭部は真円に見開いた眼球も相まって深海魚を連想させた。
「〝ガーゴイル〟です!」
ファロが叫んだ。
「ファロの言っていたのってこの化け物!?」
「いんや、
ファロが懐から金属製と思しき短い棒を取り出した。金の装飾の施されたそれは馬鹿でかい万年筆のようにも見える。え!? それでアイツを何とかしようって言うの……?
唖然としているとメルが駆け寄ってきて、私の腕を掴んだ。咄嗟に周囲を見回して逃げ道を考える。右手に見える部屋の出入り口は魔物が居る側にある。左手には窓。窓から飛び降りてあの崖の時ようにメルに体重を調整してもらい、怪我なく着地するという手もあるが——化け物を一瞥する——相手は飛ぶのが得意そうだ。
「〝
ファロが叫びながらデカ万年筆を化け物に向けて突き出す。途端、その先端から猛烈な吹雪が噴き出した。吹雪は私たちの髪の毛と部屋中の物を舞い上らせながら、あらゆるものを雪と氷で覆い始めた。化け物は凍てつく風を正面からもろに受け、腕を交差させながら後ずさった。嫌がっているように見える。
「うわー! すごっ!! キイロちゃんあれ魔法だよ絶対!」
メルが目を輝かせながら身を乗り出す。そんなことより寒すぎる。凍死しそうなくらい寒い。メルは何で平気なの……? むしろめっちゃ嬉しそうだし。犬ですか? ガチガチと奥歯を打ち鳴らしていると、ファロがデカ万年筆を掲げたままこちらを振り返った。
「お二人とも、今のうちに逃げて下さい! 多分そんなに長くは持ちません!」
「に、逃げたいのは山々なんだけど、どうも逃げ道が塞がれてるような気がして……ていうか寒っ!」
ファロの魔法で化け物のみならず、こちら側の窓や入り口のドアまで氷に覆われてしまっている。
「わ!? げげっ!! も、もうしわげね……」
この吹雪は状況からして彼女が起こしている物だろう。私も段々異世界に慣れてきた。恐らくはファンタジーでよくある魔法というやつだ。使用するのにMPみたいな概念があるのかもしれない。こんなに寒いのにファロの額には汗が滲んでいるのがその証左だ。表情にも明らかに疲弊の色が浮かんでいる。
化け物の方を見ると、雪や氷に覆われながらも、完全に凍ってしまわぬよう腕を振り回したりして抵抗を続けている。ファロの言うようにこの足止めは長くは持たないだろう。
どうする? 逃げ道はなく、化け物が動き出すのは時間の問題——この状況を切り抜けるにはどうすればいい?
「ピンチになったらまずは観察……」
部屋を見回す。雪に覆われ始めているが、どこに何があったかは大体覚えている。ベッドの方で視線が止まる——と同時に、この状況を切り抜けるアイデアを思いついた。
「上手くいくかどうか……」
わからないが、他に方法はなさそうだ。
「メル! 手伝って!」
「わわっ!? キイロちゃん!?」
メルの手を引き、駆け出す。二人でベッドを挟むように立ち、雪を退けてブランケットを引っ張り出した。
「キイロちゃん別にいま焦って干さなくてもいいんじゃない……?」
「そうそう、外が晴れてるから今のうちにと思って〜……って、ちゃうわー!」
べしっ! と思わず床にブランケットを叩きつけてしまった。
「干すんじゃなくて、被せるの。あの化け物を頭からすっぽり」
慌てて拾いながら説明する。
「なるほど……ちょっと怖いから隠しちゃう感じだね」
「えーっと……どっちかっていうと、害虫駆除かな……」
「なるほどーそれなら任せといて。メル怖いけど、やるよ。〝中卒ねこを噛む〟っていうでしょ」
中卒……まだ高校二年なのにすでに卒業を諦めているのだろうか……。もしかして、単位足りてない?
「〝窮鼠ねこを噛む〟ね……じゃあ、行くよ……」
化け物の方を見据えながらブランケットの端を強く握る。脚がガタガタ震えている。寒さのせいだけではない。
「……元の世界に帰ったら勉強教えてあげる」
「え、ほんと!? メルめっちゃバカなんだけどいいの!?」
「バカは自分のことをバカって言わないよ。あと、中卒でも高卒でもねこを噛んじゃダメ」
「うんわかった!」
二人でブランケットの両端を握り、同時に駆け出す——が、足元が滑ってバランスを崩してしまった。雪道を舐めてはいけない。
「す、滑ると危ないから慎重に行こう!」
「あいさー!」
雪を踏みつけながらファロの脇を通り、化け物の方へ——じりじりと目標が迫る。化け物は氷に覆われてほとんど身動きが取れなくなっている。しかしファロも肩で息をしていてもう限界が近そうだ。
「お、お二人とも! 近づくと危ねえです!」
凍った化け物を挟むように立ち、メルと息を合わせて一気にブランケットを被せる。
そして——
「メル! このブランケットをめちゃくちゃ重くして!!」
「うんわかった!」
メルがブランケットに触れた直後、氷の軋むメキメキという音が響き、間をおかずして自動車事故のような凄まじい衝撃音と共にブランケットが床まで落ちた。さながらイリュージョンショーだ。瞬時に化け物が消え去ったのように見えた。平べったくなったブランケットの周囲の雪が黒々とした液体で染まっていく。でもそれが何であるか深く考えることは躊躇われた。
化け物とはいえメルに命を奪わせてしまったことに罪悪感を抱いたけど、当のメルは「おお! 退治しちゃった!」と興奮気味だ。
「やったね……」
微笑みかけたその時、ファロが掠れた声で「メ……メルさん後ろ!」と叫んだ。直後、メルの身体を黒く長い悪魔のような腕が羽交い締めにした。見上げると、倒したはずの化け物が全く無傷の状態でそこにいた。
「な、なんで……」
動揺と恐怖で体がすくみ上がってしまった。
「
化け物が囁くと、メルの首ががくりと垂れた。化け物はそのまま後ずさると、ガラスの割れた窓から後ろ向きに飛び降りた。ファロが足を引き摺りながら窓に駆け寄り、そこから腕を伸ばして何度か呪文のような物を唱えた。私はその場で膝から崩れ落ちた。メルが連れ去られてしまった。でも私はただ、呆然と見ていることしかできなかった。
「おい! 大丈夫かー!?」
ドンゲの野太い声がして、直後に扉を蹴破る音が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます