第三話 ヤダ……オチ……

「メル……音が鳴ったら走って」


 小声でメルに告げる。小石を入れていた方と反対側のポケットを探る。よかった、落としてなかった。スマホを取り出して、動画の再生ボタンを押し、そっと足元に置いた。

 巨獣の荒い鼻息が聞こえる。大口を半開きにして、歯列から涎を垂らしながら、一歩ずつ前進してくる。私たちはすでに崖ギリギリのところまで後退していた。もう後がない。振り返り、崖の下を覗く。高さは数百メートルはありそうだ。遥か下には霧に包まれた森が広がっている。心臓が浮くような感覚を覚えた。


「え……? 走るってどっちに?」


 その時、足元に置いたスマホから先ほどメルが撮影した動画の音声が大音量で鳴り響いた。


〝キイロちゃん、メルやばいこと思い出しちゃった!〟


 すかさず巨獣が反応する。


「ウォオオオオ! エサァアアアアア!」


 私たちは裸足のまま崖沿いに駆け出した。横目に、巨獣がラベンダーを踏み荒らし、涎を撒き散らしながら、スマホを置いた地点まで一直線に疾駆するのが見える。

 やはり、予想通りだった。あの巨獣は聴覚と嗅覚を頼りに狩りをしている。森を抜けて私たちを追う速度があからさまに低下したのは、ラベンダーの芳香が私たちの匂いをかき消したからだ。巨獣はそこで聴覚を頼ったに違いない。だが不幸中の幸い、私たちは恐怖のあまり息を殺していた。

 そこにあの動画の音声——メルと私エサの声が響けば、間違いなく突っ込んでくるだろうと考えた。アラームではダメだ。逆に警戒される可能性がある。

 また、動画を回し始めて、メルと目が合い、彼女が話始めるまで約二十秒ほどの余裕があった。時限装置としても最適だったのだ。


〝ああ……またお母さんに怒られちゃう。やだー!〟


 動画のメルの声が一段大きな音で響くと同時に、巨獣が大口を開けてスマホを置いた地点に突っ込んだ。そのままの勢いで、崖から落下——


「やった……!」


 ——と思いきや、巨体に似つかぬ俊敏な動きで身体を百八十度回転させ、熊のような前足で崖っぷちにしがみついた。


「嘘でしょ!?」


 突然、足元が強く揺れた。一瞬地震かと思ったが、どうやらもっと最悪な事態が起きているらしい。刹那の浮遊感と共に、ズン、と地面がのだ。


「げ……!!」

「あわわわ、キイロちゃん! メルなんか嫌な予感がする」


 ズズズズ、と地鳴りのような音が響いている。ラベンダー畑が異様に盛り上がって来た。

 いや、私たちが下がっているのだ。


「メル走って! 崖が崩れる!」

「ひえええ!」


 森の方に駆け出す。だが地面の傾斜がどんどんキツくなっていく。ほとんど這い上るような姿勢になり、ラベンダーを束で掴む。背後でメルが悲鳴を上げた。振り返り、メルの腕を掴んでひっぱり上げる。視界の奥で巨獣が崖際で足掻いているのが見えた。


「ヤダ……ヤダ……オチ……オォオオオオオ!!」


 不気味な声を上げながら、巨獣が崖から滑り落ちた。傾斜がほとんど垂直になり、もう私たちもしがみついていられなくなった。


「キイロちゃん……もう手を離していいよ」

「いや……絶対に離さない! この手を離すくらいなら、私も一緒に落ちる!」

「もう手を離していいよ。大丈夫だから」

「メル……」


 そうだよね。当たり前か。最後まで一緒に。メルもそう思ってるんだよね。私はメルの身体を抱きしめた。


「メル……ごめん……」


 限界だ。とうとう、ラベンダーの束から手が離れてしまった。重力がもの凄い勢いで、私たちを遥か下にある地面の方へ引っ張っていく。強く目を閉じ、落下の風を受けながら、まああんなバケモノに噛み殺されるよりはマシな死に方かもしれない、なんて思っていると、どういうわけかその風が徐々に弱まっていった。そして終いにはピタリと止んだ。


「……アレ?」


 目を開けると、メルの制服の生地と、その向こうに青空が見えた。

 と、メルの声が頭上から聞こえてくる。


「やばかったね。あ、でもまだ掴んでてね。離れると多分やばいから」

「ど、どどど、どうなってるの……?」


 もはや落ちてはいない。それは感覚的にわかる。かといって着地も衝突もしていないのである。つまり——


「う、浮いてる!?」

「うん。女神って人から貰った〝スキル〟ってやつ。何度か説明して貰ったんだけどその時はよくわからなくて……あ、でも結果上手く行ったからラッキーだよね」

「女神……? スキル……? 何それ」

「え? さっきの森に来る前、キイロちゃんも女神って人に会ったでしょ?」


 ……何それ?


「うん、自分と自分が触れている物の重さを変えられるんだって」

「お、重さを……変えられる……?」


 非常に不服だけど、もうここが異世界であることは状況的に認めざるを得ない。地球には存在しない巨獣に追われ、今や私たちは宙に浮いている。元の世界ではあり得ない現象だ。

 メルの言葉が真実なら、私たちは昨今のラノベのテンプレの一つである異世界転移というやつを体験していることになる。


「……スキル貰ったってことは勇者かなんかだよね私たち。女神に望まれてここに来たんだよね……じゃあなんで森なわけ!? おかげで死にかけたし! せめて祭壇とかほこらとかじゃないの!?」

「うわ……キイロちゃんがなんかだ」


 風船が落ちるくらいのスピードでゆっくりと降下しながら、メルと私は徐々に崖から離れて行った。やがて崖の全容が見えてくる。切り立った崖に木々の生えた平らな台地——南米のギアナ高地を連想させるテーブルマウンテンだ。ざっと四、五百メートル、いやその倍はあるかもしれない。私たちの居たブナの森はかなりの高台にあったようだ。

 振り返ると、崖のふもとから地平線まで霧の立ち上る樹海が広がっており、所々に私たちの居た場所と同じようなテーブルマウンテンが点在していた。息を呑むような絶景だが、今は感動する余裕がない。


「わー、なんだかすごいところに来ちゃったね」


 メルはこんな状況にも関わらず、動揺する素振りすら見せない。一方の私は現実を飲み込めずにひたすら宙を眺めている。


「異世界……異世界に来ちゃった……」

「あ! キイロちゃんあそこなんかあるよ!」


 メルが指差す先を見る。高台のふもとから地平線まで続く樹海の中、五キロほど先、丁度霧が晴れている場所にポツンと遺跡のようなものが見える。いや、遺跡だと思ったのは先入観だ。〝樹海の中に石造りの建造物があればそれは遺跡だろう〟という、元の世界で目にした古代マヤ遺跡の映像などから生じた先入観——


「あれは城砦じょうさい……?」


 それはサイズの不揃いな箱をいくつも並べ重ねて横置きの直方体を作り上げたかのような構造の建造物だった。周囲の木々などからその巨大さがわかる。さながら樹海の中に突然、郊外のショッピングモールが現れたかのようだ。ただ、サイズ的にはその三倍は下らないだろう。外壁は灰褐色で、建造物のスケール的に素材は石だと推測できる。


「ジョウサイ? なにそれ? よくわかんないけどすごっ! 行ってみよっ!」


 言うや否や、メルが降下を速めた。


「ちょっと待って! 森の中を歩いて行くとまたあのバケモノが居るかも」

「あ、そっか」


 降下速度が緩まる。


「でも浮くことは出来ても飛ぶことは出来ないよ?」


 メルの〝スキル〟についての説明が正しければ、そうなのだろう。物を軽くすることは出来ても、推進力を生み出すことは出来ないということだ。地面に降りずに移動するにはどうすればいいだろう。


「……あ、そうだ!」

「あ! メルもわかった! おならで進む!」

「……」

「……違うか」


 空気は流体だ。水をかくように動いたり、団扇のようなもので進行方向とは逆方向を扇いだりすることにより、わずかに前進することは可能だろう。ただ、それではあの城砦に辿り着くまでに気の遠くなるような時間がかかる。そこで私が考えたのは——


「わー! さすがキイロちゃん! 確かにこの方法だとあっという間だね!」

「んふふ。でしょっ?」


 ——木から木へ、樹冠の上を天狗の如く飛び移って移動する方法だ。私たちは手を繋いだ状態で木々の直上まで降下し、樹頭じゅとう付近にあった枝を蹴って前進を始めた。当初はコントロールが難しく葉っぱの中に突っ込んだりもしたけど、何度かやって行くうちに慣れていった。

 巨大な城砦の外壁が近づいてくる。素材は予想通り灰褐色の石だった。大小様々な形の石が隙間なくパズルのように組み上げられている。素人目に見ても、相当な建築技術を要すると推察される。

 私たちは外壁まで数十メートル手前の木の枝に降り立つと、様子見のためそこで一旦待機することにした。


「ねえメル、この世界の住人は私たちと同じ姿だと思う?」

「女神って人は人間ぽかったよ」

「話が通じて、攻撃的な人たちじゃなければいいけど……捕まってそのまま処刑されるっていう最悪なケースも想定されるから」

「ひええ、怖い話は嫌だよ……」

「だから、まずはよく観察しないとだね」


 メルの話によれば、女神との会話で交わされた言語は日本語だ。でも女神が日本語を話していたわけではなく、何らかの力で会話がこの世界の言語に自動翻訳されていた可能性もある。テーブルマウンテンで出会ったあの巨獣……アレは私たちを追いかけるときに日本語で『待て』『餌』と叫んでいた。たまたま鳴き声がそう聞こえただけかもしれないけど、状況的にはこうも考えられる——のであると。


「だから私は言葉に関しては楽観的なの。たぶん、この世界の住人がどんな姿形であれ、きっと言葉は通じる。言葉が通じるってことは意思疎通が可能ってこと。つまり、どんな最悪な状況に陥っても声さえ出せれば交渉するチャンスはある」

「なるほどー? よくわかんないけどキイロちゃんが言うなら間違いないね!」

「まあでも、まずはそういう状況に陥らないようにしましょ」

「はいさー!」


 メルが勢いよく手を挙げる。だが、挙げたのが私と手を繋いでいた方の手だった。もちろん、手は離れている。


「え、ちょっ……!」


 メルのスキルの影響下から離脱し、私の体に本来重さが戻って来たのだろう、足場にしていた細枝が一気にしなる。当然、そこに乗っていた私はバランスを崩して——


「きゃあああ!」

「あわわわ! キイロちゃーん!」


 ——下にあった枝を何本も折り曲げながら、もとい枝に次々とぶつかりながら、ラスト二メートルくらいは枝で速度を殺すこともなくストレートに地面まで落下した。


「痛っ! ったーい!」


 不様にも尻餅をついたような状態で地面と衝突した。すぐに横向きになってお尻をさする。幸い、痛いのはお尻の肉だけで、どこも折れたりはしていないようだ。地面の土が柔らかかったのと、お尻から落ちたおかげでなんとか大丈夫だった。


「キイロちゃん! 大丈夫!?」


 メルが枝を伝って降りて来た。そして私の横に降り立った瞬間——


「動くなッ!」


 ——近くで野太い声が響いた。身体をこわばらせながら視線を上げると木々の陰から屈強な体つきの男が数名、歩み出て来た。皆、小さな金属のプレートが鱗状に連なった鎧を着て、中東風の曲刀を構えている。

 すると、リーダーらしき髭面の大男が低い声で告げた。


「貴様ら、ここで何をしている? 見慣れない格好をしているな。〝クコキテ〟の者か。返答次第では生きては帰さぬ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る