第二話 更衣室で一人

 何も起きない。一体どういうことだろう。急行列車のヘッドライトが眼前に迫り、もうダメかと思って目を閉じたけど、来るはずの衝撃や痛みがない。ああ、なるほど。これが即死ってやつなんだ。と思いかけ、手足の感覚がちゃんとあることに気づいた。

 私は、五体満足で立っている。

 目を開けると、木々がまばらに生えた見知らぬ森の中に佇んでいた。一瞬前は確かに線路の上にいたはずなのに。


「一体どうなってるの……?」


 頭が状況に追いつかない。今まで見ていたのは夢だったのか、それとも今まさに私は夢を見ているのだろうか。こういう時のお約束、とばかりに自分の腕をつねってみる。


「痛っ」


 夢ではなさそうだ。いや、痛みまで再現された精巧な夢なのだと言われたら否定はできないけど……とにかく、感覚的には自分が現実にいるのがわかる。


「まさか……死後の世界?」


 なのだろうか。


「一体、どこなのよ……ここ」

「……森の中、かな?」

「いやいや、それは見ればわかるんだけど、そういうことじゃなくて……って、メル!?」

「やほー! キイロちゃん!」


 振り返ると、メルが笑顔で手を振っていた。どうやら彼女もまた、この不可解な状況に巻き込まれてしまったらしい。その割に緊張感は皆無だけど。


「メ、メル、一体これなんなの? 私たち駅に居たよね?」

「えーっと、確か……いけ……いけ……」


 いけ……? 何だろう。メルが頭を抱えている。


「あ! 思い出した!」

「おお!」

「そうだった。メルたちは〝池採点師〟だって、言われたんだった」

「あははっ、それ多分〝異世界転移〟でしょ。池採点してどないすんねーん。ふふふっ……で、誰が言ったの?」

「ん? 女神って人」

「そっかあ。うんそうだよね。こういう時は大体女神が出て来て色々説明して〜」

「そうそう」

「……って、いやちょ……ちょっと待って。冗談言ってる場合じゃない。もう一回よく考えさせて……」


 眉間に指を当てて逡巡しゅんじゅんする。だが何も思いつかない。そりゃそうだ。突拍子も無い状況に対して、現状手がかりはゼロ。メルに至ってはパニックになっているのか、異世界転移とか女神とかラノベじみたことを言ってるし。


「ま、まずは観察……そう、観察よ。ここがどこなのか手がかりを探さなきゃ……」


 まあ当然の話だけど、とりあえずここは異世界ではなさそうだ。周囲の植物はどれもどこかで見たことのあるような葉の形をしているし、いくつかは確実に種類を言い当てられるものがある。


「これはブナの木だ。地衣類のついた灰色の幹、それにこの葉っぱの形……間違いない」


 見上げると、生い茂る木の葉の向こうで太陽が煌めいている。そうだ。動揺してて今気づいたけど、時間が昼間に戻っている。駅に居た時はもう夜だったはず。てことは時差と植生などから考えるとここは地中海北岸——ヨーロッパのどこか……? そこに、日本からテレポートした? いや、そんなまさか……。異世界転移くらいあり得ない。

 スカートのポケットを探ると、メルと拾った小石が一つ、反対側にはスマホが入っていた。時刻は二十時五分。やはり駅に居た時のままだ。アンテナの表示は圏外になっている。この不可思議な現象を記録しておかなければと思い、動画の撮影を開始した。

 二十秒ほど周囲を撮影し、ふと傍にレンズを向けると、画面の中でメルと目が合った。何故か青ざめている。


「キイロちゃん、メルやばいこと思い出しちゃった!」

「……やばいこと?」


 スマホを下げ、思わず唾を飲み込む。ただでさえ奇天烈きてれつな状況だというのに、これ以上の何かがあるのだろうか。


「めちゃめちゃやばい!」

「い、一体何を思い出したの……?」

「……メル、教室に水筒忘れちゃった!」

「……え?」

「進路相談に行く時に自分の机の上に置いてたんだけど、バッグは背負ってたからそのまま帰っちゃったんだ……」

「……」


 全身の力が鼻から一気に抜けてしまいそうになる。


「ああ……またお母さんに怒られちゃう。やだー!」


 メルが頭を抱えながら号泣する。樹冠から鳥たちが飛び立っていく音がした。私は録画ボタンをもう一度押して撮影を終了すると、スマホをポケットに戻した。


「か、帰りに取りに寄ろうよ。ね。なんか昼に戻っちゃったみたいだし……」

「キイロちゃんありがど〜」


 抱きつかれた。て、私の服で鼻水ぬぐってる……?


「あはは……」


 引きつった笑みを浮かべていると、どこからともなく地面を叩く重々しい足音が聞こえてきた。巨獣が疾駆するような音だ。我に返り、耳を澄ます。音は次第に大きくなっている。周囲を見回すがまだそれらしい影は見当たらない。


「メル! 何かが、こっちに向かってきてる!」

「えっ!?」


 ここらを縄張りにしている動物がメルの泣き声に反応して怒ったのだろうか。どうする? 隠れるか、走るか。多分、隠れるのは悪手だ。すぐ見つかってしまうだろう。


「メル走って!」


 メルと並んで、音のする方とは逆方向に駆け出す。相手が単に縄張りから私たちを追い出したいだけなら、ある程度ここから離れればいいはず。恐らく深追いはしてこないはずだ。でも縄張りが半径二キロとかだったらどうしよう。絶対に体力が持たない。いや、それよりも最悪なのは——


「キイロちゃーん! 後ろ! やばいのが来てるー!」

「いいから前を見て走っ……」


 ——相手が私たちを〝餌〟だと認識している場合だ。

 振り返った瞬間、私は言葉を詰まらせた。若木をぎ倒しながら巨大な影が私たちを追いかけて来ていた。ゾウほどの大きさのある巨体を黒い毛で覆った、四足歩行の獣——その容姿は、一目でこの世のものじゃないと確信できるほど、奇怪だった。

 頭部のほとんどが歯列剥き出しの口なのである。眼球らしきものは見当たらない。豚のような鼻の下に臼歯がびっしりと並んだ口を大きく開け、獣は私たちの背後十数メートルまで迫りつつあった。


「げーっ! 何なのアレ!」

「やばいよ、あれ絶対クマだよ! キイロちゃん!」

「いやあんなクマ見たことないよっ!」


 でも一つだけ安心材料が出来た。クマやトラなどの猛獣は鋭い牙を持つ。それはもちろん、獲物の皮膚を食い破って肉を食べるためだ。後ろの獣にはそれが無い。並んでいたのは全て、臼歯だ。食物繊維の多い植物を擦り潰し、消化するための歯。つまり、恐らくアレは草食動物。私たちを食べることはないだろう。

 すると突然、巨獣が地を這うような声で叫びながらよだれを撒き散らした。


「マテェエエエ! エサァアアアアア!」

「いや、食べる気満々!! しかもなんで言葉喋れんのよー!?」

「ひええ!」


 まさに追いつかれる、と思ったその時——


「も、森を抜けた……!?」


 視界が一気に広がった。いや広がり過ぎだ。私たちは慌てて立ち止まった。森から出て十メートルほど先が崖っぷちになっていた。足元には青紫色の花々が崖までの一面を覆っている。この香りは……ラベンダー? 強烈な芳香だ。

 いや、そんなことより——


「……終わった」


 万事休すとはこのことだ。振り返ると、例の巨獣がゆっくりと森から歩み出て来た。


「エサ……エサ……?」


 剥き出しの歯列から涎を垂らしながら、巨獣がゆっくりと迫る。メルと二人、息を殺しながらラベンダー畑の中をジリジリと後ずさる。今になって恐怖が背骨のあたりをゾワゾワと這い上がって来た。ふくらはぎに力が入って、肘から先がガタガタと震えた。

 走馬灯、走馬灯、走馬灯を思い出さなきゃ! と支離滅裂な義務感が襲って来たけど、脳内に浮かんできたのは中学の時の部活のワンシーン——弓道場の更衣室で一人、弓がけの革手袋の匂いを嗅いで「くさっ!」と眉根をよせたあのシーンだけだった。

 あれは臭かったなあ。

 ——って、思い出に浸ってる場合じゃない。

 私はまだ死ねない。メルを守らなきゃ。メルを絶対に死なせるわけにはいかない。諦めるな。考えろ、私。観察と思考。今の私にできることはそれだけだ。そして——


 ——今は私にしかそれができない!

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