And he threw

砂糖醤油

And he threw

 美しさと繊細さはイコールにならない。

誤解を招かないように断言しておくと、ミロのヴィーナスやミケランジェロのダビデ像は確かに美しい。

それが分からないわけではない。

言うなれば芸術の方向性の違いと表現するべきなのか。

ともかく俺が憧れたのは、違うベクトルの物だった。


『打った―――!! これは確信したか! バット放り投げた!!』


 そう、バット投げである。

プロの中でも一握り、強打者にのみ許された特権。

ガタイのいい男が繰り出す、もう一つの放物線。


「キレイだ……」


 子供故の語彙力か、それしか言葉が出てこなかった。

たった数秒の映像が幼少期の俺にどれだけ刺さったことか。

比較対象が我ながらアレだが、当時やっていた特撮よりも格好良かった。

……うん、ごめん。

俺の中のヒーローはビームを出せるわけでも、ましてや車を片手で持ち上げるスーパーパワーを持っているわけでもない。

されど確かに現実に実在しているのだ。

だから。


「父ちゃん」


「ん? どうした?」


「できるかな」


「できるって、何を?」


「これ」


「そりゃあ出来るに決まってんだろ! 何たってお前は俺の息子なんだからな!」


 勘違いした。

俺もあの画の中心にいる事ができるのだと。

その権利があるのだと、傲慢ながらそう思った。

多少不純だけれど、そんな感じで俺の野球人生は始まったわけだ。




 リトルクラブに入ってまず考えたのは、ボールをより遠くに飛ばす方法だ。

当然ホームランを打てなければバットを投げられない。

たまにすっぽ抜けてバットが飛んでいくのはNGに決まっている、求めているのはそれじゃない。

体を大きくするために睡眠と食事は欠かさなかったし、素振りも毎日のようにしていた。

夢を追いかけるのは苦じゃない、と言えば嘘になる。

そんな出来た人間ではなかったから、マメだって痛かったし当然辞めたくなった時だってあった。


 選んだクラブは適当で、多分指導者もあまり良い人ではなかったのだと思う。

やれボールは上から叩けとか、バットに当てろとかとにかくうるさかった。

従わなきゃレギュラーで使わないなんて言われたけど、そんなのはどうでもよかった。

一番の目標は誰もが惹きつけられるようなバット投げを見せる事だ。

試合に出れなくともそこは絶対に曲げたくなかった。

結果、俺が出れたのはほとんどが代打からの途中出場だった。




 中学に上がって、親にスマホを買ってもらった。

動画で色んな選手のバット投げを見た。

豪快に投げるタイプ、あえて横に投げるタイプ、ふわりと浮かせるタイプ。

刺激を受けて憧れはさらに加速していく。


 一方で残念ながら身長はさほど伸びなかった。

当然と言えば当然なのかもしれない。

うちの両親も祖父母も大して身長が高いわけでも、スポーツ選手だったわけでもないのだから。

牛乳も毎朝飲んだが、日本人にはあまり効果が無いと聞いて肩を落としたのを覚えている。

だから代わりに筋肉を付けようと、色々試してみることにした。

施設の筋トレマシンを利用したり食事も考えるようになった。

練習の帰りには毎回のようにコンビニでプロテインバーを買い食いして帰っていた。


 中学で入団したリトルシニアは、強くないながらもそこそこ居心地が良かった。

2年生になってからはスタメンで使ってもらう機会も増え、3年になるとレギュラーとして起用されるようにもなった。

けれど納得できる当たりを打てた事は、一度も無かった。


 理想と離れていくのに、時間だけがただ無情に過ぎていく。

次こそは。次こそは。次こそは。

祈るように何度もバットを握った。何度も打席に立った。

スポーツにおいて、メンタルは重要な部分とされている。

だからと言って気持ちだけで結果が出せるほど世の中は甘くない。

変わらない結果が俺の心を曇らせていくのにそう時間はかからなかった。




 春が来て、俺は中学を卒業した。

俺は県外の私立高校へ進学し寮で生活する事にした。

大した成績を残したわけではないから推薦なんてもらえなかったし、学費も自費だ。

本当に両親には感謝してもしきれない。


 1年目。

3年生たちの厚い選手層に阻まれてベンチにすら入れず。

俺に出来る事は、観客席で声を出す事だけ。


 2年目。

夏は背番号を貰えず。

練習を重ねても結果は出ない。

仲間たちが掛けてくれる声も、冷たく感じた。


「お前さ、今のスタイルじゃやっていけねーよ」


 黙れよ。


「うーん、大したタッパもないんだしもっと小技を活かすべきだ」


 うるせぇ、邪魔すんじゃねぇよ。


「あぁも大振りじゃねぇ。当たるものも当たらないよ」


 お前らに何が分かる。

俺は。俺は。

―――俺はどうしたかったんだっけ?


「お前の努力は知っている。このチームの誰よりも長打に拘り、バットを振ってきた。だから苦しいのを承知で言わせてもらう。……チームのために、死んでくれ」


 監督にそう言われて、自然と涙がこぼれた。

俺は楽になっていいのか?

もう幻想を追い続けなくていいのか?

とうに気付いていた。

自分が主人公などではないことに。

あの画の中心に入るには、俺はふさわしくないという事に。

その日を境に、俺は「ホームラン」を捨てた。




 吹っ切れてからは今までよりもずっと楽になった。

チームメイトの助言も聞き入れたし、吸収できるものは何でも吸収した。

固執していた打撃練習も半分くらいは守備や野球の勉強に充てた。

その甲斐あってか、秋大会で俺は何とかベンチメンバーに名を連ねる事が出来た。

大した活躍は出来なかったがそれでも良かった。

チームメイトのためにやる野球は確かに楽しかったから。




 そして、最後の夏。


「行ってこい、この3年間でやってきた事を見せてくれ!」


 県大会の準々決勝。

背番号『17』は背中を押され、右のバッターボックスへと向かう。

状況は9回表1アウト、ランナーなし。5点ビハインド。

じりじりとした熱気にヘルメットを焼かれながら、バットを短く握って、素振りをする。


「頼む、繋いでくれ!」

 

 誰かの声が聞こえる。

そうだ、繋いでみせる。

5点なんて大した差じゃない、繋いでひっくり返してやる。

……あれ?


 多分、この場面はまだ試合の分岐点ではない。

1点が入ったところでまだ4点差もある。

なのにこの違和感はなんだ。


 ―――あぁ、そうか。

これはきっと、俺の人生のターニングポイントなんだ。

俺がこの場面で何をしたところで人々の記憶に残る事はない。

チームメイトでさえも「そんな事もあったな」ぐらいのレベルに薄まっていく。

人生の1㎜にすら満たない、僅かな時間。

だけど。


(すみません、監督。ごめん、みんな)


 バットを握り直す。

そうだ、最初に俺が憧れたのは何だった?

ずっと壁にぶつかって、納得がいかなくて。

それでも野球を続けてきたのはどうしてだった?


 チームでやる野球は楽しかった、そこに断じて偽りはない。

自分を見捨てずに支えてくれた仲間たちに、恩師。

「ホームラン」を捨てた俺も本物で、ずっと心の中で息づいている。

きっと無駄なんかじゃなかった。

でも原点はチームプレーにはない。

ただ身勝手に。傲慢で、豪快で、派手で、勇ましく。それでいてなおも美しく。

たった十秒ちょっとで消えていく花火のように。

ヒーローになんてなれなくていい。

俺は、俺自身のためだけにバットを振る。

死んでいた俺を生き返らせるのは他の誰でもない、俺だ。


 ボールが来る。

テイクバックは大きく、腰の回転で、角度をつける。

これまで学んだ全てが今のこの一瞬のために。

俺の野球人生が全てこの一瞬のために。




 打球が飛んでいく。

フォロースルーに身を任せ、バットが高く宙を舞った。

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