別離

 陽が水平線の向こうに沈み夜がやってくる。

 とても綺麗な夕焼けが広がり、やがてそれが紫色の世界に染められる頃、ついに目的の島に到着した。


 悲しかった。このままマックスと別れなくてはいけない事が……でも他に方法なんてある訳がない。

 そっとマックスの名前を呼ぶと、彼が穏やかに微笑む。それから少しの静寂がこの海全体に訪れる。


「もうお別れね……が、人間族ヒュームだったら良かったのに……」

「……こそ、君と同じ人魚族マーメイドになりたいよ」


 月明かりが波に揺れるたびに、銀色の光が海面を滑り、夜の世界を神秘的に照らし出していた。

 潮風が私の髪をさらりと撫で、胸の奥にひそむ小さな痛みを優しく吹き飛ばしてくれるようだった。でも、それでも心はざわめいていた。

 マックスが船から降りて、ゆっくり歩いてくる。


「マックス……?」


 緊張で掠れた声が自然と唇をついて出た。

 目の前にいるマックスの姿は揺るぎなく、現実そのものなのに、どこか夢のようで信じられない。


「きゃっ!」


 抱き締められた。

 小さな悲鳴が上がるのを止められなかった。

 私より広い胸板に力強い腕が私の身体を包み込む。


「好きだよ……ナディア……」


 彼の声は潮騒に紛れることなく、真っ直ぐの胸に届いた。

 その一言に心が震える。

 そしては気づいた――もう自分のことを「ボク」なんて呼んではいなかった。

 彼の前では、ただの『』でいられる。

 それが心地良くもあり、少し怖くもあった。


「私もよ……マックス……」


 精一杯の勇気を振り絞って返したその言葉が、どれほど本物の私だったか、彼は気づいていただろうか?

 ほんの小さな願い。けれど、それがどれほど叶えがたいものなのか、私達は理解した。


 人間族ヒュームとして生きる彼と、人魚族マーメイドである私。

 私達はまるで違う存在だ。けれど、目の前にいるマックスだけは、今この瞬間、確かにここにいる。彼がこうして手を伸ばし、私を抱きしめてくれる。


――それだけで十分だと思いたかった。


 満月が高く輝く夜空。

 月明かりは私たちを祝福するように降り注ぎ、潮騒は静かに囁きかける。

 マックスの腕が今までより強く私を包み込んだ。

 鼓動が彼の胸の中から伝わってくる。それは私のものとまるで調和するように響いていた。


「ナディア……」

「マックス……」


 彼の声が、私の名を呼ぶその響きが、胸を満たす。

 息をするのも忘れてしまいそうになるほどに。私はそっと顔を上げ、目を閉じた。そして、静かに唇を重ねる。


 彼の唇の温もりは、想像していたよりも優しく、そして温かかった。

 その感触は私の全てを包み込み、何もかもがどうでもよくなるほどだった。まるで永遠がここにあるかのように、時間は止まった。



 世界が私達二人だけのものになったようだった。



 熱い吐息が交わり、心臓が速く脈を打つ。

 けれど、怖くなかった。こんなにも心地良いものがあるなんて、知らなかった。



 どれ位時間が経ったのか私には判らない。

 曖昧な時間が流れ、私はマックスの腕の中に身を委ねていた。

 言葉はいらない。ただ傍にいたい。

 そんな私をただ受け止め、髪を優しく撫でてくれるマックスに唇を重ねる。


「マックス……月を見て」


 砂浜に腰掛け離れた唇から、思わず囁いた。

 彼の腕の中で寄り添うように、そっと耳元に声を落とす。


 マックスは私の声に応えるように顔を上げた。深い夜の空に輝く満月。それを見つめる彼の横顔はどこまでも美しく、切なく、愛おしい。私はその顔を、ただじっと見つめる。


「月が綺麗だね、ナディア……」


 その言葉に、涙が零れそうになる。


――違うよ


 心の中で呟いた。この月を美しくしているのは、マックス、あなた自身だと。

 でも、それを言葉にする勇気はなく、私はただ彼に身を預ける。


 この瞬間が、永遠であってほしい。

 ただそれだけを願いながら、私は彼の鼓動を感じ続けた。

 解かっている。マックスが私を想ってくれていることも……私達が一緒に居られることが不可能なことも……


 口づけを交わし、彼の想いを受け容れても。彼が人間族ヒュームである限り、私が人魚族マーメイドである限り越えられないものが確かにある。


「私に会いたくなったら月を見て。私もマックスに会いたくなったら月を見るから。大丈夫、きっと時が来たらまた会えるよ。だって、時間はまだ沢山あるもの!」


 だから私は明るく言って笑顔を向ける。

 私の信じる地母神ソフィーなら、どんなに離れていても心さえ繋がっているなら、きっとまた巡り合う筈だから。


「ナディア……」

「ね! 月がきっと私達を見守ってくれるわ!

 それでね! 

 その時が来たらその分マックスには色々な事をしてもらうんだからっ!

 この世界の出来事をマックスと体験するの!

 新しい日々をマックスと一緒に。

 月だって一人じゃ見ないんだから。

 だから今は我慢するんだからね!」


 涙がぼろぼろと零れてくる。今は泣いちゃいけないのに。


「だから……頑張って待つ。此処でもう一度キミと遭えることを願って……」


 マックスが私を抱き締める手に力がこもった。


「ごめん、ナディア……俺が無力な為に……俺が、ナディアの家の近くに家を建てられちゃうようなすごい人間族ヒュームだったらこんな思いしなくて済んだのに……神様が友達だったら……」


 泣きながら思わず笑ってしまう。


「そうだったら、キミは大きな海の上で彷徨ってる……なんてことは、なかったじゃない?」


 抱き締めていた手を離した。


「さぁ、もう行って! 余計に別れが辛くなるじゃない!」


 マックスはそっと私から手を離す。


「元気でね……」


 私は手を振った。マックスは上陸し浜辺に足をつける。

 それは私が持っていないもの。確かにマックスの一部として在るもの。

 私はマックスに精一杯の笑顔を作った。

 すると、背を向けて歩いていたマックスが波飛沫を上げながら、私の所へ駆け寄ってくる。


「俺……強くなってみせる……そして必ずなってみせる!

 争いがない、誰もが平和で笑って過ごせるための『勇者』に!」

「えっ? 『勇者』さま?」


 私でも知っている『勇者』という存在。それは世が乱れた時『光の使徒』として天より遣わされるのだと伝わっている。

 本当か嘘かなんて私には判らない。

 でも、それは願ってなれるものではないことは私でも判る。なのに、この男は平然と言ってのけてしまう。


「うん……神様の友達になり、大いなる力を振るえる『聖なる勇者』になれば、人は争わなくなる。君達人魚族マーメイドや他の亜人の人達とも仲良くできるよ!」


 その言葉には、純粋で揺るぎない信念があった。マックスが夢見る世界は、単なる幻想ではない。彼の瞳には、本当に世界を変えられるという確信が宿っていた。

 幼い頃から家族のために、周りの人の幸せのために生きてきた彼の姿が、私の心に深く刻まれる。


 父親から受け継いだ鍛冶の技。妹を守りたいという強い想い。

 それらすべてが、彼の中で一つの大きな夢へと昇華していく。

 亜人種と人間族ヒュームが共存できる世界。それは、マックスにしか描けない壮大な絵だった。


「そんな事ができるなら……それは素敵な事ね!」

 答えながら私は確信してしまう。

 マックスなら、本当に『勇者』になるだろうと……それを裏付けるように彼は穏やかな笑顔を見せた。

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