人魚姫の恋歌

 陽が海の彼方に沈み、月が夜空に輝きだす。

 海は凪ぎ、月が鏡のように映り込んでいる。


「ナディア……」

「なに?」


 返事をしたものの、どうしても彼の顔を見ることが出来なくなっている自分がいる。

 それでも彼はボクを見つめ続ける。ボクは密かにボクの信じる『ノイルフェール神』……中でも地母神ソフィー……に祈りを捧げていた。


――どうか、この時間が永遠に続きますように……


 波間に揺れる月明かりの中で、マックスの横顔が切なく輝いている。


「このまま離れ離れになるなんて嫌だよ……ずっとずっとナディアと一緒に居たいよ」


 涙が出そうだった。潮の香りが漂う夜風が二人の間を通り抜ける。

 ボクの心は、波のように激しく揺れていた。

 海面に映る星々が、まるで二人の想いを映し出すかのように瞬いている。


――それはボクだって同じ気持ちだもの!


 この数日間、毎晩お互いの世界について知り合ってきた。

 マックスは父親を失った悲しみを抱えながらも、ボクに優しく接してくれた。

 彼の傷ついた心が少しずつ癒えていくのを感じられることが、どれほど嬉しかったことか。


 でも、ボクとマックスが一緒に居られる方法なんてあるの?

 いにしえの伝承には、人魚と人間の悲しい恋の物語がいくつも伝えられている。

 どの話も、結末は切なく、希望のないものばかり。


「無理よ……マックスはおか人間族ヒュームで、ボクは人魚族マーメイド……水の中でしか生きられないもの」


 ボクはひらひらと尾鰭を動かしながら考える。

 海底の神殿で幾度となく祈りを捧げた日々を思い出す。

 違う種族として生まれた二人が、どうにか一緒にいられる方法はないものかと。


 でも地母神ソフィーは、沈黙を守ったままで何も教えてはくれない。

 そう、判ってる……一緒に居られる方法なんてないんだ。


 ボクは人間族ヒュームにはなれないし、マックスも人魚族マーメイドにはなれない。

 それでも心の奥底では、奇跡を信じたい気持ちが消えない。


「そうだね……何言っているんだろ?」


 自嘲的に笑うマックスを見ると訳もなく、胸が締め付けられる感覚に囚われてしまう。その笑顔の下に隠された深い孤独を、ボクは感じ取っていた。


――ボクが人魚族マーメイドでなかったなら……きっと!


 その時、マックスの静かな声を耳にした。


「何か歌ってくれないか?……ナディア」


 ボクは驚いてマックスの顔を見た。でも彼はボクと目を合わせることなくこの広い空を見上げている。

 その瞳に映る星空は、まるで彼の心の深さを表しているかのよう。


 ただひたすら、星空を……

 ボクは黙って歌い始めた。


 小さい頃に、ママがよく歌ってくれた歌。

 海の民ボク達に伝わる古い祈りの歌。人魚族マーメイドの娘の想いを地母神『ソフィー』に届ける歌を。




  波間に揺るる 月の光

  深き心を映すように

  母なるソフィー 願いを聞きて

  この想いを受け止めたまえ


  岸辺に寄せる 白き波の

  むなしく帰るごとくならば

  この胸の痛みいかにせまして

  神よ 導きたまわりたまえ


  久方ひさかたの 月の都より

  慈しみ深き ソフィーの御心みこころ

  おかに生まれし 人の子への想い

  我が心 清め宿らせたまえ


  |深きふちより 湧き上がる

  真珠の涙 捧げまつる

  永遠とわの誓いを 秘めし歌声

  我が身を導きたまわりたまえ


  大地と海と 結ぶ光もて

  はかなき想い しゅくしたまえ

  愛する人と 同じ空仰ぎ

  永遠とわに変わらぬ 誓いを立てん




 歌いながら、ボクは心の中で祈り続けた。どうか、マックスに幸せが訪れますように。どうか、彼の心から暗い影が消えますように。

 歌声が広い海に広がる。

 しかし、その旋律はいつもよりも悲しくそして切なかった。月光に照らされた波紋が、ボクの歌声とともに揺らめいていく。


 こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。

 歌はいつだってボクの心を幸せな思いでいっぱいにしてくれた筈なのに。今宵の歌は、別れを予感させる哀しい調べとなって響いていく。


「ありがとう。ナディアの歌声……一生忘れない」

「マックス……」


 その言葉に込められた想いの重さに、ボクの心が震える。


「ねぇ、ナディア」


 再びマックスが口を開いた。その声には、決意のような何かが感じられた。


「君の住む世界に連れて行ってよ?」

「何を言ってるの? キミ……」


 できない相談だった。

 ボク達の住む村シルワ・プリーシママーリスは、おかにすむ生物が生きていけるような場所ではないし、彼が人間族ヒュームである以上決して生きていけない場所なのに。


 深い海の底で、彼は確実に命を落としてしまう。

 その想像だけで、ボクの心は凍りつきそうになる。


「それでもいいよ……辿り着けなくて息絶えたとしても、それは僕が望んだ結果……」

「マックス!」

「何てね……冗談だよ」


 笑顔を浮かべるマックスがたまらなく寂しそうで、心が激しくかき乱される。

 その笑顔の奥に潜む深い悲しみを、ボクは見逃すことができない。


――ボクがいいよって言ったら……

  マックスは躊躇わず船縁から身を乗り出して飛び込んでくる!


 その想像に背筋が凍る。

 でも、マックスの家族が遺した命を、ここで簡単に終わらせるわけにはいかない。


 何故なら、継いだ者には継いだ者の義務がある筈だから。

 彼には生きていて欲しい。

 たとえ離れ離れになっても、どこかで幸せに生きていて欲しい。


 いつかマックスが生きることが素晴らしいと思えるまで、彼にはちゃんと生きていて欲しい!

 人生には、まだまだ素晴らしい出会いが待っているはずだから。


 そしていつの日かマックスにも見せてあげたい!

 ボクが海で見た全ての美しい光景を。

 深い青に輝く珊瑚礁の森も、月明かりに照らされて銀色に光る魚の群れも、嵐の夜に海底で見る幻想的な光の舞も。


 海はいつも無言でボク達をあるがままに受け止めてくれているって事を伝えたい。

 どんなに辛いことがあっても、海はボク達の心を包み込んでくれる。

 そうしたら、マックスは死の重みをもっと感じ取ることが出来るかもしれない。

 生きることの尊さを、もっと深く理解してくれるかもしれない。


 その時、彼の傍で寄り添ってあげたい……心からそう思った。たとえ種族が違っても、心は通じ合えるはず。


――でも、どうしてこんなにもマックスを想う気持ちになるのだろう?


 ボクはボク自身を持て余していた。

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