願い

「今は、此処を離れるしかない」


 マックスの声は震えていたけれど、確かな意志が感じられた。人魚族マーメイドであるボクには人間の感情を完全に理解することは難しいかもしれない。

 でも、今のマックスの声に込められた複雑な思いは痛いほど伝わってきた。ボクは黙って頷く。此処に留まっていても何も変わらない。

 それに、このまま龍に見つかってしまったら……


「でも、何処へ?」


 問いかけるボクの声も、不安で震えていた。マックスを守れるのはボクしかいない。その責任の重さが、心臓を強く締め付けていた。此処がマックスの故郷なのに、こんな惨状では立ち寄ることすらできない。マックスは暫く沈黙した後、決意を秘めた眼差しで海の向こうを指差した。その瞳には、旅の間に何度も見た強さが宿っていた。


「この先……対岸の岬に、ブークホーフ村があるんだ……」


 その言葉には僅かな期待が込められていた。それは、まるで最後の希望のような響きを持っていた。ボクはマックスの決意を受け止め、静かに船の向きを変える。尾鰭が水を掻く音だけが、重苦しい沈黙を破っていた。


 背後では、まだ龍の咆哮が響いていた。紅蓮の炎に追われるように、ボク達は対岸を目指して進んでいく。マックスの手はオールを握りしめ、その腕の筋肉は緊張で強張っていた。ボクは尾鰭の力を少し強めて、船を後ろから優しく押す。


 その声には僅かな期待と大きな不安が混ざっていた。

 きっと家族は無事に避難しているはず。そう信じたい気持ちが、マックスの震える声に滲んでいた。ボクには、マックスの心の中で希望と不安が激しく渦を巻いているのが判った。


 一刻も早くここを離れてしまいたい。

 そう思いながら、遠くに霞む陸地へと進んでいく。潮の流れは穏やかで、まるでボク達の不安を和らげるかのようだった。ボクは海の優しさに感謝しながら、マックスの背中を見つめていた。


 波はボクの背中を優しく押し、勇気づけるように寄り添ってくれる。それは、まるで故郷の海が見守ってくれているかのような感覚だった。


 やがて、血のような真っ赤な夕陽が、水平線にほとんど顔を隠して空に星が散り始めた頃だった。夕暮れの空気は重く、不吉な予感が漂っていた。海面に映る夕陽の赤さが、まるで血に染まったかのように見える。その光景は、ボクの胸に重苦しい予感を呼び起こした。


「……っ!?」


 思わず声を上げてしまった。

 徐々に陸地が見えてくるにつれ、マックスの故郷……ブークホーフ村が見えてきたから。でも、そこからも赤い炎が立ち昇っていた。

 赤黒い煙は夕暮れの空に溶け込むように広がり、不吉な予感を一層強めていく。ボクは思わずマックスの方を見た。


「マックス……」


 声が震える。マックスはオールを強く握りしめている。その手の震えが、船全体に伝わってくるようだった。その姿に、ボクは言葉を失った。


「行かなきゃ。父さんと母さん……ハンナが、きっと待ってる」


 マックスの声は震えているのに、瞳は強い決意に満ちていた。

 その言葉には、家族の無事を信じる僅かな希望が込められていた。ボクは黙ってうなずき、尾鰭で水を押して船を後ろから押した。しっかりとマックスを支えなければという思いが、ボクの中で強まっていた。


「嘘だろ……」

「マックス?」


 マックスはおかを眺めながら呆然としている。その表情には、これまで見たことのない絶望の色が浮かんでいた。それでも、その瞳の奥には微かな希望の光が残っているように見えた。


「村が……ブークホーフ村が無くなっている……」

「えっ?」


 マックスが見る方向に目をやると、そこは何もない荒れ果てた土地だった。建物があった形跡すらない。かつてそこに人々の暮らしがあったとは思えないほど、全てが消し去られていた。焼け焦げた大地からは、まだ温かい灰の匂いが漂ってくる。


「マックスの村は此処にあったの?」


 マックスはそっと頷く。その仕草には、現実を受け入れることができない悲しみが滲んでいた。でも、その目は何かを必死に探しているようだった。


「場所とか間違えたんじゃないの?」


 希望的な観測を口にするボクに、マックスは静かに首を振った。その仕草には決意が見えた。


「……あそこで焼け焦げている大きな木は、僕が妹とよく登った木なんだ」


 首を振るマックスの瞳は涙で溢れていた。その涙は、思い出の場所が失われた悲しみと、家族の安否を案じる不安が混ざり合ったものだった。けれど、その中にはまだ希望の光が残されていた。


「父さんの工房は、あの辺りだったはず……」


 マックスが指さす方向に、焼け残った建物が見える。船が岸に着くと、マックスは躊躇することなく飛び降りた。その動作には、家族を見つけ出すという強い決意が込められていた。


「えっ……ちょっと! 何処へ行くの?」

「みんなを探してくる! ナディアは見つからないように隠れていて!」


 マックスはおかへと向かっていく。その背中には決意と覚悟が見えた。そして、きっと見つけ出せるという希望も。


「マックス! 気を付けて!」


 ボクは叫んだ。声が震えているのが自分でも判る。心臓が早鐘を打っていた。

 それでも必死で声を掛けるボクに、マックスは振り返って小さく手を振ってくれた。その仕草には、必ず戻ってくるという約束が込められているようだった。


 マックスはボクの願いにも似た思いに笑顔で答えると去っていった。

 その笑顔は優しかったけれど、どこか悲しそうでもあった。でも、その中には確かな希望が宿っていた。


――マックス……


 ボクはマックスの家族が生きていることを願うしかなかった。自分には何もできない。それが何よりも辛かった。でも、祈ることはできる。

 焼け落ちた建物の中を走り回るマックスを見守りながら、ボクは不思議な感情と向き合っていた。恐れと希望が入り混じった複雑な思いだった。


 どうかマックスの家族が無事であってほしい。マックスと家族と再会できますように……また会えますように。その願いは海の底から届くほど強いものだった。


――ああ、神様!


 ボクは見た事も無い『聖なるアニマ神』様とやらに祈っていた。海の底で聞いた話では、地上の人々はこの神を信じているという。その神が、きっとマックスの願いを聞き届けてくれるはずだ。


 人魚族マーメイドが祈りを捧げるのは『ノイルフェール』の二柱だけれど、ここはマックスの村だ。

 マックスの信じる神に祈りを捧げないといけない気がした。二つの世界の神々が、この願いを叶えてくれることを信じたい。


 波のさざめきを聞きながら、ボクは心の中で何度も何度も祈り続けた。

 その祈りは、マックスの微かな希望と共鳴するように、夕暮れの海に溶けていった。

 この旅で築いた絆が、きっと二人を導いてくれるはずだ。

 ボクはそう信じながら、暮れゆく空を見上げた。

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