帰郷……

 小島を離れ再び海を西に進む。

 潮風が肌を優しく撫で、遠く水平線の彼方には薄い雲が浮かんでいた。

 波間を漂う小さな船の上で、マックスは海図を広げ、慎重に針路を確認している。


 太陽の位置や星の動きを見て、迷わないように進んでいく。

 ボクは海の民として生まれ育った経験を活かし、潮の流れや風の匂いから方角を読み取っていく。

 時折、水面下に広がる珊瑚礁の色彩が変化するのを見て、正しい道を進んでいることを確認する。


 再び陽が沈んでいくから、珊瑚礁と小さな岩場に船を寄せて一晩を過ごす。

 夕暮れ時の海は神秘的な紫色に染まり、波のさざめきが静かな子守唄のように響いていた。岩場には柔らかな苔が生え、マックスの船の停泊には都合が良かった。


 ボクは水の中でないと眠れないので、水面に顔だけ出して眠り、マックスは船の中で小さくなって眠っていた。船底に敷かれた毛布は薄かったが、それでも陸の人間であるマックスには必要なものだった。


 波のリズムが子守唄のように心地よく、時には魚たちが寄り添ってきては、優しく体を撫でていってくれる。それはまるで母の手のようだった。

 小さな熱帯魚の群れが、時折ボクの長い髪に戯れるように泳いでいき、その感触が懐かしい思い出を呼び起こす。


 とは言え、自分の寝床でないと落ち着けないのも事実で、泳ぎながらぼんやりしたり、居眠りしたりする事も多くなってきた。慣れない旅の疲れが、少しずつ体に蓄積されていくのを感じる。


 深い海の底にある人魚族マーメイドの村で、珊瑚でできた柔らかなベッドで眠ることに慣れていたボクには、この旅は想像以上に過酷なものだ。村の温かな光に包まれた寝床が恋しくなることもある。

 珊瑚のベッドは体の形に合わせて優しく包み込んでくれて、海藻のカーテンが静かに揺れる光景は、まるで永遠に続く安らぎのようだった。


 でも、マックスのために頑張らなければ。そう自分に言い聞かせながら、日々を過ごしていた。

 彼の家族を探す旅は、ボクにとっても大切な使命となっていた。


 海面を照らす月の光は神秘的で、時折イルカの群れが寄ってきては、ボク達の旅路に花を添えてくれた。銀色に輝く月明かりの下、イルカたちの戯れる姿は幻想的で美しかった。


「ねぇ、君達、何処に行くの?」

人魚族マーメイド人間族ヒュームの組み合わせなんて珍しいね!」


 興味津々で聞いてくるイルカ君達。友達のドリーとはまた違う種族のようだ。体型が少し大きく、模様も異なっている。好奇心いっぱいの瞳で、ボク達を見つめている。


「ブークホーフって所だけど、君達、知ってる?」

「うーん、人間族ヒュームの集落の事は判らないや」

「えっとね……ジール王国って所なんだ」


 ボクが答えると、イルカ君達は、元気良く空中にジャンプしてみせた。月明かりに濡れた体が、真珠のように美しく輝いている。

 マックスも最初は怖がっていたイルカ君達に、手を振って挨拶するようになっていた。


 彼の笑顔を見るたびに、この旅を共にする決心をして良かったと思えた。

 恐る恐る差し出した手に、イルカ君達が優しく鼻先を押し付けてくる様子は、微笑ましい光景だった。


「その名前なら聞いたことあるかも! ここから西に行ったところだよ」

「もうちょっとだよ! 頑張ってね!」

「ありがとう!」


 ボクが手を振ると、イルカ君達は、にぎやかに挨拶をして去っていく。月光の中、跳ねる水飛沫みずしぶきが銀色の光の粒となって、夜空に散っていった。


――ドリー達、元気でいるかな?


 彼等の姿を見送ってふと思った。遠く離れた故郷で、変わらず明るく泳いでいることを願う。懐かしい顔々が、心の中で優しく微笑んでいる。



                        ◆◆◆◆



 それから何度か朝陽を見、夕陽を見、進み続けていたある日の夕方、ボク達はやっとマックスの住んでいる世界へと到着した。


――これが人間族ヒュームの住む集落……


 とても自然に出来たとは思えない。形の石や岩が規則正しく並んでいる。

 朝焼けや夕焼けの色が日々少しずつ変わっていき、故郷から遠く離れてきたことを実感させる。


 長い旅路の終わりが見えてきた喜びと、これから見るかもしれない光景への不安が、ボクの心の中で交錯していた。期待と不安が入り混じる複雑な感情は、波のように心の中で揺れ動いていた。


「とうとう、着いたんだね!」

「あれはねベルクゲビートっていう港町だよ。この辺りで一番大きな街で……」

「マックス?」


 ボクが声を掛ける先には、硬い表情をしたマックスがいる。

 彼の瞳には懐かしさと共に、何か言い表せない感情が宿っていた。


 その場所は本当に凄惨なものだった。


 海辺には何人もの人が横たわっている。動く様子はまるでなく、命は失われているのだろう……光を失った眼差しは虚空を眺め、流れ出た血が碧い筈の海を赤く染め上げている。波が打ち寄せるたびに、その赤い色が広がっていく様子は、まるで海そのものが泣いているかのようだった。


――これが人間族ヒュームの世界だというの?


 ボクは衝撃の余り口を抑えてしまう。

 海の底では想像もできなかった光景が広がっていた。人魚族マーメイドの世界では、争いはあっても、こんな残虐な光景を目にすることはなかった。


 マックスの言う通りだった。

 空もまた海の青さを忘れたかのように赤く染まり、その中を禍々しい殺気をはらんだ空飛ぶ龍が、我が物顔で飛び交っている。その姿は、ボクが幼い頃に聞いた伝説の中でしか知らなかった恐ろしい生き物そのものだった。


 時折思い出したかのように、大地に向かって火炎を吐いて焼き払う。炎は容赦なく地上の全てを焼き尽くし、かつてそこにあった生活の痕跡を灰へと変えていく。


――怖いっ!!


 その紅蓮の炎と湧き起こる黒煙の恐ろしさのあまり、涙が溢れてしまう。ボクの身体は震え、尾鰭は制御を失いそうになった。


「どうして……?」


 海辺に聳えていたと思われる石造りの家は、軒並み破壊されかつて建築材だったと思われる石や岩が、そこかしこに転がっている。

 その様子はもはや地獄絵図であり、ボクは思わずマックスの腕を握る。彼の体も小刻みに震えていた。


「ナディア、大丈夫?」


 マックスの声には優しさと共に、必死に冷静さを保とうとする強さが混ざっていた。


「……平気よ」


 震える声で嘘を吐く。

 本当は怖くて仕方がなかった。でも、マックスの前では強がらないといけないと思った。

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