漂流者の少年

 マリーナさんの家を出て、自宅に戻ったボクは、少し休憩した後、また出かける事にした。

 窓から差し込む夕陽が海面を赤く染め、そろそろ夜の帳が降りてくる時間。ボクの本当の一日は、この時間から始まるの。


 ボクの夜の習慣は歌を歌うこと。

 小さい頃から、歌うことが大好きだった。誰かに教わったわけでもないのに、自然と歌が口をついて出てくる。パパもママも、ボクの歌声を褒めてくれるけれど、本当の夢は誰にも話せない。


 いつかこの海を渡り、人間族ヒュームが住まう『街』とかいう場所で『歌姫』になりたい。


 でも、そんな大それた夢を持っているなんて、きっと笑われてしまう。

 だから毎日、あのイルカを見る島で歌を歌う練習をしている。そんな訳で、ボクは今夜も島へと向かう。


 この練習のことは誰にも秘密。

 だって、月明かりの下で一人、心を込めて歌う時間は、ボクだけのものだから。

 それに歌姫になりたいなんて言ったら、どうせみんなに馬鹿にされるもの。おかに上がれない人魚族マーメイドの女の子は、もっと現実的な夢を持つべきだって、きっと言われちゃう。


 それに前にイルカのドリーやその仲間たちに聞いた事がある。

 この海の先には、人間族ヒュームも亜人種も一緒に暮らしている街があるって……その話を聞いた時、ボクの心は大きく震えた。違う種族が平和に暮らせる場所があるなんて、まるで夢物語みたい。


 そんな夢のような街の名は『バークレー』……いつかその街バークレーに行き、歌姫になって有名になったら、その時にはみんなに教えてあげよう。

 きっとその時には、ボクの夢を笑う人はいないはず。


 その為には、ボクは『精人魚族ローレライ』になっていないと……その時は、そんな気持ちでいっぱいだった。精人魚族になるのは簡単じゃない。毎日の練習も、その第一歩。

 あの島まで泳ぎきると、この間ドリーやイルカの群れを見ていた場所にお尻を乗せる。夜の海を包む空にはたくさんの星が瞬いている。なんて綺麗なんだろう!

 波のさざめきが、静かな夜のBGMになる。


 心地よい潮風が頬を撫でる。海藻の香りと潮の香りが混ざり合って、ボクの大好きな夜の匂いを作り出している。尾鰭を波に浸しながら、ゆっくりと深呼吸をする。

 そう思うとすぐに何かを口遊くちずさみたくなって、星が煌めく空を見上げながら歌い始めた。歌声が夜空に溶けていくような感覚。波の音が伴奏のように寄り添う。


 出来るだけ丁寧に、ひとつひとつの言葉を音色に乗せる。目をつぶってその歌詞の世界を想像してみる。浮かび上がる情景が、ボクの心を優しく包み込む。


 ここで選んだ歌の歌詞の内容はとても悲しい歌だ。マリーナさんから教わった、人間族に伝わる古い歌。一人の男の人が消えてしまう歌。深い悲しみと切なさが込められている。

 どんなに声を張り上げても、どんなに涙を流しても、自分に気づいてもらえない。そんな想いを抱えた人の歌。今まで何度も歌ってきたけれど、今夜は何かが違う。


 そんな悲しい歌。でもボクはこの歌が好き。

 歌っているうちに、まるで自分がその場にいるような気持ちになる。もちろんボクにはこんな不幸を味わったことがない。だからこそ願望に魅せられて、空想しているのかもしれない。


 でも、今回は違った。

 歌詞の世界が、まるで目の前で繰り広げられているみたい。消え果た男の人を想い、泣きながら伏しているとある女性の思念が奔流のようにボクの中に流れ込んでくる。その感情があまりにも生々しくて、ボクの心を揺さぶる。


――どうしてこんな光景が浮かんでくるの?


 決して空想で思い浮かんだものじゃない。今までにない感覚だった。

 訳もなく涙が出てきてしまう。


 そう……マリーナさんと会ってから!


――かわいそう……


 頬を伝う涙が、海水に溶けていく。歌に共感出来るって、こういう事なんだろう、きっと……ボクは目を瞑り、涙を拭きながらも歌い続けた。


「君……泣いているの?」


 突然飛び込んで来た声に、思わず目を開けてしまった。

 見慣れない影が月明かりに浮かび上がる。月明かりの下で、小さな船に乗った少年がこっちを見ている。驚いたことに、ボクと違い足もある。


――もしかして、これって人間族ヒューム!?


 絵本で見た人間族ヒュームの外見とさほど変わらない。優しそうな瞳に、少し疲れた表情。少年もボクが怖がっている様子に気づいたようだ。

 それが却って、ボクの頭の中を真っ白にする!

 どうしようどうしよう!? 人間族に見つかってしまった。

 捕まってしまう? 逃げ出すべき?……でも身体が震えて動けない。


「怖がらなくて良いよ。何もしないから……ただ、君の美しい歌声が聞こえて思わず船を寄せてしまった……驚かせてしまったのなら謝るよ」


 その声には疲れが混じっているものの、確かな優しさがあった。ボクはまるで声を奪われてしまったように何も言うことが出来ない。心臓が早鐘のように鳴る。


「君は『人魚族マーメイド』なのかい? 初めて目にするけど、本当に尾鰭もある! でもでも、なんて美しいんだろう!」


 ボクは思わず顔が真っ赤になる。

『美しい』なんて言われたことないし。だって、みんな『人魚族マーメイド』なら尾鰭ぐらい持っているでしょう? これが当たり前なのに。ボクは相手の優しい態度に少し安心し、思い切って聞いてみる。


「キミ……人間族ヒュームなの?」


 少年はにっこりと笑った。その笑顔に、ボクの緊張が少しずつほぐれていく。


「うん、人間族ヒュームだよ」


 あぁ、まさか本物の人間族ヒュームに会うなんて!

 どうしよう!? 聞きたいことが山ほどある。でも目の前の少年をみると思う。人間族ヒュームって実はボク達と同じで普通の生物なのかもしれない。


「ねぇ、人間族ヒュームは怖いんじゃないの?」

「えっ?」

「ママが言っていたわ。人間族ヒュームは凶暴な生き物で、いつも戦争ばかりしているって……」


 言葉を発した瞬間、少年の表情が曇るのがわかった。


「そうだね……君のお母さんの言う通りさ」


 すると少年は悲しそうに俯いた。

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