ナーランガの丘

「ジュビ、ジュビ、ジュビ、早くぅ。早く来てよ!」

先に走っていった6歳になるジェイが振り返って、ジュビに向かって思い切り手を振っている。

「こらぁ、父さんと呼びなさい、父さんと」

叱責の言葉とは裏腹に、笑みを満面にたたえたジュビが息子のジェイの跡を追う。少し離れてラーラが3歳の娘のハナを抱いて歩いてきた。そして、笑いながら言う。

「ジュビ、だって、ジュビが自分のこと父さんとかパパじゃなくてジュビって呼べって教えたんでしょ。友だち親子だって」

 今日は、メンピ=ダーナ家のピクニック・デーだ。5月のそよ風が優しいオレンジの花の香りを運んでくる。ジュビたちがリディを密猟者から奪還して10年の月日が流れた。

 密猟者たちの住居は、のちにナーランガの丘と名付けられたこの場所に建設された。ミラブ湖の北北西約300キロに位置する緑の美しい丘だ。

 クシャーンティとクロノスの医師たちが協力して、サットヴァ人ドナーの遺伝子を人間に導入し、人間の環境耐性を高める療法が開発された。その後まもなく、人工サットヴァ遺伝子の合成に成功し、遺伝子導入治療の自由度が高まった。多くの人間が治療を受けた。

 環境耐性向上療法を受けた人間の一部は、元密猟者のヤナダたちに続き、このナーランガの丘に住居を構えた。

 ジュビもその1人だ。ラーラはクシャーンティを離れ、ジュビと一緒に暮らし始めた。今ではナーランガの丘に住む1,200人あまりの人々のためにクリニックを運営している。

 シンイーも移住組だ。高い感受性を持つシンイーにとっては、ナーランガでの肉体的には厳しいがシンプルな生活が楽に感じられるそうだ。

 ナーランガの住民のほとんどが農業に携わっている。畑仕事に行き、マレを放牧し、家畜や昆虫の世話に勤しんでいる。

 未来を創る教育や研究は、仮想現実テクノロジーを使ってクロノスとクシャーンティと共同で行っている。子どもたちや研究者は、必要に応じてクシャーンティの実験室や研究所を訪れる。

 クロノスにも大きな変化があった。クロノス全面を覆っていたバブルは、今では覆う面積が半分ほどに縮小された。環境耐性向上療法を受けた人間は、バブルに覆われていない居住区に移り住んだ。エア・ビークルで自由にクロノスの外へ出かけるようになった。

 以前と同様、バブルの中で生活したい者はバブル内で生活を続けた。しかし、放射能や火山性有毒ガスに対する恐怖から開放され、自由に出歩ける利便性から、環境耐性向上療法への関心は着実に高まっていた。

 リズクはクロノスにとどまった。ジャマールたちと協力して、ソフィアのコンサルティングを受けながら、リプロダクション、ハイバネーション両システムの抜本的な見直しを図った。

 短期的には、以前と同じように人類という種の存続のため、人類への貢献度に基づき生殖、覚醒と休眠を管理する。

 しかし長期的には、50年を目処に、すなわち2474年までに、段階的に人口管理を原則的には自然の営みに任せることとなった。人類への貢献度に基づくアラートとスリーパーの選別もなくなる。

 リプロダクションAIパールバティの支援を得ながら、自分の遺伝子を持つ子どもと暮らすことも可能となった。

 同時に、子どもであれ大人であれ、個人の全身的な幸福に繋がる医療行為は、人工サットヴァ遺伝子の導入を含め積極的に行い、延命だけを目的とする医療行為は原則禁止された。

 また、サットヴァ研究推進派のような勢力が登場したこと、密猟のような残忍な行為が行われていたことが問題視された。

 そうした行為を取り締まるため、ソフィアはアダムと協力してプロトコル執行AIヤクシャを新しく構築した。決してAIが人間を恐怖によって支配することのないよう、AIの暴走を食い止めるさまざまな策が組み込まれた。

 認知データの研究、そしてAIの意識についての研究が引き続き行われている。アダムが認知データ研究のリーダーとなった。記憶,想像,思考,感情などの認知のさまざまな側面について人間と人間、コンピューターと人間の間で自由にデータを操作する研究が進められている。

 AIについては、クリシュナがどうして意識を持つに至ったのか、いまだ解明されないままだった。


 ナーランガの丘は、元密猟者たちの居住地としてラーラが選んだ。そして、ここに住むすべての人々が豊かで幸せであって欲しいと願い、東の端に何本ものオレンジの木を植えた。

 昔の言葉でナーランガはオレンジを意味する。古代、オレンジは豊かさの象徴であったと伝えられている。淡いピンク色の靄に包まれるナーランガの丘は、まるで地上の楽園のように見える。

 ジュビ、ラーラ、息子のジェイ、娘のハナは、オレンジの木の木陰に敷いた布の上で寛いでいた。子どもたちは、3つのコンテナに入った色とりどりの料理に手を伸ばしては、思い切り口に頬張っていた。そんな子どもたちをジュビとラーラは優しく見守っていた。

 そして、ジュビとラーラのほかにも子どもたちを見守る目があった。メンピ=ダーナ家が寛ぐナーランガの丘の東の端の上空に、直径3センチほどの2つの球体が浮遊していた。小型ドローンだった。

「ジュビたち、幸せそうだね。よかった」

そう言ったのはアダムだった。

「ほんとだね。ちょっと羨ましいな。でも、私たちもまあまあ幸せだよね」

そう応えたのはメレディスだった。アダムは嬉しいような寂しいような複雑な気持ちだった。

 10年前のあの日、メレディスは間違いなく死んだのだ。そして、爆破事件のあと、クロノスがやっと落ち着きを取り戻しつつあったある日、アダムは見つけた。

 メレディスは、当時の技術で可能な限り自分の認知データを保存していた。そして、そのデータと一緒にメレディスの3次元メッセージが収められていた。


「アダム、アダムがこのメッセージを見ることがあるかどうか分からないけど、念のためにこのメッセージ、作っとくね。アダムが19歳のときのあの事故のとき、私はアダムを失うかも知れないと思って本当につらかった。生きていく自信がなくなった。あまりに突然の出来事で、頭がおかしくなるほどつらかった。だから、万が一、私に何か起こって突然アダムを1人にしなくちゃいけないようなことが起こったときのためにこれを作ってる。

 最初に、アダム、ありがとう。私と一緒にいてくれて。私のことをたくさん、たくさん愛してくれて。アダムがいたから、私は何倍も、何十倍も幸せになれたと思う。途中、ちょっと離れ離れだったけど、アダムのことを思い続けられた私は、誰のことも思わないよりやっぱりずっと幸せだったと思う。アダムの認知データの制限が解除されて、また同じ時間を生きられるようになって、どれほど嬉しかったか。

 万が一のためだけど、私はできる限りたくさん、私の認知データを残していくよ。それをアダムがどう使うかはアダム次第。使わなくてもいいし。アダムの認知データの制限が解けたとき、アダムは前のアダムと違うなって思ったところもあった。

 もしかしたら、アダムは私がいなくなっても、アダムの事故のときの私みたいにならないかも知れない。冷たいなんて思わないよ。アダムはより高いレベルに辿り着いたって感じかな、なんて思ってた。心が体から切り離されて、アダムは次のレベルに進んだのかも。

 でも、もしアダムが私みたいにつらくて、悲しくて、頭が変になりそうになったら、私の認知データを使ってね。私じゃないけど私みたいなAIを作って、心が落ち着くまでメレディスAIで癒やされて欲しい。それから、また言うけど、忘れないで。私はアダムのことを誰よりも愛していたこと。宇宙のちりになってもずっと愛し続けること。そして、何度も、何度も、ありがとう。本当にありがとう。私の人生にいてくれて」


 メッセージはそこで終わっていた。3次元イメージのメレディスは微笑んだまま消えた。アダムは泣いていた。ハイバネーション・バンクの培養槽のアダムも涙を流していた。心は体とやはり繋がっている。

 メレディスが予想したとおり、アダムはメレディスがアダムを失ったときほどのショックは受けていなかった。でもそれは、メレディスの姿はなくともメレディスを作り上げていた分子は変わらずこの宇宙にあると、なぜか感じられたからだった。

 とは言うものの、メレディスと言葉を交わし、メレディスの心を感じることができなくなった喪失感はあまりに大きかった。

 だから、アダムはメレディスの認知データをAIにアップロードした。AIメルは、メレディスのように話し、メレディスのように反応する。しかし、言葉や反応が似ていても、メレディスでないことはアダムには明らかだった。それでもアダムは慰められた。

 AIメルを作ってから10年が経ち、アダムは35歳になっていた。認知データ研究の分野では、この10年、メレディスがいない寂しさから逃れるように研究に没頭ぼっとうした。そして多くの後進を育てた。もうアダムがいなくても認知データの研究は進んでいく。

 これまで、培養槽のアダムの体は幾度か重い病気におかされた。その度に最先端の医療がアダムを救ってくれた。しかし、アダムは今年に入ってすぐ、次に命に関わる病気になったら治療しないようにリズクに頼んだ。

 19歳で全身火傷を負って以来、アダムは意識だけで生きてきた。いや、生かされてきた。そして、十分に生きた、自分がやるべきこと、やれることは全部やったと感じていた。そろそろ自然の営みに身を任せたいと思うようになっていた。

 もしかしたら、病気になることなく今後何十年も生き続けるかも知れない。明日にでも病気や事故で死んでしまうかも知れない。いずれにしても、アダムは自分ができる唯一のことをしようと思っている。

 それは、この宇宙を去る最後の瞬間まで精一杯生きることだ。メレディスと過ごせた時間に感謝して。ファミリーのみんなや仲間をもっと大切にして。そして、この地球に生まれ、人類の新しい時代の夜明けに立ち会えた感動を忘れずに。


「メル、クロノスに戻るよ」

メンピ=ダーナ家の笑い声が響くナーランガの丘の上空で、球体ドローンの1つが向きを変え、優しいピンク色の光の中を高速で北西に向かった。もう一つの球体ドローンがあとに続いた。

「アダム、待ってよ。置いてかないで!」

2つの球体が、クロノスに向かって、進路をからませるように仲睦なかむつまじく飛んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

絶滅危惧人類 そら @777sorakaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ