第106話 白陽の想い

 蒼子は蛇神の鋭い声音に無意識に奥歯を噛み締める。


 落ち着け、私。

 最初から一筋縄でいくとは思っていなかったのだから。


「不満か?」


『妾がこの男を求めるのは穢れを払いたいからだけではない。妾がこの男に積年の恨みを抱いているからに他ならない。妾を裏切り、傷つけ、大切なものを奪った代償を妾はまだ支払ってもらっていない』


 決して感情的ではないが、その言葉には確かに憎悪を感じた。

 許したくても許せない、決してなかったことには出来ない過去があるのだと察する。


 くそ……蛇神の恨む相手は鳳様ではない……それは分かっているだろうに。


 蒼子は焦燥感と共に舌打ちをする。


 全く、どうしてこうも面倒な女にばかり付き纏われるのか。


「お、お話の最中に失礼致します」


 蛇神と蒼子の会話に緊張気味で加わってきたのは白陽だった。


「蛇神様…………私がこの方の代わりになるわけにはいかないでしょうか?」


言葉を絞り出すように白陽は言う。


「白陽!?」

「白陽、一体何を言って……」


突然の白陽の発言に皆が驚きを露にするが、誰よりも驚いていたのは姉と叔父だ。


「自分は……ずっと何も出来ませんでした。変化を望んでおきながら、臆病で姉さんの影に隠れているだけ。姉さんや叔父様がこんなにも必死でこの町のために戦っている時、何もできなかった。自分も……何か役に立ちたい」


白陽は顔を上げて蒼子に視線を向けた。


「皇子殿下や蒼子様がこの町に大きな転機をもたらしてくれたこと、私は一生忘れません」


そして視線を高く持ち上げ、蛇神を見つめて。


「嬉しかったです。こんなどうしようもない町なのに、辛くて苦しい思いをしている人達の気持ちを汲み取って、弱い者の味方をしてくれる優しい神様がいることが」



 白陽は膝を着き、蛇神に向かって深く頭を垂れた。


「蛇神様、私達の心に寄り添って下さり、ありがとうございます。自分は弱くて、あまり役に立たないかもしれません。だけど、感謝の気持ちだけは誰にも負けません。精一杯、感謝の意を示します。どうか、その方の代わりに私をお連れ下さい」



 そこに蛇神に対する恐れはなかった。

 白陽から感じるのは蛇神に対する感謝の念だけだった。


『…………愚かであるな、人の子よ』


 ふっと、蛇神が小さく笑って言った。


『懐かしい……その昔、そなたと同じように妾に身を捧げようとした男がいた…………そうだった…………この男より、そなたの方がよっぽどよく似ておるわ』


 蛇神は慈愛の籠った目で白陽を見つめていた。


「蛇神よ、その昔、あなたを裏切ったというその男の名は成仙というのではないでしょうか?」


 唐突に口を開いたのは紅玉だった。


『何故その名を……』


「その者は今の呂家の祖先に当たります。争いごとを嫌う、穏やかで優しい人物だったと記録に残っておりました」


 紅玉は続ける。


「成仙は優しいが気が弱く、神力もなかった。当時の長や家の者には役立たずのでくの坊だなどと、酷い扱いを受けていたようです。そんな彼は長にあなたを殺すよう命じられた。しかし、あなたの人となりを知り、間違っていたのは自分達であることに気付いた。それを長や村のものに伝えると彼は蛇神に唆されたのだと言われ、長いこと邸に閉じ込められたのだそうです。その後、自分の至らなさに自死しています」


 紅玉の言葉に蛇神は赤い目を大きく見開き、絶句する。

 懐を探り、紅玉は紙に包まれた何かを取り出す。


「よろしければお受け取り下さい。呂成仙の遺髪とあなたへの謝罪と感謝の言葉が綴られた木簡が入っています」


 そう言うと、蛇神の身体が白く発光し、変化した。

 大蛇の姿から人の姿に変わった蛇神に皆が驚く。


 白髪と赤い目、白い肌は一部穢れた鱗があるが、美貌の女神だった。

 そしてどこか白燕に似ているように感じた。


 紅玉から包みを受け取った蛇神は微かに手を震わせながら、慎重な手つきで包みを開いた。


 黒い髪が一房縛られ、小さな木簡に書かれた文字に目を走らせた蛇神は静かに涙し、胸にそれらを抱き締めて震えていた。


 そして蒼子に向かって言う。


『小娘、そなたの提案を受け入れようではないか』


 その言葉に蒼子は危機感を抱く。

 

『その男はそなたらに返そう。土地神として、この町に加護と恩恵を与える。その代わりに、人らの統治者はこの者を指名する』


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