第103話 交渉の席
トンっと軽やかに着地すると、ふわりと吊り帯の長裙の裾が揺れる。
白い華奢な足首を一瞬だけ覗かせ、服の裾が再び足首を覆い隠す頃、横たわった青年の身体がやぐらの床に降りて来る。
「鳳珠様!!」
蒼子を追いかけていち早くやぐらを登ってきたのは柊だ。
この神域は蛇神の神気で満ちている。半端な神力を持つ者は蛇神の神気に当てられ、動きが鈍る。
だが、柊のように全く神力を持たない者からすれば神気にも鈍く、影響を受けることもない。
もっと高位の神であるならそうもいかないが、この蛇神程度なら問題ない。
蛇神の神域に踏み込むなら柊の手は鳳珠を運び出すためにも必要だった。
柊よりも一歩遅れて紅玉が駆けつける。
「気を失っているだけだ。問題ない」
蒼子が言うと柊は安堵の表情を見せた。
「蛇神の神気に当てられたのだろう。少々、毒の気が強いようだ」
横たわる鳳珠の側に膝を着き、形の良い額の中央目掛けてしなやかな指を弾いた。
「いだっ!」
目を閉じたままの鳳珠の口から痛みを訴える声が零れるものの、目を開ける気配はない。
「そ、蒼子様……!」
一体、無抵抗な人間を前に何をするのかと、柊は目で訴える。
しかし、鳳珠の顔色が先ほどよりもずっと良くなっていることに柊は気付く。
「心配いりません。蒼子様が気を流し込んだのです。蒼子様の水の気は毒を雪ぐ。それに蒼子様の守印がある以上、大事にはいたりません」
紅玉の説明を聞いた柊はそこで本当に安堵し、肩の力を抜くことができた。
良かった……先ほどの『死神女』発言が気に障ったのかと……。
柊は主の蒼子に対する失礼極まりない発言を聞き、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
救出に来た蒼子を前に、死神とは何事か。
意識があれば主に対して小言の一つや二つ言うのに何の躊躇もない柊だが、こんなに憔悴して意識を失っている主にそんな気持ちにはなれない。
「主に代わり、感謝申し上げます」
柊は蒼子に向かって深く頭を下げた。
「礼を言うにはまだ早いぞ」
蒼子の視線は上を向いている。
視線の先にいるのは血のように真っ赤な目をした巨大な白蛇だ。
人間よりも大きく、一瞬で丸飲みにされてしまう様を想像し、柊は本能的に恐怖を覚える。
しかし蒼子はいつもと変わらず涼し気な顔で白蛇を見上げていた。
『貴様……先ほどの小娘か? 貴様か、妾の結界を破ったのは?』
蛇神の問われ、蒼子は視線を持ち上げた。
鋭い輝きを放つ黒曜石のような瞳が蛇神を見据える。
「如何にも。蛇の神よ、今一度言うが、この者は諦めよ。人の世の上になる者を神の世に送るわけにはいかない」
蒼子の淡々とした言葉が気に入らないのか、蛇神は放つ怒気を高めた。
『人の世など、妾が知ったことではない。この男の付いた匂い……小娘、貴様のものか? 神の求婚痣がある者に手を出すなど、命が惜しくないようだ』
蛇神が蒼子を嘲笑う。
「ただで要求を通そうとは思っていない。私は交渉しに来た」
『交渉だと?』
蛇神はギロっと蒼子を睨みつけるが蒼子はどこ吹く風だ。
紅玉と柊は鳳珠を守りながらそのやり取りを見守ることしかできない。
「そう。交渉に入る前に…………あぁ、調度良い」
蒼子は徐に天を仰ぎ、腕を伸ばした。
紅玉と柊も釣られるように天を仰ぐが、霞がかっていて青空を拝むことはできない。
そんな白い靄がかかった空に蒼子がスッと伸びた人差し指が宙にクルリと円を描く。
するとどうだろう、どこからともなく人の悲鳴のような声が複数聞こえてくるではないか。
その悲鳴のような声は物凄い速さでこちらに接近してくる。
「この声はどこから…………」
柊はまさかと思い霞の空を見つめていると、何かが落ちてくる。
影は三つだ。よくよく聞けば、声にも聞き覚えがある。
「そ、蒼子様」
「交渉の席に証人と傍聴者を据えることをお許し頂こう」
空から降ってくる人の影に柊は激しく動揺するが、蒼子は蛇神に向き合ったままだ。
「紅玉殿、このままでは……」
「落ちきますね。このやぐらの上に」
柊は隣にいる紅玉に視線を向ける。
紅玉も蒼子と同じく淡々としていた。
「うぎゃあああぁぁぁぁぁ!!!」
頭上から聞こえてくる品のない叫び声が次第に大きくなってきて、紅玉は眉間に皺を刻む。
「蒼子様、私の技量では一人を助け損じてしまいそうです」
紅玉の顔には三人の内、二人は助けても残る一人を助けたくないと書いてある。
「そう言うな」
「これはあの外道には相応しい顛末では?」
蛇神の怒りを買い、喰われたことにでもしておきましょう、と紅玉は述べる。
「実話として国中を駆け巡る様に手配しましょう。私が責任を持ちます」
紅玉が怒りを滲ませながら言う。
「紅玉殿……」
落下してくる人影の一つを据わった目をして見つめていた。
「紅玉、私は血が嫌いだ」
「やぐらの下は川ですから、落下地点をここから少しずらせば……」
「紅玉」
助け渋りをする紅玉に蒼子は窘めるような視線を向ける。
そんな会話をしている間にも三人の人影は迫っていた。
このままでは本当にやぐらの上に落下してしまう。
柊は一人危機感を募らせる。
体格の良い鳳珠を抱えて安全にやぐらから降りるには既に遅い。
「紅玉」
素直に指示に従わない紅玉に蒼子は再度言う。
「チッ」
紅玉は大きな舌打ちをして空を睨み付ける。
気が乗らずとも蒼子の頼みは断らないらしい。
そんな紅玉に蒼子はふわりと表情を和らげて言った。
「いい子ね」
柊が今まで聞いたことのない甘い声だ。
いつも涼しげな抑揚のない声音で話すことが多い蒼子の甘い声に柊は驚く。
すると紅玉は先程とは打って変わって、生き生きとした表情になる。
褒められたことが嬉しくて、その嬉しさがしっかりと顔に出ていた。
「お任せ下さい、蒼子様」
その声は自信に満ちている。
先ほどの『自分の技量では……』の件はどうしたのかと、柊は心の中で突っ込む。
そして今も尚、落下している最中の三人がいよいよ射程圏内に入った。
紅玉は真っすぐに伸ばした腕を真横に振り抜く。
「み、水の玉……?」
柊は目の前に現れた物体に首を傾げる。
すると、そこに大きな水の玉だった。
大人三人くらいであれば簡単に飲み込めるほど大きな水の玉は池の水面のように波打ち、空に向かって垂直に大きく跳躍した。
柊はその水の玉を目で追うと、跳躍した水の玉はそのまま空から降ってくる人影をごぽんっと飲み込み、再びやぐらの上に戻って来る。
たゆんっと静かに着地し、水の玉の中で大人の男三人が水槽の中の金魚のように浮かんでいた。
加えて言えば三人のうち、二人は驚きつつも落ち着いていて、もう一人だけ異常なまでに苦し気な様子だった。
そこで柊はなんとなく察する。
そして水の玉が割れ、中から水が流れ出た。
すると、中から三人の男が現れる。
「ご無事ですか、お二人共」
紅玉は二人に向かって軽く腕を振ると水浸しになった二人の身体から水気が消える。びしょ濡れだった身体は一瞬で乾いた。
水の玉の中から困惑気味な表情で現れた白陽と呂鴈は頷く。
「命拾いしました……」
「突然のことで混乱しておりますが、助かりました。感謝致します」
高所からの落下がかなり負担となったのか、白陽は言葉少なく、未だに大きく脈打つ心臓を押さえている。
呂鴈は案外肝が据わっているようで、既に落ち着きを取り戻し、辺りを見渡しながら現状を把握しつつある様子だった。
「ごほっ、ゴホゴホっ……はぁっ、くそ……一体、何が起こったんだ……」
そしてもう一人、白陽と呂鴈と共に落下してきたのは呂鄭である。
一人だけ水玉の中での呼吸が許されず、水中でもがき苦しみ、ようやく解放された。
一人だけ水玉の中での呼吸が許されなかったのは、勿論、蒼子への数々の無礼な振舞によるものであり、紅玉はそれを決して許さないからだ。
何なら一人だけ転落死だったかもしれない。
そして今も一人だけずぶ濡れのままである。
柊が気の毒な視線を呂鄭に向けていると背後から複数の足音が近づいて来ることに気付いた。
「叔父様! 白陽も、どうしてここへ?」
振り向くと子供の姿になった莉玖を先頭に馬亮、白燕、朱里がやぐらの階段を上り、追いついてきた。
白燕は別行動をしていた呂鴈と白陽、そして呂鄭がこの場所にいることにとても驚いていた。
『貴様の交渉とやらの席にその者共を同席させよと?』
全体を見渡しながら蛇神は言う。
「神との交渉には駒が必要だからな」
『とても妾が納得できるほどの駒があるとは思えんが……ふん、まぁ、いいだろう』
蛇神は挑発的な態度で交渉に臨む蒼子に向き合い、鼻を鳴らす。
『妾が納得のいく交渉でなければ、この男と小娘。貴様の命をもらい受ける』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。